黄檗宗・慧日山永明寺HP
禅僧が語る
人生転機の『座右の銘』365日
和尚お気に入りの金言・名言を暦代わりに並べてみました。
人生の転機を迎えた時に思い起こしたい言葉、試練を乗り越えるための言葉、
悩んだ時に励ましてくれる言葉、珠玉の名言の数々です。
〔注〕 関連事項欄の生年月日あるいは歿年月日は、旧暦使用時代は、特に注記の無い限り旧暦表記です。
表記年令は、仏法の教えに基づき数え年としています。、
日付 | 関連事項 | 座 右 の 銘 | 摘 要 (出典ほか) |
1月 (睦月) |
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1月 1日 |
元旦 |
門松はめいどのたびの一理づか 馬かごもなくとまり屋もなし |
正月元旦の句として一番に思い当たるのはやっぱり一休和尚のこの句。 風来山人(平賀源内)は下の句を「めでたくもありめでたくもなし」と変えていて、その方が良く知られているが、本歌はこの「一休蜷川狂歌問答」(第一句)。 |
1月 2日 |
初夢 | ||
1月 6日 |
良寛示寂 | うらを見せおもてを見せて散るもみぢ | 良寛和尚のすごさは、こだわりのなさである。 というか、それ自体が禅者であることの証であるが、それをもうかがわせない点にある。 天保2(1831)年1月6日示寂、世寿74才。 |
1月 7日 |
人日節句 | ||
1月 10日 |
臨済忌 | 随處作主 立處皆真 〔 随処に主と作れば 立処皆真なり 〕 |
臨済義玄禅師は唐の貞観9(867)年1月10日に示寂されたという。 「臨済録」は児孫の私たちにとって欠かせない大切な語録だ。 |
1月 17日 |
百丈忌 | 独坐大雄峰 | 碧巌録第26則の語。 大智禅師こと百丈懐海禅師は禅宗の叢林の基を開き「百丈清規」を定めた。 唐元和9(814)年1月17日示寂。 世寿94才。 |
1月 19日 |
勝海舟歿 | 自分の価値は自分で決めることさ。 つらくて貧乏でも 自分で自分を殺すことだけは しちゃいけねぇよ。 |
海舟ほど視野の広い包容力の有る人はいなかったと思われる。 この人が大正から昭和期に生まれていたら、あんな馬鹿な戦争はしなかったろうに ・・・・ 。 明治39(1906)年1月19日歿、享年77才。 |
1月 29日 |
井上靖歿 | 努力する人は希望を語り、 怠ける人は不満を語る。 |
日本人の多くが天平時代に思いをはせ、シルクロードに思いをはせる様になった背景には、この人の作品が大きく影響していると思っている。 平成3(1991)年1月29日歿、享年85才。 |
1月 30日 |
マハトマ・ガンジー 歿 | あなたの夢は何か、 あなたの目的とするものは何か、 それさえしっかり持っているならば、 必ずや道は開かれるだろう。 |
昭和23(1948)年1月30日、インドを独立に導いたガンジーが亡くなった。 享年80才。 生涯を通じた彼の人種差別に抵抗する不服従運動や、その生き方が、その後の多くの指導者に大きな勇気を与えたことはいうまでもない。 |
2月 (如月) |
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2月 1日 |
日本 テレビ放送開始 |
一億総白痴化時代 | テレビ放映が始まったときの大宅壮一の明言。 氏は「一億総評論家時代」、「駅弁大学」、「男の顔は履歴書」など風刺の効いた名言が多い。 今存命なら、今日の社会状況をなんと言おうか。 |
2月 2日 |
行基寂 | 山鳥の ほろほろと鳴く声きけば ちちかとぞ思ふははかとぞ思ふ |
人の範たることをなすことは難しい。 ましてや仏教布教が国禁の時代に私度僧でありながら活動を続け、ひたすら民衆のために教化を進め、社会事業を推進した行動力には、ただただ敬服するしかない。 まさに菩薩の尊称を付けて呼ぶにふさわしい方である。 天平21(749)年2月2日行基菩薩寂、世寿82才。 |
2月 3日 |
福沢諭吉歿 | 自由とわがままの違いは、 他人を妨げるかどうかである。 |
福沢の業績は大きい。 彼をより大きく育てたのはなんといっても咸臨丸の一行に加わり米国を視察したり、その後も西欧視察を行い視野が広かったことが大きい。 否、見てきただけに終わらせず、行動に移したところに彼のすごさがあると言えよう。 明治34(1901)年2月3日歿、享年67才。 |
2月 5日 |
玄奘三蔵寂 | 不東 〔もし天竺に至らざれば 終に一歩も東帰せず〕 |
西遊記は知っているが、玄奘三蔵のことは知らない。 玄奘のことは知っているが、どんなことをしていた人かを知っている人は少ない。 三蔵法師は知っているが、何人もいたことや、日本人の三蔵法師がいたことを知る人は少ない。 が、よしとしよう。 玄奘三蔵の決意と努力のおかげで、仏教は東漸し、鉄眼禅師の大願成就も其の延長線上にある。 麟徳元(664)年2月5日寂、世寿63才。 |
2月 9日 |
手塚治虫寂 | アトムは完全じゃない。 |
少年期、友人の家に雑誌『少年』を借りに行くのが待ち遠しかった。 むさぼり読んだ『鉄腕アトム』は、小衲を好奇心の旺盛な子供に育ててくれた。 後年、彼が、善悪に対して大きな関心を寄せていたことを知り、改めて彼の大きさに感じいった。」 という彼の言葉には、悪とは何かを追究する彼の人間に対する大きな慈愛の心と、ひたむきさに溢れていると感ぜずにはおれない。 |
2月 11日 |
建国記念の日 | 天下の本は国に在り 国の本は家に在り 家の本は身に在り |
孟子の説くところまさに共感。 我が身を修めずして何が国家か。 |
2月 12日 |
司馬遼太郎没 | 「いたわり」 「他人の痛みを感じること」 「やさしさ」 みな似たようなことばである。 この三つの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。 根といっても、本能ではない。 だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならないのである。 |
「二十一世紀に生きる君たちへ」は、維新後の日本人を見つめ続けた司馬の遺書とも言える作品だが、その中で、彼は思いやる気持ちとともに訓練することの大切さを述べている。 彼ならではの言葉である。 平成8(1996)年2月12日歿。 享年73才。 |
2月 13日 |
杉浦重剛歿 | 自ら信じて行なえば、 天下一人といえども強い |
昭和天皇の少年時代を見守った滋賀県出身の教育者。 大正13(1924)年2月13日歿、享年70才。 |
2月 15日 |
涅槃会 | 知足人雖貧而富 〔知足の人は 貧しと雖も而も富めり〕 |
遺教経の一句。 世は金、金、金。 拝金主義の行き着く果てがどうなるかは、明らか。 |
2月 16日 |
西行示寂 | 願わくは 花の下にて春死なん その如月の望月のころ |
西行法師は文治6(1190)年2月16日、河内の弘川寺にて寂。 世寿73才。 死を見つめる姿勢に感銘を受ける。 |
2月 22日 |
聖徳太子崩御 | 篤敬三寶。三寶者佛法僧也。 則四生之終歸、萬國之極宗。 何世何人、非貴是法。人鮮尤惡。 能敎従之。其不歸三寶、何以直枉。 〔篤く三宝を敬へ。 三宝とは仏、法、僧なり。 則ち四生の終帰、万国の極宗なり。 はなはだ悪しきもの少なし。 よく教えうるをもって従う。 それ三宝に帰りまつらずば、 何をもってか枉(ま)がれるを直さん。〕 |
「十七条憲法」は仏教の根本義に通ず。 聖徳太子という優れた人物の存在が、日本の仏教を大きく進めた。 その存在があまりにも偉大すぎ、太子虚構説まで現れている。 一方、黄檗僧・潮音道海禅師は『先代旧事本紀大成経(せんだいくじほんぎたいせいきょう)』によって太子尊崇を著している。 推古天皇30(622)年2月22日太子崩御、宝算49才。 |
2月 28日 |
千利休歿 | 稽古とは 一より習ひ 十を知り 十よりかへる もとのその一 |
小衲は茶道は藪内流を少しばかりたしなむ。 十二代 猗々斎竹風紹智宗匠から親しく教えを受けた昔が懐かしい。 流祖藪内剣仲紹智は、武野紹鷗門下で利休居士の弟弟子であったという。 それぞれ一派をなしたが、稽古に対する姿勢はどの流派も変わらない。 天正19(1591)年2月28日利休歿、享年70才。 |
3月 (弥生) |
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3月 3日 |
上巳節句 井伊直弼歿 |
一期一会 | 安政7(1880)年のこの日、井伊直弼は時ならぬ雪の降る中、暗殺された。 信念を持っての開国であったが、問答無用の反対者はどこにでもいる。 周囲の心配をよそにの登城であったが、これが最期の日となった。 茶の湯と能楽を愛でる中で彼が最も大切にした言葉が、この言葉だったという。 享年45才。 |
3月 9日 |
孔子歿 | 子曰く 「 天何をか言うや 四時行われ百物生ず 天何をか言うや 」 |
孔子は紀元前479年3月9日73才で歿。 釈尊もこの頃の人。 二人が出会っていたらどのような教えが出来あがっていただろうか。 |
3月 11日 |
東日本大震災 | 震災は忘れた頃に来る | 寺田寅彦の言葉。 「自然現象の不思議には、自分自身の目で脅威しなければならぬ」とも。 震災は人知の及ぶところではないが、原発事故は防げたはず。 東電だけの責任とせず、防ぐ手立てを整えることが今を生きる者に課せられた課題である。 |
3月 16日 |
慧可大祖大師示寂 | 菩提本無樹 明鏡亦非臺 本來無一物 何處惹塵埃 〔 菩提 本 樹無く 明鏡も亦た台に非ず 本来無一物 何れの処にか塵埃を惹かん 〕 |
「本来無一物」などという語は、とても口に出せないような言葉である。 菩提達磨大師もすごいが、この方がいたからこそ禅宗は今日ここにある。 100才を超え、なお洒洒落落、余りにも多くの徒を集め、かえって反感を買い107才で処刑されたとか。 時に、随の文帝、開皇13(593)年3月16日であったという。 唐の徳宗、諡号して「大祖禅師」となす。 |
3月 20日 |
彼岸中日 | 今日彼岸 菩提の種を蒔く日かな | 春分の日は、年によって21日になったりする。 この頃はまさに季節の変わり目で、農事作業の目安にもされている。 芭蕉は、種を蒔く頃と、彼岸の頃とをうまく掛けたこの句をものにした。 「暑さ寒さも彼岸まで」の言葉とともに、生活に染みついている。 |
3月 21日 |
弘法大師示寂 | 夫れ仏法遙かなるに非ず 心中にして即ち近し 真如外にあらず 身を捨てて何んか求めん 迷悟我に在れば 発心すれば即ち到る 明暗他に非ざれば 信修すれば忽ちに証す |
「般若心経秘鍵」は弘法大師空海の書。 小衲の愛読書である。 大綱序冒頭部は白隠禅師坐禅和讃の冒頭部の言葉と重なる。 大師は、承和2(835)年3月21日62才で示寂。 世寿62才。 |
3月 22日 |
宝蔵國師寂 | 荊棘林中線路通 等閒踏破太虚空 頓超明月清風外 安住鑊湯炉炭中 荊棘林中線路通ず 等閒に踏破す太虚空 頓に明月清風の外に超えて 鑊湯炉炭中に安住す |
宝蔵國師とは鉄眼道光禅師のこと。 折からの飢饉で難民救済の途中、天和2(1682)年3月22日、若干53才で病死。 幸い彼の一切経(大蔵経)開版事業は完成した直後だった。 鉄眼の願心が並みのものではなかったことが、この句からも読み取れる。 |
3月 26日 |
柳生宗矩歿 | 人に勝つ道は知らず、 我に勝つ道を知りたり。 |
単なる武術としての剣術が、彼によって禅と融合され、「剣禅一致」の武道として確立されたという。 武士道思想にも大きな影響を与えたとか。 小衲は門外漢なので分からないが、彼と家康との「無刀取り」の逸話などはとてもおもしろい。 正保3(1646)年3月26日歿、享年76才。 |
3月 下旬 |
桜満開 | 春ごとに咲くや吉野の山ざくら 木をわりて見よ花のあるかは |
一休禅師の名歌(一休関東咄上巻第十)。 心は不思議なり。 どこから生じ何処へ消えていくのか。 |
4月 (卯月) |
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4月 | 古池や蛙飛び込む水の音 | 芭蕉投機の句とされているが、収録されているのは「春の日」。 仏頂禅師との問答がすばらしい。 |
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4月 3日 |
大光普照国師寂 (隠元忌) |
それ人は万物の霊たり この時悟らずんば 更に何れの時をか待たん |
大光普照國師こと、黄檗宗祖隠元禅師ご遺誡の一節。 宗祖は63才で我が国に渡来後、黄檗山萬福寺を開創、黄檗宗を開き、在日20年後の延宝元(1673)年4月3日、黄檗山萬福寺松隠堂で示寂、世寿82才。 「ご遺誡」全文を読みたい方はここをクリック |
4月 6日 |
太田南畝歿 | 今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつは たまらん |
太田南畝こと蜀山人は文政6(1823)年4月6日歿。 享年75才。 彼の狂歌はもやもやした心を晴れやかにしてくれる。 |
4月 7日 |
無門慧開寂 | 他非莫弁 他事莫知 〔 他の非を辨ずること莫れ、 他の事を知ること莫れ。 〕 |
無門関第45則・他是阿誰の頌の中の一句。 無門禅師は南宋景定元(1260)年4月7日示寂。 世寿78才。 |
4月 8日 |
灌仏会 | 天上天下唯我独尊 | 独立自尊を主張するのは容易いが、果たしてそれで本当に生き抜けるのか。 危うい危うい。 我々は釈尊のこの言葉や生き様をもっとかみしめねばならない。 |
4月 11日 |
西岡常一歿 | 仏法は難しいお経もあるけれども、 煎じ詰めれば『慈悲心』ですわ。 |
鬼の棟梁と言われた氏には、数多くの名言がある。 何れも長年の経験から得られたもので、今では貴重な遺訓となっている。 その柱となっているのは、慈悲心である。 平成7(1995)年4月11日歿、享年88才。 |
4月 12日 |
武田信玄歿 | 人は城、人は石垣、人は堀、 情けは味方、仇は敵なり |
信玄公が、この言葉をどのような場所で誰に言ったかは知らないが、リーダーとして的確な素質を持った人だと感心させられる。 元亀4(1573)年4月12日、武田信玄歿。 享年53才。 |
4月 14日 |
高杉晋作歿 | おもしろきこともなき世をおもしろく すみなすものは心なりけり |
高杉晋作、肺結核で慶応3(1867)年4月14日歿。 野村望東尼が看取ったという。 享年27才。 |
4月 17日 |
徳川家康歿 | 人の一生は 重荷を負て遠き道をゆくがごとし いそぐべからず。 |
この言葉は、後世の偽作だとか? 仮にそうだとしても堅忍不抜の家康の生涯に照らすと、彼の生き方をよく言い得た言葉である。 元和2(1616)年4月17日、家康歿。 享年75才。 |
4月 27日 |
松下幸之助歿 | 失敗の多くは、成功するまでにあきらめてしまうところに、原因があるように思われる。 最後の最後まで、あきらめてはいけないのである。 |
度重なる不況を克服したこの人の気力、気迫に脱帽。 鉄眼禅師もそうであったが、人間、断じて諦めてはいけないのである。 平成元(1989)年4月27日歿、享年96才。 |
5月 (皐月) |
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5月 3日 |
憲法記念日 | 政を為すは人に在り | いくら優れた法律があろうと不善の人であれば国は治まらない。 「其の人存すれば則ち其の政挙がり・・・・」と。 中庸はもっと政治家に読んでほしいものだ。 |
5月 4日 |
みどりの日 | 江碧鳥逾白 山青花欲燃 今春看又過 何日是帰年 江碧にして鳥兪々白く 山青くして花燃えんと欲す 今春みすみすまた過ぐ 何れの日にかこれ帰年 |
小衲が最初に覚えた漢詩、杜甫の「絶句」。 成都の杜甫草堂を訪れた時の感激は今も明瞭に覚えている。 |
5月 5日 |
端午節句 こどもの日 |
銀(しろかね)も 金(くがね)も玉も何せむに まされる宝子にしかめやも |
子供を詠ませたら山上憶良の右に出る者は有るまい。 しかし、これほどまでに子供に愛情を注いでいるのは、彼一人だけではない。 なのに児童虐待が新聞を騒がせる時代となったことを一体どう考えればよいのか。 |
5月 6日 |
鑑真示寂 | 山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁 〔 山川、域を異にすれども 風月、天を同じうす 諸の仏子に寄せて 共に来縁を結ばん〕 |
この句は、日本の長屋王が鑑真を招請するために贈った千枚の袈裟に刺繍されていた漢詩だという。 『唐大和上東征伝』によれば、鑑真はこの詩が機縁となって渡日したという。 人は、誠心誠意によって動くことの証左がこれである。 天平宝宇7(763)年5月6日鑑真和上示寂、世寿76才。 |
5月 17日 |
滝野瓢水歿 | 手に取ルなやはり野に置蓮華草 | 数ある瓢水の作品の中でも好きな句の一つ。 宝暦12(1672)年5月17日歿、享年78才。 |
5月 21日 |
野口英世歿 |
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彼の生家を訪れたのは高校の修学旅行だった。 もう50年以上も以前の事だ。 昨年も近くまで行ったが、周囲の田んぼは家並みと広い駐車場ですっかり変容していた。 日本は裕福になったが、医学界の進歩は遅々たるものだ。 エボラ出血熱やデング熱の流行が21世紀になっても猛威を振るっていることを知ったら彼はなんと言おうか。 それ以上に、原発による故郷の荒廃ぶりに、大きなショックを受けることは間違いない。 昭和3(1928)年5月21日歿、享年53才。 |
5月 28日 |
在原業平歿 | ついに行く 道とはかねて 聞きしかど きのふけふとは 思はざりしを |
伊勢物語の締めくくりはこの歌である。 蜀山人の歌と重なるが、どのように歌おうと生への執着、未練さは隠すべくもない。 元慶4(880)年5月28日歿、享年56才。 |
5月 29日 |
与謝野晶子歿 | 厭々する労働はかえって人を老衰に導くが、自己の生命の表現として自主的にする労働は、その生命を健康にする。 |
禅宗は作務(普請ともいう。)を大切にするが、何でもしてりゃいいというものではない。 諺にも「好きこそ物の上手なれ」というが、まさに彼女の言葉は言い得て妙なりである。 昭和17(1942)年5月19日歿、享年65才。 |
5月 30日 |
東郷平八郎歿 | 愚直と笑わるるとも、 終局の勝利は 必ず誠実な者に帰すべし |
日露戦争を前にし、訓練に訓練を重ねた東郷には「兵器に格差があるときには、百発百中の大砲一門だけで、百門をもっているが一発しか当たらない大砲群と互角に戦うことができる」という信念があったという。 昭和9(1934)年5月30日東郷元帥歿、享年87才。 |
6月 (水無月) |
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6月 2日 |
織田信長歿 | 人間五十年 下天の内を較ぶれば夢幻の如く也 一度生を稟け滅せぬ物の有る可き乎 |
幸若舞 『敦盛』 の一節は信長の末期を飾るにふさわしい。 天正10(1582)年6月2日本能寺の変勃発。 信長歿。 享年49才。 それにしても安土城が焼失したのは惜しい。 世の栄枯盛衰を感ぜずにはおれない。 |
6月 6日 |
稽古始め | 初心忘るべからず | 世阿弥曰く。 「三ヶ条の口伝あり。 是非とも初心忘るべからず。 時々の初心忘るべからず。 老後の初心忘るべからず。」と。 |
6月 7日 |
西田幾多郎歿 |
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小衲はどうも哲学が苦手である。 金剛経では、「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」などと言う難解な言葉が出てくるが、考えているうちにわからなくなる。 それが西田の「絶対矛盾の自己同一」という論文を読めば何となく分かるから不思議である。 禅のなんたるかを哲学的に説明してくれたこの人はすごい。 昭和20(1945)年6月7日歿、享年76才。 |
6月 10日 |
時の記念日 | 謹曰大衆 生死事大 無常迅速 各宜醒覚 慎勿放逸 謹んで大衆に曰く 生死は事大 無常は迅速なり 各々宜しく醒覚し 慎んで放逸するなかれ |
黄檗山の巡照板に書かれた偈である。 毎日聞きながらも時の経つことの速さをすぐ忘れる。 困ったことだ。 いよいよ人生も後半だというのに・・・・・・。 |
6月 13日 |
北里柴三郎歿 | 君、人に熱と誠があれば、 何事でも達成するよ。 よく世の中が行き詰まったと言う人が あるが、これは大きな誤解である。 世の中は決して行き詰まらぬ。 もし行き詰まったものがあるならば、 これは熱と誠がないからである。 つまり行き詰まりは本人自身で、 世の中は 決して行き詰まるものではない。」 |
彼の果たした業績のすごさは、この言葉の裏に隠されているように想える。 きっと挫折感を味わいそうになったとき、かれは自らにこの言葉を言い聞かせていたのであろう。 まさに不撓不屈の姿勢を感ぜずにはおれない。 「日本の細菌学の父」 北里は、昭和6(1931)年6月13日歿、享年79才。 |
7月 (文月) |
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7月 1日 |
安禅不必須山水 滅却心頭火自涼 〔 安禅は必ずしも山水をもちいず 心頭滅却すれば火も自ら涼し 〕 |
碧巌録第43則にある句。 快川和尚はこの句を唱えて火定に入られたとか。 |
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7月 5日 |
栄西寂 | 茶は養生の仙薬なり。 延齢の妙術なり。 |
日本臨済禅開祖栄西禅師は、建保3(1215)年7月5日寂。 世寿75才。 茶は、小衲の日常から欠かせぬ嗜好品である。 |
7月 7日 |
七夕節句 | ||
7月 9日 |
森鴎外歿 | 日の光を借りて照る 大いなる月たらんよりは、 自ら光を放つ小さな灯火たれ |
鴎外は学生時代に読みふけったのを思い出す。 大正11(1922)年7月9日歿。 享年60才。 向島の弘福寺に葬られたが、後に三鷹・禅林寺に改葬されている。 何れも黄檗宗の寺院であるが、その因縁は知らない。 |
7月 12日 |
鈴木大拙歿 | 禅とは、心の奥底にある無限の創造性に徹し、これに随順して生きることだ。 |
「禅」が世界的な広がりを持つに至ったのには、彼の果たした功績が大きい。 「不立文字 教外別伝」の世界を日本語にすることすら困難であるにもかかわらず、それを巧みに英訳するなどは、凡人の成し得ることではない。 彼のこの言葉が、それを裏付ける。 昭和41(1966)年7月12日歿、享年97才。 |
7月 15日 |
中元 | ||
7月 16日 |
売茶翁寂 | 貧不苦人人苦貧 〔 貧は人を苦しめず 人貧に苦しむ〕 |
この語は売茶翁が京都大仏・方広寺で詠んだ句の一節である。 彼は月海元昭という歴とした黄檗僧である。 禅に徹底したからこそ煎茶道にも徹底できたのである。 宝暦13(1763)年7月16日寂。 世寿89才。 現在全日煎では、6月16日に全国のお家元が黄檗山に参集し、売茶忌法要と記念茶会を厳修され、祥忌には各お家元がそれぞれ売茶忌法要と茶会を催しておられる。 |
7月 19日 |
山岡鉄舟歿 | 晴れてよし曇りてもよし富士の山 もとの姿は変わらざりけり |
鉄舟の名は禅の本を繙くと必ずと言っていいほど出てくる。 禅僧以上に禅を極めた人としてよく知られている。 彼は胃がんであったというが、その死に様は禅者らしく、風呂へ入り死に装束に着替えてから坐禅をし、瞑目して坐脱したという。 明治21(1888)年7月19日、享年53才。 |
7月 20日 |
岩倉具視歿 | 成敗は天なり、 死生は命なり、 失敗して死すとも豈後世に恥じんや。 |
倒幕派中核の公家ながら、政治家としての手腕を発揮。 空中分解寸前の明治政府が何とか持ちこたえたのには彼の存在が大きい。 明治16(1883)年7月20日歿、享年59才。 |
7月 22日 |
高峰譲吉歿 | これまでも何かを成し遂げようとして 簡単に成功したことは 一度としてありません。 Try Try Again! 何度でも挑戦しよう! |
タカジアスターゼ、アドレナリン等、高峰譲吉の発明や成功が、どれほど多くの失意の日本人を救ったか。 が、彼自身も挫折に挫折を重ねていたのである。 わたしたちは彼の不屈の努力を、忘れてはならないだろう。 大正11(1922)年7月22日没、享年67才。 |
7月 24日 |
芥川龍之介歿 | どうせ生きているからには、 |
芥川の小説は、どれも奥が深い。 人間の心奥をのぞき見る様な感覚だ。 のぞきすぎて疲れたのかな~。 昭和2(1927)年7月24日歿、享年37才。 惜しいなぁ。 |
7月 26日 |
鴨長明歿 | 行く河の流れは絶えずして、 しかも、もとの水にあらず。 淀みに浮かぶうたかたは、 かつ消え、かつ結びて、 久しくとどまりたる例(ためし)なし。 |
鴨長明は平安時代から鎌倉時代にかけての随筆家である。 世の無常を切々と書き上げた「方丈記」は徒然草や枕草子と並んで日本三大随筆の一となっている。 記された天変地異の数々は、私たちの生き方に大きな示唆を与えてくれる。 長明が歿したのは建保4(1216)年閏6月10日というから今日では7月26日あたりとか。 享年62才。 |
7月 28日 |
蘇軾(蘇東坡)歿 | 素紈不画意高哉 儻着丹青堕二来 無一物中無尽蔵 有花有月有楼臺 素紈(がん)画かざれば意高き哉 儻(も)し丹青を着ければ二に堕し来る 無一物中無尽蔵 花有り月有り楼臺有り |
漢文で『赤壁賦』を習ったのは確か高校2年生の時。 漢字一字の持つ味わいに妙に引きつけられ、漢文の時間は楽しかった。 唐詩選を夢中で読んだが、漢文の方は漢詩を詠むほどに迄は至らなかった。 為すべき時に為さなかった報いを今受けている。 蘇東坡は建中靖国元(1101)年7月28日歿、享年65才。 |
7月 30日 |
明治天皇崩御 | あさみどり すみわたりたる大空の ひろきをおのが心ともかな |
明治天皇は非常に口数の少ない方であったという。 しかし、御製は9万3千首に及ぶといい、すばらしい歌が多い。 明治45(1912)年7月30日崩御、宝算61才。 |
8月 (葉月) |
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8月 1日 八朔 |
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8月 4日 |
松本清張歿 | 人間には、先入観が気づかぬうちに働きまして、そんなことはわかりきったことだと素通りすることがあります。 これが怖いのです。 | 「昭和史発掘」など、彼の推理小説やドキュメントは一級品。 その視点は緻密な検証によって支えられていたのだ。 「先入観を持つな」は、小衲が尊敬する師の教えでもある。 平成4(1992)年8月4日歿。 享年82才。 |
8月 6日 |
広島平和記念日 | ||
8月 7日 |
十返舎一九歿 | 此世をば どりやおいとまにせん香と ともにつひには 灰左様なら |
十返舎一九は、日本で最初の職業文筆家だったそうな。 天保2(1831)年8月7日歿。 享年67才。 |
8月 8日 |
世阿弥歿 | 秘する花を知ること。 秘すれば花なり、 秘せずば花なるべからず、 |
『風姿花伝』は世阿弥が、道を極めんとする人のために遺してくれた最高傑作である。 もっとも当初は秘伝だったというからそれを読める私たちは幸せ者だと言える。 世阿弥は、嘉吉3(1443)年8月8日歿、世寿81才。 |
8月 9日 |
長崎原爆の日 | ||
8月 14日 |
中峰明本寂 | 末世の比丘、形沙門に似て、心に慚愧無く、身に法衣を着けて、思い俗塵に染む。 口に経典を誦して、意に貪欲を憶い、昼は名利に耽り、夜は愛着に酔う。 外持戒を表し、内密犯を為す。 常に世路を営んで、永く出離を忘ず。 偏に妄想を執し、既に正智を擲つ。 < 中略 > 生死事大、光陰惜しむべし。 無常迅速、時人を待たず。 人身受け難し、今已に受く。 仏法聞き難し、今已に聞く。 此の身今生に向って度せずんば、更に何れの処に向ってか此の身を度せん。 |
この語は、「中峰禅師座右の銘」と称されるもので、前半部分はともかく、後半の部分については、今日、あらゆる宗派の人が知っている有名な一句である。 臨済正伝第十九世(東土第五十六世)天目中峰和尚は、黄檗宗を語る上でも欠かせない。 それだけに本HPでも随処に現れる。 元致知3(1323)年8月14日寂、世寿61才。 |
8月 15日 |
終戦記念日 | 國破山河在 城春草木深 感時花濺涙 恨別鳥驚心 烽火連三月 家書抵萬金 白頭掻更短 渾欲不勝簪 國破れては山河在り 城 春にして草木深し 時に感じては花にも涙を濺ぎ 別れを恨んでは 鳥にも心を驚かす 烽火(ほうか)三月に連なり 家書萬金に抵(あ)たる 白頭掻(か)けば更に短かく 渾(すべて)簪(しん)に勝えざらんと欲す 〕 |
小衲は終戦翌年の生まれ。 戦争は知らないが戦後の混乱は子供心にも染みついている。 杜甫の「春望」の詩は忘れられない。 |
8月 18日 |
豊臣秀吉歿 | 一歩一歩、着実に積み重ねていけば、 予想以上の結果が得られる。 |
処世術においてこの人に勝る人はあるまい。 しかし、そこにはひたむきな努力という裏付けがあったことを忘れてはならない。 慶長3(1598)年8月18日歿、享年62才。 |
8月 19日 |
後水尾法皇崩御 | 萬別千差一掃空 | この語は後水尾法皇が隠元禅師に帰依され、書面をもって教えを請われたときに宗祖が認めた句である。 法皇はこの句によって更に悟境が進まれたという。 黄檗僧・圓浄道覺の誕生である。 法皇は延宝8(1680)年8月19日崩御。 宝算85才。 詳細はここをクリック |
8月 28日 |
道元寂 | かならず |
道元禅師は、我が国に禅宗を伝来したとされる二十五派の二番目に禅を伝えた方である。 修行された天童寺は残念ながら水難で廃墟と化したが、密雲円悟禅師が復興され、費隠通容禅師も住持され、隠元禅師も出入りされた寺院である。 左の語は『正法眼蔵随聞記』の一節で、多くの名著があるが、『傘松道詠』の中の「春は花夏ほとゝぎす秋は月冬雪さえて冷(すゞ)しかりけり」は小衲の好きな句である。 建長5(1253)年8月28日寂、世寿54才。 |
9月 (長月) |
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9月 1日 |
防災の日 平年・二百十日 |
有備無患 〔 備えあれば患(憂)いなし 〕 |
書経の言い古された言葉。 我が身に及ばねば備えもおろそかになりがち。 順調なときほど要注意。 |
9月 2日 |
岡倉天心歿 | 本当に重要なのは 完成そのものではなく、 完成することだ。 |
茶道をやり始めた頃、「茶の本」を一気に読破したのを思い出す。 芸術に関しては門外漢に等しく美的感覚に乏しい鈍感な小衲だが、彼の茶室やわび、さびに関する蘊蓄は、読んでいても納得させられ、茶道を手習いし始めたことに誇りを抱いていたものだ。 小衲の所作に少しでも、美的センスがあるなら、それはこの人の影響大なるものがある。 大正2(1913)年9月2日歿、享年51才。 |
9月 3日 |
無学祖元寂 | 乾坤無地卓孤筇 且喜人空法亦空 珍重大元三尺剣 電光影裏春風斬 〔 乾坤 孤筇(こきょう)を卓(た)つるに地なし 且喜(しゃき)すらくは人空 法もまた空 珍重す 大元三尺の剣 電光影裏(ようり)に春風を斬る 〕 |
我が国に禅を伝来した僧は一般に25人と言われるが、無学祖元禅師はその11人目、中国人としては5人目の渡来者である。 円覚寺を開き、多くの武士を教化した。 蒙古来襲を神風で撃退したと庶民が騒ぐ中、無学禅師を招請した北条時宗は禅の精神で戦ったと胸を張ったという。 弘安9(1286)年9月3日寂、世寿61才。 |
9月 6日 |
黒澤明歿 | 人間は集中して夢中になっているときが、一番幸せで楽しいもんだよ。 | 小衲は映画の大ファンである。 特にインデペンデント系が好い。 黒澤作品は全部見た。 これだけ映画に没入できるのはなんと言ってもそれが総合芸術作品だからである。 監督はシナリオから道具、衣装、音楽、全てを統括している。 みんなを夢中にさせる人、それが黒沢だったと思う。 平成10(1998)年9月6日歿、享年89才。 |
9月 7日 |
吉川英治歿 | 我以外皆我師 | 吉川英治、昭和37(1962)年9月7日歿、享年70才。 貪るように読んだ「三国志」が忘れられない。 中国文化への憧憬と同時に、この言葉も脳裏に刻みつけられた。 |
9月 9日 |
重陽節句 | ||
9月 12日 |
塙保己一歿 | 人間は小さなことで怒るようでは大業は成就しない。 私は一年間絶対に怒らないと心に誓う。 |
「群書類従」を完成したのが全盲の彼だったなどとは、教わらなかったなら到底信じられなかったであろう。 鉄眼禅師が開刻した一切経は、原稿用紙の規格を我が国に定着させた点でも評価されているが、それは20字×20字という原稿用紙の原型で、中央に中縫(版心とも)と言う折り目のための一行もとってあった。 縦の罫線も入れられてはいたが、まだマス目は入っていない。 群書類従の印刷がなされたころには、このマス目が完成していたという。 おそらく塙保己一は、文字の字数まで脳裏に焼き付け、この編集に取り組んでいたのであろう。 ヘレンケラーが、彼を大変尊敬していたと聞くが、言わずもがなである。 文政4(1821)年9月12日歿、享年76才。 |
9月 13日 |
乃木希典歿 | 恥を知れ。 道に外れた事をして 恥を知らないものは 禽獣(きんじゅう)に劣る。 |
小衲は、兵法は全く無知である。 だから、この将軍の指揮については論評できない。 しかし、立派な武士であったことはその言動から伺い知れる。 大正元(1912)年9月13日乃木希典歿、享年63才。 |
9月 19日 |
正岡子規歿 (糸瓜忌) |
禅とはいつでも死ねることだといままで考えておったが、 それは誤りであった。 そうでなくて、 どんなばあいにも生きぬくことが禅であった。 |
正岡子規ほど、死を直視した人はいないだろう。 彼の日記「病床六尺」や「仰臥漫録」は多くの祖師方の祖録にも劣らぬ。 明治35(1902)年9月19日歿、享年35才。 |
9月 23日 |
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9月 24日 |
佐藤一斎歿 | 少而学則壮而有為 壮而学則老而不衰 老而学則死而不朽 少(わか)くして学べは 則ち壮にして為す有り 壮にして学べば則ち老ゆとも衰えず 老いて学べは則ち死すとも朽ちず |
佐藤一斎は、江戸時代後期の著名な儒学者。 『言志晩録』第60条「三学戒」は小衲の最も好きな言葉の一つ。 座右の銘には最もふさわしい言葉である。 安政6(1859)年9月24日歿、享年88才。 |
9月 29日 |
本居宣長歿 | 敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花 |
彼の努力で「古事記」がすらすらと読めるようになった。 大成経を著した潮音道海禅師が存命中であったなら、なんと言われたであろうか。 国学四大人の一。 享和元(1801)年9月29日歿、享年72才。 |
9月 30日 |
李白歿 | 夫天地者萬物之逆旅 光陰者百代之過客 〔 夫れ天地は萬物の逆旅にして 光陰は百代の過客なり 〕 |
有名な李白の『春夜宴桃李園序』の冒頭部分である。 四六駢儷体の見本として、我が国でも広く親しまれてきた。 文章の語感が良いので、無常観などとんでいってしまう。 宝応元(762)年9月30日歿、享年62才。 |
10月(神無月) |
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10月 2日 |
南光坊天海寂 | 気は長く、務めはかたく、色薄く、 食細くして、心広かれ |
徳川家康のブレーンとして活躍した大人物ながら、その素性はほとんど知られていない。 家康没後、彼を「東照大権現」として祀るように主張したのは天海僧正だったという。 僧としての輝かしい業績もある。 我が国初の一切経の活字印刷を行ったのは天海である。 逸話も多く、左の言葉は短気で好色な家光のために贈った長寿の秘訣だとか。 余談ながら比叡山滋賀院には天海の鎧が展示してある。 彼は、関ヶ原の合戦にも従軍していたとか。 寛永20(1646)年10月2日寂、世寿108才。 |
10月 5日 |
達磨忌 | 将汝心来与汝安 〔 汝の心を将ち来れ。 汝が与に安んぜん。 〕 |
二入四行論にいう。 畢竟、全ては吾が心に在り。 |
10月 12日 |
松尾芭蕉歿 | 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る | 芭蕉には名句、名言が多いが、この句は彼ならではの句といえる。 同じように奥の細道の「月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行きかう年もまた旅人なり。」もすばらしい。 元禄7(1694)年10月12日歿、享年50才。 |
10月 15日 |
僧璨鑑智大師示寂 | 至道無難 唯嫌揀擇 〔 至道(しいどう)は難(かた)きこと無し 唯だ揀擇(けんじやく)を嫌う 〕 |
「信心銘」からは多くの示唆を受けた。 禅が何かわからぬ時、常に四言、百四十六句のこの本が導いてくれる。 三祖様、よくぞこの本を著してくださいました。 まさに「一心不生 萬法無咎」 。 随の煬帝(ようだい)大業2(606)年10月15日示寂。 |
10月 16日 |
高泉性潡歿 | 第一義 | 「第一義」とは物事の根本義、究極の真理のこと。 私たちは普段このことをたずねる事を疎かにしがちである。 黄檗山中興・第5代高泉禅師はこの字を大書し黄檗山総門の門頭に掲げ警句とした。 貞享8(1695)年10月16日寂、世寿63才。 この「第一義」については逸話がある。 それを知りたい方はここをクリック |
10月 19日 |
魯迅歿 | 希望は本来有というものでもなく、無というものでもない。 これこそ地上の道のように、初めから道があるのではないが、歩く人が多くなると初めて道が出来る。 |
一国の「国民性を改造しよう」などと大それたことをいったい誰が思おうか。 しかし、彼に共鳴する人が多かったと言うことは、彼の思惑がまさに的中したということだ。 恐るべし、文学。 1936年10月19日、魯迅歿、享年56才。 |
10月 20日 |
二宮尊徳歿 | 声もなく香もなく常に天地は 書かざる経をくりかえしつつ |
小学校に入学し、最初に先生から教えられた偉人である。 戦前戦後を通じ、我が国報徳思想の父と敬われてきたが、より大きな教育者として尊敬する方である。 安政3(1856)年10月20日歿、享年70才。 |
10月 26日 |
伊藤博文歿 | 大いに屈する人を恐れよ、 いかに剛にみゆるとも、 言動に余裕と味のない人は 大事をなすにたらぬ。 |
最近、日韓関係の悪化から伊藤を暗殺した安重根のことが話題になり、初代韓国統監だった伊藤のことも色々と見直されている。 松下村塾時代のこと。 維新期の行動のこと。 大日本帝国憲法起草者であり、初代首相としての言動のこと等。 「正しい歴史認識を」と韓国は言うが、本当の所はいったいどうなのか。 明治42(1909)年10月26日、享年69才。 |
10月 27日 |
吉田松陰歿 | 身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂 |
安政の大獄最後の刑死者、松陰の辞世の句。 安政6(1859)年10月27日歿、享年30才。 彼の門下からは維新の英傑が数多く輩出された。 想うに彼はすばらしい教育者であったのである。 |
11月 (霜月) |
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11月 |
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11月 3日 |
文化の日 |
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政治家、冒険家、作家と、いくつもの顔を持つ男、アンドレ・マルローの言葉。 その彼が最も世界に貢献したのは、やはり独特な文化行政であったろう。 |
11月 4日 |
隠元禅師慈愍会 (誕生日) |
百歳無知猶赤子朝聞夕死勝頤期 〔 百歳にして知ること無くんば 猶赤子の如し 朝に聞き夕べに死すとも 頤期(いき)に勝れり 〕 |
宗祖隠元禅師の古稀の詩の一節。 頤期とは、百歳の老人の意。 百歳になるまで為すべきを為さず、学ぶべきを学ばず、知るべきを知らなかったならば、赤子と同じである。 人間にとって大切なことは、年をとることではなく、まことの道を得るか、得ないかということである。 |
11月 6日 |
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11月 14日 |
貝原益軒誕生 | 人生まれて学ばざるは 生まれざるに同じ、 学んで道を知らざるは 学ばざるに同じ 知って行う能わざるは 知らざるに同じ |
貝原益軒は、高泉性潡と同世代の人である。 医師でありまた博識であったという。 「養生訓」を読むと、彼の大きさに心引かれる。 正徳4(1714)年10月5日歿。 享年85才。 |
11月 15日 |
坂本龍馬歿 | 時勢に応じて自分を変革しろ | 炯眼と言おうか、彼の時代を読む眼力はすごい。 何よりもその行動力にも圧倒される。 慶応3(1867)年11月15日歿、 享年32才。 |
11月 19日 |
一茶歿 | 名月をとってくれろと泣く子かな | 大人になると、いつしか子供のあの天真爛漫さ、一途なひたむきさが失われていくのが口惜しい。 それを教えてくれた一茶は、文政10(1827)年閏6月1日、柏原宿を襲った大火で母屋を失い11月19日、土蔵の中で亡くなった。 享年65才。 |
11月 21日 |
一休宗純寂 | 死にはせぬどこへも行かぬここに居る たづねはするなものは云わぬぞ |
文明13(1481)年11月21日一休示寂、世寿88才。 水上勉氏は著『一休』の中で狂雲集を繙きながら、禅僧一休に肉薄していこうと努めている。 実に名著なり。 |
11月 22日 |
北条時頼歿 | 心こそ心迷わす心なれ 心に心 心許すな |
北条時頼は、鎌倉幕府第5代執権。 質素かつ堅実で、宗教心にも厚い人物であった。 蘭渓道隆を招き建長寺を建立、兀庵普寧も招いている。 御家人や民衆に対して善政を敷き、評価されている。 弘長3(1263)年11月22日歿。 享年37才。 |
11月 23日 |
勤労感謝の日 | 一日作さざれば 一日食らわず | この言葉、リタイヤしてから理解しても遅すぎる。 百丈和尚が言いたいのは今の今のこと。 |
11月 25日 |
三島由紀夫歿 | 現実というものは、袋小路かと思うと、また妙な具合にひらけてくる。 | 三島が盾の会を結成したときから彼の言動には大きく関心を寄せていたが、最期の割腹事件は衝撃だった。 昭和45(1970)年11月25日歿、享年46才。 |
11月 28日 |
親鸞寂 | 明日ありと思ふ心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは |
親鸞聖人の言葉の全ては、比叡山とその後の苦しい修行のうえに生まれた信念の言葉である。 「たとひ法然上人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらう」などと、尋常では言えない。 弘長2(1262)年11月28日寂、世寿90才。 |
12月 (師走、臘月) |
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12月 3日 |
徳山宣鑑寂 | 道(い)い得るも三十棒 道い得ざるも三十棒 |
見性大師こと徳山禅師の逸話は痛快だ。 痛快だが修行未熟の小衲には、まだ自分のものとしきれない。 彼のように経典や書籍を全て焼き尽くすことなど、とてもとても。 咸通(865)年12月3日示寂、世寿86才。 |
12月 8日 |
仏成道日 | 奇なる哉奇なる哉 一切衆生悉く皆如来の智慧徳相を具有す 但だ妄想執着を以ての故に証得せず |
仏成道日に想起する句は多いが、これに勝るものなし。 |
12月 9日 |
夏目漱石歿 | 則天去私 | 漱石ほど自己を見つめ続けた人は少ない。 頼りにならぬ自己。 隣人も同じ。 しかし天は嘘をつかぬ。 大正5(1916)年12月9日歿。 享年50才。 |
12月 11日 |
沢庵宗彭寂 | 此世のひと 客に来たとおもへは、 苦労もなし |
沢庵が、柳生但馬守の禅の師であったことは夙に知られている。 『不動智神妙録』の存在は、小学校の頃、漫画で知った。 師父は漫画を毛嫌いしていたが隠れて楽しんだものだ。 多くの偉人の存在を知ったのも漫画である。 それはともかく、沢庵の存在は、紫衣事件を語る上で欠かせない。 正保2(1645)年12月11日寂、世寿73才。 |
12月 13日 |
煤払い 松迎え 正月事始めの日 安岡正篤歿 |
他人を変えようと思ったならば、 まず自分を変えることである。 |
戦前はもとより、戦中戦後を通して日本の指導者を陰で支えた人物と言えば、この安岡正篤の右に出る人は有るまい。 氏の言葉に依れば、「先ず己を知ること」、そして愚直に学び続けること。 大胆に見、繊細に進む。 まさに「致良知」を有言実行した人であり、その幅広い人脈は彼を死地からも救出している。 昭和58(1983)年2月13日歿、享年87才。 |
12月 22日 |
慈雲寂 |
心とも知らぬ心をいつの間に わが心とや思いそめけん
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慈雲尊者は真言宗の僧。 彼には黄檗宗の教えも受け継がれ、戒律を重視している。 文化元(1804)年12月22日寂、世寿88才。 |
12月 25日 |
白隠慧鶴誕生 | 衆生本来佛なり | 今日の日本の臨済禅界を席巻するのは全て白隠禅だ。 だが白隠は、若い頃禅病にもかかったというし、相応に悩んだと聞けば、白隠何スルモのぞとの気概も湧いてくる。 貞享2(1685)年12月25日誕生。 示寂は、明和5(1768)年12月11日、世寿84才。 |
12月 31日 |
大晦日 除夜の鐘 |
ただひとり風の音聞く大晦日 | 寅さんならぬ渥美清(俳号・風天)さんの句。 禅的な境地も感じさせる好きな句だ。 |