この人物に注目(1)
福王朱常洵(?〜1641)

 神宗万暦帝の第3子。母は鄭貴妃。鄭貴妃の長男は生まれて間もなく亡くなったので実質次男にあたる。
 万暦10(1582)年に光宗が生まれたが、万暦帝は母親の出自を嫌って彼を皇太子に指名しようとしなかった。
 万暦21(1593)年1月、常洵ら3皇子が揃って王となる詔が出されたたが皇太子の指名はなく、これに反発した顧憲成らが万暦帝を批判して罷免された。
 以後、帝位を巡る混乱は大きくなっていく。
 「鄭貴妃がわが子を帝位に就かせようとしている」という噂が流れ、廷臣はニ派に分かれて対立してしまう。
 皇帝は深く悩み、混乱の末、結局万暦29(1601)年に常洛が皇太子に指名された。
 明代は皇帝の権力が強まったとされるが、絶対権力者といえども後継者を好き勝手に指名できなかった。
 
 常洛が皇太子に指名されると同時に、常洵も福王に封じられる。
 万暦帝は彼を厚遇し、結婚式には30万両、洛陽の自宅の建築費には28万両の国家予算が使われた。
 通常の10倍であったという。
 万暦帝は廷臣の反対を押し切って礦税を開始し、宦官が全国へ徴税に赴いた。
 民衆が苦しむ代わりに、国庫には財宝が山の様に積まれ、その多くが常洵に与えられた。
 当の福王は28万両も使ってわざわざ洛陽に邸宅を建てたのに赴こうとしない。
 万暦帝が溺愛し、彼はそれに甘えていたのだろう。
 廷臣らは早く封地へ赴くよう請うた。その数は百通以上であったが万暦帝はことごとく無視した。
 
 
万暦42(1614)年にようやく封地の中州へ赴く。
 中州は耕地が少なかった為、周辺の農地を自分の封地に組み込んだ。
 また塩税をはじめとする国家に奉納すべき税金をことごとく我が物としてしまった。
 その上、封地の維持費が国から与えられるのである。
 結果、彼の収入は皇帝より多くなり、逆に国家予算は減少した。
 
 万暦帝は内廷に籠もって20年以上、廷臣と顔を合わせなかったと言われている。
 廷臣たちは政治に関心を持つよう何度も奏上しているが、その殆どが無視された。
 だが、福王は別格であった。
 彼の使者は何度もやって来て朝に奏上すると夕方には返事が来た。
 自身を富ます様なことしか考えていない常洵の奏上は、あまり建設的なものでなかったと思われる。
 役人・宦官だけでなく親王までが自身の利益に狂奔する様がまさに国家の滅亡を感じさせた。
 
 崇禎帝の時代となると内部だけでなく外でも混乱が大きくなっていた。
 各地では旱魃や蝗害で飢饉が起こり、食うに困って人が人を食べる悲惨な有様であった。
 追い詰められた民衆がいたる所で反乱を起こし、やがて大乱へ繋がっていく…。
 それなのに福王は女を囲い、飲み食いにふけっていたのである。
 洛陽の邸宅には富が積まれ、人々は「先帝は天下を消耗させ、王を肥やした」と言った。
 反乱軍の討伐するため官軍が洛陽を通り過ぎる際、兵士たちは声高にこう叫んだ。
 「福王の倉には金がごまんと積まれている。自分たちは飢え死にしそうなのに賊と戦わねばならない」
 国の財政は逼迫しており兵糧を集める余裕もなかった。これでは勝てるはずもない。
 自宅でこれを耳にした呂維祺(時の南京兵部尚書)はこのままではいけないと思い、福王に兵へ援助する様に申し出たが聞き入れられなかった。
 呂維祺は私財を投じて救済にあたったが焼け石に水で、飢えた民衆の多くが反乱軍へ加わった。
 ついに崇禎14(1641)年一月、李自成率いる反乱軍が洛陽を囲んだ。
 洛陽を守るため、参政王胤昌、総兵官王紹禹らが援軍で駆けつけた。
 福王は彼らを呼んで宴会を行い、それは数日に及んだという。この非常時に誠に愚かというしかない。
 大軍に囲まれてようやく福王は千金を出して兵を募ったが、彼らはそのまま反乱軍側へ逃亡してしまう。
 王紹禹の部隊は城の上から外にいる反乱軍と笑いながら話すという有様であった。
 かくして守備側はひとたまりもなく崩れ、城はあっという間に陥落した。
 
 福王は燃える城から逃亡し、近くの迎恩寺に身を隠したが間もなく発見され捕虜となった。
 呂維祺は反乱軍に面識ある者がおり、その者から「あなたの才能を活かしたいから、ここは隠れて逃げられよ」と呼びかけられたが、彼は応じなかった。
 反乱軍に連行されていく福王にたまたま遭遇した呂維祺は振り返って王にこう言った。
 「王よ、綱常(五常…仁・義・礼・知・信と君子・親子の道を指す)は非常に大切なものである。
  我ら等しく死ぬべし。決して賊に膝を屈せぬように!」
 福王は目を見開いたまま、語ることはなかった。
 李自成は彼は殺し、その血は鹿の肉といっしょに煮られ、「福禄酒(福と鹿は同音)」と呼んで部下に配ったという。
 呂維祺もまた屈する事なく、福王の後を追った。
 承奉なる人物は伏して泣き、「王が死にわたくしも生きる気はない。ただ王の骨は棺に納めることを願う。さすれば恨むところはない」
 反乱軍側はそれを許し、桐の棺を用意した。承恩は棺の傍で自害してている。
 福王の邸宅は焼かれ、3日間燃え続けた。彼の財産は貧民に配られたという。

 「皇族が賊に討たれた」と聞いた崇禎帝は震え泣いた。だが泣いている場合ではなかった。崇禎帝自身の最後も目の前まで迫っていたのである。
 
 福王は全く愚かな人物であった。
 

 
 
 

 

 

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