事件録 明末三大疑獄
明末、宮廷内では後継者を巡る争いが起きていた。 万暦帝が何となく手を出した女性が長男を産んでしまった。 皇帝はこれを認めようとしなかった。母親から責められ、ようやく我が子と認めたのである。 長男が皇太子となる。その決まりのせいで万暦帝は大いに悩む事になった。 寵愛する鄭貴妃の子供こそ後継者にしたい、内心ではそう思いつつも、それは出来なかった。 廷臣らは何年たっても皇太子を決めない皇帝に苛立ちを感じていた。 両者の間には深い溝があったのである。 加えて鄭貴妃自身、我が子を皇帝にすべく宦官を操り、長男を貶めるべく陰謀を張り巡らせた。 皇長子朱常洛(後の泰昌帝)を巡る陰謀事件「梃撃」、「紅丸」、「移宮」事件を三大疑獄という。
紅丸事件
泰昌帝は亡くなった万暦帝に代わって即位したが、わずか2ヶ月で亡くなった。 あまりに早い死に毒殺の疑いが持ち上がったのである。 事の発端は市井の噂では以下の通りである。 鄭貴妃は泰昌帝に美しい女性を8名紹介した。 泰昌帝はその8名(どうでもよいが4名の説あり)の相手をすべく、薬房を司った宦官崔文昇の勧める強烈な精力剤を飲んだ。 余談ではあるが、張居正の死因も精力剤の飲みすぎとされる。 これが効きすぎた。 誠に情けの無い話だが、帝は一晩に三、四十回も起きるほどうなされたのである。 廷臣は鄭貴妃の指図で崔文昇が動いたと噂した。 楊漣は公然と文昇を非難した。 「陛下はやせ衰え、ますます疲弊している。これは文昇が薬の処方を誤ったためだ。」 単に誤ったのか、それとも意図的か答えが出ないままとなった。 大学士方従哲らが帝に薬の使用を慎むことを請い、帝もそれを受け入れ一時か快方に向かった。 それからしばらくして從哲や英國公張惟賢または各部大臣、楊漣ら帝お気に入りの廷臣が呼ばれた。 「ここ十日ほど体調が良くない」、泰昌帝はそう言った。 廷臣らは弱音を吐かないよう述べたが、このとき帝は死期を悟っていた様である。 「皇太子を古の聖君のようにして欲しい」と廷臣に願い、自らのみたまやについて述べた。 「これが朕の寿宮なり」そういう帝に、従哲らはただただ泣くばかりであった。 再び帝は廷臣にこう尋ねた。「鴻臚官(外国人の接待、祭典を司る)の勧めた薬師はまだいるか?」と。 これが紅丸事件の始まりである。
帝の質問に、従哲はこう答えた。 「鴻臚丞李可灼のことでしょうか。かの者は仙人の処方を知ると言っていますが、私どもは信じておりません」 しかし皇帝たっての望みであり、命令であれば断れない。 廷臣は下げられ、李可灼が皇帝に召された。 李可灼の診断は適切であったので帝は彼を信用した。 この時、李可灼が薦めた薬は紅く丸いものであったので、紅丸と呼んだ。 それを飲んだ帝は容態が安定し、食事もとれた。李可灼を「忠臣、忠臣」と何度も褒めた。 李可灼が退出した後に再び、紅丸を服用したと伝えられている。 彼が言うには「陛下は薬の効力が無くなる事を恐れており、もう一個所望した」と。 医師らはそんな立て続けに飲むのは危険だと急ぎ伝えよと宦官に伝えたが、「以前より良くなった」との返事が返ってきた。 彼等の危惧は現実となった。帝は翌日崩御したのである。 内外の廷臣は皆、李可灼を「やはりペテン師だった…」と怨んだ。 従哲は自分に責任が及ぶことを恐れてか、李可灼に銀幣を与えねぎらった。 これは当然、火に油を注ぐこととなった。
「文昇のみ罰せられ、なぜ可灼は罰せられないのか?国法はどこにあるのか?」 「わが身かわいさに可灼に褒美を出した従哲も同罪である」 「医師でもない李可灼を陛下に薦めた廷臣にも責任がある」 「崔文昇と李可灼、そしえ方従哲も誅殺せよ」 「その背後にいるのは何者か?」 様々な意見が出されたが、結論は出なかったし、それどころではなくなった。 間もなく次の「移宮事件」が勃発したからである。
以下は後日談である。 移宮事件が解決し、混乱が落ち着いた天啓2(1622)年4月。 礼部尚書孫慎行が紅丸事件を再び採り上げ、従哲の責任論を問うた。 従哲は辞任することを申し出、帝はそれを慰め諭した。 一部の廷臣はそれで納得しなかったが、吏部尚書張問達と?部尚書汪應蛟が連名で出した奏上で解決した。 「しい逆したというのは言いすぎではないか?確かに医者でもない李可灼を陛下が用いることを止める事が出来なかった。 それならば、その責任はそこにいた廷臣すべてにあるのではないか? 従哲は今、辞任を申し出ているのだから、その通りにするべきである。 そして李可灼も罰せられないのでは公平でない。彼もまた罪があるのである」 李可灼は辺境の守備兵に落とされ、崔文昇は南京に左遷された。 後に、魏忠賢が実権を握り、三案は全て東林党のせいだという事になると状況は一変した。 李可灼は中央へ復帰する事を許され、崔文昇は運河の輸送監督に出世した。 方従哲も復帰させるべきだという意見も出されたが、彼はそれを拒んだ。 あわただしいことではあるが、崇禎帝が即位するとまた一変する。 魏忠賢を嫌った崇禎帝はその一派を粛清した。 崔文昇もその仲間とともに宮門前にて号泣し、帝の許しを乞うたが怒りを買っただけであった。 百叩きされた後、御陵の守備兵となる事を命じられたのである。
ここでも鄭貴妃が登場する。 彼女は美女を進め、その相手をするために皇帝は精力剤を飲み、結局体を壊してしまった。 鄭貴妃は巧妙の策を用いて、ついに憎い皇帝を殺す事が出来たのである。 しかしあくまでこれは噂であり、証拠もない。 何より廷臣の意見を無視して薬を乱用した帝の自己管理の無さこそ、まず批判されるべきである。 強烈な精力剤を薦めた文昇は別としても、李可灼や従哲に罪ありというのは酷すぎるのではないか? (従哲が責任を回避するために可灼に恩賞を与えたのは良くなかったが) 今にも死のうとする人が、藁にもすがる思いで出した願いを果たして無視できるだろうか。 しかも相手は生殺与奪を持つ皇帝である。 「信用できないけれども…」と言いながら、可灼を通さざるを得なかった。 そして李可灼もただ帝に回復してほしいと思って、薬を献上しただけではないだろうか。 彼は医師ではなく、ただの官吏であった。 本来なら一日に何度も服用することの危険性を説くべきであったがそれを怠った。 それが皇帝崩御の悲劇となってしまったのではないだろうか。 あるいは、二度目に皇帝が飲んだ紅丸が疑わしいかもしれない。 李可灼が御所から出てきた後に、皇帝はそれを飲んで亡くなっている。 考えるとキリがない事だが、二度目の薬が果たして本当の紅丸であったかは疑わしい。
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