湯谷神社は、JR米原駅より東へ370メートル、坂を上った太尾山の麗にあります。祭神は大己貴命、水門神、保食神を祀っています。元は六所権現社といい、社伝によると、出雲国の人が諸国巡業の途中、この山谷に至り、土地の人に地面を穿たせたところ、たちまちに温泉が湧き出しました。湧き出る温泉につかると諸病はたちまち直り、荒地であったこの地を開き、稲の種をまいたところ、大豊作になり、人々は大変に喜びました。その神恩に感謝して祠をつくり、大己貴命他2柱の神様をお祭したのが当社の始まりであるといわれています。しかし、温泉は、ある人が葦毛の馬を湯坪にいれて洗ったために涸れてしまったといい(『近江興地史略』)、そのお湯は摂津国の有馬温泉のほうへ移ってしまったといわれています。
寿永2年(1183年)、米原の地が日吉大社の社領となり、当社はその鎮護神とされたため、一名山王権現社と称されました。中世戦国時代には、太尾山に守護大名京極氏の支城が築かれ、当社はその守護神となりました。城主の米原氏も氏神として崇敬し、社殿修築や社領の寄進を行いました。永享8年(1436年)11月15日の刻銘のある石灯籠は米原氏が寄進したものです。また、文明3年(1471年)、太尾城での戦いで、神社は消失しましたが、米原氏が再興したことが現存する棟札によってわかっています。
江戸時代、彦根藩主井伊氏は米原の地を重要視すると共に、当社への崇敬厚く社殿修理、神器等の寄進が多くありました。現在の拝殿は天保4年(1833)の造営です。
社宝には、天文14年(1545)今井備中守寄進の鰐口、井伊直惟寄進の手水鉢、井伊直幸寄進の神輿1基、井伊直中寄進の木製金箔塗狛犬1対などがあります。また、境内に旧本陣北村源十郎宅の建物の一部が移築してあり、これは明治11年(1879)、明治天皇が、北陸巡幸の際、休憩に使用されたものです。
広い境内には、現在桜樹が多く、春の花、秋の紅葉と人々の心をなごませ、町民の憩いの場となっています。
平成15年より湯谷神社から青岸寺までの遊歩道が整備され、多くのハイカーが散策されるようになりました。