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事件録 明末、宮廷内では後継者を巡る争いが起きていた。 梃撃事件 宮廷で鄭貴妃を巡る謀略が起こっている最中、事件が起こった。 万暦43(1615)年5月、蘇州出身の張差なる男子が棍棒を持って皇太子の暮らす慈慶宮に侵入。 門番の宦官を殴りつけ、そのまま捕らえられた。 張差を取り調べた刑部提牢主事王之ァは「犯人は宦官に頼まれてやった」と自供している事を発表した。 たちまち、その背後にいるのは鄭貴妃だという噂が広まり、内外はざわめき立った。 これが梃撃事件である。 鄭貴妃は帝の元へ走り、泣いて自分は関わり無いと訴えた。 それに対し帝は「廷臣に説明しても理解を得られないだろうから、自ら太子のもとへ行き許しを乞え」と述べた。 鄭貴妃は無実であること、そしてこれまでの皇太子への非礼を泣いて謝罪し、皇太子もまた謝罪した。 帝は大変喜んだという。 さらに梃撃で生じた混乱を収拾するべく、帝は一計を案じている。 久しぶりに万暦帝は慈寧宮において廷臣と面会。万暦帝の後ろには家族が座っており家族団らんをアピールした。 皇太子もこの事件をこれ以上追及しない様通達し ほどなくして、侵入者張差は処刑された。 事件は錯乱した男が後宮に乱入したという事で解決した。 おそらく、帝としては廷臣の混乱が拡大する事よりも、寵愛する鄭貴妃の身に危険が及ぶことを恐れたのだろう。 彼女を守るために会いたくも無い廷臣に20年ぶりに面会したのである。 皇太子はそれを察して鄭貴妃を責める事は出来なかった。 そしてこの事件がこれ以上追求されることを恐れて、芋づる式に逮捕することを禁止したと思われる。 帝は皇太子の裁きを喜んだとされている。 それは息子の寛容さが嬉しかったのではなく、鄭貴妃に害が及ばなかった事を喜んだのだろう。 これによって帝は息子を認めたわけではない。 自らが危篤状態となっても息子には伝えようとしなかった。ここに両者の深い軋轢を感じさせる。 ともかく、この事件は張差一人の犯行とされた。 しかし帝国の中心部、しかも後宮深くにいきなり一人の男が侵入できるだろうか? 鄭貴妃かわいさに事件はうやむやとされ、後宮の闇は暴かれることなく 疑心暗鬼を深めただけに終わったのではないだろうか。
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