この人物に注目(5)
顧憲成(?〜1612)

 

 明末の弊害となった党争。
 東林党と非東林党(宦官党)の対立である。
 その東林党の元を作ったのが顧憲成であった。
 彼は中央政界を去って後、東林書院なるものを作った。
 顧憲成の考えに共感を持つ者がその教えを乞う為に集まり、やがて一つの集団となった。
 彼の人物評は定評があり、中央でも無視できない存在となっていたのだろう。
 中央政界に衝撃を与えたのは、おそらく彼が李三才を救おうと廷臣に書を送った件だろう。
 官職にあったとはいえ、今の彼は民間人である。
 民間人風情が国政に口を出し、なおかつ彼は決して無名の人ではないのである。
 その影響力を考えれば決して放置できるはずはなかった。
 顧憲成の発言の是非は別として
 やがて顧憲成に続けと、色々な人物が批判を始めた。
 清廉さを求めるあまり、現実感を伴わない空虚な意見も多くみられたことだろう。
 既存権力を守りたいと考える官僚と、東林党の対立はかみ合う事なく、感情的なものとなっていく。
 東林党と非東林党の対立は単なる党争ではない。
 中央官僚主導で動かされていた国家において、その他はそれに従うのみであった。
 それに風穴が空いた特異な一時期であったといえよう。
 

 



      官学となっていた朱子学が権力に組み込まれたことで清新さを失い、理想を追うあまりに理論倒れとなっていた。
     軍政官僚として戦場で功績を残した王陽明はあらゆる思索を探求した末に自分なりの答えを見出した。
     朱子学では読書して知識を身につけ、生活を厳粛にして己を磨き、その上であらゆることに取り組めると説いた。
     これに対し王陽明は与えられた純粋な知を工夫する事で取り組むべきだと考えた。
     すなわち知識と実践は決して切り離せないものであり、実践して悟る事もあると説いた(知行合一)のである。
     陽明学が実践的なのはこの考えに拠るところが大きい。
     必ずしも読書を重視せず、質疑応答で学ぶスタイルは分かり易く大衆に拡がった。
     明末の官僚たちの中にも陽明学は浸透していたと思われる。
     心の本体である良知は善悪を知る優れた知恵であるから、これを十分に活用すればよい。
     「人に良知あり」と説いた王陽明であったが、官僚に果たして良知が備わっていただろうか?
     政界は派閥に分かれ、彼等の持つ優れた知恵はいかに他者を出し抜いて政権を得るかばかりに使われていた。
     また明末になると陽明信徒の中には既存の価値観を否定する動きも見られた。
     異端の歴史家李卓悟は自分の思うままに発言するべきだと主張し、それまでの美徳とは異なる価値観を示した。
     明代の奔放な風潮と重なり、人のもつ本能そのものが肯定的に捉えられた。
     評価は分かれる所だが、自由を悪行・廉恥の肯定と解釈した者もいたことであろう。
 
      そういった光景を目の当たりにし、陽明学派の考え方に疑問を持ったのが顧憲成であった。
     人に良知など備わっておらず、自らを厳しく律する事で高めていく事が大事ではないか…
     顧憲成は政界を追われて後、郷里で朱子学を探求していく。
     陽明学に対する疑問はやがてそれを尊ぶ中央官僚に向けられる。
     その適切な批評に感銘を受けた人々が彼の学び舎へ集まった。
     彼の学び舎を「東林書院」と言い、彼の考えを支持する人々を後に東林党と呼んだ。



      顧憲成、無錫出身で字を叔時という。
     万暦4(1576)年に郷試(地方試験)を首席で合格し、万暦8(1580)年に進士へ進み戸部で職を得た。
     彼が入庁した頃、時の権力者はかの張居正であった。
     豪腕をもって言官を封じ、宦官と渡りをつけ内外の批判を抑えた大政治家である。
     張居正は逼迫していた国家財政を回復させたという業績を残した。
     が、一方では彼の追従する事で事なきを得ようとする無気力な官僚を多く作ってしまった。
     それを軽薄と感じていたのが顧憲成であった。
     彼は媚びることを嫌い、張居正が病で倒れた際も周囲の人々と異なり祈祷をしなかった。
     同僚が気遣って密かに回復を願う連名書に代筆をしてくれたが、それを知った顧憲成は怒ってその名を削除した。
     媚びる事を嫌うという姿勢は彼のポリシーであり、生涯貫かれる事となった。



      万暦帝は官僚と会わなかった無責任な君主とされている。
     が、当時の官界の醜態を見ていると嫌気がさすのも理解できる。
     万暦15(1578)年の混乱を採り上げてみよう。
     当時の官界は自分の身内を優遇し、考えを異にする者を認めなかった。
     これに義憤した辛自修は皇帝に「感情で人を判断しない様に」と訴え、万暦帝もそれを是とした。
     しかし既存勢力は面白くない。彼等を支援する者ばかり厚くもてなしたので、嫌気のさした自修は辞める事を希望した。
      ある時、工部尚書何起鳴が宦官張誠を優遇し、それを自修ら4名が非難した。
     宦官張誠の言が入れられ、自修は退けられたものの結果的に自修、起鳴ともに罷免された。
      この頃の政界は誰かが何か罪を犯すとたちまち批判し、辞任に追い込まれた。
     万暦帝は人を補充しなかったとされるが、これでは補充しても意味がないと諦めたのではないだろうか。
     帝は一連のゴタゴタに苛立ちを隠せない。
     「登用する度に言官が騒ぎ立てるせいで辞めてしまう。今、起鳴が去った。お前等は他に耐えられる者を挙げよ!」
     誰も挙げる事が出来ず、批判だけして後始末の出来ない廷臣に帝は激怒した。
     関係者はみな追放され、それを擁護した者も罰せられた。
     顧憲成もその一人であった。皇帝の不興を買ってしまった。
     桂陽の州判官に左遷され、地方を転々とする事になった。
     



      その後、地方での働きが立派であったと認められ中央に復帰し、吏部考功主事となった。
     当時、中央を揺るがしていたのは後継者問題である。
     万暦帝は皇長子を嫌っており、自分の愛する鄭貴妃の子供を後継者にしたいと考えた。
     廷臣は誰を皇太子にするかで対立し、皇帝は結論を出さなかった。
     長男が皇太子となる原則を打ち破れず、苦悩した帝は苦肉の策として3人の皇子を王に封じると宣言する。
     最も皇太子にふさわしい長男まで王に封じれば誰を皇太子にするのか?
     いつになったら後継者が定まり、国家は安定するのか?
     危機感をもった顧憲成は同僚らと共に、皇帝に意見書を送った。
     かなり大まかに書くと下記の通りである。
     
      「祖訓に後継者を定めねばならないと決まりがあるのに、三皇子を王に封じるという。
       いつ後継者を定めるか臣等は伏してこれを悩んでいるのに、陛下はただ「待て」の一言である。
       家法では長男は他の子供と並び封ぜられないと我々が詳しく説明しても陛下は省みてくれない。
       陛下には何か新しい考えがあるのか?
       天下の主を天子と称し、天子の長男を太子と称す。天子と天は繋がっており、二者は一体である。
       それと同じく太子は父と繋がっており、親子は一体である。
       太子に爵位は不要であり、今三皇子を王にしようとしているが、何のつながりあって長男を封じるのか?
    
       陛下は一時の都合でやむを得ず行うのだというが、「やむを得ず」とは何か?
       長男を太子とし、それ以外の子を藩王にする事こそ理に適っているのであり、情も安んじるものだ。
       皆が並んで尊ばれ大きくなっては、いずれ大きな災いとなるであろう。
 
       こうやって臣等が立太子を請うても、ただ「2、3年待て」。それだけである。
       そうこうしている内に20年が過ぎてしまった。考えがしばしば変わり今日までだらだらと来てしまった。
       陛下の偉大な治世は35年の長きになるというのに、このような事でゴタゴタしているのが真に惜しまれてならない。
       伏してこう。皇長子を後継者とし、第三皇子、第五王子を藩王に就かせる事を。
       これこそ一族の幸せであり、国家の喜びである」

      廷臣の間でこの訴えが議論され、3皇子が並んで封じられる件はうやむやになった。     



       官吏が任用されるにあたって、廷推という方法がある。
      廷推とは空席が生じた際、内閣や戸部尚書、あるいは三品以上の官が推薦して官吏を昇進させる制度である。
      当然、廷推の時期になると昇進させてもらおうと権力亡者が集まる。
      とはいえ、推す側には派閥から圧力がかかり、なかなか自分の思うままに立派な人物を挙げる事は難しかった様だ。
      吏部に在籍し廷推権を持っていた顧憲成にも圧力はあったが、彼はそれを無視して公平な人事を行った。
      政界の有力者王錫爵は羅萬化を用いる事を希望したが、彼はそれを拒み陳有年を推薦した。
      次の廷推でも羅萬化は推されず、錫爵らは激怒したとされる。
      その上に万暦帝は廷推そのものが不愉快であった。
      さらに顧憲成が王家屏を挙げた事は皇帝の意に逆らうものであり、激怒した万暦帝は彼を追放したのである。
      (のちに陳有年から廷推の重要性を説かれ、それなりに理解した様である)
      平民に落とされた彼がその後、再び登用される事はなく郷里にて生涯を終えた。


       無官となった事は顧憲成にとって、ある意味幸いだったのかもしれない。
      誰に遠慮する事なく、幼い頃から勉強熱心であった顧憲成は郷里無錫に帰って朱子学の研究に没頭する事が出来た。
      この地で宋代に栄えた東林書院を常州知府歐陽東風と無錫知縣の林宰の援助で再建した。
      のち魏忠賢の弾圧を受けた高攀龍らは彼を陽先生と呼び、その門下生となっている。
      やがて噂が広まり各地から在野の士が教えを乞おうとやってくるのだが、顧憲成は試す様に次のような事を言った。
      「官吏はしょせん天子を支える車で、志は君父に無い。官僚はしょせん国の防壁で、志は民の暮らしに無い。
       隠遁して志は世道に無い。徳のある人ならそういう人を雇わないだろう」
      東林書院では朱子学の講習の他、中央政治についてもそれとなく議論された。
      特に人物評は評判となり、東林の名は全国的に知れ渡った。
      当然ながら悪く評価されて喜ぶ人などおらず、東林を嫌う人もまた多かったと言う。
      これが後に東林党が弾圧される複線となった。



 
      そんなわけで魏忠賢が登場する以前から、何とか東林書院を貶めようとする動きがあったのである。
      李三才なる者が糾弾を受けた際、よしみのあった顧憲成は彼を庇う書面を政界のリーダー葉向高に送った。
      それを見せてもらった孫丕陽は褒めたが、御史の呉亮はその書面を写し後に三才を口やかましく責める口実とした。
      徐兆魁は顧憲成自体を攻撃し、ありもしない犯罪を捏造して批判した。
      ・東林書院の運営費に税金が充てられている事、
      ・教えを乞いに来ても200金用意しないと相手にされない事、
      ・地方官吏は中央の命令より東林を重視し、彼等がダメと言えば命令を履行しない事。
      これらはなんら証拠の無い事で、光禄丞呉炯上は一つ一つ丁寧に弁解して顧憲成を擁護した。
      「憲成は三才を助けたい一心で書を送ったが、"あなたは辞めた身なのだから、余計な口出しをするべきではない"と、
       私は警告した。彼もそれを反省している。
       今、顧憲成が糾弾された事で世間では政策議論を止めてしまった。
       これは国家の活力を損なう事であり、もっとその影響を深刻に考えるべきだ」
      呉炯上は帝にそう忠告したが、省みられる事はなかった。
      その後も顧憲成に対する批判は絶える事はなく、その死後も糾弾の声はしばしば上がったという。




       呉炯上の諫言はもっともだった。
      万暦以降の官僚は無気力で権力に迎合する風潮が強まっていく。
      顧憲成の見た中央政界は非常に貧しいものであった。
      国家に対する志などなく、いかに富貴を得るか、いかに権力を手にするか。それだけであった。
      それらを手にするために媚びて下につき、雲行きが怪しくなればたちまち平気で裏切った。
      張居正が病に倒れた時、皆がその回復を祈ったと言うが、心から祈った者など果たしていただろうか?
      まもなくして居正が亡くなると、すぐ居正に対する批判が起こっている。
      それらの現実を見て憲成は「官に志などない」と言った。
      おそらく党争など無くても、明は亡んだことであろう。




       顧憲成に対する批判は生前も、そして死後も絶える事がなかったという
      東林派と反東林派の対立は、本来は閉塞感の漂う中央政治に対する批判から始まった論争であったかもしれない。
      やがて「廷撃」、「紅薬」、「移宮」の三大疑獄が起こる。
      両者は互いに「その背景で暗躍したのはアイツらだ」と批判し合う様になった。
      主義主張より相手憎しの方が強かったのかもしれない。もはや平穏な日々などなかった。
      やがて反東林派は奸臣魏忠賢と結託し、彼は敵対者を全て東林党と呼んで弾圧した。
      顧憲成は死後、天啓帝から太常卿の位を贈られているが、魏忠賢の手でそれを剥奪されている。
      崇禎帝が立つと再び東林派が登用され、顧憲成の名誉も回復され瑞文という諡(おくりな)を賜っている。
      が、その頃になると東林派も反対派も似たようなものであった。
      両者の対立は熾烈となり、明の滅亡を早めただけであった。
      


                                   

 

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