止揚学園の歩み


 琵琶湖の東、人口約二万人余りの小さな町、滋賀県東近江市佐野町に、止揚学園はあります。よく晴れた日に裏の山に登ると、水をたたえた琵琶湖がキラキラと輝いて横たわり、広大な近江平野に古い家並みを残す近江八幡や五個荘といった近江商人発祥の地、そして安土の町が望めます。 

みんなが生活する建物、本館と新館(おがたホール)です

 「止揚」とは

 ドイツの哲学者ヘーゲルの哲学用語で、「アウフヘーベン(Aufheben)」が語源でふたつの全く異なる者同士がぶつかり合い、より高い次元へ到達し、新しいものが生まれるという意味です。知能に重い障がいのある仲間たちと、障がいのないとされる私たちとがお互いにぶつかり合い、認め合い、支え合って「共に生きる場」「帰ってくる家」をつくっていきたいと願い、止揚学園と名付けられました。
 

 

 止揚学園設立の頃、障がい児といっても多くの人は関心を示さず、国の取り組みも貧困でした。 そんな時に、福井 達雨(止揚学園創立者)は4人の知能に重い障がいのある子どもたちと出会いました。
 その中の1人は牛を飼わなくなった小屋の土間に掘った穴の中に入れられていました。
 「何て、ひどいことをしているんや」たまらなくなって言う福井に母親は、涙を流しながら訴えました。
 「怒りを感じられるのは当然と思います。でも、この子を外に出すと、皆がからかったり、石を投げたりします。車の前に走っていっても、誰も止めてくれません。この穴の中に入れている時だけがこの子の生命を守れるのです」 それを聞き、(この子を穴の中に入れざるをえないように母親を追いつめたのは、心の冷たい日本人なんや。その日本人の中に私もいた。私もこの子どもを穴の中に入れた1人なんや)と、福井はドキンとしました。そして母親に必死になって謝りました。
                             
 こうして、1962年差別をしてきた私たちが差別をされた人たちに謝ろうと止揚学園が生まれました。
 
 止揚学園はこの子どもたちを1人の人間として存在を認めるだけでなく、社会の中で、全ての人間の輪の中で、共に生きる世界が生まれることが大切だと考え、人里離れた山の中ではなく、皆がいつも行き来出来るような場所に、そして、どなたかが訪ねて下さったり、私たちもどんどん、いろいろな場所に、出掛けて行けるような所に建てられました。

58年前のかわいかったころ?のみんな。

 みんなの家として

 さて、止揚学園の歩みも今年で58年目になりました。
 6才、7才の小さかった子どもたちも50歳、60歳、70歳になる人たちが多くなりました。39人の障がいのある人たちと、ほぼ同数の障がいのないとされる者、その子どもたちや、両親あわせて100人近くが、ひとつの大きな家族として、互いに愛し合い共に生きています。
 人間は生きていく限りコミュニティに属します。家族という概念が変わりつつある現代社会の中で、血のつながりだけが家族ではでなく、いろんな人が集って心を寄せ合い、信頼の絆で結ばれて生きていく「みんなの家」としての止揚学園でありたいと願っています。
 

琵琶湖畔での楽しいひとときです。 スーパーで買い物。     
 

「目に見えるものよりも目に見えないものを」

聖書の「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである」(コリント人への第二の手紙第4章18節)という箇所で、止揚学園の玄関にある言葉です。
 目に見える生産性や、結果ばかりが求められる現代社会では、障がいがある方たち、お年寄り、子供たち、社会の中で弱い立場にたたされる方たちの生きる場はありません。目に見えない、温かい生命をお互いに温め合おうとする社会の到来を信じつつ、知能に重い障がいのある仲間たちの笑顔が輝く日々を積み重ねています。 


「わたしたちの見つめる先に」現園長 福井 生(いくる)のことば

人間と人間の間にAIが入り、知能に重い障がいがある仲間たちは勿論、それについていけない弱い立場に立たされている人たちの生きる場がどんどんなくなっていきます。そのような時代だからこそ、言葉で話すことの難しい仲間たちの笑顔の内にある「どんな生命も等しく、尊いです」「温かいいのちとあたたかい生命をお互いに温め合い共に歩んでいきましょう」という祈りを響かせ合う社会を求めて歩んでいきたいです。

         布の貼り絵を製作中・・・。