2003-02-15 

 小谷城の重臣屋敷として、赤尾屋敷の場所は有名ですが、大野木屋敷の所在はあまり知られていません。この二箇所の重臣屋敷はいずれも本城を防備する役目を果しており、赤尾屋敷は須賀谷側の守りを固め、大野木屋敷は清水谷側の重要な砦であった。 

 この大野木屋敷の主は、大野木土佐守茂俊であろうと思われます。

 大野木氏は坂田郡大野木に居所を持ち、元亀元年の姉川の合戦の折には、三田村氏とともに横山城の守将であった。

 天正元年の小谷落城の際には、八月二十六日、浅井七郎、三田村左衛門尉とともに信長に内応して落城を決定的にし、戦後中村一氏に斬られた。

 小谷城絵図を見る限り、お局屋敷付近より清水谷側に下がる道が描かれており、やや下がった所に郭が描かれ「大野木」とあり「大野木土佐守」と注記されている

 一般的に大手道を六坊に向けて登ると、左手に「土佐殿」と言われる屋敷跡があり、ここが大野木土佐守茂俊の屋敷と思われがちですが、古図には「阿閉土佐守屋敷ナルベシ」と記されているので同じ「土佐守」違いであろと思われます。

 信長公記には「八月二十七日、夜中に羽柴筑前守、京極つぶらへ取上」とあり、総見記には「明くれば八月二十七日、信長公御下知にて、木下藤吉郎秀吉手勢を引具し、京極つぶらへ云処へ人数を押上げ、小谷表浅井下野守久政、同備前守長政、父子の居所を切取りたり、此所の持口は浅井七郎、三田村左衛門、大野木土佐守なりしが、昨夜より降参し味方に参って今日は難なく曲輪を相渡す。」と記されている。

 このことは京極丸へ秀吉の軍を導入したことであり、他の手の者には内密で事を運ばねばならない。このようなことから、大野木屋敷跡は京極丸直下の郭址であろうと思われる。

この位置には、無名で他の郭とは明らかに異なった防禦が付加された郭があり、おそらくこの場所であろうと思われる。

 

 「戦国大名 浅井氏と小谷城 中村一郎先生遺稿集」小谷城址保勝会発刊より抜粋 

 


 平成15年2月、これらの条件をもとに、京極丸直下の清水谷側斜面の大野木屋敷跡の検証を行いました。

攻城ルートや遺構は下記「小谷城略測図」に書き加えて有る通り、位置を正確に測量した訳では無く、体感的&地形的感覚から描いたイメージ図です。


大手道と谷底道の分岐点

 清水谷の「お屋敷址」に車を停め、その先は徒歩で大手道を登ること約10分で今回選んだ谷筋に着きます。

 「山頂まで1.3k」の標識が立てられている地点で、左の大手道を登れば六坊に至りますが、今回は右の谷底道を登り京極丸を目指しました。@

 

登りはじめて直ぐ谷の右側には小規模(2m×8m等)の削平地が点々と現れます。

斜度は急な所で30度〜45度位有ったかと思います。草木に捕まったり、手足を駆使しないと登れません。

 

谷底道と言っても、排水溝の役割を果たしながら、充分に斜面から敵の進入の妨げになる竪堀の役目も兼ねています。谷の深さ2.5〜5.0m×幅5.0〜10mが頂部に向かって延々と続いている。

谷底道の先端は石積みのある曲輪に至った

谷底道を登り切ったAからは段状に削平された郭郡が京極丸まで幾重も続きます。

削平地の規模も大きく約50m×20m位有有り、縦横に区画されており、郭の両端には土塁や、空堀が築かれ、竪堀で大きく遮断さえています。

Aの郭の張出先端部には石積みが築かれています。(左の写真)

堀切と土塁

Bの竪堀(深2m×幅3m)と土塁(高2m×幅3m)は規模は小さいが、保存状態はきわめて良い。

小谷城略測図

 

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