米原の曳山祭は鎮守湯谷神社の祭礼に長浜の曳山祭を見習って、江戸時代の後半期に始まったといわれています。『改訂近江国坂田郡志』第4巻の湯谷神社の項には「明和7年(1770年)、3輛の曳山を造り、祭日に児童をして狂言を演ぜしむ」と記述してあります。
現在、存在する曳山が明和7年(1770年)に一斉に建造されたとは考えられませんが、交通の要衛としての繁栄にともない明和年間(1764〜72年)のころ長浜をお手本として、曳山狂言が始まったものと思われます。そのため
曳山そのものは、年代的にも、構造の上からも長浜の曳山に一歩を譲りますが、各町の子供役者が演ずる芸においては、決してひけをとらず、古来「山を見るなら長浜、芸を見るなら米原」などと言われています。
米原曳山祭のよさの1つは、各山組の若連中が、いなせな半被姿で曳山を曳山を曳行することにあり、最近では子供も小さな半被を着て綱をひいています。宵宮には駅の西側へ跨線橋を越えて曳山を曳行し、その夜は、東側へ戻り湯谷神社への急な坂道を囃子にあわせて登っていきます。この様子は米原曳山祭の最大の見せ場です。