この人物に注目(6)
楊漣(1571〜1625)

  その3



      忠賢はこの告発を初めて聞いた時、はなはだ恐れた。
     しかし、楊漣が伏して乞うた陛下はただの愚かな若者であった。
     客氏をはじめ、取り巻きの宦官がとりなした事でその罪は不問に伏されてしまった。
     逆に楊漣が叱責を受けてしまったのである。
      これではいけないと思った漣は帝に直訴して現状を知ってもらおうと考えた。
     早朝から待つが面会は適わない。忠賢が会わせない様、皇帝を外に出さなかったのである。
     漣は甚だ憤ったと伝えられている。
     3日後、皇帝はようやく外に出てきたが、周囲には武装した宦官数百名が取り囲んでおり、近づけなかった。
     皇帝への直訴も適わず、楊漣の命運は尽きたといえよう。



       忠賢は何としても楊漣を殺したいと考えた。
      10月、清流派の吏部尚書趙南星を解任。廷推で代わりの者を立てる事になったが楊漣は協力しなかった。
      忠賢はその態度が不敬であると偽りの詔を発して責め立てた。
      加えて人臣に礼なしとして、吏部侍郎(次官級。正三品)陳于廷と僉都御史(監察の職。正四品)左光斗が更迭された。
      当然、この程度で忠賢は鬱憤を晴らしたわけではない。忠賢の目的はあくまで漣を殺す事である。
      再び汪文言を逮捕して、それに連座して殺そうと図った。
      天啓5(1625)年、魏忠賢派の大理丞(裁判職。正五品)徐大化が漣と光斗を弾劾。
      大化は「連中は権力を求め賄賂を要求している」と訴えた。さっそく仲間の文言を逮捕して真相を追求せよと命令が出た。
      冷酷な許顯純は汪文言を厳しく責め立て、熊廷弼から賄賂を貰っていた事を自白させようとした。
      激しい尋問に堪えかね、汪文言は「誠に貪欲なのは楊大洪(大洪…漣の別字)である!!」と叫んだ。
      この証言で文言は助かったが、楊漣は死刑宣告を受けたも同然であった。
      楊漣は賄賂ニ万両を受け取ったとしてついに捕らえられたのである。 



       楊漣が捕らえられるとなって、士大夫や一般人問わず数万人が助けを求めて沿道に立ち、大声で泣いた。
      各地で人々は香をたき、酒を捧げて漣の無事生還を祈った。
      が、尋問を担当したのはかの許顯純である。人々の祈りは届くはずもない。
      彼等の刑を少しでも緩めてもらおうと任侠の士が募金を募り、賄賂を渡そうとする動きもみられた。
      しかし彼には激しい拷問が加えられ、体に傷が無い所はないという有様であったという。
      同年(天啓5年)7月26日の夜、ついに楊漣は力尽きた。享年54歳であった。
       
       果たして彼は本当に賄賂など貰っていたのか?
      その答えを知っているのは地元の人々であった。
      楊漣は元々極貧の生まれで、官吏となっても暮らしは良くならなかった。
      妻と母は物見やぐらで寝泊りし、二人の子供は物乞い同然の暮らしであった。
      まことに清廉な人で賄賂で私腹を肥やすどころか、満足な暮らしも出来なかったのである。
      賄賂など貰っているはずも無かった。
      人々は知っていたのである。
      その節義に人々は感じ入って、地元の富豪は競い合って彼の家族を助けた。
      援助する余裕のない人は野菜売りとして雇ってあげたり、また重いものを運ぶのを手伝ってあげたりした。
      それぞれが出来る形で、楊漣の家族を支えた。
      
       天啓帝が崩御し崇禎帝が立つと東林派が息を吹き返した。
      崇禎帝は太子太保、兵部尚書の位を贈り、忠烈という名を与えてその霊を慰めた。
      彼の子供は官位を授かったという。   
    



       彼が極貧で、人々がそれを助けたというのは誠に心打たれる。
       沿道に数万の人が立ったというエピソードからも、彼の人となりが優れていた証拠であろう。
       明代、官員の給料は誠に低かった。薄給の害とも言われている。
       給料だけでは暮らしていけず、賄賂を貰うことで、税金を必要以上に徴収することで補っていた。
       彼の子供が乞食同然であったというのは、現在の価値観からすれば家庭を犠牲にした悪い行為かもしれない。
       だが、皆が賄賂を貰っていた時代に彼はそうしなかった。
       流される事は容易なことである。
       大勢にいて、同じ流れに流されていけば苦悩する事もない。
       しかし、彼はそうしなかった。
       彼は歴史上の偉人の様な偉大な功績を残した人ではない。
       だが、大勢に流されず自分を貫くという困難な業績を成し遂げた。
       我々は弱い存在かもしれない。
       しかし同時に勇気を誰しもが持っていると楊漣は教えている。


                                      

 

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