日々、在りしことども



如月二十八日
繰り言。

最近読んだある本の後書きで、
『文章を書くというのは、魂だかなんだか知らんが、作者の内側にある見えないなんかをヤスリでごりごり削る作業だ』
と筆者が述べておられた。

――自分はもう何年も、そんなことをした覚えが無い。
一つの文をどう表現するかで二日ほど悩んだことはあるが、自分の中にあるどろりとしたもの全てを インクに、書き上がったら首を括ってもいいというものを、書いた覚えが全く無い。
書きたいものを書きたいままに。ただそれだけでは拙いどころか痛いと表現されるものになってしまう。不様なオナニーは、自分独り気持ち良くよがっていても、傍目には不気味で不快な代物に過ぎない。それを商売として、或いは芸術として金を取ってでも鑑賞に値するレベルまで高めることが、精神的露出狂としてわきまえておくべき部分だと考えていた。
主張テーマ思想性。そんなものを柱に据える気は無く、代わりに自分は大好きな物語に尽くそうとしてきた。設定、展開、どんでん返し。或いは言葉の連なりで世界を綴り描こうと。
間違っていたとは思わない。ただそんな風に、如何に演出するか、自分が格好良いと思うものを相手にも格好良いと受け取らせるか、意表を突くか、場面を魅力的に描くか。そんなことばかり先に置いて、
――何で書いているのか忘れた。最早苦痛すらない。妄想だけ先走って、気が乗らない。


これはアル中のただの言い訳だ。途中で放り出したり、資料収集だけで長編を書こうともせず、稀に短編をあげるのみ。作品をつくらぬ者が語る創作の苦悩など、自意識過剰が浸る自己陶酔の不様でしかない。
だが――何なんだったろう、自分にとって書くと言うことは。

昔、ある作品を書き上げたら死んでもいいと思った。全ページアルコール漬けで、物語の展開もくそもない自虐的大学生の、歪んだ世界観が支配する小説。途中でぶっつり切れたまま、情熱も何もかもが失せ、放置されているが、如何に瑕疵があろうとも自分はあれ以上の文章も物語も、届くようなものは今まで一切書けてないし、書けるような気がしない。

数ヶ月たっても短編一本書き上げられない負け犬の繰り言だ。だが、何でだろ。真っ当な小説を書くために多くのものをあつらえたはずなのに。
人と話すため言葉を覚え、いざ話すことが出来るようになったら、話すようなことが全く自分の中から消え失せていたような。

目的や手段や手法はある。あとは怠け者の尻を叩いて文章を連ねるだけ。
書いてない物語がある、書ける物語がある、書きたい物語がある、でも――

本当に書きたいものも書けるものも何一つない。



誰にも運命や天啓などない。それぞれの経験や境遇で、書けるもの書きたいもの書かない訳にはいかぬものを書いているだけだというのも判る。だが、今の自分はどれだけあがいても、キーボード叩きにはなれても物書きにはなれない。

折れる筆が欲しい。少なくともそれは、新しい筆をとるか、決別するか、その区切りにはなろうから。

如月二十六日
駄目人間満喫的一日。

日暮れ前、大振りの雪片が舞う。
そろそろ今冬も最後だろうと季節を惜しみ、昨日の『吟花』を手にカーテンを押し開け雪見酒。
正方形の小皿の上に鮎画の杯を乗せ、濁り酒を満たし、口先を湿らす。
大分、老いた。だが老いたなら老いたなりの酒の楽しみ方があるのだなと実感した雪曇りの夕、一時。
如月二十五日
昨日と同じ書店へ。あんな本二冊と新刊を一冊購入。
帰路、立ち寄ったビバシティで四号瓶二本。買うつもりなど欠片も無かったが、 季節ものの詰めたて新酒を見て、引けば後悔しかないと『旭日』『吟花』の細い首を握り締める。

なお、そろそろ一気に来るという花粉だが、現在自覚無し。単に自分の花粉は杉でないということだろうか。
如月二十四日
新刊の発売日を一日間違え、遠方の書店まで足を伸ばす。
改装完了後は初めてとなるが、予想外に広く、かつ趣味的。ついへらへらと浮かれ笑み崩れる。
どこにもなかった新刊を検討してみたり、何故か平積みのクトゥルー単行本各巻を 手にとってみたり、鍵だの禁書だの幸せな一時。
ちなみに、同人誌を一般書店で販売するのは最早普通のことなのだろうか?

帰宅後、大して何もせず啜り寝る。
如月二十三日
昨日、ストーブが壊れた。どうやら灯油を風呂用のタンクから補給したところ、底に溜まっていた変質灯油を汲み上げてしまい、詰まった模様。思い立ち、更に以前壊れたまま放置していたものを確かめたところ、こちらも似たような按配と判明。
早速灯油を抜き、掃除をしたが動くようになったのは後者のみ。一晩放置し、本日朝より再チャレンジ。

――この家で一番機械に強い私は考える。機械が故障した。試せることは試した。しかし直らない。 なら、どうすればいいか?

決まっている。叩けばいい。

まずは定番通り本体角へと斜め手刀を打ち込む。次いで、灯油の通り道と思しき部分に順繰りに個別アタック。揺れるように、震えるように、内部へと重い攻撃を打ち込む打ち込む叩き込む。

結果、正しき行いは今日も報われ、こちらのストーブも無事動くように修復。
自分は機械に弱いと思っている人々も、まずは拳を振り上げてみればいいのにと思いつつ、本日以上。
如月二十二日
早朝、かなりひさびさに歩く。コースは昔よく走っていた『人の居る時間帯に使ったら保育園送迎バスの運転手に警戒された』方。初日ということもあり、半分で切り上げ、帰宅。
明日か明後日に筋肉痛かと思えば、午前中に腕が張って、午後から腰が痛んでいる。
……足でもない、横腹でもない。自分の歩き方に一体どんな問題が?
如月二十一日

如月二十日
昼、白菜書店白雪古本モルト古本書店図書館。
気が早いことに、もう黒枝に白く粧い散らす梅を幾本か見かける。

本年は何故かしら静電気の洗礼を良く受ける。といっても主に車の乗り降りだけだが、 キーで扉に触れようとして走る青白い火花を見ることもある。
だが――右手で解除しておいたにも関わらず、左手にもう一撃ってのは納得いかない。
如月十九日
現実に目を向けよう。そう飲んだり食べたりした覚えは――無くも無いが――何時の間にやらついに。

0,1t、到達。

……運動不足以上に脳を使わなくなって久しいからなぁ。
如月十八日
書店。相変わらず出ているはずの漫画以外の新刊が色々と見当たらない。ああ此処は僻地なのだなと 再確認。
図書館にて諸々返却。食指動かず借りるものは無し。

ようやく半纏を洗ってみただとか、久々に甘いドーナッツと紅茶の組み合わせを楽しんだとか、 無性に寿司を食いたくなったので握っただとか、相変わらず散漫な日。
如月十七日

如月十六日
どれだけ正しても身に付いた生活リズムが治らない。定時に瞼が落ち、定時に覚醒する。
ぎぶみー陽光。毛布やシーツや布団にカバーが気持ち良く洗って干せる素晴らしい一日。
如月十四日
朝方、薄っすらと雪。
如月十三日
未だ規則正しい生活リズムが身に染み付いているらしい。元の木阿弥。
如月十一日
洗濯して昼寝して他特に何も無き一日。
一月ばかり前から白梅が活けられているためか、もうすっかり春な気分であったが、まだまだ寒し。
如月十日
阿呆な感じで二日酔い。体調を崩し、かえって歪んでいた生活リズムが変わる。
夜、外出。余程体を動かしていなかったようで、服がきつい。
如月八日
近所のコンビニで小瓶詰めの麦酒が賞味期限内だというのに何故か半額で売られていた。
迷わず四本ほど購入。――いや、麒麟もまだまだ捨てたもんじゃない。

久々に煙草を吸う。火が点いている時、あれほど面白いものもそうは無いが、吸い終わってから何時までも口内に残る残滓、服にまでこびり付く香りが不快でしょうがない。
そもそも味を語るなら、箱を開けた時のあの甘い芳香が全てだという気がする。
どうにもヤニは自分に合わぬ模様。
如月七日
早くも静岡某地では桜が咲いているとか。
ここしばらく実に規則正しい生活。しかし、崩れず定時に寝起きすれば良い訳ではないと、 身に染みて思う。

雪見酒を欲す。まだ冬恋し。
如月四日
本年の花粉だが、遅まきながら自分も症状を感じ始めたかどうかという所。
読書、進まず。二日目の筋肉痛。髪、囚人刈り。

そういえば昨日から水圧低下による節水依頼とやらが触れて回られている。
夏ではなく冬に、というのが意外だが、水道管破裂ではなく、どうやら雪を溶かすために 水を流したりしている家々が多い模様。そういえば昔は水道が凍らぬよう、水を細く出しなどした。 某地ではそれでも平気で凍ってシャワーヘッドが壊れなどした。
以上、本日もオチ無し。
如月三日
節分。豆は食わず、太巻きをつくる。
普段は手を出さないが、やはり細巻きより海苔の余裕がある分、こちらの方が楽。
ただ、五本も出来れば十分なところ、二桁に届くのは何故か。

味のしみたおでんといい、嗚呼御飯が美味しい。
この歳になっておでんと辛子の組み合わせを覚える。本日以上。
如月二日
大雪。本季の寒さも佳境を迎えるが、つらつら思い返すに我々の幼少時はもっと連日寒かった。
夏の紫外線といい、温暖化といい、地球の環境は体感できるレベルで変化している。
如月一日
今まで和歌山だと思っていた地図の部分が、実は奈良県だったと事実判明。
あの辺りは昔、旅した覚えがあり、また和歌山があんな山奥では、海関係の和歌山情報は 一体どのように今まで自分の脳内で処理されていたのか、その全くの矛盾の無さに、 人間の凄さを垣間見た気がする。
矛盾どころか噛み合い一つで動かなくなる今時のコンピータでは、まだまだ届かぬ。
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