この人物に注目(2)
王安(?)

  明代は宦官の害が激しかった時代とされているが、
 それは王振(自分勝手に外征を行い大敗。皇帝が戦場で捕虜になり、明そのものが滅亡の淵に立たされる前代未聞の事件を引き起こした)、
 帝位簒奪まで目論んだ劉
瑾、そして魏忠賢など突出した悪党が際立ったせいもあろう。
 無論、清代の学者趙翼が「今は宦官が官僚を呼びつけ、まるで彼らの使い走りの様であった」と指摘している様に、
 明代は際立って宦官の専横が酷かったのは間違いないだろう。
 明代は宦官が際立って多かった時代であり、明末には宦官が10万はいたと伝えられている。
 こういう言い方は無責任かもしれないが、それだけいれば悪党がいても仕方はない。
 まして明代は自ら志願して去勢した、いわゆる自宮宦官が多数を占めた時代である。
 彼等の多くは宦官になれば皇帝に近づけ利益を得られると安易に考えていた。
 そうした人間が何をやらかすか…結果は当然といえる。
 
  だが負の面ばかりが強調されているが、一方で鄭和を代表に、
 命をかけて諌めた何鼎、明末「自分の様な無能者は死んで陛下の恩に応える他ない」と散っていった方正化など
 立派で忠実な宦官もいたのは事実である。今回紹介する王安もまた、立派な宦官に属する人物であり、
 こうした人物もいたという事を知って頂きたい。


王安は雄縣の人。元々学識があったのだろう。
 当時、有力者であった宦官陳矩の推薦を受けて皇太子朱常洛(後の泰昌帝)の教育係となった。
 以来、皇太子を支え続けたのである。
 
  わが子朱常洵(福王)を帝位に就かせたい鄭貴妃は考え、
 常洛に対するイメージを悪くさせようと鄭貴妃は使いを送り、彼の失態を暴こうとした。
 だがその度に王安は常洛を擁護し、結局、鄭貴妃の目論見は失敗した。
 
  その後「廷撃事件」が起こる。皇太子暗殺を目論んで暴漢が宮城に侵入し、警備の宦官を殴った前代未聞の大逆事件である。
 暴漢が皇太子暗殺を謀った背景には鄭貴妃がいると囁かれ、いよいよ鄭貴妃も窮地に陥った。
 しかし王安は皇太子に許す様とりなし、泣いて謝る鄭貴妃は皇太子に許された。
 それでも廷臣は疑ったが、皇帝はその結果を大いに喜んだと言われている。
 災いを利用して皇太子の株を上げる事に成功したのである。
万暦帝が亡くなり、皇太子が帝位(→泰昌帝)に就くと王安は司礼乗筆太監に指名された。
 王安は先帝の残した負債を解決するために善政を敷く事を勧め、
 また清流な官僚を多く推薦し、世は新時代に期待を寄せたと伝えられている。
 
  皇太子の頃から泰昌帝を支え続けた王安であったが、
 皇帝が皇長子(後の天啓帝)の母親より、李選侍を寵愛した事を快く思っていなかった様である。
 李選侍の人となりが良くなかったからかもしれない。
 
  期待された泰昌帝は即位後すぐに亡くなり、皇長子が帝位に就く事となる。
 が、彼はまだ15歳と若く、本来ならば母親が後見人となるべきだったのだが、彼女はすでに亡くなっていた。
 代わって、かの李選侍が皇長子の後見人となる事を称して立てこもったのである。
 王安は楊漣らと協力して彼を李選侍から引き離す事に成功。
 宮中から皇長子を連れ出し、吉日を選んで即位させた(→天啓帝)。
 
  新帝も彼を信じ、泰昌帝からようやく始まろうとしていた国家の建て直しは継続されるかと思われた。
 しかし王安は病弱でよく寝込んだ様である。
 皇帝との謁見もかなわず、その間に魏忠賢が台頭し、宦官の頂点に立つ事になる。


  人となり剛直であった王安もかの魏忠賢に騙され、心許してしまった。
 魏忠賢は有力な宦官魏朝に取り入り、そして魏朝は朝から晩まで王安に魏忠賢を売り込んだ。
 四六時中「彼は素晴らしい」と耳にしている内に、王安も魏忠賢を信じきってしまった様である。
 こうして魏忠賢は躍進するきっかけを掴んだ。
 さらに魏忠賢は客氏という出世する上でなくてはならないパートナーも手に入れる。
  
  天啓帝の乳母であった客氏をめぐって魏朝と魏忠賢は三角関係となった。
 結果、魏忠賢が客氏を射止めた。真面目な王安は怒りすら覚え、その様をとても嫌ったとされている。
 だが、この時に魏忠賢を追い出させなかった事は国にとって、また本人にとっても不幸な結果をもたらす事となった。


  天啓帝が即位すると、彼は宦官の長たる司礼監に就任する様命じられたが、
 先例を出し…あるいは体が弱かった事もあってか、彼はその任を辞退したのである。
 あるいは一度はまず謙遜する意味があったのかもしれない。
 だが、野心家の客氏はその機会を見逃さなかった。
 王安がいなくなれば、思うまま権勢を振るう事が出来るからである。
 客氏は「彼もそう言っているのだから…」と皇帝に勧めて、彼の辞退願いはそのまま通ってしまったのであった。
 
  さらに彼女は、このまま王安を消してしまおうと考え、魏忠賢に提案した。
 とは言え、自分を引き上げてくれた人物であり、また大物であった為か、さすがの忠賢もこれにはためらった。
 客氏から「李選侍のように自分も捨てる気か?」と責められて、ようやく意を決したのである。


  給事中霍維華をけしかけ王安を批判させ、南海子浄軍提督の劉朝が彼を捕らえたのである。
 劉朝は王安が追放した李選侍の部下だった人物であり、またゴロツキであった。
 王安を殺すにこれほどうってつけの人物はいなかったであろう。
 
  王安は閉じ込められ、食事を絶たれた。
 病弱な王安だから食を与えなければすぐに死ぬだろうと考えたのかもしれない。
 だが王安は大根を盗み食いして、何とかしのいだと言われている。
 こうして三日経ってもなお彼は生きていた。
 埒が空かないと考えた劉朝は強硬手段に訴え、彼を殴り殺したのである。
 
 魏忠賢は我が世の春を謳歌し、まともな官僚は彼のせいで酷い目にあった。
 王安の死から3年、忠賢は王安とつながりのあった東林党の関係者を糾弾し、次々と獄中へ放り込まれる事になるのである。
 天啓帝が亡くなり、崇禎帝が即位して後、魏忠賢はようやく粛清された。
 同時に王安の名誉は回復され、昭忠という名を贈られたのである。
 



 
王安は魏忠賢に殺されてしまったが、
 彼が推薦した官僚楊漣や左光斗らは怯む事なく魏忠賢を糾弾し、彼等も惨殺される事となる。
 結果から見れば、彼等は何も出来ずに魏忠賢に敗れてしまっただけなののだが…
 明末、人々が己の利に向かって狂奔していた醜い時代に、
 それに反旗を翻し、全ての人がそうでなかった事を後世に証明する事が出来た。
 もし彼等の様な立派な人々が登場していなかったら、明の滅亡はいかに惨めであった事か。
 亡んで後、多くの人々が自責の念に苛まされ、恥じた事であろうが、彼等の存在が多少なりとも慰めとなった事は想像に難くない。
 

 

 

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