伊丹十三


その飛び降り自殺はあまりにも衝撃的で、彼のファンとして到底納得出来ない
唐突な結末となってしまいました。ナゾを残したまま旅だってしまったために、
その死の原因については実に様々な揣摩憶測が乱れ飛びましたが、今となって
ただひとつ言えることは、あまりにも早く、あまりにも惜しい才能を失ってしまった
という事実のみです。彼は本当の意味での才能、タレントであったと思います。

伊丹十三と言えば、多くは映画監督としての伊丹十三を第一に挙げる人が多い
ことだと思います。事実、「お葬式」をはじめ、続く「タンポポ」「マルサの女1、2」、
「ミンボーの女」、「大病人」 、「スーパーの女」、「マルタイの女」と、いずれも今
までの日本映画には見られなかったテーマ性と娯楽性を巧みに整合させ、毎回
観るものを楽しませてくれました。

しかし、ここで採り上げるのはむしろ、作家、エッセイストとしての伊丹十三です。
彼は、「お葬式」で映画監督として成功する以前は俳優として活躍しましたが、
エッセイストとしての彼の作品にはどれも他には見られない一種のダンディズム
と厳格主義に貫かれ、大いに読むものを納得させ、楽しませてくれました。なか
には大変に辛辣で一見、高見からものを言ってるような鷹揚な言い方ともとれる
表現も見受けられなくもないですが、それらも深く読めば根底に愛おしさや優しさ
があって、それに裏付けられているということに、すぐに気が付くはずです。同じ
鷹揚な物言いでも、根っから嫌みな人間が書いた表現であれば、きっと受け付け
なかったでしょう。その観察眼と洞察力にあふれた厳格主義は、多分、師である
山口瞳ゆずりであることがうかがい知れます。

彼はその昔若い頃、「ロード・ジム」や「北京の55日」などの外国映画に出演した
ことがあって、その頃にオーディションやロケでヨーロッパで過ごしたときのことを
したためた一文をサントリーの「洋酒天国」に掲載し、それがきっかけとなって雑誌
「婦人画報」での連載がはじまりました。こうしてまとめられたのが「ヨーロッパ退屈
日記」です。

いまでは卒業旅行も海外旅行がごくあたりまえというご時世で、かのヨーロッパ
くんだりでは、なんぞと言っても、だれも驚かないありさまですが、最初にこの
エッセーが発表されたのが、1960 年代中頃であったというから驚きです。なん
のことはない、30何年も昔に伊丹十三がすでに書いていることを、追体験して
るだけか、と思った事もあります。たとえば、ある夜、フィレンツェのとある中流
レストランでディナーをとっていた時のこと。となりのテーブルに案内されたカップル
は、どう見てもあか抜けないアメリカ人の中年カップル。しばしメニューと格闘した
あげく、観念したようにに「英語のメニューはないでしょうか」。 アメリカ人といえ
ども、イナカモンはイナカモンなんです。ウェイターの勝ち誇ったような優越感に
溢れた笑顔といったらありませんでしたねえ。ご当地のレストランでは、まずは
その母国語で書かれたメニューをひととおり理解できるかどうか、ってとこから
店側と客とのコミニケーションがはじまりますから、ここでギブアップすると、まず
はメニューの読めない観光客さん、ってところからのスタートになってしまいます。
これは、差別なんて御たいそうなもんじゃなくて、こちらの文化度を計られてると
いう、個人レベルなもんだとは思います。

こういう時に限って、妙に喉を押しつぶしたカエルの声のようなアメリカ英語が
イナカ臭くきこえたりして、英会話と言うとアメリカのスラングばかり得意になって
教えているナントカ英会話学校とかいうものが、実に胡散臭く思えて来たりします。
実にこれと似たようなことが、このエッセーのなかの「パリのアメリカ人」に描写され
ていて、ニヤッと笑ったりするわけです。

「日本世間噺大系」も味わいのあるエッセー集で、「新幹線にて」などを読むと、
思わず旬の食材が美しく盛りつけられた折り詰めを買って新幹線に飛び乗りたく
なるし、そういう折り詰めというものは、美しさに見とれているとなかなか箸がつけ
られない、って心理もよくとらえてると思います。「芸術家」などは、この国で自称
「タレント」だとか「アーチスト」だとか臆面もなく宣っている電波芸人たちに、キム
チやナッチボックンでも食いながら読んで見ろ!と言いたくなるような痛快な一作
だし、「プ」なんぞは、無内容な長演説を垂れるすべてのセンセイ方に読んで頂き
たいものである。

仕事にせよ何にせよ「いい加減」さをことのほか嫌う厳格主義とオーセンティックへ
のあくなき希求は、自然なダンディズムとして体現されている。 ダンディズムの
かけらも知らずに子供の精神のまま社会に放り出されてしまった若者が傍若
無人に振る舞い、あるいは営利優先で自尊心を無くさざるを得ない現在の閉塞
状況のなかで彼の著作をあらためて一読するのも、かえって新鮮かも知れない。

ほかに、「女たちよ!」「再び女たちよ!」「自分たちよ!」などの著書がある。


(ヨーロッパコンサートホール巡礼記) (ケイコ・リー) (リファレンス・オーディオ) (シュランメルン)