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Elvis News (April, 2015)
(Compiled by Haruo Hirose)
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(Apr.30, 2015)

ゴールディ・ホーン (Goldie Hawn) & ガス・トリコニス (Gus Trikonis)

 ゴールディ・ホーンのお相手と言えば、真っ先に カート・ラッセル (Kurt Russell) が 思い出されますよね。 カート・ラッセルは 子役時代に 「ヤング・ヤング・パレード」で エルヴィス本人と共演し、 1979年公開のエルヴィスの 伝記映画「ザ・シンガー」 では エルヴィスの役を演じ、 世間に認められる 俳優になりました。

 しかし、今回はカート・ラッセルのことは省略しまして、 ゴールディ・ホーンの 最初の夫であった ガス・トリコニス について 調べました。 彼もまた大いに エルヴィスと 関わっていたのです。

 ガス・トリコニスは、映画「ウエスト・サイド物語」で、 ジョージ・チャキリス率いる シャークス団の一員を 演じました。 同じ仲間であった ジェイム・ロジャース (Jaime Rogers) は 「エルヴィス、68 カムバック・スペシャル」の 振り付け全般を 担当した人で、 同じ「ウエスト・サイド」繋がりで あったかどうかは 分かりませんが、 ガス・トリコニスは 「カムバック・スペシャル」で、 エルヴィスの隣で 踊っていたのです。

 「カムバック・スペシャル」のビデオ録りが行われていた同じ時期、 NBCスタジオ内の 隣のスタジオで "Laugh-In" という コメディ番組が 製作されていました。 「巨泉・前武のゲバゲバ90分」という TV番組は "Laugh-In" を真似た 番組なのですが、 この "Laugh-In" のレギュラーだった ゴールディ・ホーンが ちょくちょくと エルヴィスの撮影を 覗きに来ていたのです。 エルヴィスはてっきり 自分に会いたくて 来てるものと 思っていたのですが、 ところがどっこい、 彼女は 交際中のダンサー、 ガス・トリコニスと 一緒に帰るために、 リハーサルが終わるのを 待っていただけ だったのです。 エルヴィスは彼女が お気に入りだったようで、 彼女に 「孵化したてのヒヨコ」 というあだ名をつけて からかっていたそうです。

 ゴールディ・ホーンは翌年の1969年にガス・トリコニスと結婚。 同年公開の 「サボテンの花」 (Cactus Flower) で、 アカデミー助演女優賞を獲得、 コメディ女優としての 花が咲きました。

 私が初めてゴールディ・ホーンを見たのは 「バタフライはフリー」 (Butterflies Are Free) というブロードウェイの 舞台劇の映画化作品で、 1973年に公開されました。 この映画で、 ゴールディ・ホーンの 恋人の母親役を演じた アイリーン・ヘッカート (EileenHeckart) が アカデミー助演女優賞を 獲得しました。 下の写真は、 「監獄ロック」撮影中の エルヴィスを訪ねてきた アイリーン・ヘッカートと シャーリー・ブースです。 シャーリー・ブースは 1952年に 「愛しのシバよ帰れ」で アカデミー主演女優賞を 獲得しました。

 ガス・トリコニスはダンサーとしてだけでなく、 '60年代末から 映画やTVシリーズの 監督としても 活躍します。 驚いたことに、 彼が監督した作品の中に 2本のエルヴィス関連作が あったのです。

 「ラスト・レター」 (Touched by Love)は デボラ・ラフィン、ダイアン・レインの出演で 1980年に日本でも 劇場公開されましたね。

 "Elvis and the Beauty Queen"は、 エルヴィスとリンダ・トンプソンの 関係を描いた 1981年製作の TVムービーで、 「マイアミ・バイス」で ブレーク寸前の ドン・ジョンソンが エルヴィスを演じました。 下記のYouTubeに これの全篇が アップされてました。

Elvis and the Beauty Queen

 一方、ゴールディ・ホーンの実の娘、 ケイト・ハドソン (Kate Hudson) は ゴールディ・ホーンの 2番目の夫、 歌手であった ビル・ハドソン (Bill Hudson) との間に 生まれました。 私が ケイト・ハドソンを知ったのは、 2000年公開の 「あの頃ペニー・レインと」 (Almost Famous) です。 これはキャメロン・クロウ監督の 自伝的な作品で、 ロック歌手のグルーピーの一人、 ペニー・レインを ケイト・ハドソンが 演じました。 この映画の ケイト・ハドソンは 本当に素晴らしく、 私は一目で 惚れました。 彼女はこの映画で ゴールデングローブ 助演女優賞を受賞。 アカデミー助演女優賞にも ノミネートされ、 彼女の出世作と なりました。 テレビで何度も やってますが、 この映画は 必見でしよう。



(Apr.24, 2015)

ロバータ・シャーウッド (Roberta Sherwood)

 (Mar.16, 2015) 付けの記事で、ボブ・ランニングの母親、 ロバータ・シャーウッドと エルヴィスが 一緒の写真は無いと 書きましたが、 ちゃんと探したら ありました。 ロバータ・シャーウッドは 50年代から 60年代にかけて活躍した ジャズ歌手で、 エルヴィスと共に 1957年6月28日の "Shower Of Stars" というチャリティ・イベントに 参加しました。 Don, Robert, Jerry の 3人の息子がいて、 その内の一人が Bob (Robert, Bobby) Lanning、 ボブ・ランニングなのです。 彼は エルヴィスの 1970年2月のベガス公演と、 続く アストロドーム公演に ドラムスで参加しました。

 調べましたら、驚いたことに、ロバータ・シャーウッドの テレビ・デビューは、 エルヴィスが 6回目の出演を終えた 翌週、 1956年3月31日放送の 「ステージ・ショー」 だったのです。

Roberta Sherwood - Lazy River (1956.03.31 - The Stage Show)

 ロバータ・シャーウッドは、1962年放送の「うちのママは世界一」(The Donna Reed Show) では 3人の息子と共に、 1964年放送の「ルーシー・ショー」(The Lucy Show) では ボブとだけ 出演しています。 どちらの放送でも、 ボブ・ランニングは ドラムを叩いてます。

The Donna Reed Show (1962.05.03)

The Lucy Show (1964.03.02)



(Apr.22, 2015)

エルヴィスと共演した スターの近親者たち (4)

ナネット・ファブレイ (Nanette Fabray)

 50年代から70年代にかけて、テレビ、映画、舞台に大活躍し、 アメリカでは 有名なコメディエンヌだった ナネット・ファブレイは、 シェリー・フェブレー (Shelley Fabares) の実の叔母さんです。 1953年の映画「バンド・ワゴン」(Band Wagon) の中の "Triplets" (三つ子) のパフォーマンスは 特に有名で、 「ザッツ・エンターテイメント2」でも 紹介されました。 真中がナネット・ファブレイ、 左がフレッド・アステア、 右がジャック・ブキャナン。

 この「バンド・ワゴン」では、ナネット・ファブレイは ソロで 「ルイジアナ・ヘイライド」という曲も 歌ってました。

Nanette Fabray - Louisiana Hayride (Band Wagon, 1953)

 「ルイジアナ・ヘイライド」 という曲は、 エルヴィスを有名にした ラジオの番組名と 同じですが、 元々は 30年代の ブロードウエイ・ミュージカルの 曲のようです。

 ヘイライドも クラムベークと同じ ピクニックのことです。 干し草を載せた 荷車に乗って行く ピクニックを ヘイライド、 浜辺に集まる ピクニックをクラムベーク と言います。 ウィリアム・ホールデンと キム・ノヴァクが 共演した映画 「ピクニック」を ご覧になった方なら 分かると思いますが、 ピクニックは 村祭りのような、 その地区の行事の 要素が強いのです。 因みに、 クラムベークの クラム (Clam) とは 二枚貝のことで、 ハマグリも アサリも シジミも 全て英語では クラムと言います。

 映画「バンド・ワゴン」は DVDでも持ってるのですが、 大きなスクリーンで観たくて、 数年前に 「午前十時の映画祭」で 上映された時に、 観に行きました。 フレッド・アステアと シド・チャリシー (シャリース) の下の このダンス・シーンが 本当に素晴らしいです。 振付けはマイケル・キッド。

 シェリー・フェブレー (Shelley Fabares) の Fabares と、 ナネット・ファブレイ (Nanette Fabray) の Fabray と綴りが 異なりますが、 Fabares の方が 本当の名前です。 ご存知のように シェリー・フェブレーは 1962年に 「ジョニー・エンジェル」という No.1ヒットを 出しました。

Shelley Fabares - Johnny Angel (1962)

 テレビ・ドラマ「うちのママは世界一」で シェリー・フェブレーの 父親役をやっていた カール・ベッツは、 エルヴィスの映画 「カリフォルニア万才」でも 父親役をやってました。



ジンジャー・ロジャース (Ginger Rogers)

 フレッド・アステア (Fred Astaire) とのコンビで 一世を風靡したジンジャー・ロジャースは 5度の結婚をしましたが、 最初の結婚は まだ映画で 有名になる前で、 相手は 人気ボードビリアンの ジャック・ペッパー (Jack Pepper) でした。 すぐに二人は離婚し、 ジャック・ペッパーは 同じく踊り子の ドーン・スタントン (Dawn Stanton) と再婚したのですが、 そこに生まれたのが、 映画「キッスン・カズン」に出ていた シンシア・ペッパー (Cynthia Pepper) です。 ですから、 ジンジャー・ロジャースは シンシア・ペッパーの 「義母」にあたるのです。

 シンシア・ペッパーの父親、ジャック・ペッパーは ボブ・ホープと親友で、 第二次世界大戦中は ボブ・ホープの アメリカ軍の 慰問活動にも参加し、 戦後も ボブ・ホープの舞台、 テレビ、 映画で 共演しました。 彼は最初は フランク・ソルト (Frank Salt) と 「ソルト&ペッパー」 (塩と胡椒) というコンビ名で ブロードウェイの舞台に 立ってました。 ジンジャー・ロジャースとは 「ジンジャー&ペッパー」 (生姜と胡椒) という コンビ名だったのです。

 シンシア・ペッパーは 1960年にフレッド・マクマレー主演のテレビ・ドラマ、 「パパ大好き」の準レギュラー出演から、 1961年に 「Margie」という テレビ・ドラマの 主役の座を 射止めました。 この時期に 隣のスタジオで 撮影していた ジンジャー・ロジャースと 何度か昼食を一緒に とったことが あるようです。

 ジンジャー・ロジャースは 映画がトーキーの時代になり、 歌って、 踊れて、 お芝居ができる、 まさに映画界が求めていた スターでした。 下記のこの歌の場面で 彼女は注目されました。

Ginger Rogers - We're In The Money (Gold Diggers of 1933)

 そして、ジンジャー・ロジャースは フレッド・アステアとのコンビで 不動の地位を築きました。 「アステア・ロジャース」映画は 1933年から39年にかけ、 大手の RKO映画社により、 下記の9作品が 公開されました。

■ 空中レヴュー時代 (33年) "Flying Down to Rio"
Fred Astaire & Ginger Rogers - The Carioca

■ コンチネンタル (34年) "The Gay Divorcee"
Fred Astaire & Ginger Rogers - The Continental

■ ロバータ (35年) "Roberta"
Fred Astaire & Ginger Rogers - Smoke Gets In Your Eyes

■ トップ・ハット (35年) "Top Hat"
Fred Astaire & Ginger Rogers - The Piccolino

■ 艦隊を追って (36年) "Follow the Fleet"
Fred Astaire & Ginger Rogers - Let Yourself Go

■ 有頂天時代 (36年) "Swing Time"
Fred Astaire & Ginger Rogers - Swing Time

■ 踊らん哉 (37年) "Shall We Dance?"
Fred Astaire & Ginger Rogers - They All Laughed

■ 気儘時代 (38年) "Carefree"
Fred Astaire & Ginger Rogers - Hypnotic Dance

■ カッスル夫妻 (39年) "The Story Of Vernon And Irene Castle"
Fred Astaire & Ginger Rogers - Waiting For The Robert E. Lee

 80年経つ今でも、フレッド・アステアのダンスは 色あせませんし 、フレッド・アステアに 替わる人も 出てこないですね。

フレッド・アステア、 '68 カムバック・スペシャル
"Fred Astaire - '68 Comeback Special"

 皆さんはご存じないでしょうが、 1968年は エルヴィス以前に、 フレッド・アステアが カムバックした 年でもありました。

 フレッド・アステアは、 1957年のオードリー・ヘップバーンと共演の 「ファニー・フェイス」 (Funny Face)、 シド・チャリシーと共演の 「絹の靴下」 (Silk Stockings) 以来、 ミュージカル映画に 出てなかったのです。 そんな彼が 1968年、 11年ぶりに ミュージカル映画に カムバックするということで、 とても話題になりました。 私は根っからの ミュージカル・ファンですから、 そのカムバック作品、 「フィニアンの虹」 (Finian's Rainbow) も勿論、 封切りと同時に 観に行きました。 しかし、 68才のアステア、 年齢的な衰えは 隠しようもなく、 これが最後のミュージカル となりました。

 「フィニアンの虹」には 当時 私が注目していた 二人の歌手が 出ていました。 ペトゥラ・クラークと トミー・スティールです。

 60年代後半、 米国のナンシー・シナトラに対抗した 英国の歌手は 「ダウンタウン」 (Downtown) のヒットを持つ ペトゥラ・クラーク (Petula Clark) でした。 そんなペトゥラ・クラークに エルヴィス映画出演の オファーが あったのですが、 ペトゥラ・クラーク側は 断りました。 その映画は 「ゴー、ゴー、ゴー」だとの 噂もありますが、 時期的にみて、 「スピードウェイ」だと 私は思ってます。 「フィニアンの虹」と 「スピードウェイ」を 天秤にかければ、 誰だって 「フィニアンの虹」を 選ぶでしょう。 翌年、 ペトゥラ・クラークは ピーター・オトゥール主演の 大作ミュージカル、 「チップス先生さようなら」 (Goodbye, Mr. Chips) にも出ましたけど、 この2本だけで 彼女の映画挑戦は 終わりました。

Petula Clark - Downtown (1965)

 トミー・スティール (Tommy Steele) は、 50年代、 クリフ・リチャードの登場まで、 「英国のエルヴィス」 と呼ばれた歌手です。 古い洋画雑誌を見て、 ずっと 気になってた人でした。 そんな彼が 突然、 67〜68年に3本続けて、 ミュージカル映画に 出たのです。 「最高にしあわせ」 (The Happiest Millionaire)、 「心を繋ぐ6ペンス」 (Half a Sixpenee) と 「フィニアンの虹」です。 でも、 デビューから 10年も経った彼は、 どちらか言えば、 「英国のエルヴィス」より 「英国の坂本九」 のような感じでした。

Tommy Steele - Rebel Rock (1957)

 2008年、トミー・スティールが突然、変なことを言い出したのには 驚きました。 あるインタビューで、 「軍隊時代のエルヴィスに ロンドンを案内した」 と言い出したのです。 (下の記事参照)

Did Elvis Presley visit Tommy Steele in London?

 エルヴィスの名前を使ってでも、 注目を浴びたい人って、 何処にでもいるものですね。



(Apr.18, 2015)

エルヴィスと共演した スターの近親者たち (3)

マリオ・ランツァ (Mario Lanza)

 オペラ歌手であり俳優のマリオ・ランツァ(ランザ)は、 「さまよう青春」 「闇に響く声」で エルヴィスと共演した ドロレス・ハート (Dolores Hart) の 叔父さんなのです。 第二次世界大戦中、 マリオ・ランツァは 徴兵され、 軍務に服してる時、 駐屯先で ドロレス・ハートの父親、 バート・ヒックス (Bert Hicks) と 知り合います。 そして、 バート・ヒックスが 妹のベティ (Betty) を マリオ・ランツァに 紹介すると、 お互いに ひと目ぼれし、 まだ戦時中の 1945年4月13日に 二人は結婚しました。

 1921年1月31日、 フィラデルフィアに生まれたマリオ・ランツァは、 1945年の除隊後すぐに 歌手として 人気が出ます。 1950年、 映画 "The Toast Of New Orleans" の劇中で歌った "Be My Love" が100万枚の セールスを記録する 大ヒットとなり、 続いて、 "The Loveliest Night Of The Year" "Because You're Mine" もミリオン・ヒットとなり、 彼は トップ・スターになりました。

Mario Lanza - Be My Love
Mario Lanza - The Loveliest Night Of The Year
Mario Lanza - Because You're Mine

 マリオ・ランツァは8本の映画に出ていますが、 日本で劇場公開されたのは、 エンリコ・カルーソの 生涯を描いた 1951年の作品、 「歌劇王カルーソ」 (The Great Caruso) の1本だけです。


 マリオ・ランツァの奥さん、ベティの故郷、シカゴでコンサートを行った時の集合写真。ドロレス・ハートはまだ7才で、ドロレスの父親、バート・ヒックスは俳優でした。

 エルヴィスは1972年のインタビューで 「17、8才の頃、 マリオ・ランツァのレコードを 持っていた」 と語っています。 また、 プリシラも、 「エルヴィスは繰り返し 何度もランツァの "The Student Prince" のレコードを 聴いていた」 と語っています。 "The Student Prince" は 1954年製作の ミュージカル映画で、 マリオ・ランツァは 映画の画面には 出ていませんが、 主役男優の 歌の吹き替えをやりました。 "The Student Prince" は一般的には 「学生王子」と 訳されていますが、 映画の公開時、 皇太子と 美智子妃のご成婚に 日本中は 沸き返っていたことから、 「皇太子の初恋」 というタイトルで 公開されました。

 同じRCAレコードのトップ・スターであった マリオ・ランツァと エルヴィス。 ドロレス・ハートが マリオ・ランツァの 姪であると知れば、 エルヴィスのことですから、 きっと マリオ・ランツァに 会いに出かけたと 思うのです。 実際に二人が 会ったという 噂もありますが、 それが事実かどうか 分かりません。 マリオ・ランツァは 1957年5月に 妻子と共に イタリアのローマに移住し、 1959年10月7日に ローマの医院で 38才の若さで 亡くなってますので、 時間的に 会えたかどうか、 私は 会えなかったと 思ってます。

 上のグレースランドのTVルームを写した写真を見てください。 棚の上の レコード・プレーヤーの横に マリオ・ランツァのLPが 見えますよね。 これは 1962年に発売された "I'll Walk With God" というLPなのですが、 このLPに収められていた "Somebody Bigger Than You And I" の歌い方に エルヴィスは 影響を受けてるように 思えます。

Mario Lanza - Somebody Bigger Than You And I (1952)
Elvis Presley - Somebody Bigger Than You And I (1966)

 ランツァは1950年から1952にかけて、 クリスマス・ソングや 讃美歌のレコードを 出していまして、 下記の曲も エルヴィスに 似てるような 気がします。

Mario Lanza - You'll Never Walk Alone
Elvis Presley - You'll Never Walk Alone

Mario Lanza - Silent Night
Mario Lanza - Oh Little Town of Bethlehem
Mario Lanza - The Lord's Prayer
Mario Lanza - The First Noel



テイタム・オニール (Tatum O'Neal)

 9歳の時に父親のライアン・オニール (Ryan O'Neal) と出演した映画 「ペーパー・ムーン」で、 アカデミー助演女優賞を 受賞した テイタム・オニールの母親は、 映画「夢の渚」で エルヴィスに言い寄る 民生委員の役をした ジョアンナ・ムーア(Joanna Moore) です。

 「夢の渚」が初めて日本でテレビ放映された時、 時間の関係で、 ジョアンナ・ムーアの 出演場面が全て カットされました。 ですから、 主題歌である「夢の渚」までもが カットされたのです。

 ジョアンナ・ムーアは1934年生まれで、 数多くの映画や テレビ・ドラマに出ており、 最も有名なのが 人気テレビ番組 「メイベリー110番」 (The Andy Griffith Show) のアンディ・グリフィス演じる 主人公の恋人役らしいです。 その時に 歌も披露しました。

Joanna Moore - Down In The Valley (Andy Griffith Show)

 このビデオの右の子供は 今や大監督になったロン・ハワードです。 彼は アンディ・グリフィスの 息子役として 8シーズンもの間 出演していました。 ジョアンナ・ムーアは 歌の上手さを買われて、 シングル盤を1枚 出しています。

Joanna Moore - By The Time You Get To Phoenix

 ジョアンナ・ムーアは1963年にライアン・オニールと結婚(67年に離婚)しました。 そして、 テイタム・オニールが 1963年11月5日に 生まれました。 ライアン・オニールは 「ある愛の詩」など 数々のヒット作に 恵まれました。

 テイタム・オニールは「ペーパー・ムーン」に続いて、 1976年に「がんばれ!ベアーズ」も ヒットしました。 1986年、 テニスの ジョン・マッケンロー (John McEnroe) と結婚後は 休業してましたが、しばらくして 女優業に復帰しました。 エルヴィスの孫娘 ライリー・キーオが 出演した 「ランナウェイズ」にも 出ていましたね。



(Apr.16, 2015)

エルヴィスと共演した スターの近親者たち (2)

ナンシー・シナトラ (Nancy Sinatra)

 ご存知のように、ナンシー・シナトラは フランク・シナトラ (Frank Sinatra) の娘です。 そして、 1960年に エルヴィスが ゲスト出演した 「フランク・シナトラ・ショー」で ナンシーは デビューするのです。 グレースランドでの 記者会見で、 エルヴィスの帰還を 迎えに行った ナンシーとの関係を 問われたエルヴィスは 「トミー・サンズに 怒られるよ」 と答えたように、 当時、 歌手のトミー・サンズと 婚約しており、 同年9月に 二人は結婚しました。

Nancy Sinatra & Tommy Sands Wedding (1960)

エルヴィスの前に トミー・サンズがいた
"Before Elvis, there was Tommy Sands"


 左の写真、エルヴィスとトミー・サンズ、1954年末頃、ヒューストンにて。
 右の写真、トミー・サンズとパーカー大佐、1953年頃。

 トミー・サンズは1937年に芸能人の両親の元、 シカゴで生まれます。 中学の頃、 ルイジアナ州 シェルヴポートに 引っ越し、 ルイジアナ・ヘイライドに 出たり、 ローカル・ラジオ局の DJをやったり、 音楽関係の仕事をします。 1952年、 両親の離婚を機に テキサス州 ヒューストンに 引っ越し、 そこで仲間と カントリー・バンドを組み、 レコードを出し、 ライヴ活動を しているところを 当時 エディ・アーノルドの マネージャーをしていた パーカー大佐が トミー・サンズに スター性を見出し、 マネージャーに 名乗り出るのです。 1953年、 パーカー大佐は まだ15才のトミー・サンズを RCAと契約させ、 7枚のシングル盤を 出させるも、 どれもヒット しませんでした。

 その頃、パーカー大佐は トミー・サンズより もっと魅力的な エルヴィス・プレスリーを 見つけるのですが、 1956年末、 エルヴィスに出演依頼があった "The Singin' Idol" という 初めてロック歌手を扱った テレビ・ドラマの主人公に パーカー大佐は トミー・サンズを 推薦します。 その "The Singin' Idol" が話題になり、 挿入歌の "Teen Age Crush" が全米第3位の 大ヒットとなるのです。 その後、 トミー・サンズは 1958年、 "Sing Boy Sing" で映画デビューするなど、 その甘いマスクと 甘い歌声で、 映画、 テレビで大活躍。 ティーンエージャーの アイドルになりました。

Tommy Sands - Teen Age Crush (The Ed Sullivan Show)
Tommy Sands - Soda Pop Pop

 日本の映画や音楽雑誌にも よく載ってたトミー・サンズですが、 1965年に ナンシー・シナトラと 離婚した後、 仕事がバッタリ 無くなります。 一説では、 フランク・シナトラの 圧力がかかったと 言われてますが、 1965年は エルヴィスを初めとする アイドル受難の時代に入った 年でもありました。

リー・ヘイゼルウッドと ナンシー・シナトラ

 デビュー以来鳴かず飛ばずだったナンシー・シナトラを ブレークさせたのは リー・ヘイゼルウッド (Lee Hazlewood) でした。 1966年に 「にくい貴方」 (These Boots Are Made For Walking) が、 1967年に ナンシーとフランク・シナトラの 親子共演による 「恋のひとこと」 (Something Stupid) が全米第1位の ヒットになるなど、 60年代後半は ナンシー・シナトラが 名実ともに アメリカを代表する 女性シンガーでした。 そんな絶好調の ナンシー・シナトラと エルヴィスが共演 ということで、 私はすごく楽しみにして、 見に行った 「スピードウェイ」 でしたが、 映画のナンシー・シナトラからは 魅力が 感じられませんでした。

Nancy Sinatra - These Boots Are Made for Walking (1966)
Frank & Nancy Sinatra - Something Stupid (1967) 恋のひとこと
Nancy Sinatra - You Only Live Twice (1967) 007は二度死ぬ

リー・ヘイゼルウッドと 娘のデビー

リー・ヘイゼルウッドと エルヴィス

 エルヴィスはリー・ヘイゼルウッドの曲を 録音しています。 「エルヴィス・カントリー」の中の "The Fool" という曲で、 1956年に サンフォード・クラークが ヒットさせました。 作者のクレジットが Naomi Ford になってますが、 これは偽名で、 実際の作者は リー・ヘイゼルウッドです。 当時、彼は フェニックスで DJをしていました。 自分のレコードを 自分の番組で かけづらく思ったのでしょう。 奥さんの名前、 Naomi Shackleford から Naomi Ford と付けたのです。 歌ったサンフォード・クラークも リー・ヘイゼルウッドの 地元の友人でした。 尚、 リー・ヘイゼルウッドは 朝鮮戦争当時、 日本に滞在し、 米軍向けラジオ放送の DJを していたそうです。

Sanford Clark - The Fool (1956)
Lee Hazlewood - The Fool (1966)
Elvis Presley - The Fool (1970)



(Apr.13, 2015)

エルヴィスと共演した スターの近親者たち (1)

 大女優、ジョーン・クロフォードの娘、 クリスティーナ・クロフォードが エルヴィスの映画 「嵐の季節」に 出ていたことは書きましたが、 何人か他にも 有名人の近親者や 遠縁の人が エルヴィス映画に 出ています。

ゲィリー・クロスビー (Gary Crosby)

 「フロリダ万才」でエルヴィスのバンド仲間の一人として出ていた ゲィリー・クロスビー は勿論、 大歌手、 ビング・クロスビー の息子ですね。 ビング・クロスビーは、 「ホワイト・クリスマス」などの 大ヒット曲を持ってただけでなく、 俳優としても 数十本の映画に 出演しており、 1944年、 「我が道を往く」で アカデミー主演男優賞を 獲得しました。 エルヴィスは沢山 ビング・クロスビーの曲を カバーしてます。

True Love - Elvis Presley (1957)

True Love - Bing Crosby & Grace Kelly (1956)

 映画「上流社会」の中で ビング・クロスビーが歌った「トゥルー・ラヴ (True Love)」も エルヴィスは カバーしましたが、 その録音の経緯が 面白いですね。

 エルヴィスが「さまよう青春」の挿入歌のレコーディングの為に スタジオに入ったのですが、 いつものことながら エルヴィスは なかなか 録音予定の曲に 取り掛かりません。 それに業を煮やした スタッフの一人が、 エルヴィスが休憩で スタジオを出た隙に、 エルヴィスの譜面台の 一番上に 録音すべき曲の 楽譜を置いたのです。 休憩から戻ってきた エルヴィスは それに気づき、 機嫌を損ねて、 彼は 予定になかった 「トゥルー・ラヴ」を 歌い始めました。 エルヴィスの出版社は 「トゥルー・ラヴ」の作家、 コール・ポーターの出版社と 取引が無かったために、 発売の許可を得るのに 奔走したそうです。

 ゲィリーとビング・クロスビーの親子が共演した 貴重な映像も 残っています。

Bing Crosby and Gary Crosby - Hey Jude (1969)


 左より、David Leanse (NARAS代理人), Chris Crosby, Elvis, Bill (William) Cole

もう一つのグラミー賞

 エルヴィスは1971年8月に NARASより Bing Crosby Award を受賞しました。 現在、この賞は名前を変えて、 Lifetime Achievement Award (生涯業績賞) と呼ばれていますが、 グラミー賞の 特別功労賞のことなのです。

 上の写真は、その受賞の楯が ラスベガス公演中のエルヴィスに 届けられた時に 撮られたものですが、 この写真のキャプションで、 クリス・クロスビーのことが 間違って ビング・クロスビーの息子と 紹介されたがために、 エルヴィス・ファンの間では、 クリス・クロスビーを ビング・クロスビーの息子と 信じてる人が 多いのです。 実際は、 ビング・クロスビーの弟の ボブ・クロスビー (Bob Crosby) の息子なのです。 クリス・クロスビーも 俳優や 歌手活動をしてました。

Only The Young - Chris Crosby

 ビング・クロスビーの弟のボブ・クロスビーも有名な人で、 1953年から 57年にかけて、 "The Bob Crosby Show" という TV番組を 持ってました。 そして この番組に レギュラー出演していたのが、 映画「ヤング・ヤング・パレード」で エルヴィスの 恋の相手役をした ジョーン・オブライエン (Joan [Joanie] O'Brien)です。 彼女は歌手で デビューしてたのです。

Crying In The Chapel - Joan O'Brien (1953) The Bob Crosby Show

 ジョーン・オブライエンはその後、 女優に転向するのですが、 看護婦のような 役しかこないのに 嫌気がさして、 女優業も止め、 芸能界を引退しました。 その後の彼女は 子育てしながら、 70年代に入り、 ヒルトン・ホテル・チェーンの 重役として 成功しました。

The Mellomen

 Bing Crosby Award 授与の写真の中の 右端の男性に 注目してください。 彼の名前は ビル・コール (Bill [William] Cole) といいます。 彼も NARASの関係者として 出席したと思うのですが、 彼はエルヴィスの いくつかの サントラ録音で、 バック・コーラスを務めた ザ・メローメン (The Mellomen) の メンバーでした。 エルヴィスとは 顔なじみの関係 だったが為に 派遣されたのではないかと 想像されます。

 ザ・メローメンは、エルヴィスの60年代のレコーディングにおいて、 ザ・ジョーダネアーズが スケジュールの都合で 参加できなかった時に限り、 エルヴィスの バック・コーラスを務めた グループです。 1962年の 「ヤング・ヤング・パレード」の サントラ録音に 参加したのが 最初で、 その後、 いくつかの サントラ録音に 参加しました。 彼らはディズニーの 映画やテレビ番組に 数多く出てるようですが、 エルヴィスの映画に 顔を出したのは、 下の写真の 「トラブル・ウイズ・ガールズ」 のみのようです。 ビル・コールは アニタ・カー・シンガーズ (Anita Kerr Singers) が西海岸で 仕事する時の メンバーでもありました。



(Apr. 9, 2015)

 <エルヴィス関連 テレビ番組のお知らせ>

■ 4月15日(水) 23時00分 〜 23時54分 (54分)
  BS-TBS SONG TO SOUL
  「好きにならずにいられない」 エルヴィス・プレスリー

(内容)
 エルヴィス・プレスリーが1961年に発表した 「好きにならずにいられない」。 プレスリーの 代表的なバラードの ひとつとして知られ、 アンディ・ウィリアムス、 スタイリスティックス、 UB40など 数多くのアーティストに カヴァーされている 名曲。 この曲は、 18世紀のフランスで 生み出された 歌曲「愛の喜びは (Plaisir D'amour)」の メロディを元に 作曲されたと 言われている。 番組では 「愛の喜びは」の作者 マルティーニに詳しい 研究家を訪ね、 「愛の喜びは」について 語ってもらった。 また、 「好きにならずにいられない」の作者 ルイジ・クレアトーレや、 エルヴィ スをよく知る レコーディング・ドラマー、 ツアー・マネージャー、 さらには、 映画「ブルー・ハワイ」の 共演女優 ダーリーン・トンプキンスを 取材。 エルヴィスの 当時の映像も交え、 「好きにならずにいられない」が 誕生するまでの経緯を 探っていく。

■ 4月27日(月) 19時30分 〜 20時00分 (30分)
  5月 2日(土) 08時30分 〜 09時00分 再放送
  MTV Japan BACK TO THE ROOT

(内容)
 アーティストや著名人が、自身が最も影響を受けた アメリカのスーパースターの ルーツを訪ね、 その魅力や生き様を 自らの手で 紐解いていく。 第4回目となる 今回のゲストは、 前回に引き続き OKAMOTO'S のボーカルを務める オカモトショウ。 日本の若きロック・スターが、 "キング・オブ・ロックンロール"こと エルヴィス・プレスリーの 足跡を訪ねて、 テネシー州メンフィスを 旅する。



(Apr. 3, 2015)

「嵐の季節」の中の "ワイルド" な女

 クリスティーナ・クロフォード、 ジョーン・クロフォードの養女。 ジョーン・クロフォードって?

 私が洋画をよく見始めた1960年代中頃、 ジョーン・クロフォードは すでに半ば 映画界を 引退したような 状態で、 過去の大女優という イメージでした。 そして、 彼女の名前が ゴシップ欄とかに 出る度に、 彼女は ペプシ・コーラの社長 という肩書も併せて 紹介されたので、 今でも ペプシ・コーラの瓶を見ると、 ジョーン・クロフォードの名前が 頭に浮かんできます。

 「メンフィス・マフィアの証言」という本の中に、 このジョーン・クロフォードの娘、 クリスティーナ・クロフォードが エルヴィスに 対してとった "悪態"が、 ビリー・スミスによって 暴露されています。

 クリスティーナ・クロフォードが ジョー・エスポジトに会いに 家にやってきたことがあった。 その時、 エルヴィスは 葉巻を吸っていて、 エルヴィスが 葉巻を取り出す度に、 ジョーがそれに 火を点けてやっていた。 すると、 クリスティーナが 手を伸ばして、 葉巻を取って、 それを折るんだ。 エルヴィスは言ったよ。 「やめろよ。可笑しくもない」。 そしてエルヴィスは 新しい葉巻を 取り出し、 ジョーが火を点けた。 するとまた 彼女が葉巻を折った。 エルヴィスが 「丁寧にお願いしたよな」 と言うと、 彼女は 「彼が葉巻の火を 点けることないわ」 と言ったんだ。 エルヴィスは 「いいかい、 彼は僕の下で 働いてるので、 僕が葉巻を取り出すと、 彼が火をつけることに なってるんだ」 と言った。

 でも、それが3回も続くと、さすがのエルヴィスもキレた。 二人は罵り合いになり、 エルヴィスが 「このクソアマ」 と言うと、 クリスティーナは 持っていた飲み物を エルヴィスの顔に かけた。 その場が一瞬 凍りついたよ。 そして、 エルヴィスが 「問題解消だ!」 と言うなり、 大理石のテーブルの 上に乗り、 彼女のポニーテイルの 髪をつかみ、 引きずり、 彼女の尻を蹴飛ばし、 ドアから叩き出した。 しばらくして、 彼女は戻ってきて、 謝った。 彼女は、 エルヴィスが 彼女の母親と同じように 皆をこき使っていたことに 耐えられなかったと 説明した。

 こんな騒動を起こしたクリスティーナ・クロフォードですが、 彼女もまた エルヴィスの思い出を 語っています。

 私が21才の時、小さな役だったけど、 「嵐の季節」で エルヴィスと 共演したことがあるの。 私たちの世代にとって、 エルヴィスは キングであり、 最も重要な エンターティナーだった。 彼は 兵役から戻ったばかりで、 若くて、 健康だった。 彼は誰に対しても 親切で、 良い声をしていた。 彼は自分のルーツを とても意識していて、 彼の家のパーティでは、 彼はゴスペルばかり 歌っていた。 彼はマヘリア・ジャクソンを 師と仰いでたの。 自由な時間の彼は いつも ゴスペル・シンガーだったわ。

 スタジオの彼は、昼食もそっちのけで、 フットボールに興じていた。 有り余るエネルギーを 発散してたのね。 ある時、 歌を歌ってくれたことがあった。 とても美しい歌だったので、 「新曲なの?」 って訊いたら、 「古いフォークソングだ」 と言った。 「商業的でないから RCAは 録音させてくれない」 とも言ってたわ。 他にも、 エルヴィスは 監督のジェリー・ワルドに 歌のシーンを 全部カットするよう 頼んだけど、 断られたの。

 クリスティーナ・クロフォードの "事件" があったその夜、 エルヴィスの家には 他にも ゲストが呼ばれていた。 そのひとりが バズ・ケーソン (Buzz Cason) だった。 バズ・ケーソンが 語るには・・・。

 僕はエルヴィスとジャムしたことがあるんだ。 ピアノを弾く彼を囲んで、 僕とリチャード・ウイリアムスが 歌ったんだ。 あの頃、 僕たちは The Statues という名前で "Blue Velvet" というレコードを 出していた。 僕とR・ウイリアムスと 元ジョーダネアーズの ヒュー・ジャレットの 3人組だった。 チャート的には 90位とか 最低のランクだったけど、 僕たちは喜んでいた。 その時だよ、 エルヴィスの友人が 「その曲をエルヴィスに 聞かせてやってくれないか」 と言ったんだ。 僕は最初 断ったよ。 誰の前でも歌えるけどさ、 エルヴィスの前で ソロを歌うなんて、 恐ろしいじゃないか。 でも、断りきれなくて、 歌ったんだ。

The Statues - Blue Velvet (1960)

 そして、エルヴィスが「僕の新曲を聴く?」って、 アセテート盤を出して、かけてくれたのが "It's Now Or Never" だった。 あの頃のエルヴィスは オペラに はまってたんだ。 それから 彼が録音したばかりの "Surrender" をかけてくれた。 この曲も 彼のアイデアだと言ってた。 彼は エンリコ・カルーソの レコードが 気に入ってたんだ。 RCAや エルヴィスの仲間以外、 外部の人間で "Surrender" を聴いたのは 僕たちが最初だったと思うよ。

 その夜に "事件" が起こったんだ。 僕たちはTVルームで 「ボナンザ(カートライト兄弟)」 を見ていた。 エルヴィスは 葉巻を吹かしていて、 クリスティーナ・クロフォードが エルヴィスを くすぐったり、 からかったり、 明らかに エルヴィスの関心を 引こうとしてたんだ。 その時 突然、 クリスティーナが カクテル・グラスの中身を エルヴィスの顔に かけたんだ。 葉巻がプシューって 音がしたよ。 エルヴィスは 跳び上がって、 「おのアマを家から出せ!」 って叫んで、 彼女の髪の毛をつかんで、 玄関から 引きずり出したんだ。 数分後、 エルヴィスは 戻ってきて、 騒ぎを詫びた。 「僕はあんな風に 女性を扱ったことは ないんだが、 彼女は狂ってた。 何がなんだか さっぱり分からない」と。 30分後、 クリスティーナも 戻ってきて、 二人は出て行った。

 僕たちのグループはうまく行かなくて、 すぐにハリウッドを引き払い、 2度とエルヴィスに 会うことは なかったけど、 エルヴィスの曲を 聴くたびに、 あの時の "騒ぎ" を思い出したものさ。

 バズ・ケーソンは 1957年に エルヴィスに 会ったことがあります。 彼は学生時代に、 ナッシュビルで最初の ロックンロール・グループ、 The Casuals を結成して、 プロ・デビューしました。 そして、 キャンペーンで メンフィスのラジオ局 WHBQ のDJ、 デューイ・フィリップスを 訪ねた時、 たまたま 旧友のD・フィリップスを 訪ねて来た エルヴィスと 廊下で ばったり 会ったのです。 その時の写真が これ -->

(左から Chester Power, Richard Williams, Elvis, Buzz Cason)

 バズ・ケーソンは '70年代初頭からナッシュビルで 録音スタジオを経営しており、 エルヴィスが '77年1月に アルバム用の新曲を 録音する予定だった スタジオが、 バズ・ケーソンが 経営していた Creative Workshop Recording Studio だったのです。 結局、 エルヴィスは現れず、 新曲が録音されることは 無かったのですが、 空き時間を利用して "Way Down" のオーバーダブ・セッションが 行われました。 セッション・ノートには 書かれてませんが、 この時 バズ・ケーソンも コーラスに参加したようです。

DVD 「愛と憎しみの伝説」

 ジョーン・クロフォードの養女クリスティーナが出版した暴露本 「親愛なるマミー」 (Mommie Dearest) は、 1981年に フェイ・ダナウェイ主演で 映画化され、 第2回 ゴールデンラズベリー賞において、 最低作品賞、 最低脚本賞、 最低女優賞など 5部門を受賞しました。


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