鳥羽上城

長浜市鳥羽上町


■創築年 不明
■創築者  -
■形式 山城
■遺構 土塁・堀切・竪堀
■別称 -
■標高  -

かねてより江北に出兵、そうして江北南部の国人土豪に対し出兵命令などの軍事行動をなしてきた江南軍の総師定頼(守護六角氏綱の弟)は、天文7年(1538)の春には大軍を率いて、佐和山鎌刃太尾山城等々の江北の主城を次々と陥落させ、本陣を長沢(江近町)まで進め、江北の南部一帯を席巻した。これに対して京極高延(高峯・高広)並びに、浅井亮政の江北軍は大いに防戦に努めた。『改訂坂田郡志』はその防戦の事例の一つとして、鳥羽上の城は京極高延方の荒尾三郎左衛門尉(山東町本郷に称名の荒尾神社がある)が城主であり、攻め手は江南軍の一翼をになうそれも江北の京極高慶(高延の弟で後の高吉)の兵で、激戦の末に高延方の兵は鳥羽上を放棄せざるをえなかったようである。

今回の登り口は、鳥羽上トンネルを長浜市側から山東町に抜けた先100m左側の林道からである。尾根部分は典型的な連郭式の配置となっており、北進すると延々と削平地が続くき犬走り?を設けてある箇所が多い、いくつかの郭ごとに堀切を設けてあるが、延々細長く起伏変化には乏しい。最高部に教育委員会の石碑が確認できたが、他の遺構はかなり風雨に削られていて確認しずらい。

横 山 連 峰