この人物に注目(4)
魏忠賢(1568〜1627)

 

明代は宦官の弊害が強かったと言われている。
その代表格が、この魏忠賢であろう。
国なぜ、彼がそこまで突出しているのか?
魏忠賢は宮中の女性と結託し、権力を欲しいままにした。
…これだけなら、それはこれまで登場した悪宦官と変わらない。
おそらく彼は特に批判されるのは一介の宦官が孔子などと同列に祭られた事だろう。
彼を称える事で利益を得ようとした輩が各地で彼を称える碑文や祭祀を行った。
これは倫理的に許される事ではない。
まして伝統的な聖王政治を目指す清代に作られた明史である故、特に批判されたのであろう。
また、魏忠賢は死してなお、その亡霊が国家を翻弄したのも特徴の一つである。
清流派と宦官派の対立は明が滅亡するまで続くのである。
ただ、その一方で彼に追従した廉恥な輩も多くいた事が見落とされがちである。
これらも魏忠賢同様、あるいはそれ以上に批判されねばならない。

 


 ■その1

      魏忠賢。粛寧の生まれで元の名は魏進忠という。無頼の徒であった様だ。
     博打で大負けし金に困って半ばヤケくそに自ら去勢し、姓を李と改め、宦官になったと伝えられている。
     その賭けは成功し、やがて数万はいたと言われる宦官の頂点に君臨する事になる。
     彼は読み書きこそ出来なかったが、卓越した記憶力と演技力が強力な武器となった。
     魏忠賢の栄華は宦官のボスというだけに留まらず、まさに皇帝そのものだったという。
     成り上がっていき、あっという間に没落する。まるで一つの劇の様な生涯であった。



      李進忠と名を変えた彼は万暦中頃、宦官として採用された。
     その後、再び姓を魏へ戻し、のちに「忠賢」という名を賜っている。
     甲字庫に出仕し、後に皇長孫(朱由校、のちの天啓帝)の母王才人の世話をする事を命じられた。
     客氏という女性が皇長孫の乳母をしており、皇長孫にとってはある意味最も親しい人物であったといえよう。
     やがて天啓帝となった皇長孫は母親同然の客氏を優遇する。
     魏忠賢は王才人の世話を通して客氏と知り合ったとみられる。
     後に客氏の皇帝に対する影響力を背景に、宮廷の頂点に登り詰めていく。
     まさに王才人の世話は些細な人事であったかもしれない。
     が、その後の国家魏忠賢が与えた影響を考えると非常に大きな選択であった。



      とは言うものの出会っていきなり親しくなったわけではない。
     彼が王才人の世話を始めた頃、客氏は魏朝と親しくおり、そして忠賢は魏朝の子分の様なものであった。
     魏忠賢は魏朝に媚びへつらい、ゆえに魏朝は彼に大変目をかけ、当時、宦官の有力者であった王安に推薦した。
     気骨の士と言われた王安も真贋を見極める事は出来なかった様である。
     しきりに魏朝が彼を褒めたので、王安もまた彼を優遇してしまった。
     それは魏朝も同様であった。
     気がつけば魏忠賢は客氏に近づき、両者は醜い奪い合いを演じ、激怒した王安が魏朝を追放した。
     後に我に返った真面目な王安は嫌悪感を示したが、結局彼も後に謀殺されてしまった。



      明史では客氏の事を淫らで心がねじれていると評している。
     魏忠賢については読み書きを知らないが、記憶力は大変よく恨みを忘れず、妬み深く無慈悲と書いてある。
     また、へつらいが上手であったとも言われている。
     両者は欲深く、残忍であった。似た者同士ががっちり手を取り、利権をむさぼった。
     皇帝を客氏が押さえ、時にやりすぎて批判を受ける魏忠賢を客氏がとりなして事なきを得た。
     魏忠賢は相手をおだてて利益に近づき、また彼を悪く言う人間を決して忘れず報復を怠らなかった。
     かくして生き馬の目を抜く宮廷で生き残ってきたのであろう。
     そんな魏忠賢も気の弱い所がある様で、尻込みする彼を客氏が叱咤する場面もあった。
     お互いが支え合う事で権力を手に入れ、それを維持したのである。



      泰昌帝が亡くなり天啓帝が即位すると、彼等は重用される事となる。
     というより、天啓帝は客氏と魏忠賢の言いなりであった。愚かというより若かったのであろう。
     遊びたい盛りで誘惑に弱く、また万民の頂点である自覚もなかった。
     魏忠賢は毎日、芸者や歌妓を皇帝に引き合わせ放蕩にふけり、犬や馬を矢で、あるいは銃器で撃ってみたり…。
     情けない姿に御史王心一、刑部主事劉宗周ら多数の役人が皇帝を強く諌めたが逆ギレされ、追放や左遷された。
     とは言うものの政治全体としては、皇帝も王安を信任し、
     彼の推薦を受けた正義派の官僚…葉向高、韓黄方、鄒元標、趙南星、高攀龍らががっちりと固めており、
     天啓初年は魏忠賢が好き放題できる状況ではなかった。



      王安が官職を辞退して、魏忠賢の手のものに殺されると王安の息のかかった宦官は皆、追放された
     逆に王體乾や李永貞といった取り巻きを重用し、皇帝の周辺は魏忠賢一派一色となったのである。
     客氏は宮女に対して無慈悲に扱った。
     先帝の寵姫を影で殺し、あろう事か張皇后が妊娠すれば堕胎させたと伝えられている。 
     天啓帝は世継ぎに恵まれず、結局弟の朱由検が帝位に就いたが、それは客氏のせいだと囁かれた。
     しかしこれについては宮中深くの話なので、どこまで事実であるかは不明である。
     内廷の人々が恐怖心にかられて過ごした事を考えると、誠に忍びない。

      が、王安が殺された事で宮廷内における後ろ盾を失った廷臣もまた失脚が間近に迫っていた。
     皇帝を握った宦官は鎧を着て宮中を威張り散らして闊歩し、ほしいままに廷臣らを脅した。
     そして天啓3年冬、魏忠賢はついに東廠(秘密警察)を牛耳る事となったのである。
     何かにつけ因縁をつけ捕らえ、気に食わない者は殺す事も出来る様になった。
     それはいかなるものであったろうか?


      天啓年間はまさに恐怖政治の時代であった。
     東廠の役人が横行し、そこかしこに監視の目があり、大した理由もなく捕らえられた。
     皇帝にとって親戚にあたる人物でも例外ではなかった。
     李承恩は皇帝の娘の子であった。先帝から与えられた器があったが、魏忠賢はそれを盗んだと訴え、彼は処刑された。
     また、呉懐賢は楊漣の訴状を読み、「楊漣は大変立派な人物だ」と感動した。
     しかし、その様子を使用人に見られて密告され、懐賢は殺された。
     武人の蒋応陽は処刑された熊廷弼は無実だったと訴えたが、すぐさま誅殺された。
     これらは皆、罪と言えるものではない。魏忠賢は都合の悪い人物をことごとく秘密警察の手によって粛清したのである。
 
     そして、彼の蛮行は廷臣らだけでなく民間にも向けられた。
     民間にも監視の目は張り巡らされており、忠賢を罵ると舌を切られ、皮を剥がれると恐れられた。
     ある男が仲間と呑んでいた際、彼は忠賢を批判した。
     友人らは「どこに密偵がいるか判らないから滅多な事を言うものではない」と忠告したが、彼は批判を止めなかった。
     すると深夜になって東廠の役人が現れ、友人もろとも拉致されたのである。
     拉致された先には魏忠賢がおり、その者は友人らの前で皮を剥がれた。
     そして恐ろしくて何も言えない友人らには大金を与えて解放したと言う。
      また、ある時は娼家で妄言があった男を捕らえ、満洲側の工作員にデッチ上げ、テロを未然に防いだと言った。
     市井の人々で魏忠賢に殺された者は数知れない。



 
      天啓4(1624)年、正義派の有力者、汪文言が訴えられ、獄に繋がれた。魏忠賢が手を回したとされる。
     尋問を担当する劉僑は冤罪で捕らえた事に後ろめたさを感じたのか、それを葉向高に教え、向高は文言を釈放させた。
     おさまりのつかない魏忠賢は激怒し、劉僑は追放され、代わりに冷酷な許顕純が取り調べ官となったのである。
     対して御史李応昇、給事中霍守典、御史劉廷佐、給事中沈維炳らが忠賢の横暴を訴えた。
     が、逆に皇帝から強くなじられてしまう。
     一連の出来事を見て、いてもたってもおられず義憤したのが激情家の楊漣である。
     彼は魏忠賢を24の罪で告発した。
     さすがの忠賢も大変恐れ、廷臣に仲裁を求めたが拒まれた。
     そこで皇帝の許へ走り、面前で泣き、東廠の司令官の地位を辞職したいと願い出た。
     傍らでは客氏がとりなし、彼の子分たちが弁護した。
     さぞかし無様な光景であったろう。
     明らかな茶番劇であったが、皇帝は愚かでそれを見分ける目がなかった。
     ゆえに忠賢は許され、楊漣は訴状を出した翌日にきつい懲戒を受けた。
     楊漣を庇うべく官僚、皇族まで含め70余名が忠賢の不法を批判し、外廷に批判が満ちた。
     葉向高ら大臣は穏便に解決しようと
     「ほとぼりが冷めるまで忠賢を郷里に帰らせてはどうか?」と具申したが皇帝は許さなかった。  
 


       先日泣いてみせた忠賢は、本性を表し怒り狂っていた。
     廷臣らが自分を批判しているのがどうしても許せなかったからである。
     言葉巧みに杖刑を用い、廷臣は何かつけ殴られ、そのまま死んでしまう者も現れた。
     穏便に解決しようとした葉向高に対しても自分を追放しようとしたと恨み、
     葉向高を辱め、嫌気のさした葉向高は辞職して去ったのである。
     吏部大臣の趙南星を筆頭に、楊漣や魏大中ら数十人の清流派官僚が追放された。
     明史ではその様を「国から正人去り、乱れ乱れて枯れ木となった」と記している。
     残されたのは魏忠賢に尻尾を振る三流の利殖家ばかりとなった。
     彼等は忠賢に気に入られ様と他人を売った。
     彼を支持しない者のリストを献上し、「彼等はみな東林党員である」と述べた。魏忠賢はそれを大変喜んだという。
     売られた人々には苦しい受難の時代が始まろうとしていた。



                                   (その2へ続く
 

 

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