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かわら版

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かわら版
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かわら版 2004.Sep

 エッセイ 夏の終わりに・・・

  

暑い夏と共に、アテネオリンピックも終わった。
ご存じの通り、日本選手はかの地で大活躍。
連日連夜メディアが大々的に報道し、我々もそれを楽しみ喜んだ。

各競技で上位入賞する日本代表選手の姿をブラウン管を通して観ているだけで、
なにかしら熱いものが込み上げてくる。

身体の小さな日本人が、力の強い外国人選手と堂々と戦い、そして勝利する。
彼等はどれほどの時間、そしてどれほどの質と量のトレーニングを積み重ねたのだろう。

クライミングで身体を動かす事が多い自分と勝手にシンクロさせて、自己満足的に感動したりする。
もちろん僕がやってるクライミングなんて底辺部分で、
そのパフォーマンスもローレベルであると認識しての事である。

◆◆◆

そんな感動をもらったオリンピックも終わり熱が冷めつつある今、釈然としない思いが湧いてきた。
ホントにクライミングも、将来オリンピック競技になるんだろうか。
次回の北京では公開競技になるという噂も聞くが、自分的にはどうもしっくりこない。
クライミングはスポーツか、なんて話しが年に一度くらいは仲間内で話題になる。
その都度、結論として「否」という事になる。

なんだかクライマー同志が、いちいちその事を再確認しているようにもとれる。

「スポーツクライミング」なんて言葉が採用されてから、
よけいにクライミングがスポーツに分類される事を僕達は嫌っている様だ。

じゃ、クライミングってなんだ。

自分なりにいろいろ考えてみた。

スポーツにもいろいろあるが、すべての競技には公式ルールがある。
それはその競技やゲームの時間や勝敗をきめる為のものであり、
選手の身体・生命を守る為のものだったりする。

オリンピックでは武道・格闘技系のものも、いろいろルールを付けてスポーツ化されている。
今回の五輪で大活躍だった柔道もその一つ。
日本人にとって馴染み深い柔道を、私たちは武道だと認識している。

でもオリンピックで行われた柔道は、れっきとしたスポーツだった。
何故なら、「指導」という反則がルールにあるからだ。
これは、時間稼ぎで攻め合わない競技者を罰するもの。

究極的に勝つ事を目的としない武道では、勝負を避け勝利を得ようとする者を想定していない。
そうした者を罰するルールを必要とする事も、武道柔道ではあり得ないのだ。
どちらがいい悪いの問題ではない、これは武道とスポーツの根源的な違いだと思う。

こう考えると、僕達が武道としてイメージしていた柔道とスポーツ柔道は分けて考えるべきだろう。
同じように、クライミングコンペはスポーツとして分類されて良いのかもしれない。

◆◆◆

では、僕達のイメージしているスポーツクライミングでない「クライミング」は、どのジャンルになるのか。

思い浮かべても、適当なものが見当たらない。

そう、ないのである。

僕は気付いた、どこかに入れようとするからいけないのだ。

格闘技や武道、スポーツ、舞踊などそれぞれあるように、
クライミングは「クライミング」という独立したものなのだ。


長い歴史と精神にささえられ確立する武道や、
やる者も見る者も感動を与える事ができる多くのスポーツなど、それぞれは素晴らしい。
しかし、整備されたフィールドやコースでルールに守られながら行うスポーツと違い、
クライミングは生命の危険を受け入れたうえで、自らが課したルールの中で未知のルートを切り開く。

こうして先達者が、数々の「冒険」を積み重ねて発展してきた「クライミング」は、
なにものにも引けを取らない「精神」だと、僕は言い切れる。

そう考えると、自分の居場所を見つけたようで少し安心する。

そして、改めて自分の中で強く感じることができる。

 

トライの精神のうえに成り立つこの「クライミング」を、僕は愛する。

そして、これからも自らの限界を目指しトライし続けようと・・・。