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(Compiled by Haruo Hirose)
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(Mar.26, 2015)

In My Way - Dave Kaye (1965)

 YouTube は便利ですね。最近、私はCDを聴くことは ほとんど無く、 もっぱら YouTube を利用して、 色んな人の 音楽を聴いてます。 上の "In My Way" は 偶然見つけたもので、 凄くいいです。 "In My Way" は エルヴィスの 隠れた名曲だと 思うのですが、 歌が短すぎて、 物足りないですね。 その点、 このデイブ・ケイ (Dave Kaye) の歌は、 恐らく、 作者に頼んで、 詩を書き足して もらったのでしょう、 長くて、 聴き応えがあります。

 このデイブ・ケイって、どんな人かなと調べましたら、 オリジナル版の 「エルヴィス・オン・ステージ」 の中で、 ルクセンブルグの ファン・コンベンションが 出てくるでしょう。 あそこのステージで 「ワーズ」を 歌ってた人です。

In My Way - Elvis Presley (1961)

In My Way (意訳)

明日はここに いないかもしれない
でも 今日は君のそばにいる
だから 小さな嘘でいいから 好きだと言って
僕は君ひとすじ これからも

愛は永遠に続かないと
賢人は皆 言うけれど
キスする時は 笑顔でいて
明日は泣くかもしれないから

でも 僕は君ひとすじ これからも
そうさ 僕は君ひとすじ これからも



(Mar.24, 2015)

エルヴィスが出会った 一風変わった人たち(3)

エルヴィス、半魚人に襲われた女性に出会う

 日本で「ゴジラ」が生まれた1954年、アメリカでは 「大アマゾンの半魚人」 (Creature from the Black Lagoon) というヒット作が 生まれました。 これは今や モンスター映画の古典 と言われる作品で、 この映画で、 あの半魚人に 襲われた女性が、 映画「いかすぜ!この恋」で、 エルヴィスを誘惑した 美容牧場主の ジュリー・アダムス (Julie Adams) だったのです。 これには驚きました。 この映画、 私が高校生の頃に 何度もテレビで 放映されていて、 見てましたが、 まさかあの女性が ジュリー・アダムスだったとは 気がつきませんでした。

Julie Adams Autobiography

 ジュリー・アダムスは 今でもモンスター映画愛好家の催し物に 引っ張りだこで、 そこで、 エルヴィスに関する質問にも 答えています。

Q: 映画「いかすぜ!この恋」で、エルヴィスと初めて 会われたのですね?

JA: 私はエルヴィス・ファンでなかったので、 特に緊張するようなことは なかったわ。 私は南部出身だから、 エルヴィスとは 気楽に 接することができたの。 彼はチャーミングで、 本当の 南部紳士だったので、 好きだったわ。

Q: 俳優としての彼はどうでしたか?

JA: 彼はプロフェッショナルで、いつも準備は完ぺきだったの。 ナイト・クラブで歌うシーンを、 彼は ワン・テイクで やり終えたのよ。 客席を回りながら、 テープに合わせて、 口パクで歌うの。 完ぺきだった。 彼との仕事は楽しかった。 私は当時 34才だったけど、 映画の中では 年上の女性の 設定だったの。 他に若い娘が 沢山いたんだけど、 撮影の初日に、 エルヴィスは 女性全員に 花束を贈ったのよ。 楽しい思い出だわ。

エルヴィス、007の殺し屋ジョーズに出会う

 映画「青春カーニバル」のラストの歌のシーンで、ちらっと見えるのが リチャード・キ−ル (Richard Kiel) です。 彼は身長2m18cm、 体重143kgの巨漢で、 「007 私を愛したスパイ」の 殺し屋ジョーズ役で 一躍、人気者になりました。 あまりに 強烈な印象だったので、 「007 ムーンレーカー」 にも 再登場しました。 この役は当初 ジャイアント馬場にも オファーがあったようで、 ジャイアント馬場は、断ったと テレビで話していました。

エルヴィス、バットガール (Batgirl) にキスをせまる

 「ヤング・ヤング・パレード」と「キッスン・カズン」の2作品で エルヴィスと共演した イヴォンヌ・クレイグ (Yvonne Craig) は、 アメリカでは TVシリーズ 「バットマン」の バットガール(バットマンの養女) で有名です。 1966年に始まった 「バットマン」は 日本でも 放映されていたので、 よく見てました。 アダム・ウエストの バットマン、 バート・ワードの ロビンを初め、 シーザー・ロメロの ジョーカー、 バージェス・メレディスの ペンギンなど、 今でも よく覚えています。

 そしてもうひとつ、バットモービルも有名でした。 あの車をデザインしたのが、 ジョージ・バリス (GeorgeBarris) という、 車の改造を 専門にやってた人で、 エルヴィスの ゴールド・キャデラックも 彼が改造しました。

 「ナイト・ライダー」の車はもちろんのこと、 '60〜'70年代の テレビや 映画に出て来る 改造車のほとんどが 彼の作品で、 ハリウッド・セレブの車も 多く 手がけています。



(Mar.20, 2015)

エルヴィスが出会った 一風変わった人たち(2)

エルヴィス、フランケンシュタインの花嫁に会う

 エルヴィスの1967年の映画、「ゴー!ゴー!ゴー!」の中で、 ヨガの先生役で出てるのが エルザ・ランチェスター (Elsa Lanchester) です。 彼女は 1935年公開の映画、 「フランケンシュタインの花嫁」 (Bride of Frankenstein、 1935年) で、 一躍注目を浴びました。 1929年に 個性派俳優の チャールス・ロートンと 結婚しました。 チャールス・ロートンは、 エルヴィスが初めて 「エド・サリバン・ショー」に 出演した時、 交通事故の エド・サリバンに代わって、 エルヴィスを 紹介した人です。

 C・ロートンとE・ランチェスターの夫婦が共演した中で、 一番有名な映画が、 1957年公開、 アガサ・クリスティ原作の ミステリー映画 「情婦」 (Witness for the Prosecution ) でしょう。 この映画で、 主人公の 病み上がりの老弁護士役の C・ロートンと 彼の看護婦を演じた E・ランチェスターは、 夫婦揃って、 アカデミー賞主演男優賞、 助演女優賞に ノミネートされましたが、 受賞は逃しました。

エルヴィス、怪奇映画の大御所に会う

 怪奇映画の3大スターといえば、 クリストファー・リー、 ピーター・カッシング、 そしてこの人、 ヴィンセント・プライス (Vincent Price) でしょう。 この怪奇映画の大御所、 ヴィンセント・プライスが エルヴィス映画に出てたのを 知らない人が多いのに 驚きます。 1969年公開の映画 「トラブル・ウイズ・ガールズ」に、 不道徳について講義を行う Mr.道徳 (Mr.Morality) の役で 出ておりました。 実際の彼の撮影は 1日だけだったようで、 エルヴィスとの カラミが無かったのが 残念でした。

エルヴィス、アダムス・ファミリーの母親に会う

 アダムス・ファミリー(The Addams Family) は、 60年代中頃に 日本のテレビでも、 「アダムスのお化け一家」 というタイトルで 放映されていたので、 よく見てましたけど、 その頃はまだ 「闇に響く声」 (King Creole) を 見る前でしたので、 母親役の キャロリン・ジョーンズ (Carolyn Jones) が エルヴィスと共演した 女優さんだとは 知りませんでした。



(Mar.16, 2015)

エルヴィスが出会った 一風変わった人たち (1)

エルヴィス、フランケンシュタインに会う

 映画「監獄ロック」の撮影に入る時、 キャスト表を見て エルヴィスは言いました。 「特に会いたい人はいない。 強いて言えば グレン・ストレンジだな」と。 グレン・ストレンジ (Glenn Strange) とは、 映画 "Bud Abbott Lou Costello Meet Frankenstein" (凸凹フランケンシュタインの巻、 1948年) で フランケンシュタインの 役をやった 身長2メートルもある 大きな俳優さんでした。

 私が子供の頃、外国のお笑いコンビの映画が たくさん公開されてました。 「凸凹フランケンシュタインの巻」の 凸凹とは、 バッド・アボット (Bud Abbott)と ルー・コステロ (Lou Costello)の 凸凹コンビのことです。 沢山の凸凹映画が 公開されたのですが、 私が小学校低学年の時に 学校で見せられた 「ジャックと豆の木」を 題材にした映画は、 彼らの「凸凹巨人退治」 だったような 気がします。 きっとエルヴィスも 子供時代に 彼らの映画を 沢山 見たのでしょう。

 エルヴィスは凸凹コンビのアボット & コステロに 実際に会ってます。

 この写真は、 1957年6月28日に、 メンフィスのセント・ジュード病院の 資金集めのために 行われた "Shower of Stars" という ダニー・トーマス主催の チャリティ・イベントで 撮られました。 左から、 ルー・コステロ、 エルヴィス、 ジェーン・ラッセル、 ファーリン・ハスキー。 ジェーン・ラッセルは 「紳士は金髪がお好き」とか 「腰抜け2挺拳銃」に 出ていた アメリカを代表した グラマー女優です。

 この他にも スーザン・ヘイワードと 写ってる写真 もあります。 スーザン・ヘイワードは 「私は死にたくない」で アカデミー賞を 獲った人ですね。 このイベントには、 エルヴィスと写ってる写真は ありませんでしたが、アメリカで 人気のあった ロバータ・シャーウッド (Roberta Sherwood) という女性歌手も 参加していまして、 彼女は 1970年2月の ベガス公演で R・タットに替わり ドラムを叩いた ボブ・ランニングの 母親なんです。 ちょっとした豆知識。

エルヴィスの寄付行為

 上の写真と映像は、1965年に映画救済基金 (Motion Picture Relief Fund) に エルヴィスが 5万ドルを寄付した ときのものです。 これは、かつて映画で活躍した 喜劇人の多くが 寂しい晩年を送っている ということで、 彼らの生活支援が 目的の寄付だったのです。 それで、 寄付を受ける側の 代表として バッド・アボットが 出てきました。 F・シナトラと B・スタンウイックは その立会人ですね。

 昔はいろんなコンビがいました。 底抜けコンビは ディーン・マーティンと ジェリー・ルイス。 腰抜けコンビは ボブ・ホープと ビング・クロスビー。 極楽コンビは スタン・ローレルと オリバー・ハーディ。

 私が見た最初のエルヴィス映画は「青春カーニバル」でして、 その併映が ジェリー・ルイスの 「底抜け、いいカモ」 でした。 この映画を見て、 こんな面白い人がいるんだと、 私はすっかり ジェリー・ルイスの ファンになりました。 以来、 彼の「底抜けシリーズ」は 全て見ただけでなく、 マルクス兄弟など、 他のコメディ映画も たくさん見ました。



(Mar.12, 2015)

「恋のはた織り」 (How The Web Was Woven)

 厳密に言えば、この日本語タイトルは間違ってます。 「恋のはた織り」、 このタイトルから あなたは 「夕鶴」のような 恋物語を 想像しませんでしたか?  この歌の中では、 誰も 機を織ってません。

 そもそも "Web" を織物と解釈したのが間違いで、 "Web" とは クモの巣のような網 (ネット) のことです。 "How The Web Was Woven" は 「どのようにして網が張られたのか」 って 意味でしよう。

 もし私が日本語タイトルをつけたなら、 「恋のしかけ網」とか 「網にかかった恋」に したでしょうか。 でもこれも ひどいタイトルですが・・・。

 "How The Web Was Woven" のオリジナルはジャッキー・ロマックスで、 ジョージ・ハリスンの プロデュースにより、 1970年に シングル発売されました。 その時の 日本盤のタイトルは 「恋の糸」でした。

Jackie Lomax - How The Web Was Woven (テレビでの生歌)
Jackie Lomax - How The Web Was Woven (スタジオ録音)

Elvis Presley - How The Web Was Woven (スタジオ録音)

How The Web Was Woven 恋のはた織り(意訳)

網が張りめぐらされた
僕の心に、分かるだろ
網が張りめぐらされた
もう逃げられない、出られない

まるでクモの巣のように
心にからみつき、逃げられない
ついに、僕は君が望むところに
でもそれが僕の願い

ハエのようにくるくると
君への想いが かけめぐる
どんなに努力しようと
ああ、僕は眠れない

ここにいるのも、もう最後
ああ、僕に何ができるの?
網が張りめぐらされた あの時
僕は恋をした、君に恋をした

クライヴ・ウエストレーク (Clive Westlake)

 エルヴィスはクライヴ・ウエストレーク (Clive Westlake) の作品を "How The Web Was Woven" 以外にも 2曲 正式録音してます。 また1曲、 リハーサル・テークだけが 残ってるのがあります。

Elvis Presley - It's A Matter Of Time

Elvis Presley - Twenty Days And Twenty Nights (Live)

Elvis Presley - It's Different Now (1973.07.21、リハーサル)

 "It's Different Now" のオリジナルはシーラ・ブラック (Cilla Black) で、 1970年の発表ですが、 YouTube を探しても、ありませんでした。 また、 クロダ・ロジャース (Clodagh Rodgers) という女性も 1972年に RCAから シングルを出しています。 この人のは YouTube にありました。

Clodagh Rodgers - It's Different Now

ジェームス・バートンは エルヴィスの精神安定剤?

 1973年7月のスタックスのセッションでは、 エルヴィス愛用のマイクが 盗まれたのが原因で、 彼は怒って、 帰っってしまったと 言われてます。 だけど本当に それだけが 理由だったのでしょうか。 私は疑問に思ってます。 他にも原因が あったのではないかと。

 丁度、その日からジェームス・バートンが いなくなったことが 原因じゃなかったかと、 私は思ってます。 J・バートンの スケジュールに 先約が入っており、 彼はその仕事に 行かなければ ならなかったのです。 J・バートンは、 エルヴィスと出会った 1969年から 亡くなる77年まで、 エルヴィスの 全ステージに 出ただけでなく、 エルヴィスの スタジオ録音に 於いても、 彼が参加できなかった セッションは たった3日(下記を参照) しかありません。

J・バートンが参加できなかった エルヴィスのセッション
 1970年9月22日
   * Snowbird
   * Wherte Did They Go Lord
   * Whole Lotta Shakin' Goin' On
   * Rags To Riches
 1973年7月24日
   * Girl Of Mine
 1976年2月7日
   * Blue Eyes Crying In The Rain

 エルヴィスにとって、ジェームス・バートンの存在は不可欠なもので、 彼がいないと、 エルヴィスは 精神状態が不安になる。 これは明らかでしょう。

「ライフ・イズ・ビューティフル」

 1973年7月24日、エルヴィスがセッションをキャンセルして、 出て行った後、 残されたメンバーは、 エルヴィスの帰りを 願いつつ、 収録予定曲の バッキング・トラックを 録音しました。 その曲が "Good, Bad But Beautiful" で、 これも クライヴ・ウエストレークの 作品でした。

 「人生には 良い時もあれば、悪い時もある。 でもそれが人生。人生は美しい。」 と歌う、 まさにエルヴィスに うってつけの 素晴らしい曲で、 彼が録音しなかったのが 残念でなりません。

 "Good, Bad But Beautiful" はロニー・ヒルトン (Ronnie Hilton) が1973年に発表。 シャーリー・バッシー (Shirley Bassey) は 1975年に 録音しました。

Instrumental - Good, Bad, But Beautiful (エルヴィス用カラオケ・トラック)

Ronnie Hilton - Good, Bad, But Beautiful

Shirley Bassey - Good, Bad, But Beautiful
 このビデオの最初と最後に、作者のクライヴ・ウエストレーク本人が出てきます。



(Mar. 9, 2015)

フォンテンブロー・ホテル、マイアミ・ビーチ

 私はマイアミに行ったことがあります。 1992年に オーランドの ディズニー・ワールドに 行ったとき、 ついでに バハマ行きの 日帰りクルーズに 乗りたいと思って、 マイアミに寄りました。 しかし、 飛行機の到着が遅れたり、 クルーズの運行日程に 合わなかったりと、 結局のところ、 バハマには 行けなかったのですが、 時間が余ったので、 2日間、 マイアミの街を 散策しました。

 マイアミで私たちが泊まったホテルは、 エルヴィスが1960年に フランク・シナトラ・ショーに 出演した時の ビデオ録りの場所であった フォンテンブロー・ホテルから 3,4軒南側にあった ショーニーと言う ホテルでした。

 マイアミ・ビーチのメイン通りである コリンズ・アベニューを 北上すると、 正面に見えてくる 巨大なホテルが フォンテンブロー・ホテルで、 1992年当時、 ビルの壁一面に書かれた だまし絵 が有名でした。 (上の写真)  今はもう そのだまし絵が 書かれてあったビルは 取り壊され、 テニス・コートの場所にも 巨大なホテル棟が 建っているようです。

 フォンテンブローというのは、 フランスの有名なお城、 フォンテンブロー宮殿 wiki からとられています。 私が子供の頃は、 フランスの宮殿と言えば、 ベルサイユ宮殿より フォンテンブロー宮殿の方が 有名だったように思います。 「フォンテンブローの決戦」という 恐ろしく退屈な 映画を見たせい かもしれませんが・・・。

 私が中学の時、初めて見た 007 ボンド映画が 「ゴールドフィンガー」でした。 この映画の最初の方で、 ホテルのプールサイドで ポーカー・ゲームに興じる ゴールドフィンガーに ジェームス・ボンドが 嫌がらせをします。 そのあと、 女性が金粉を塗られて 殺される、 あの印象的なシーンが このフォンテンブロー・ホテルで 撮影されました。

James Bond - Goldfinger - Welcome to Miami

Shirley Bassey - Goldfinger

 私たちは「ゴールドフィンガー」で シャーリー・バッシー という歌手を知ったのですが、 彼女は エルヴィス・ファンで、 偶然、 エルヴィス映画の中に 彼女の姿が 写っていたのです。 ご存知でしたか?

 映画「エルヴィス・オン・ステージ」のオリジナル版で、 「ポーク・サラダ・アニー」の後、 エルヴィスが ステージを降りて、 客席を回りますよね。 あの時の 興奮したファンの写真の中の1枚が シャーリー・バッシーなのです。 (上の写真)  彼女の1970年のアルバムに 同じような服装の写真が 使われてますので、 これは間違いありません。

 シャーリー・バッシーは 1937年1月8日生まれで、 エルヴィスと同じ 誕生日なのですね。 下記の映像で、 エルヴィスと会った時の 話をしています。

Shirley Bassey talks about meeting Elvis

 彼女が話す内容は 時によって 変わるのですが・・・。

 「エルヴィスを見に行った 2度目の時のことよ。 彼と楽屋で会ったの。 エルヴィスは 私のジャンプスーツの 前ボタンを おへそのところまで 外しながら、 素肌を ペンか何かで さすってきたの。 そして、 部屋に戻って、 ジャンプスーツを 脱いでみると、 身体に 変なイタズラ描きが してあった。」

 恐らく彼女は こんなジャンプスーツを 着てたのであろう。 ー>

 私はフォンテンブロー・ホテルの だまし絵の前で 写真を撮っただけでなく、 勿論、 ホテルの内部も 探索しました。 私がホテルの中を うろうろしていると、 不審人物と思ったのか、 ホテルのガードマンから 職務質問を 受けました。 とっさの判断で、 私が泊まってたホテルの カード・キーを見せたら、 フォンテンブロー・ホテルの 宿泊客と 思ったのか、 すぐに解放されまして、 事なきをえましたが、 一瞬、 冷や汗をかきました。

 「フランク・シナトラ・ショー」のビデオ録りが行われた ボール・ルーム (The Grand Ballroom) は 正面入口から フロント・ロビーに入った すぐ左側にありました。 中を覗いたのですが、 椅子も何もない、 だだっ広い部屋で、 天井が低いのが 印象的でした。

 ジェリー・ルイス主演の「底抜け てんやわんや」 (The Bellboy) も、 フォンテンブロー・ホテルが 舞台のコメディです。 1960年の公開ですから、 「フランク・シナトラ・ショー」 と同じ頃の 撮影ですね。 この映画の中に、 ジェリー・ルイスが ボール・ルームに 椅子を並べたり、 ステージで 指揮者の真似をする シーンがあります。

The Bellboy - Chair Duty The Grand Ballroom
The Bellboy - Conducting

 「ポリスアカデミー 5、 マイアミ特別勤務」 (1988年) もまた フォンテンブロー・ホテルを 舞台にしてます。

 また、ケヴィン・コスナー、ホイットニー・ヒューストン主演の大ヒット映画 「ボディガード」 にも フォンテンブロー・ホテルが 登場します。 映画の中盤で、 ホイットニー・ヒューストンが チャリティ・コンサートを開く、 その会場が フォンテンブロー・ホテルの グランド・ボールル−ムでした。 この映画は 1992年の公開ですから、 私が行った少し前に 撮影が行われたようです。 (下の映像)

Whitney Houston - I Have Nothing - The Bodyguard

 ホイットニー・ヒューストンは スイート・インスピレーションズの オリジナル・メンバーであった シシ−・ヒューストン (CissyHouston) の娘であり、 エルヴィスが ラスベガスに カムバックした 1969年8月、 彼女は インターナショナル・ホテルで 母親と 暮らしていたのです。

  写真、エルヴィスと シシ−・ヒューストン
  写真、エルヴィスと ホイットニー・ヒューストン (合成写真ではありません)

 当時6才のホイットニー・ヒューストンが エルヴィスに会った時の 話をしています。

Whitney Houston recalls meeting Elvis Presley in 1969

 エルヴィスに会った時、彼はミンクのコートを着て、サングラスをしていたので、 彼女は驚いて、 目を見開いたまま、 言葉が出なかったそうです。

 下の映像は、エルヴィスが シシ−・ヒューストンに贈った 金のブレスレットを オプラ・ウィンフリーが 手にとって 見ているところ 。

  Cissy Houston's Precious Gift from Elvis Presley

 幅の広い金のブレスレットの表側にシシーの名前が、 内側にエルヴィスのあだ名、 "Squirrelly" と彫られているようです。 "Squirrelly" とは「変な奴」という スラングで、 スイート・インスピレーションズの メンバー全員が エルヴィスのことを、 "Squirrelly" (変な奴)と、 あだ名で 呼んでいました。 何故 "Squirrelly" なのかって?  それは、 '69年のステージの あの長いモノローグの中で、 エルヴィス自身が、 デビュー当時、 皆から "Squirrelly" と からかわれたと 話してるからです。

Cissy Houston - Yesterday (1970)



(Mar. 6, 2015)

蛍の光

 今朝の「マッサン」の「蛍の光」を歌うシーン、 良かったですね。 あまり 知られてないようですが、 エルヴィスも 「蛍の光」を 歌ってます。 1975.12.31 の ポンティアック公演と 1976.12.31 のピッツバーグ公演。 あちらでは 新年の挨拶代わりの 歌のようです。

Auld Lang Syne 蛍の光(意訳)

昔なじみを忘れようと
思い出さずとも
昔なじみを忘れようと
ああ、なつかしき日々よ

なつかしき日々のため、友よ
なつかしき日々のため
友情の杯を酌み交わそう
なつかしき日々のため

友情の杯を酌み交わそう
なつかしい日々のため



(Mar. 5, 2015)


 (写真拡大

エルヴィス・モデルのギター

 昨日のお昼、NHKの「スタジオパーク」を何気に見てましたら、 ゲストの徳永英明が 「玉置浩二ショー」の中で、 玉置浩二とデュエットした 映像が流されたのです。 その時の玉置浩二が 抱えてたギターに レザー・カバーが してありました。 それがエルヴィスの レザー・カバーに そっくりだったので、 気になって 調べたところ、 やはり エルヴィス・モデルの ギターでした。

  Martin D-28 Elvis Edition

 数年前に、「さんまのまんま」の中で、 ゲストの押尾コータローが 明石家さんまに ギターをプレゼント したことがありました。 それも エルヴィス・モデルの ギターだったのですが、 それには レザーカバーは無くて、 レザー模様をプリントしただけの 安いタイプのモデルでした。

  Martin Limited Edition LX Elvis Presley

 エルヴィスのギター・カバーを作ったのは チャールス・アンダーウッド (Charles Underwood) という、 当時のサン・レコードの エンジニア、 兼セッション・ミュージシャン、 兼ソング・ライターだった人です。 彼の作品で 一番有名なのは "Ubangi Stomp" というロカビリー・ナンバーでしょう。 正式には エルヴィスは 録音してませんが、 ドイツ時代に 彼の "The Titles Will Tell" という曲を 歌ってます。 尚、この曲は バーバラ・ピットマンという エルヴィスのお友達の レコードが サンから出ています。

Elvis Presley - The Titles Will Tell (プライベート録音)

Barbara Pittman - The Titles Will Tell



(Mar. 3, 2015)

衛星中継のこと

 日本では1963年11月23日、まだ実験段階ではあったが、 私たちは アメリカから 放送衛星を通じて 送られてきた映像を 見ることができました。 その時の放送で、 ケネディ大統領暗殺の 悲報が伝えられ、 日本中が驚いたなんて 言われてますが、 実際は放送前に ケネディ大統領暗殺は 臨時ニュースで 伝えられていたため、 衛星放送で 初めて知ったわけでなく、 特に驚くものでは なかったのです。

  日本初の衛星中継(1963.11.23)

 この時は、地球を周回する軌道衛星を使っていたため、 受信できる時間も 人工衛星が太平洋上を 通過する時間に限られ、 10分以内と 短かかったため、 まだまだ 衛星中継は 使い物にならなかったのです。

 1967年に 静止衛星インテルサット2号が 太平洋上に打ち上げられてから、 衛星中継の時代が やって来ます。 何と言っても、 この時代の衛星中継で 覚えているのは、 モハメッド・アリの ボクシング中継でしょうか。 3、4度見た記憶があり、 モハメッド・アリが 衛星中継を発展させた と言っても 過言ではないでしょう。

 モハメッド・アリの元の名前は カシアス・クレイと言って、 彼はローマ・オリンピックの 金メダリストでした。 1964年に ソニー・リストンを破って、 へビュー級チャンピオンになり、 一躍、 時の人になるのです。 彼は 1960年に モハメッド・アリと 改名してたのですが、 何故か日本では、 60年代の間中、 放送や新聞では ずっと カシアス・クレイと 呼ばれており、 私は違和感を 覚えていました。 日本で モハメッド・アリと 正しく 呼ばれるようになったのは、 彼が王座剥奪から カムバックした 71年頃からです。

 クローズド・サーキット中継

 デジタルの時代になった今、日本ではよく ライブ・ビューイングなる クローズド・サーキット中継が 行われるように なりましたが、 アメリカでは、 試合会場に 観客が来なくなる との理由から、 ボクシングの試合は 地上波テレビでは 生中継されず、 50年代末から、 大都市の劇場に テレビ中継して、 有料の観客を入れて 見せるという クローズド・サーキット中継が 行われ、 100万ドル以上の 入場料収入を得る 大成功を収めていました。

 そこに目をつけたパーカー大佐は、 エルヴィスの1961年のハワイ公演を、 アメリカ全土に クローズド・サーキット中継すべく、 計画を立てるのですが、 残念ながら、 これは 時期尚早ってことで、 うまく行きませんでした。 しかし、 パーカー大佐の このアイデアが 12年後に 「アロハ・フロム・ハワイ」となって、 世界規模で 叶うことになるのです。

 「OUR WORLD - われらの世界」wiki参照

 1967年6月26日に 世界14か国を結んだ、 スポーツ中継以外では初めての エンタテイメント系の番組 「OUR WORLD - われらの世界」が 衛星生中継されました。 NHKの大晦日の 「ゆく年くる年」の 世界版みたいな お堅い内容で、 ビートルズが出るというので、 みんな期待して 待っていたのです。 ところが このビートルズには ガッカリしました。

 1963年に、わが家にナショナルの家具調ステレオ・プレーヤーがやってきて、 私は ポップスに目覚め、 1964年の ビートルズ登場を 実体験した、 まさに私は ビートルズ世代であり、 よくビートルズも 聴いていました。 しかし、 期待が大きい分、 ガッカリさせられることも 多かったのです。

 1965年末に ビートルズの映画 「ヘルプ! 4人はアイドル」 が封切られた時、 友達と見に行きましたが、 「涙の乗車券 (Ticket To Ride)」 以外に 良い歌もなく、 ただただ ビートルズの4人が ふざけてるだけの内容に、 本当に ガッカリしたものです。 同じ時期に公開された エルヴィスの 「いかすぜ!この恋」のほうが、 私ははるかに 面白く感じました。

 1966年の ビートルズ、来日公演のテレビ中継も 期待して見ましたが、 見終わっ後の物足りなさ と言いますか、 演奏時間が30分と 短かったのは 勿論ですが、 セット・リストが 悪すぎましたね。 デビュー時のヒット曲、 「抱きしめたい」や 「ツイスト・アンド・シャウト」、 「プリーズ・プリーズ・ミー」、 「シー・ラブズ・ユー」等を 歌わないのでは、 これはダメでしょう。

 最後に「OUR WORLD」のビートルズですが、 まるでチンドン屋よろしく、 ブラスバンドを従えて、 "All You Need Is Love" なんて、 くだらない歌を 歌ってました。 余りのばかばかしさに、 ここで 私のビートルズは 完全に終わったのです。

 「OUR WORLD」には、ひとつだけ素晴らしいものがありました。 それは イタリアから 映画「ロミオとジュリエット」の 撮影風景が 生中継されたことです。 オリビア・ハッセイの美しさに 目が奪われました。 この中継が 良い前宣伝になったと 思います。 映画は日本を始め 世界中で 大ヒットしました。 私は 映画封切り初日に 観に行ったものです。 フランコ・ゼフィレリ監督の 名前を知ったのも この時で、 2002年公開の映画 「永遠のマリア・カラス」を見た時、 フランコ・ゼフィレリ監督だったので、 彼はまだ生きてたんだと 驚いたものです。


  0:49:45〜 「ロミオとジュリエット」の撮影風景
  1:20:00〜 ビートルズ "All You Need Is Love"

 衛星中継の歴史的なハイライトは、 何と言っても、 1969年7月21日の アポロ11号の 月面着陸でしょう。 これぞ本物の 宇宙中継でした。

 エルヴィスの「アロハ・フロム・ハワイ」

 ほとんど知られてませんが、 「アロハ・フロム・ハワイ」の放映権料は、 日本テレビに対しては 3000万円(10万ドル)、 韓国は 300万円(1万ドル)でした。 1973年1月の韓国は 朴正煕大統領 (現在の朴槿恵大統領の父親) の軍事政権下であり、 非常事態宣言の下、 夜間外出禁止令が 出ていました。 当時の韓国は、 日本のNHKにあたる KBS(韓国放送公社)が出来る前で、 テレビ局は KBSの前身の 国営ソウル中央放送局 があるのみ。 そんな韓国の国会で、 この「アロハ・フロム・ハワイ」が 問題になったのです。

 「こんな衛星中継に、1万ドルもの貴重な外貨を使うとは、 何ごとか」 と。

 その後どうなったか分かりませんが、 色々なお国事情が拘わる中で、 よくぞ 「アロハ・フロム・ハワイ」の 衛星中継が 実現できたものです。

 「アロハ・フロム・ハワイ」の冒頭のハワイ到着のシーン、 このアイデアも パーカー大佐のものでしょう。 下記の映像は、 1962年の 「ガール!ガール!ガール!」撮影の為に、 ハワイに到着した時の 歓迎の模様です。 ヘリコプターを使った、 まさに 「アロハ・フロム・ハワイ」の 冒頭のシーンと 同じですよね。


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