事件録 明末、宮廷内では後継者を巡る争いが起きていた。 鄭貴妃が我が子を皇太子にしようと狙っている。それは周知だった様である。 呂坤所有の「閨範図説」(婦女子の模範を教える書物)を宦官の陳矩が万暦帝に献上した。 帝はこれを鄭貴妃に与え、鄭貴妃は深く胸に刻んだという。 万暦26(1598)年秋、世間に「閨範図説」から一部抜粋した「憂危щc」という名の怪文書が流布した。 その中で紹介されている理想的な女性は漢の明徳馬后という人であった。 宮人から皇后になった皇后は暗に鄭貴妃を指していると噂された。 一部の者が帝に「そういう妖言があり、その背後には鄭貴妃ある」と批判したが、逆に叱責を受けている。 皇帝に「後継者を決めてほしい」と願う廷臣の奏上は数千に及び、 鄭貴妃が自分の子を皇太子にしようとしていると批判する者とそうでない者で対立が激しくなった。 さすがに現状を危惧した皇帝は万暦29(1601)春、ようやく常洛を皇太子とした。 それからしばらくして万暦31(1603)年、再び「憂危щc」が世間に流された。 その中にはこう書かれていた。「帝はやむを得ず皇太子を立てたが、いずれ取り替えるだろう」。 その怪文書を手にした帝は激怒して、それを書いた者を探し出し処刑せよと命じた。 最終的にt生光なる者が捕らえられ、処刑の後に死体をバラバラにされている。 皇帝はそのもみ消しに躍起となった。
果たして鄭貴妃がそれらの怪文書を撒いた張本人であるかは謎である。 |
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