黄 檗 辞 典 
HPトッフ あ~え   か~こ さ~そ た~と な~の は~ほ ま~も や~わ 凡 例
 
   
  売茶翁
    月海元昭(げっかいげんしょう。→)が、晩年に高遊外と改称し、煎茶を街頭で煮出して道行く人々に販売し、自ら売茶翁と自称したことに始まる。日本煎茶道の祖とされる。売茶翁偈語に曰く。「将謂伝宗振祖風 却堪作箇売茶翁 都来栄辱亦何管 収拾茶銭賑我窮(将(まさ)に謂(おも)えり宗を伝え祖風を振わんと 却(かえ)って箇(こ)の売茶翁と作るに堪えたり 都来(つらい)栄辱亦た何ぞ管せん 茶銭を収拾して我が窮を賑わす)」。


   
  パイサン(拝懺) 
    正月および中元の三日間、あるいは授戒時に、道場を清浄にしてから八十八佛名を称して、一仏毎に梵香礼拝して懺悔する法要。その独特で調子の良い節回しが、何回もの拝を辛く感じさせない効用がある。


  パイサン(唄讃)
    梵唄を諷誦することをいう。


  
  はいせき(拝席)
  導師が展具拝を行うために設けられた席。 宗門寺院は本堂が土間仕様であり、拝をするための席を常時設置する必要があったことから出来たもの。 臨済宗寺院では、必要の都度、係の僧がゴザ等の敷物を敷くが、宗門では備え付けとなっている。 木枠で造られていて、畳一枚を敷くことが出来るように作られ、座布団を敷いておく。 使用する時は、この上に、座具を展べて拝をする。


   
  はいだいこ(拝太鼓) 
    法要を始める際、本尊に向かって経衆が一斉に三拝をする時の合図に打ち鳴らす太鼓のことをいう。
仏殿太鼓と引磬で調子をとり、小引磬のツンの音の際に拝をする。
  この法式は、法要開始時の梵唄へ誘うための導入的役割を果たすに足る厳かなもので、法要参列者は 



  ばいとう(梅湯) 
    茶礼時に用いる煮立てたお湯に梅干しの実をほぐして飲み易くしたもの。 これに、さらに糖分を加えたものを蜜湯という。


  パイパン(拝班)
    法要終了前後に、衆僧が相互に慰敬の拝を交わすことで、黄檗宗独特の作法である。  引磬(インキン。→)の合図で上位、下位、正面に向かって三度感謝の問訊をする。 引磬二声の場合は、そのまま上位先行(上首先行)で他の堂宇または方丈へ向かう合図となる。
 引磬三声の場合は、解散帰寮することと定められている。 →〔山本悦心著「黄檗三壇戒会須知」凡例〕


  はいひょう(拝票)      
    儀袋の上に貼り付ける名前等を記した札のこと。
  通常、慶事用の場合は、下から緑、黄、赤色の三色の紙を重ね、最上部に重ねる赤札に必要事項を書き入れる。
  弔事の場合は、この逆の組み合わせで緑紙が最上部にくる。
  なお受け取った香資等をお返しする場合(全額であれ、一部であれ)は、一番上の拝票(赤紙または緑紙)を剥ぎ、二枚目の黄色紙に「還香儀」と記して還すしきたりとなっている。



 

  パウ(寶) 
    僧侶のこと。 仏宝僧の三宝の内、僧侶を尊称して「僧宝(センパウ)」と称するが、簡略化され「宝」だけで称されるようになった。 今日では僧の隠語として用いる。

 
  パウチョン(報鐘)
    山内における法要時の合図は、大鐘、半鐘、あるいは雲版(→)等を鳴らし、また時には太鼓を交えて報ずる。 つまり、この合図の鐘類の音を総称して「報鐘」と言うが、今日では主として半鐘の合図のことをいう。
  なお宗門では「報鐘」を敲くことを「刻む(きざむ)」という。
  一通触れ、一通、二通触れ、二通、三通触れ、三通と、それぞれのうち方があり、宗門独特のものである。

  パウチョンのきざみくず(報鐘の刻みくず) 
    黄檗山専門道場に掛錫(正式に修行僧となること。)して間もない新到雲水に、山内の数多い塔頭寺院の名称、位置をより早く記憶させるために自然と出来た風習。
  先輩雲水から 「○○院(塔頭)へ行って 『報鐘(パウチョン。→)の刻みくず』 をもらってきてくれ。」と頼まれても、先ず「報鐘」が何のことか解らないし、ましてや○○院が何処にあるか解らない。
  新米雲水は尋ね尋ねて目的の塔頭に到着しても、予め示し合わせてある塔頭の方では、すげなく「生憎とそれは今は置いてません。 △△院さんなら有るかも。」と門前払い。次の塔頭・△△院へ行っても同じことで結局たらい回し。
  こうして、雲水は知らぬ間に山内を歩き回り塔頭を覚えてしまうと言う仕組みである。 もちろん、「報鐘の刻みくず」は実在の物ではない。 また、「雲版の刻みくず」等と言うこともある。


  はか(派下) 
    宗門では、今日なお法系(→)を大切にしているが、それはとりもなおさず嗣子相承を重要視する禅門としてのである。 本山と末寺とはそれぞれに直末か本末の関係、あるいは前記の何れでもなく黄檗宗系という関係を保っていると言う寺院が存在する。 これら寺院の内、本末関係にあるそれぞれの末寺は、自分の法系に当たる上寺の塔頭を宿院または塔頭(たっちゅう。→)と称して大切にしている。 これら塔頭の内、「派」としての格を持った塔頭と、この「派」の下に「○○下」と称する塔頭とがある。 これを相承して「派下」という。


  はくぎゅうがん(白牛巖) 
    黄檗十二景の四。
  黄檗山南方、 妙高峰(→)中腹の龍ヶ浜にある白い岩で、 その形が白牛がうづくまっているように見えるところからこの名がある。 牛臥石とも称されていた。 →〔「文華」117号〕〔渓道元著「黄檗案内」〕

 隠元禅師の叙文に曰く、
  不沽茎草是司南   茎草を沽せず 是れ南を司どる
  惟有遼天雙鼻孔   惟 遼天有り 雙鼻孔
  日灸風吹只自甘   日に灸け 風吹いて 只自ら甘し
  懶把梨耙化為巖    梨耙を把るに懶く化して巖と為る
 

  はくがんばん(柏巌版) 
    宗門で用いられる施餓鬼用経本(「瑜伽焔口科範(→)」)の種類。 何種類が確認されているが、その中でも「柏巌版」と「華蔵版」がもっとも多用されている。
  このうち、「柏巌版」は、廣壽山福聚寺の柏巌性節禅師が寛文5(1665)年に刊行したものとされる。


 
  ばくしゅう(檗宗) 
    隠元禅師が開創した黄檗山万福寺の宗風は臨済宗そのものであったが、それまでの臨済宗とは違っているとの気概を標榜する語として使用されていた語という。
  臨済宗黄檗派と同義、またはそれ以上に別派意識を強調した言葉。
  江戸時代における黄檗僧の語録、寿章、行状などにしばしば出てくる言葉で、平久保章氏によれば、元禄前後から使用されていたとされ、文献に最初に出てくるのは、隠元禅師示寂後64年経った元文2(1737)年閏11月に黄檗山が京都奉行書に提出した「口上覚」であるという。 →〔平久保章著「黄檗宗の呼称について」文華1号〕


  ばくそう(檗僧) 
    黄檗宗の僧籍を持つ僧のこと。


 
  ばくもん(檗門)
  黄檗宗門のこと。 これに対して、臨済宗を「済門下(さいもんか)」と称した。

  ばくりん(檗林) 
   黄檗叢林の意。


   
   
  はしんは(波臣派)
    明朝末期から清朝初期にかけての著名な肖像画家・曾鯨(そげい、字は波臣)によって興された中国絵画史上最大の肖像画の流派。 黄檗画像の祖とされている。 →〔近藤秀實著・明末清初肖像画の諸問題「文華」121号〕


 
  ハチャン(合掌)
     「合掌」の唐韻読み。 今日、日常では使用しなくなったが、授戒会の法要時には、まだ頻繁に使用する。


  はそき(派祖忌)
    黄檗山各塔頭開山忌のこと。
  今日、現存塔頭は、本山両序、塔頭院主、派下末寺住職を集め、それぞれ各開山祥忌に近い日に厳修している。 
  日が固定している塔頭の開催日は以下の通り。(開催日順)
   万寿院 派祖 木庵性瑫  毎年  1月19日
   宝善院 派祖 独振性英  毎年  5月 5日
   萬松院 派祖 龍溪性潜  毎年  5月
   長松院 派祖 鉄牛道機  毎年  6月20日 
   瑞光院 派祖 即非如一  毎年  5月
   真光院 派祖 悦峰道章  毎年  5月
   龍興院 派祖 慧林性機  毎年 11月11日
   法林院 派祖 喝禅道和  毎年 12月 
   なお、宝蔵院については、二祖忌と称して鉄眼道光、宝洲道聰両和尚の遠諱を毎年10月22日に行い、派祖・鉄眼和尚の派祖忌は瑞龍寺で4月22日に行うのを通例としている。


  はちえこう(鉢回向) 
    施餓鬼や大般若転読会等の法要時、最終盤に行われる黄檗宗独特の梵唄(→)法式のことで、特に鐃鉢(→)が重要な役割を果たすところからこの名が付けられている。
  鉢のほか、太鼓やインキン等の鳴り物の特徴を活かし、厳かな中にも荘重な雰囲気を醸し出す重要な法式。


 
  はちさいかい(八斎戒)
  黄檗三壇戒会(→)は黄檗禅の基本であり、初壇で優婆夷、優婆塞の守るべき戒として示されたのが、この戒である。
  八つの戒の内、五つは五戒であり、あとの三つは、不非時食(正午をすぎて食事をしない。)、離歌舞観聴香油塗身(歌ったり舞ったり観劇をする、また身体に香油を塗ったり、化粧をしない。)、離高広大床(身分に過ぎた大廈高楼に住まない。)の戒である。→〔中尾文雄著「黄檗清規解説」文華第329号〕 


  ハチャン(合掌)
  「合掌」の唐韻読み。 今日、日常では使用しなくなったが、授戒会の法要時には頻繁に使用する言葉。


  バッス(鈸子) 
    単にバツとも言う。 仏殿太鼓(→)の四本柱角に置かれた、繞鉢に似た小型のシンバル様の鳴り物。
  勤行時、「縁起文」後半で「南無阿弥陀仏(ナムオミトフ)」の「無」の時に鳴らす。 鳴らす時、一心不乱に弥陀に帰依する。 バッスを鳴ら時は弥陀と一心同体であらねばならず、そこへ誘導するために鳴らすと言われている。 →〔木村得玄著「金輪」25号〕
  今日では、前記以外では使用されなくなっている。


  はっとう(法堂) 
    法堂は、禅宗に於いては最も重要な建物で、説法の道場である。 黄檗山の法堂は、酒井忠勝(空印居士)の遺命により寄進、建立されたもので、当初は「円通殿」と称されていた。
 寛文2(1662)年創設、西向単層、重要文化財。 扁額「獅子吼」の文字は、隠元禅師の恩師である費隠通容禅師の揮毫による。


 
  はっぴ(法被)
    「ほうひ」ともいうが「はっぴ」が一般的。 椅子の背に掛ける被布のこと。 授戒、施餓鬼法要等、法要によっては、本尊とは別の主尊仏を祀り法要を厳修することがあり、このために本尊を覆い隠す必要があり、そのためにつり下げる布も法被という。
  この法被には、龍や獅子の絵柄と文字が書かれることが多い。


 
  はとうじいん(派頭寺院)
    江戸期、宗門は、本末関係を効果ある形で機能させるためとして、各塔頭三十三院それぞれに、派頭と称する中本山を配置した。
  付属末寺を多く抱える塔頭が、これら末寺を効果的に掌握するためには、これら派頭寺院を特別扱いして管理することで遠方や、数多い末寺を掌握したようである。 
  本山の達令は、塔頭→派頭→派下寺院へと伝えられ、末寺からの情報はこの逆に伝えられた。 
  例えば長松派は京都・葉室山浄住寺、聖林派は萩・東光寺、緑樹派は群馬・黒滝山不動寺、宝蔵派は大阪・瑞龍寺、吸江派は奈良市・王龍寺等を言う。


 
  ばんしょうこう(萬松崗)
    黄檗十二景の十。 松隠堂の上、万寿院から宝蔵院の裏山に連なる小さな岡。

  隠元禅師の叙文に曰く、
  萬松頂上鶴為家  萬松頂上鶴家を為し
    (萬松岡の頂上に鶴が巣を作っている)
  環繞千峰拱翠霞  環繞千峰翠霞を拱く
    (千峰がまわりを取り囲み 松の翠と霞が覆っている)
  夜静月来風弄影 夜 静かにして月来り風影を弄す
    (夜は静寂として月が映え 風が松の影を動かす)
  方山特地走龍蛇  方山特地 龍蛇走らす
    (特にこの山は松の根が龍蛇のように走っている)


 
   

  はんち(泮池) 
    本山放生池の別称。泮池は、池の形状からの呼称。
  池の形は、弓を射るときの目一杯に引き絞った弓の形で半円形の池に造られるようになったといわれる。 池に架かる石橋を渡ることは、俗界を離れ、修行に徹する特別の世界に足を踏み入れる覚悟を意味することにもつながり、宗教界もこの発想を取り入れ、寺院にも泮池を造るようになったという。 ただ、黄檗山のそれには橋は架けられていない。


  ハンツー(飯子) 
    ご飯のこと。
 

  はんにゃしんぎょう・くたん(般若心経口譚) 
    寛文6(1666)年11月、後水尾法皇は龍谿性潜を召され般若心経について問われた。 その要請に奉答解説した内容を侍者元澄が記録した書の題名。


 
  はんにゃだい(般若台) 
    古黄檗(→)の創建当時の寺院名。


  はんばん(飯幡) 
    「唵唖吽(アンヤホーン。→)」と記した五色の幡のこと。 箸に付け、施餓鬼の序盤で餓鬼壇に備えた白飯にさし、餓鬼衆にこの箸で施食を受けることを促す。 この飯幡が付けられた箸で施食を受けた餓鬼衆に、三宝に帰依し、成仏するとされている。


 
  ばんべつせんさ・いっそうのくう(萬別千差一掃空)      

    隠元禅師が、後水尾法皇から法について御下問があったときの奏答の語。
  寛文13(1673)年2月3日、法皇は特に霊源寺の至山和尚を隠元禅師のもとへ遣わされ、「朕、嘗て『人天眼目』、『臨済』の四料揀等を閲し、宗旨を建立す。 差別因縁、後末の知識語を下し頌を作る。 ・・・・(中略)・・・・・ 朕の見処に拠らば、了に一法も人に与うる無し。 臨済も亦た口を開く拠無けん。 然りと雖も既に料揀有り、 用いざれば即ち臨済の旨に違い、 用いば則ち葛藤を免れず。 未審 如何が判断せん。」と、禅の道を問われた。
  これに対し、隠元禅師が 「萬別千差一掃空」と答えられたところ、法皇は 「老和尚に只一句あることを知る。 今、果然として聞き得たり。」 と大喜びされ 「老僧、法皇に看破せらる。」と言われたという。
  その後、法皇は、 光子内親王の奏請に拠ってこの語を揮毫され(右写真)、 この宸翰は延宝4年(1676)年8月7日に齋雲に賜られた。 齋雲はこれを9月21日に松隠堂に納めた。 →〔辻善之助著「日本仏教史」第9巻。 中尾文雄著「後水尾法皇と黄檗宗」ほか〕 


 
   
 
  ひがしのえっしんにしのせつどう(東の悦心 西の雪堂)
  大正時代に東西に輩出した二人の黄檗研究家を称賛した言葉。
  悦心とは山本悦心のことで黄檗(→)とも号した。
  雪堂とは吉永雪堂居士(→)のこと。
 
   
  ひがしのおうばく(東の黄檗)
    東京港区白金にある、紫雲山瑞聖寺のこと。
  黄檗山の造営奉行を務めた摂津麻田藩主・青木重兼(端山居士)が木庵禅師の法嗣である鉄牛禅師と計画、開創した寺院で、江戸における黄檗派が最初に創建した寺院であるとともに、触頭(触れ先寺院。幕府の本末制度に基づき定められた本山の江戸出先寺院。)寺院でもある。 このことから、「東の黄檗」とも「第二黄檗山」とも称された。
  鉄牛禅師は実質的な開山であったが、師である木庵禅師を勧請開山に仰ぎ、木庵禅師は寛文11(1671)年5月7日に晋山、同年6月15日に開堂を行っている。


   
  ひぐつ(緋沓)
   

    正式な法衣を着用する時の唐様沓(靴)で、和尚分上の僧のみが履くことを許されている。
  ただし法要時は、導師や尊宿のみが、授戒時には阿闍梨のみに履くことが許され、一般役位の僧は草履を履くこととされている。
 宗門以外の禅宗、浄土宗で主に用いられ、宗門のそれは、他宗のものと比してほとんど装飾がない形である。


  びにたいかい(毘尼大戒)
  授戒会の別称。
  既に僧侶になっているにもかかわらず、未受戒の僧たちのために行われる授戒のこと。


 
  びにだん(毘尼壇)
  授戒時に引請阿闍梨等の役位が坐る壇をいう。


  ひょうたんけぎょ(瓢箪懸魚)
  懸魚とは神社仏閣の屋根に取り付けた妻飾りのことである。
  黄檗様式の建築の特徴として挙げられるものに、この懸魚部分の瓢箪型くり抜きがある。
  本山山内の建物に見られるこの瓢箪型のくり抜きは一定ではないものの、他の寺院ではあまり見かけることがなく、まさに黄檗独自のものであろう。
  瓢箪は、中国では禅者の持ち物として図柄によく書かれ、福の象徴とされていることから使われたと見られる。 当然、山内には懸魚以外にも何カ所かで瓢箪のを形取ったあしらいがあるのでそれだけを探すのも楽しいことである。 筆者が確認しているだけで、山内には他に寿塔と、開山堂の2個所に瓢箪飾りが有る。


  びるだん(毘盧壇)
  施餓鬼法要に於いて設置する位牌壇のこと。 場所をとることから、今日では餓鬼壇(→)と併設することが多い。
  祭壇の中央には「水陸一切男女孤魂(くふん)等」と記した大きな位牌を設え、四州、六道等の位牌を祀る。
  壇の周囲には「破地獄の偈(若人欲了知 三世一切仏 応観法界性 一切惟心造)」を記した五色の幡を吊し、左右に「金銀山」、「衣銭山」と記した紙牌を吊した竹で作った「山(→)」と称される籠を設置する。


 
  ひろいよみ(拾い読み)
  法式の都合で、読経を素速く読みあげるために、通常の文字の読み方を変え、特定の音を抜いて短く読む方法をいうが、経文を抜くことはしない。
  祝聖(→)の四聖諷経(→)等で用いられる。
  <例・善天女咒の場合>
  通常の読み  ナンムーフートー ナンムーターモー ナンムーセンケー ナンムーシーリー 云々
  拾い読み    ナムフートー ナムターモー ナムセンケー ナムシーリー …

 
   
  ヒンタン(行堂)
①〔役位〕 知客、典座と連絡を取り合って準備、役職を司る役職。
②〔道具〕 普茶料理等の食事時に使用する飯器、汁器。 日本式桶に取っ手が付いていて使いやすくなっている。 




 
  ぶいさん(武夷山)
  
隠元禅師将来といわれる水石の銘で、その主産地の地名そのままを銘としている。 現在、黄檗文華殿に所蔵される。


 
   
  ふくじんづけ(福神漬け) 
     カレーライスに付きものの漬け物として知られる「福神漬け」の考案者は、了翁道覚禅師であると伝えられている。
  了翁禅師は36歳で江戸に入り、上野・不忍池のほとりに薬舗を開き、「錦袋円きんたいえん。→)」という漢薬を販売したところ、効き目があるとの評判から相当の益金をあげた。
  その利益金で不忍経蔵(→)を建て、さらに宿願であった学問所「勧学講院」を建て、内外の経典や当時国内で求めることができたあらゆる書物を集め一般に公開し、だれもが自由に利用できるようにしたといわれる。 今日、これがわが国初の公開図書館の基になったと言われている。
  この「勧学講院」は一般庶民にまで門戸を開いたので、向学心に燃えた僧俗の学徒は六百余人も集まったという。 遠来の者には寮舎を設け、貧しい学徒には食を与えたといわれ、その時出された漬け物が彼の考案した「福神漬け」であったというわけである。
 今では、禅師の出身地である出羽国雄勝郡八幡村(現・秋田県湯沢市幡野)の地元の漬物屋さんはこれにちなんで、「了翁禅師の福神漬け」と名付けて販売している。 秋田湯沢の名産品となっている福神漬けである。


  ふくでんえ(福田衣)
  授戒を終えた証として、戒子に授与される衣のことをいう。
  但し、僧に対して渡される衣は五条袈裟(「絡子」のことであり)、俗戒子(→)に授与される衣は笈摺(負摺とも書く。 おいづる・おいずり)である。


 
  ふしょうこくし・こうろく(普照国師広録)
    黄檗宗の開祖・隠元隆琦禅師の全集をその弟子たちが編集したもので、全30巻からなる。 単に「広録」あるいは「国師広録」とも言われる。
  第1巻から第10巻までは「語録」、11~12巻は「小参」、13巻「入室 機縁」、14,15巻は「法語」、16巻「頌古」、17巻は「拈古 代古」、18巻は「源流頌 行実」、第19巻は「啓 書簡」、20巻は「書簡」、21~26巻は「詩偈」、29巻は「小仏事 銘引」、30巻は「記、序、文、跋」から構成されている。
  このうち第1巻から第3巻までは、禅師が46才で古黄檗に晋山されたときから亘信行弥禅師に後席を譲られるまでの全語録が掲載されている。
  のちに龍谿性潜禅師が日本で入手されたのは、中国で出版されたこのうちの第2巻目といわれており、、これがなかったなら今日の黄檗宗は開かれなかったと言い得る。
  この広録は、宗祖三百年を記念して昭和47(1972)年に「普照国師年譜」と合わせ帙入りで復刊されている。 →〔中尾文雄著『普照国師広録』三十巻解説〕


  ふくはい(伏拝)
  宣疏中、あるいは読経中等の法要時に、霊前または相手に対し、畏敬の念を表し、座具を述べて低頭拝を行うことをいう。 この中には答拝(たっぱい。→)も含まれる。


 
  ふざヒャン(扶座香)
  施餓鬼法要時に、扶座が不足する時、扶座の一人が香灯士(ヒャンテンス)を兼ねることを言う。


 
  ふしょうこくしこうろく(普照国師広録)
  黄檗宗開祖・隠元隆琦禅師の語録をその弟子たちが編録したもので、全三十巻からなる。 単に「広録」あるいは「国師広録」とも言われる。
  第一巻から第十巻までは「語録」、十一~十二巻は「小参」、十三巻「入室 機縁」、十四、十五巻は「法語」、十六巻「頌古」、十七巻は「拈古 代古」、十八巻は「源流頌 行実」、第十九巻は「啓 書簡」、二十巻は「書簡」、二十一~二十六巻は「詩偈」、二十九巻は「小仏事 銘引」、三十巻は「記 序 文 跋」から構成されている。
  このうち第一巻から第三巻までは、禅師が四十六才で古黄檗に晋山されたときから亘信行弥禅師に後席を譲られるまでの全語録が掲載されている。
  のちに龍谿性潜禅師が日本で入手されたのは、中国で出版されたこのうちの第二巻目であり、これがなかったなら今日の黄檗宗は開かれなかったと言い得る。
  この広録は、宗祖三百年遠諱を記念して昭和47(1972)年に「普照国師年譜」と合わせ帙入りで復刊されている。→〔中尾文雄著『普照国師広録』三十巻解説〕

 
  ふちゃりょうり(普茶料理)
  黄檗宗寺院で振舞いに出される精進料理のこと。
  中国では料理を葷菜(フンツァイ)と素菜(スーツァイ)の二種に大別する。
  葷菜は鳥獣の肉類や魚介類を用いたなまぐさ料理を言い、素菜は野菜や麩あるいは湯葉などを材料に植物油を用いて葷菜のように作った料理であるが、普茶料理はこの素菜に属するもので、宗祖の渡日と共に伝来した、いわば「黄檗風精進料理」といえる。
  四人一卓で麻腐(→)、雲片(野菜葛かけ)、豆腐羹(→)等に特色がある。
  なぜ「普茶」というかについては、諸説がある。 主な説としては、茶礼(→)に赴くこと、すなわち赴茶が普茶に転化したという説、あるいは寺院に来る人たち誰にも普く食事を振る舞ったことから出来た言葉とする説等があるが、後者に説得力がある。
  ところで、一般的には修行僧の食事に限らず、寺院での食事は極めて質素であるから、このことから考えると、普茶料理は特別な献立といえる。


 
  ぶっきょうさんざん(仏教三山)
  寺院は、通常、寺号で呼ぶことが一般的であるが、江戸時代には、格式ある寺院のみ山号で呼ぶことを許されていたとされる。 特に、黄檗山は徳川家菩提寺として、比叡山(最澄・八〇五年帰国、延暦四(七八五)年開山)、高野山(空海・八〇六年帰国、弘仁七(八一六)年開山)とならび「仏教三山」と称され、「萬福寺」という寺号より「黄檗山」という山号名で呼ばれることが多かったという。→〔名数〕


 
  ぶっしゅ(仏手)
  生飯(→)を生飯台(出生台)に献ずるため法具で、手首を模して木製で作られている。
  使用方法は、生飯を仏手左手に載せ、仏手右手を添える形で手首をもって生飯台まで運び、仏手右手で仏手左手から生飯を移したという。 素手で持つことは避けたいことからこれを用いたというが、今日ではほとんど使用されない。


  ぶつでんだいこ(仏殿太鼓)
  堂内に置くための太鼓。 この太鼓には「小鐘」がついているほかに、「バッス(→)」と称される繞鉢(→)様の小型のシンバルもついていて、一人の僧がこれら三つの全てを担当し、通称「ヒャンテン(香灯)」と呼ばれる。
  この法具を取り扱う役位の僧は、法要時の線香や灯を点灯したり交換する役目も担当していることから香灯士と呼ばれ、転じて仏殿太鼓そのものが香灯と言われるようになったという。 梵唄に不可欠の法具で、雲水が最初に練習させられるものである。
  鳴らし方は、ただ大きく鳴らせば良いというものではなく、強弱はもとより、緩急も必要とされ、簡単なようで結構練習を必要とし、節経の節が会得できないとほとんどうまくたたけない。
  大打ち、小打ちという基本的な打法があり、通常のゆっくりとしたテンポの打ち方の外に、早打ちや、五捨(→)、七捨(→)等の難しい打ち方があり、他の鳴り物との呼吸を合わすことを何よりも求められる。扱い慣れた僧が担当すると、読経の厳かさが一層際だつことこのうえない。



 
  ぶつでんばた(仏殿幡)
  七如来幡のこと。



 
  ふどしょうえ(普度勝会)
① 在日華僑が盂蘭盆会に実施する先祖供養のための施餓鬼法要。 福建省では、盂蘭盆会のことを「普度勝会」または「普渡勝会」とよぶのが一般的である。
  旧暦7月26日から28日までの3日間が中心であるが、前後1ヶ月間は福番(フーシュ)と呼ばれる当番が準備にあたる。 堂内には普度壇が設けられ、「瑜伽焔口経」があげられる。 万福寺で実施されるようになったのは昭和5(1930)年からで、今日では毎年10月中旬に実施される。

② 俳句の季語



 
  ふどちょう(普度帳)
  施餓鬼法要に際して、参詣者からの回向のための施行内容を記した帳面のこと。


 
  ふにあん(不二庵)
  万福寺・大雄宝殿(→)建立にあたり、造営奉行に任じられた青木重兼が山内に住するために建立した建物で、青木はこの中の留雲亭に住した。 後、法弟・廓山道昭禅師に庵を付し、名を聖林院と改めた。


 
  ふもんじ(普門寺)
  慈雲山普門福元禅寺。 摂津島上郡富田(現在地名・高槻市富田町4-11-10にある臨済宗妙心寺派の寺院。
  明暦元(1655)年、宗祖・隠元禅師が長崎から畿内に入り最初に落ち着いた寺院。 
  当時、龍谿性潜禅師が住職をしていたことから、ここが宿となったもの。 黄檗山萬福寺が創建される寛文元(1661)年まで、ここに開単し、隠元禅を宣揚された。


 
  ぶんかでん(文華殿)
  宗祖三百年遠忌の記念事業として万福寺山内に建設された宗門立の博物館。 黄檗関係の文献、木額、柱聯、墨跡等を保存、展観する目的で計画、建設された施設で、収蔵庫と展示室、研究室を備え、いわば黄檗研究のセンターと言うべき内容を持っている。
  総工費は9,500万円。 尾崎建築設計所設計、㈱松村組施工により、昭和46(1971)年8月1日起工、翌47年4月18日完工。 同年10月14日に開館した。


 
   
   
 
  へきがんしゅう・しゅでんしょう(碧巌集種電鈔)
    大智実統禅師(即非禅師法嗣・桂巌幢の弟子、臨済正宗第三十五世。~1694~)が著した碧巌録の解説書で、十巻本。 
  この『種電鈔』は、各時代を通じて提唱本、講義本が多数ある中でも、岐陽方秀(きようほうしゅう。東福寺第八十世。東福寺塔頭霊雲院開山(1390年、不二庵として開創されたもの。)の『碧巌録不二鈔』と双璧たるものとして他宗でも広く使用されている。 また大空玄虎(だいくうげんこ。 1428~1505、室町~戦国時代の僧。)の『碧巌大空鈔』、万安英種(ばんなんえいしゅ。 1591〜1654)の『碧巌録鈔』なども知られている。 →〔末木文美士「『碧巌録』の注釈書について」松ヶ岡文庫研究年報1993-7号。『訓読宗統録』ほか〕


   
  べついん(別院)
    開山・隠元隆琦禅師の常在された所、即ち松隠堂(しょういんどう。→)のこと。


   
 
  ほうかん(宝冠)
  施餓鬼法要時に、導師が金剛上師(如来)として頭にかぶる五智如来を配した冠のことで、正式には「五仏宝冠」と言われる。
  宝冠をかぶる際は、導師は先ず五方(中央、東、西、南、北)を結界して「六字真言(観音の根本真言)」を何遍も唱えつつ、宝冠のそれぞれの仏の上に洗米を置き、おもむろに被ることとされている。


 
  ぼうきょうのにわ(望郷の庭)    
    松隠堂と侍真寮の間に造られた庭。 
  創建当初からの庭で、山内の日本庭園としては唯一のもの。 隠元禅師が退院後、いつも眺めておられたことからこの名称が付いたと伝えられている。
  松隠堂、侍真寮の両面どちらからも見ることが出来るように作られていることから「両面の庭」とも呼ばれている。


 
       
  ほうけい(法系)
  本宗独自の世代系譜を示すため、臨済宗初祖である臨済義玄禅師(釈尊から数えて第三十八祖にあたる)から臨済正宗を承伝し、何世代目の児孫であるかを立証する方法として文字によって示す方法が伝えられてきた。 これを法系と称し、その文字は「法系字」と呼ばれ、全体は文章として示されている。
  この「法系字」は宗鑑録に記され、黄檗一派は代々 『 祖法志懐 徳行圓融 福智善果 正覚興隆 性道元浄 衍如眞通 弘仁廣智 明本紹宗 一心自達 超悟玄中 永徹上乗 大顕主翁 』の系字を原則として用いてきたことになっている。
  用い方としては、この文章中の一字一字が世代ごとに充てられていて、同一世代の者は同一文字を戴き、諱の一字目に充てることとされている。
 例えば、宗祖の場合、道号(通称・僧名)は隠元、諱は隆琦であるから、この「隆」の字が法系文字と称されるものであるが、前述の黄檗派の法系字の中から「隆」の文字を探してみると、四句目『正覚興隆』の四字目に該当する。
 つまり、黄檗派に於いては、『隆』の文字は第三十二世(釈尊から数えると第六十九世)に充てられていることになり、以下『性』の字は三十三世、『道』の字は三十四世と充てられていくこととなる。
  つまり、黄檗宗の法を承伝したものは、法系字を使用することを許され、これによって自分が臨済義玄禅師から第何代目であるのか、釈尊から何代目なのか、はたまた、宗祖・隠元禅師から何代目であるのかが一目瞭然に解るという次第である。→〔「黄檗宗鑑録」〕なお、例外的系字があるので、以下に例示する。一字目は第三十三世である。

▽ 開元派下(福済寺)
  祖道戒定 方廣圓通 行超明實 際玄達悟 眞空
▽ 雪峰派下
  眞如性海 寂照普通 益曄聯紹 永興祖統 定慧圓覚 正法  等充
▽ 廣壽派下  祖翁如明 實際玄達 悟益曄聯 (此以下同前)
▽ 東林派下の一部
  性道元廣 徳行圓通 祖禅克紹 正宗興隆


 
  ほうざん・へきしょ(法山璧書)
  妙心寺璧書(→)


  ほうしょうえ(放生会)
    宗祖は持戒を強調され、その方便として生き物を大切にする事を教示するために、魚を放す放生法要を実施された。 授戒会には付属行事として実施されることが多い。


   
  ぼうもん(傍門)
  大雄宝殿にはいくつかの入り口があり、それぞれに名称がつけられている。 この内、正面中央の両側、あるいは両側面の全部につけられた入り口を傍門と称する。


 
  ポーゼー(般若)
  「般若」の唐韻読み。転じて「大般若転読会法会」の隠語として用いる。


  ほていまつり
    平成19(2007)年10月から、毎月8の付く日に黄檗山境内で実施されるようになった「新しい黄檗文化発信」を目的としたまつり。 
  隠元禅師が黄檗山開創のために最初に入山され,鍬入れがされた日が5月8日であり、その開基である徳川家綱公が亡くなられた日が5月8日であること。 また、天王殿に祀られた弥勒菩薩(布袋さん)のご縁日が5月8日であるなどと、5月8日は萬福寺にとって縁浅からぬ日である。 
  また、古来、8の数字は末広がりを現すとして好まれているることから、毎月の八の日に祭りを実施し、手作り市やコンサート事業、煎茶会、水石展等を実施している。
 なお、8月と2月は休日となっている。 


  ほんいん(本院)
  宗門行政を司る事務所のことで、宗務本院と称されるようになったのは、明治期になってからのことである。
  それ以前は、役寮、本寮などと証されていた。 事務所は、当初から転々と異動しており、江戸時代は竹林亭に、明治期から大戦期までは双鶴亭に、戦後は現知客寮にと移転し、その後現在地に移転している。


 
  ほんざん(本山)
  黄檗宗の本山、即ち黄檗山万福寺のこと。 正式名称は、黄檗宗大本山萬福寺。 


  ほんざん・いしんごてんまつ・および・たいいん・いしょ(本山維新後顛末及退隠遺書)
  万福寺第三十八代住持・道永禅師が本山退山にあたり書き残した書。
  内容は、維新後、本山寺地の上地を命ぜられ、外護者が無くなり窮乏のどん底に陥った本山の状況、明治8(1875)年、鎮台火薬庫設置のために宝蔵院をはじめ多くの宿院が移転することとなり、その移転費の取り扱いを巡っての顛末、本山の財政基盤がまとまり宗勢挽回を進めはじめた数年、の三期に分けて記録されている。 写しが巻物として塔頭の宝蔵院に保存されている。 →〔森本三鎧著・黄檗山六十年の回顧「金輪」62号〕


  ぼんだんせき(梵壇石)
  月台(→)の中央に置かれた長方形の石。 戒を犯した僧を置いて無言の懲罰を与えるために用いる。 罰跪(ばっき)香頂石(こうちょうせき)ともいう。
 


       
  ぼんぱい(梵唄)
  黄檗宗に伝承されている鳴り物の法具を効果的に用いた独自の声明。誦経の全ては唐韻(→)読みで、かつ鳴り物法具のテンポに合わせて読誦する中国情緒豊かな読経形態である。
  通常四拍子を基調とするが、早い場合はかなりリズミカルで、これがお経かと思うほどに音楽性が豊かである。このため、節経と呼ぶこともある。鳴り物として用いる法具は、木魚(→)、インキン(→)、鈴(れい。→)、太鼓(太鼓には大太鼓、仏殿太鼓、小鼓がある。)、繞鉢(にょうばち。→)、拍子木、銅鑼等である。近年になり伝統的無形文化として注目され、文化庁主導のもとに「黄檗声明(→)」の名で、舞台公演がなされたりもしている。


 
       
  ほんぱん(本飯)
  規矩に則った、食事作法のこと。 禅堂修行をより効率的効果的に進めるために、雲水の中で食事準備の担当役寮を定め、その他の雲水は、食事のみに専念出来らようにするために出来た仕組みで、これによって食事にかける時間を大幅に短縮出来ることが可能となった。 なお、準備にあたる担当役寮は、別途、二番座と称して後刻に食事する。


 
       
       
       
       
       
       
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