長沢城は近江町の長沢地区に位置し旧国道8号線の西側集落の全てを包み込む構えを呈し、凡そ四方は水田と1m余りの比高をもって立ち上がっており、幅約1mの水路が廻っている。所によっては同様の水路が集落内に入り込み、屋敷を区画している。集落の中には信宗大谷派の福田寺が大きくその地を領有している。
『長沢郷土史研究紙12号』(1988年11月4日発行)には「長沢荘は保元3年(1158)に、長沢太郎冠者土佐守義盛が、保元の乱・平氏の乱の賞により長沢の里を賜り、金三千貫の費用をかけて一町四方の長沢城を築城、その後17代で約300年間続き、文明11年(1470)に定かでは無いが落城した古文書で伝えている。」
この因はこの時期以来繰り広げられる京極氏の家督争いに成るのかもしれない。このみ方からすれば、佐々木・京極一門の慶増氏が長沢に入ってくる事も説明できる。
長沢の地は北国街道に面し、長沢の関を控え江北南部の重要地であっただろう事は六角氏の本陣を置いた事でも知られるが、これは福田寺により成り立った地域集団の拠点的存在だっことに他ならないとも考えられる。それだけに浅井長政は同寺院に”浅井御殿”を建立したのであろう。
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