酒井神社 滋賀県大津市下阪本鎮座

     
【由緒】
社伝によれば、その創建は、弘仁元年(810)、下阪本の梵音堂(下阪本四丁目)にある磊 (大きな石)から酒が涌きだし、その酒の精は大山咋神であるとの神告をうけたため、人々は社を建てて磊を神体として祀るようになったといわれます。この場所は、旧社地として今も残っております。元亀二年(1571)、織田信長の比叡山焼き打ちによって罹災しましたが、天正十六年(1588)に再建され、 現在の本殿は、棟札によって、元和六年(1620)に広島藩主浅野長晟によって建立されたこ とが知られます。現在の社地に移されたのもこの時であります。 本殿は、一間社流造で屋根は檜皮葺、滋賀県指定文化財。 また、酒井神社では、正月六日から八日まで五穀豊穣を願う「おこぼさん」がおこなわれてお り、大津市指定の無形民俗文化財となっています。
【交通】 JR大津駅から江若バス堅田行き下阪本下車 徒歩5分 JR叡山坂本駅よ り 徒歩15分 京阪松馬場駅より徒歩10分

下阪本・比叡辻の氏神さま 
まいどこ神事


おこぼ神事 大津市指定無形民俗文化財
がってんさん夷・大黒・布袋さん
    おこぼ神事の伝承
酒井神社における年頭行事「おこぼ」は「御講坊」とも「御講房」とも書くが、その語意はわかりません。伝承によると、むかしから一月七日の夜になると、瀬田の 唐橋にすむ竜神が両社川を上って人身御供を取りにきたと言われ、七才の男 の子のいる家の屋根に白羽の矢が立ったともいわれています。
また、この日は竜が両社川 を上ってくるというので舟も 少し北側にある幸神(サイノカミ)神社の御旅所の浜に仮泊をして川口をあけていた。この夜はオョージ(便所)に行くとカイナデが出てきて尻 を撫でるといって気味悪がり、行かなかったほどであったそうです。
ある年、ジロスケさんという人がこの竜を便所の窓から見たために目が潰れたといい、その姿は「蛇の目(傘)をさした立派な男の人だった」。その後、人身御供のかわりに餅(オダイモク)を供えるようになったと伝えられています。
    おこぼ神事の組織
神事は毎年一月六〜八日にかけて、酒井神社と両社神社の氏子によって奉仕されますが、洒井神社では五カ町の氏子の うち、南酒井・北酒井両町によって奉仕され、両社神社においては氏子七カ町の代表である氏子総代・宮世話によ って奉仕されています。行事の内容は、本来、まったく同様でありましたが、第二次大戦後に神社運営のあり方などによって差 が生じ、古式を伝えている酒井神社のおこぼの神事が、昭和40年5月6日付で大津市指定の無形民俗資料「おこぼまつ り」として選ばれました。
    トウヤの制度
神事の準備をするものをトウバンとよび、その家をトウヤとよぶ。そして準備する家をヤドという。南酒井町では毎年三軒が左廻りの家並順につとめ、そのなかで都合のよい家がヤドを受け持つ。北酒井町でも左まわりの家並み順に、毎年二軒が当番をつとめ、うち一軒が餅つきのヤドを引き受け、他の一軒が神事後に行なわれる「夕汁」のヤドを引き受ける。両社神社では七カ町から家まわりでつとめる宮世話と、年長順につとめる氏子総代によって「おこぼ」の神事が社務所で執り行なわれるが、主につとめるのは宮世話 である。


一月五日の行事
米寄せ
その年の当番は六日の夜に餅つきがトウヤで行なわれるので、それまでに餅米を集めます。昭和14年4月に米が配給制度になる前は、各家から 一升ずつ集めましたが、その後は五合ずつとなりました。しかし昭和48年から社会情勢の変化にともなって非農家が増えたのと、米が自由販売になったので一括購入をするようになりました。(南酒井町)。

用具の準備
臼・杵・餅を飾るときの芯になる籠・メンダイ・人形など行事に必要なものは、ヤドになるトウヤに五日までに揃えておきます。


一月六日の行事
参加者
午後7時ごろに町内の各家から一人ずつの男子が着物姿でヤドのトウヤに集まる。もっとも昭和48年度から、前年度と本年度の当番の計六人で行なうように なりました(南酒井町)。

準 備
トウヤではみんなが集まると餅つきができるように、餅米を蒸し、ニワの中央に木製の臼と杵を出して準備しておくがこの釜や臼のまわりにはシメを張ります。なお、この杵は立て杵でレンゲといい、長さ68pから82pある棒杵である。 一方、座敷の方では床に「両社大明神」の神軸を掛け、その前に灯明をあげる。北酒井町では「酒井大明神」の神軸を掛けます。

餅つき 

 町内の人はトウヤに入ると、まず座敷に通されます。そのとき神軸に対して柏手を打って拝んだ後、一同に挨拶をして定められた座に着く。当番のものは茶を出 して接待します。やがて一同が揃うと、ニワに下りて各自がレンゲを持って臼のまわりに立ち、蒸しあがるのを待つ。ほどなく蒸しあがった餅米が威勢よく臼の中に入れられる。それを一人の音頭取りの歌う「餅つき歌」にあわせて、一臼(三升)を約10分で賑やかにつきあげる。 このとき、ある程度までつき上ると一斉にその餅を頭上高く差しあげて返すが、そのとき餅が天井に着くほど高くあげると縁起がよいといって喜びます。 こうしてつきあげた餅をメンダイの上に取粉(片栗粉)を撒いて待っているところへ渡す。受取ると餅を細い縄で帯餅になるように所要の大きさに手早く切り、さらにそれを座敷で待つものに渡す。そこで帯餅といわれる長さ約95p、幅約18pのものと、笠餅といわれる直径約50pの円形のものとに成形される。この帯餅・笠餅は南酒井町・北酒井町では各三枚ずつ。両社神社では六枚ずつつくられるのである。この他に小さなお鏡餅と菱形に切ったお供えの餅などがつくられる。一方、餅をついたレンゲには餅片が付いているので、それを臼取りは細い縄を巻いて丁寧に落す。こうして三臼(八升五合)をつく。第二次大戦前 までは、この餅以外に各家に渡す祝い餅や小餅といって十五才までの男女の子供に渡す人数分の餅をついたが、今はつかなくなりました。また、昭和47年度までは、こ の餅つきのあとに「試味(こころみ)餅」という行事があったので、その分もあわせて四臼つきましたが、いまは行事が簡略化されてきました。餅がつき終ると、最後に「ツシのねずみに餅をやる」といって三人が臼に向い合い、杓子を持ったものがそれで臼のふちを叩いて「千石」というと、ついでレ ンゲをもったものが「万石」といい、最後に中央の臼取りが「やれ、めでたい」といって手に持った餅片を臼の中に投げ入れます。 そのあと、すぐに臼は表に出されて大根葉の干したので洗われます。

餅つき歌

(南酒井町)

めでためでたの
 若松さまは
  枝も栄える
   葉も繁る
    おもしろや

お歌いなされや
 お歌いなされ
  歌うて御器量が
   下がりゃせぬ
    おもしろや

ここのお裏にゃ
 お妙賀と富貴が
  お妙賀めでたや
   富貴繁盛
    おもしろや

ぼゞしょういうて鳴く
 えとりはおし
  鳥のなかでも 
   すけべとりよ
    おもしろや

富士の白雪よ
 朝日でとける
  娘島田は
   情けでとれる
    おもしろや
1−5の歌の後に
ああ
いよの−ひょうたんよー
よいこら よいとこら
よいこら よいとこら
わっしょい わっしょい
と、合いの手が入ります
(北酒井町)
高い山から 谷底見れば うりや茄子の 花盛り おもしろや


などの歌詞で、おもしろおかしく歌ってつきあげる。 北酒井町では、六升四合の餅を三臼でついたが、昭和44年度からレンゲを止めて横杵を使うようになりました。また、両社神社では、餅つきは社務所で行なわれ ますが、昭和48年から電気餅つき機を使ってついています。

試味(こころみ)
 南酒井町では昭和47年度まで試味といって、餅つきがすむと一同が座敷で定められた座について、当日つかれた餅一切れと漬物を頂き、餅の水気 が多かったとか、都合よくいったとか批評したもので、とくにその席に出されたトウヤ自慢の漬物を賞味したものであったが、今ではお茶を頂いて解散するだけとなりました。なお、このときの餅の加減で農作を占ったともいいます。
(昭和48年より全体に簡素化され、餅は機械でつくるようになり、餅つきの掛けあいや餅つき歌、試味は行われておりません。)


 一月七日の行事
人形の飾り付け
南酒井
北酒井

おこぼさんのオダイモク

南酒井町では午前9時ごろに当番のものがヤドになっているトウヤに集まり、三人で飾り付けを行ないます。 まず、高さ33p、直径38pの荒い目の籠を、それよりもやゝ大き目の高さ約6p、角を八角に切り落して足を付けた木の台の上に伏せておき、その正面にな る方に菰を約半周巻き付ける。そこへ白紙をあてて昨夜ついた帯餅を一枚巻きつけ、上からわら縄を白紙で包んだひもで二重に、上下二か所を巻いて止める。そ して上から笠餅をかぶせます。
こうして三つの籠に餅を巻きつけて載せると、座敷の一方にメンダイ(幅約90p、長さ約2m)を置き、その上に三つ並べてのせる。そして神軸に近い方から 高さ1m余りの松・竹・梅の小枝を、笠餅の中央よりやゝ後よりに突きさして立てる。このとき中央の竹だけは、その根元にサギッチョとよばれる三本の竹を円 錐形にしてつくった高さ40pほどのものに金・銀・赤・白などの紙を貼って彩色したのを立て、その上から竹をさしこんで立てるが、この竹には金・銀のシデ がつけられている。ちようど近江八幡市で行なわれている左義長を小形化したものと同じであります。
そしてこの前に高さ30pばかりの武者人形をのせる。右手の方には中央と同様に松を立て、その前に高さ約30p程の尉と媼とが一対となった人形をのせる。 左手の方には梅の木を立て、その前に宝暦10年(1760)作といわれる高さ約30p程のガッテンさんとよばれる一種のからくり人形と小人形を三体のせます。
こうして三つの人形を飾り付けると、さらにその前に武者人形を三体ばかり飾り、お鏡餅と菱餅とを供えておく。なお、この飾り付けたものをオダイモクとよん でいる。また、松は竜を、竹は虎を、梅は亀をかたどったものだという人もいる。
北酒井町では、午前八時から当番の二人が山へ竹・梅などを取りに行き、戻ってから人形を組み立てる。ここの人形は南酒井町と異って、延享四年(1747) に京都で製作されたといわれている高さ58pの夷と、同じく48pの布袋、それに同じく46.5pの大黒の三体があって、土俵をかたどった館の中で布袋さんと 大黒さんが向い合って立ち、その行司を夷さんがしているところで、角力人形となっている。 まず、人形の館を組み立て、組み立てると所定の位置に人形三体をはめ込んで立て、その前に米俵をおく。これは高さ9.5p、縦横ともに23pの台の上に米 俵を三俵積んでいる。その高さは16.5pである。一本の柱には長さ35pの張りぼての小槌をかけ、屋根の下からは幅30pの袋を垂らして組み終る。 このあと南酒井町と同様な要領で、かごに帯餅が巻かれ、上から笠餅がかぶせられるが、南酒井町のように人形を上にのせないので中央に松・竹・梅とそれぞれ 一本ずつ立てられる。そして竹には紙垂がつけられ、梅には餅花がつけられる。また、かごの高さは同じであるか、直径が少し小さく29pである。
両社神社でも同じように人形飾りが行なわれるが、その準備はすべて社務所において、氏子七力町の代表である宮世話七人と氏子総代の代表であるハコモトで行 ない、ここでは餅を巻く芯はかごではなく、高さ33p、直径39pの木の樽を使っているが、作り方は酒井神社の方とまったく同じ要領で六つ作る。そして全部できると座敷の正面に並べて飾り、向って左から二つには松を立て、その笠餅の上に武者人形を一体ずつのせる。つぎに中央の二つにはサギッチョをのせ、 その中心に竹を立てる。右手の二つには梅を立て、その笠餅の上に武者人形を一体ずつのせる。そして各餅飾りの間、四か所に平たい餅を細工して作ったツルベ を置き、さらに中央のサギッチョの前には両社神社のお使いといわれている兎の張りぼてを二匹飾る。なお、この他に二体ほど人形を飾っています。

お参り 
この夜は各家から神社へお参りがある。そのときに志の御膳料などを持ってこられお供えされます。神社ではお神酒を出し、正月の神饌のお下りのみかん・撤菓などを渡します。村人にとっては大正月の宮参りよりも、物忌を行なう「おこぼさん」に本来のあらたまの年のかわりを感じておられます。

降 神
 南北両酒井町のヤドでは、夜定刻になると各家から集まり、ヤドに来た人は、まず神軸(南酒井町では両社大明神、北酒井町では酒井大明神)と飾り人形の方に向って拍手して拝み、それから一同に「あけましておめでとうございます」と挨拶を交わして座に着く。灯明があげられ、お鏡餅とお神酒・洗米・塩が供えられている神軸の前で祝詞が奏上される。降神の儀である。すむと一同の前に漬け物が出され、しばらく雑談を交わして神事を終わる。この間約30分である。神職は次の北酒井町のヤドに行き、同様の神事を行ないます。

とのい
両町とも神職の神事(祝詞奏上)がすむと宿直(とのい)といって昭和30年までは夜通しオダイモクのお守りが行われた。このとき、神職や町の古老の帰った後、若中を中心にトウヤから出されたみかんで一晩中遊んだ。これをミカンバクチともいった。娯楽のすくないむかしでは青年たちの唯一の楽しみでもありました。その後、1時頃までのハンツヤとなり、最近では翌日が早朝の為、10時30分までとなって各自家に帰り、翌早朝の宮入りに集まるようになりました。なお、昔は神事(祝詞奏上)後、大根と揚げの煮たものが出されたので子供たちも多勢が食べにきました。
両社神社では、この夜、境内で火を焚き、一同がその火を囲んで餅などを食べながら12時ごろまで通夜をしています。


 一月八日の行事
宮入り
 夜明けを待ちかねて酒井神社へ宮入りをおこない、各自オダイモク(餅)や人形などを供えます。(現在は、午前6時頃)神社に着くと、門松を隅柱に立てている拝殿の中央に据えられたがっしりとした木の台の上に下手から見て右側に北酒井町の角力の飾り人形と松竹梅のオダイモクを並べて飾り付ける。左側には南酒井町が同様に飾り付ける。すむと牡丹の神紋の入った幔幕を拝殿のぐるりに張りめぐらし、本殿の飾り付けを行ないお鏡餅をお供えして宮入りを終ります。

本殿祭
酒井神社では、氏子総代ら参列のもとに祭典が行なわれ、「湯立て」神事があります。午后になって、それぞれの当番がオダイモク・人形などをヤドヘ持ち帰ります。オダイモクの分配 南酒井町では、持ち帰った人形は当番のものがそれぞれ元の木箱に納め、松竹梅の台となっていた笠餅・帯餅などのオダイモクは、三つのうち一つを梵音堂町か新町へ分与します。このオダイモクを分与すると、両町では一軒あたり餅米を一合ずつ集めて、それぞれおこぼの当番のところへ届けることになっています。また戦前は町から二銭届けたものだといいます(現在は行われていません)。なお戦後、南酒井町から叡山町へ帯餅の三分の二を分与するようになりました。そのあとのオダイモクを町内の家の戸数に切って、各戸に配る。北酒井町ではオダイモク三つのうち一つ(竹を飾ったもの)を新町、または梵音堂町へ分与し、そのあと町内の戸数に切って分配をします。両社神社でも同じように氏子数に切って、各家に分配されます。

昇 神 
南酒井町では午後四時にヤドヘ各家から一人ずつ集まります。初寄りともいい、前は「日のあるうち」に終るように早くから始めて「祝詞奏上」「初寄り」「仲間入り」[村役交代」「トウヤ交代」などの行事が行なわれたのであるが、第二次大戦後は人が増えたので始める時間を少し遅らせました。定刻近くになると羽織着用でヤドに集まる。まず神軸に向って拍手を打って礼拝し、一同に挨拶をして年令順に定められた座につく。当番はお茶を出します。一同が揃うと神職は七日の夜のときと同様に昇神の祝詞を奏上します。終ると引続いて町の行事が行なわれます。

総寄り 
(南酒井町) 初寄りともいい、直会の食事(おこぼ膳)が出されます。その際、自治会長(組長)から町内での通達事項や協議事項が話される。ついで町入り等が行なわれる。

町入り
南酒井町では、前年のおこぼの神事以後に長男、または長女が生れた家では相続人か誕生したというので[シメハリ料」を納めて仲間に入る。長女のあとで長男が生れたときも同様に納めて入ります。また、男子で15才になったものは「若中入り」といって初寄りの席で挨拶をして仲間入りをします。このほか、結婚をしたものも「婚礼料」を納めて町内に披露します。町入りも同様であるが、このときは別に洒を持っていく。このあと[町の会計報告」「話し合い」などが引き続き行なわれ、そのあと自治会長・宮世話・トウヤの交代の盃事が厳粛に交わされます。

夕汁
 (北酒井町) 北酒井町では祭典がすむと「夕汁」といって、おこぼ神事の二軒のトウヤのうち、神事のヤドをしなかった方の家をヤドに、町中の人々が集まって直会の食事をします。これを夕汁とよんでいる。このとき、神軸の前で祝詞を奏上することは南酒井町と同様であります。第二次大戦前は南酒井町のようにシメハリ・婚礼・若中入り・町入りなどもありましたが、現在は町入りのとき等簡略化しています。


文献 昭和50年大津市教育委員会発行の大津市文化財調査報告書(4)を参照させて戴いております。



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酒 井 神 社  kasajima@mx.biwa.ne.jp