事件録
明末三大疑獄

       明末、宮廷内では後継者を巡る争いが起きていた。
     万暦帝が何となく手を出した女性が長男を産んでしまった。
     皇帝はこれを認めようとしなかった。母親から責められ、ようやく我が子と認めたのである。
     長男が皇太子となる。その決まりのせいで万暦帝は大いに悩む事になった。
     寵愛する鄭貴妃の子供こそ後継者にしたい、内心ではそう思いつつも、それは出来なかった。
     廷臣らは何年たっても皇太子を決めない皇帝に苛立ちを感じていた。
     両者の間には深い溝があったのである。
     加えて鄭貴妃自身、我が子を皇帝にすべく宦官を操り、長男を貶めるべく陰謀を張り巡らせた。
     皇長子朱常洛(後の泰昌帝)を巡る陰謀事件「梃撃」、「紅丸」、「移宮」事件を三大疑獄という。



     鄭貴妃が我が子を皇太子にしようと狙っている。それは周知だった様である。
     呂坤所有の「閨範図説」(婦女子の模範を教える書物)を宦官の陳矩が万暦帝に献上した。
     帝はこれを鄭貴妃に与え、鄭貴妃は深く胸に刻んだという。
     万暦26(1598)年秋、世間に「閨範図説」から一部抜粋した「憂危�щc」という名の怪文書が流布した。
     その中で紹介されている理想的な女性は漢の明徳馬后という人であった。
     宮人から皇后になった皇后は暗に鄭貴妃を指していると噂された。
     一部の者が帝に「そういう妖言があり、その背後には鄭貴妃ある」と批判したが、逆に叱責を受けている。
     皇帝に「後継者を決めてほしい」と願う廷臣の奏上は数千に及び、
     鄭貴妃が自分の子を皇太子にしようとしていると批判する者とそうでない者で対立が激しくなった。
     さすがに現状を危惧した皇帝は万暦29(1601)春、ようやく常洛を皇太子とした。
     それからしばらくして万暦31(1603)年、再び「憂危�щc」が世間に流された。
     その中にはこう書かれていた。「帝はやむを得ず皇太子を立てたが、いずれ取り替えるだろう」。
     その怪文書を手にした帝は激怒して、それを書いた者を探し出し処刑せよと命じた。
     最終的に�t生光なる者が捕らえられ、処刑の後に死体をバラバラにされている。
     皇帝はそのもみ消しに躍起となった。
    


      果たして鄭貴妃がそれらの怪文書を撒いた張本人であるかは謎である。
     逆に意図的に鄭貴妃を貶めようとする噂も流れていた。
     万暦41(1613)年に流れた噂は以下の様なものである。
     孔学なる妖しげな男が皇太子および皇帝の母を呪っている。その背後には鄭貴妃がいる…と。
     大学士葉向高は皇帝にこう勧めた。
     「何時までも福王(鄭貴妃の子)が都にいるからそういう噂が立つ、ここは静かな所へお移り頂くべきだ」
     かくして福王は自らの領地へ赴いた。
     いかに宮廷が鄭貴妃を巡って動揺していたかが伺える。
     

梃撃事件へ
                                      

 

 

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