この人物に注目(4)
魏忠賢(1568〜1627)

  ■その3

      なぜ、魏忠賢は自分が皇帝の様に振舞うことが出来たのか?
     それは残念ながら皇帝が愚かだったから、という以外にない。
     明史において、天啓帝をこう評している。
     「帝は器用。斧やのこぎり、漆塗りをする事を大変好み、疲れを忘れて打ち込む」
     天啓帝は満足に教育を受けられず、読み書きも出来なかったとされている。
     普通の人であれば立派な大工になれたかもしれない。
     しかし、彼は皇帝である。皇帝には万民の生活がかかっていた。
     彼の様な人物が人民の頂点に立った事は明にとっても、人民にとっても不幸な事であった。
     天啓帝が縄を引き墨を削り、大工仕事に夢中になっている時を狙って魏忠賢は廷臣からの奏上を持ってきた。
     これを皇帝は大変うっとうしく思い、つい「自分はこれを極めるから、汝等の好きなようにせよ」と言ってしまったのである。
     皇帝からすればイライラして言っただけかもしれないが、魏忠賢らはこれを白紙委任状を得たと考えた。
     こうして彼は権力を欲しいままにしたのである。
     皇帝の無責任さが、廷臣や人民を大いに苦しめる事になってしまったのである。


      その大工仕事に夢中であった皇帝が天啓7(1627)年8月、崩御した。
     もし子がいれば幼帝を擁立し、その功績をもって以後も権勢を振るったかもしれない。
     が、天啓帝に世継ぎはなく、5番目の弟にあたる信王朱由検が即位する事となった。
     由検が即位した背景には、客氏に虐待されていた張皇后の力があったとされる。
     英明な彼女は後継者にあえて忠賢が影響力を発揮できない人物を選んだ。
     信王朱由検もまた彼の悪事を知っており苦々しく思っていた。
     後ろ盾を失った魏忠賢時代の崩壊はあっけないものであった。
     「魏忠賢に国の全てを任せよ」という遺言が残されてはいたが、それを守る義理はなかったのである。
     とはいえ崇禎帝はすぐ行動に出ず、慎重にその機会を伺っていた。
     まず楊所修、楊維垣らが魏忠賢派の中心崔呈秀を攻撃し、続いて陸澄源らが本丸魏忠賢を弾劾した。
     銭嘉徴が忠賢を10の大罪で告発した時、ついに皇帝は動いたのである。
      一、皇帝と並んだ事
      二、皇后を酷く扱った事
      三、兵事を弄んだ事
      四、先帝をきちんと祭らなかった事
      五、皇族の土地を勝手に削った事
      六、聖人と名乗った事
      七、爵位を乱発して与えた事
      八、満洲方面での軍功を抑えた事
      九、民を苦しめた事
      十、臣下と皇帝の間に立った事
     以上の理由で弾劾されたのである。
     皇帝は忠賢を呼び、近侍の者にこれを読ませた。
     忠賢は大変恐れ、それが何を意味するかをすぐ理解した。
     慌てて太監徐応元を仲介に許しを求めたが、応元は忠賢の遊び仲間だと皇帝は知っていたので、逆に応元は追放された。
     
       11月、忠賢は鳳陽へ赴くことを命じられる。
     鳳陽は太祖の父母の墓地があり、その視察に赴けというのが表向きの理由であった。
     忠賢としては名誉ある役目を拒む事もできず出立したが、その後すぐに彼を逮捕せよという命令が下ったと言う。
     中央から追い出して支援者のいない所で処断しようというのが本当の狙いであった様だ。
     忠賢は阜城に達したところでその話を聞き、命運尽きたと悟り仲間の李朝欽と共に首を吊って自殺した。
     帝は紐を送り「これで自殺せよ」と暗に示したという話もある。
     彼の遺体は磔にされ、首は晒しものにされた。
     皇帝と並び、九千歳と呼ばせた彼のあっけない最後であった。



 
      魏忠賢の死によって、客氏や一族の運命も決まった。
     客氏は鞭打ちで殺され、魏良卿ら一族の者はみな市中で処刑され死体は捨て置かれている。
     魏忠賢のせいで混乱した国政を建て直すべく、崇禎帝は東林党関係者を登用し清流派が復帰した。
     人々は若き皇帝の英断に快哉を叫んだ。
     今度こそ国政を建て直し、安定した時代が訪れるかと思われた…。


      が、現実はそう甘くなかった。
     魏忠賢が残した災いは想像以上に深く根付いていたのである。
     崇禎帝は皇太子時代を経験しておらず、信頼できる腹心がいなかった。
     先帝と異なり、この国を何とかしないといけない…と言う気持ちはあった。が、それが空回りするだけであった。
     気ばかり焦って些細なミスでも皇帝は激怒し、人心は離れていった。
      あるいは真に国を憂い、とにかく皇帝を支えようという人がいればよかったのかもしれない。
     だが、初期の天啓帝を支えた楊漣ら気骨の士も、忠賢のせいで根絶やしにされていた。
     東林党関係者を登用してみたが、豪腕を持った人間はいなかった。
     むしろ皆が祠を競って作った様に、出世と利権を追い求める風潮が強くなっていたのであろう。
     宦官党と東林党の争いはもはや単なる利権争いに過ぎなくなっていた。
     当初は期待していた崇禎帝もその様にたちまちウンザリしてしまった。
 
      結局、狡猾な魏忠賢派の残党王禮乾らに足元を掬われ、再び宦官派が返り咲くのである。
     とは言うものの主を粛清された宦官派が崇禎帝に心から尽くすはずもなく、哀れにも皇帝は疑心暗鬼に陥っていくのである。
     そして宦官派の主は魏忠賢から、李自成ら反乱軍へと移っていく。
     反乱軍が帝都に到達するや、彼等は門を開け反乱軍を迎え入れたのである。
    


      魏忠賢を粛清できたが、彼の亡霊を払う事はできなかった。
     結局、明朝は最後まで彼に振り回されたのである。
     さらに明が亡んで後、南京に作られた亡命政権内部でも忠賢派と清流派の対立は存在した。
     中には魏忠賢を死に追いやった崇禎帝を非難する意見すら出る始末であった。
 
      しかし、この一連の事態を魏忠賢一人に責任を負わすのは果たして妥当であろうか?
     皇帝は本来の責任を忘れ自己の欲求に打ち興じ、
     官僚は本来の職務を忘れ、国難に比べれば取るに足らない事でいがみあった。
     宦官は太祖の「宦官は政治に介入してはならない」という戒めを大きく逸脱し、単なる寄生虫となった。
     民衆の中にすら富貴を追ってとりすがる者が現れた。
     人々はとにかく金を欲し、それを得るために権力にすがった。
     魏忠賢はその頂点にいたに過ぎない。
     彼の犯した罪は許される事ではないが、彼は時代の代弁者であった。
     
      無論、もし同時代にいたならば果たして楊漣らの様に反骨の精神を貫くことが出来るか、個人的に難しいと思う。
     彼等の行動も生きるためにやむをえずな部分もあったであろう。
     軽蔑するのは簡単だが、死にたくないのは誰しも同じである。
     だが、だからと言って全ての責任を魏忠賢に押し付けるのはフェアとはいえない。
     明が亡んで後、明の遺民として清朝に仕えなかった顧炎武は次の様に述べている。
     「王朝の滅亡は皇帝と官僚の責を問えば済むが、天下の滅亡は匹夫にも責任がある」
     天下の興亡は匹夫も責有り---我々もこの言葉を深く胸に刻んでおかねばならないのかもしれない。
  


 

 

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