この人物に注目(6)
楊漣(1571〜1625)

 

 天啓5年の大獄で命を落とした人々を「六君子」という。
 天啓7年に命を落としたのは「後七君子」と呼ばれた。
 彼等は大勢が魏忠賢の媚びる世の中にあって死を恐れずに批判した人々である。
 そして、彼等以外にも節を曲げずに散っていった無名の人々がいた事も忘れてはならない。
 周囲と同じ意志を持つのは簡単な事だ。
 同じ価値観の者の中にいれば、意見が異なると苦悩する必要もない。
 が、楊漣やそれらの人々はそうしなかった。
 どんな状況でも自分の意志を貫く。
 その行動に勇気付けられるのである。 

 



      楊漣は人となりおおらかで細事にこだわらず、それでいて節を曲げない人であった。
     ここという時ははっきりと意見を述べ、うやむやにする事を嫌った。
     楊漣は亡くなる直前の泰昌帝から呼ばれ、「死後はたのむ」とおおせつかった。
     尚書クラスの人々に比べ、等級の低い自分にそのような言葉を下さるとは…と感激し、命を懸けて報いる事を誓った。
     万暦帝、泰昌帝、天啓帝と三帝が入れ替わる異常事態の中、楊漣は皇帝を利用しようとする者たちに毅然と立ち向かう。
  
      楊漣は應山出身で、字を文孺という。
     万暦35(1607)年、36歳の時に進士に及第し、地方での働きが立派であった事から中央へ栄転。
     戸科給事中(給事中…各部の監査、諌める事などを務める、従七品)、兵科右給事中等を歴任している。
      万暦48(1620)年、実に50年近くの在位を誇った万暦帝も重い病にかかり、その時代も終わろうとしていた。
     しかし万暦帝は皇太子と会って後事を託そうとしなかった。
     楊漣、左光斗は大学士方従哲の元へ走り、「どうして陛下はお会いなさらないのか?」と、問い詰めた。
     従哲は「陛下は病を隠しているのだから、どうして我々が伝える事ができよう」と答えた。
     楊漣は宋の皇族が危篤状態となった皇帝に会える事が出来なくても、一日三回訪れた事を例に出して批判した。
     会う会わないは別としても皇太子には実情を知らせるべきで、
     知らせないのは何か他に企みがあると疑われても仕方ない…とほのめかしたのである。
     ようやく従哲も折れ、皇太子に父親が危篤状態だと伝えた。が、皇太子はためらって門前で入ろうとしない。
     楊漣や、皇太子の世話をしている宦官の王安は
     「薬膳を持ち、日暮れまで門前で面会を請えば陛下も心を開かれるでしょう」と説得した。
     後継者を巡る長年の混乱で生まれた両者の確執が伺い知れる。
     



      まもなくして万暦帝が崩御し、泰昌帝が即位した。
     即位してまだ日も浅いのに、皇帝は体調を崩した。
     宦官崔文昇の献上した精力剤を飲みすぎたせいで下痢となり、一晩に何十回も起きるほどとなったのだ。
     そんな時に寵愛を受けていた李選侍が皇后にして欲しいと皇帝に頼み、帝もそうしたいと考えた。
     即位まもなくして暗雲立ち込めたというべきであろう。
     それを憂えた外戚らが「禍々しい心を包み隠した人間ばかり重用している」と泣いて訴えた。
     楊漣ら廷臣はその話を聞いて非常に憂い、彼は意を決して皇帝を諌めた。
     「崔文昇は陛下をたぶらかして、自ら献上した薬のミスを隠そうとし、我ら廷臣を脅して口を塞ごうとする。
      彼は陛下のお体を損なっただけでなく、陛下の御心まで汚しており、それは万死に値する。
      李選侍は国法を無視して皇后になろうとしている。母は子を持って尊しとするのに、彼女は何の功績があったのか?」
     泰昌帝はそう言われて激怒し、廷杖のうえ追放せよと命じた。
     楊漣はひるむ事なく「死ねと言われればそうするが、自分は何の罪があったのか?」と述べた。
     それに泰昌帝は感じ入り、以後、二人は親交を厚くする。
     ここで冒頭に戻ろう。
     身を崩した泰昌帝も即位一月にして倒れる事となった。
     諸大臣に混じって楊漣は呼ばれ、「後は頼む」と託された。
     殺してしまえと言われた楊漣が、今は信頼できる廷臣となっていた。
     楊漣は大変感動し、命がけで報いることを誓った。



      天啓初年は泰昌帝の愛人李選侍を巡って大混乱となった。いわゆる移宮事件である。
     李選侍が新たに即位する天啓帝を奥に匿い、楊漣ら廷臣が皇帝を救い出して即位させた。
     その李選侍をどうするか、廷臣でも意見が別れた。これが移宮事件である。
     一見すると下らないゴタゴタ劇であったが、当の本人らにとっては命がけであった。
     泰昌帝が崩御し、天啓帝が即位するまでの6日間の混乱。
     この混乱を巡って廷臣内でも責任論が浮上した。
     楊漣も槍玉にあげられ、左光斗が庇ったのみで、他はことごとく彼を批判している。
     彼は頭髪が真っ白になったと書かれている。当時の言官の糾弾の厳しさが伺いしれよう。
     しかし帝は(その後ろにいた清廉な宦官王安の口ぞえもあってか)楊漣を忠臣と評価した為、事なきを得た。
     満洲と戦っていた熊廷弼が糾弾された時は、彼を擁護し逆に兵部尚書を批判し辞任に追い込んだ。
      天啓2(1622)年彼は太常少卿(国家の祭礼事を司る。正四品)に進み、
     天啓4(1624)年春に左副都御史(百官の不正を正す官。正三品)に抜擢された。
     彼は順調に出世していたが、その背後ではかの魏忠賢も栄達を極めようとしていた。
     天啓3(1623)年東廠(秘密警察)長官となり、批判者をことごとく捕らえて弾圧した。
     人々は恐れはばかり、誰もあえて口に出すものはいない。
     ただ楊漣、趙南星、左光斗、魏大中ら気骨の士は清流派の柱として批判をやめなかった。
     魏忠賢は彼等を目障りに思い、その仲間汪文言を捕らえた。
     汪文言は後に釈放され、廷臣らは魏忠賢の横暴を訴えたが逆に叱責を受けている。
     「このままあの様な男をのさばらせてはいけない」
     義憤した楊漣はついに意を決し、天啓4(1624)年6月魏忠賢を24の犯罪で弾劾したのである。
    



                                         (その2へ続く
 

 

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