横山城

長浜市堀部町


■創築年

永禄四年(1561) 
■創築者  浅井賢政
■形式 山城
■遺構 塁、郭、井戸、竪堀
■別称 -
■標高  312m(比高200m)
■面積 650m×350m

 永禄三年の野良田の戦いに勝ち、さらに翌年の佐和山城の戦いにも勝った浅井賢政が、本格的な南進の要としてこの城を築き、浅井越中守井演らを城将とした。

 元亀元年(1570)織田信長の湖北侵攻が始まった6月19日、江濃国境を固めていた刈安尾城・長比城が開城し、同日横山城も織田軍の氏家常陸介らに包囲された。6月28日の姉川の合戦に大勝した織田軍は、翌日には羽柴・丹羽・佐久間・柴田・池田の将兵によって横山城を攻撃し、大野木・野村・三田村の守将は開城逃亡した。

 以後、織田信長は羽柴・竹中・蜂須賀の諸臣を城番にあてるとともに、天正元年(1573)までの間、小谷城攻撃と畿内平定の為の基地として度々利用した。

 城の遺構は、Y字形の連郭式の縄張りであり、312mのピークを中心に北側に3箇所、南西方面に8箇所、南東方面に20箇所以上の大小多数の郭を有し、中間地点の要所には竪掘を、各先端部には堀切や出郭を配している。

 主郭は南東端にある40m×15mの郭と思われ高土塁を廻らし井戸跡も観察できる。

 山頂から走る幾筋もの尾根には、往時をうかがわせる多くの遺構が今も残り、周囲一帯は現在、石田山公園として整備されています。麓には、石田三成公の出生地や秀吉と三成の出会いの場となった観音寺などが有り、城跡までの遊歩道や展望台は、ハイキングや森林欲など市民の憩いの場として活用されています。

主 郭

(観音寺の鐘撞堂が見える)

主郭の井戸

ピークから望む小谷城

横 山連峰

横山遺跡