■その2
「廷撃」、「紅薬」、「移宮」問題、いわゆる三案…皇位継承を巡るゴタゴタは廷臣を真っ二つに分けて対立させた。
同郷同士などからなる有力派閥と、もたれ合いを嫌い清流を自称する一派との対立である。
やがて清流派は東林学院なる塾の影響を受けた者が占め、東林党と呼ばれる様になる。
泰昌帝が東林党一派を重用した事で、既存勢力は権力を失う事になった。
これに対抗するため既存勢力は魏忠賢ら宦官の力を借りる事となった。いわゆる宦官党の登場である。
宦官が介入した事でそれまで舌戦だった争いは一気に血なまぐさくなるのであった。
楊漣が告発して以来、魏忠賢の恨みは深く、反対者をことごとく殺してやりたいと思っていた。
また泰昌期に抜擢された東林党のせいで、影に追いやられていた既存勢力の恨みは大変深いものがあった。
御史張訥、倪文煥、給事中李魯生、工部主事曹欽程等はみな東林一派に報復したいと思っていたのである。
ここに両者の利害は一致し、彼等がお膳立てし、魏忠賢が東廠を使って処理をする事となった。
先に釈放された汪文言が再び逮捕され、許顕純の厳しい取調べで罪を認めたのである。
顕純は逮捕状を用意し、趙南星や楊漣ら20数名が芋づる式に逮捕された。
趙南星らは幸い追放のみで済んだが、楊漣ら6名は追放で済まなかった。
彼等は激しい拷問の末に命を落とし、人々は「六君子」と呼んで彼等の死を悼んだ。
その後、満洲方面で鉄壁の守りを固めた熊廷弼も殺されてしまった。
先帝以来登用されていた清流派の官僚は粛清され、空っぽとなってしまった。
故に魏忠賢に尻尾を振った者や忠賢の親族が異例の数段越えで出世する事となったのである。
天啓6(1626)年、魏忠賢の一派李永貞が宦官李實と共謀し偽りの告発を行った。
中央の弾圧に続いて、今度は地方にその手を伸ばしたのである。
前の應天巡撫周起元が逮捕され、それに連座して高攀龍、周宗建、繆昌期、周順昌、黄尊素、李應昇も捕らえられた。
(高攀龍は逮捕直前に逃走し、その後入水自殺を遂げた)。
蘇州の人々は周順昌が逮捕されるというので集まっていた。
逮捕する役人が東廠の役人だと知ると激怒して暴徒と化し、校尉2名が殴り殺された。
彼等6名もまた楊漣ら同様、拷問の末に殺された。自殺した高攀龍も合わせて「後七君子」と言う。
前述した周順昌は拷問を受けた際、ひたすら魏忠賢をののしり続けた。
後に遺体を引き取りにきた家族が調べてみると彼の歯は砕かれ、指は全て無かったそうである。
いかに取り調べが苛烈であったかが分かる事例であろう。
殺すだけでは飽き足らず、東林党を貶める運動も行った。
「廷撃」などの事件は全て東林党の策謀であり、いかに彼等が怪しげな勢力であるかを宣伝した。
その代表的なものが「三朝要典」なる書物の発行である。
「三朝要典」は霍維華の提案により、顧秉謙が執筆したとされている。
魏忠賢はそれを偉大な書物と喧伝したが、要するに東林党=邪党と述べただけのお粗末な書籍である。
また慮承欽は東林党に属する者の姓名を彫った碑文を建て、天下に彼等を犯罪者と公表した。
ついには御史徐復陽の提案により全国の東林系の塾が活動停止に追い込まれていった。
かくして東林党はその根元から掘り返され、人々は恐れるあまり息を殺し、国から活力が失われたのである。
残されたのは利権をむさぼる大食家ばかりであった。
魏忠賢とその取り巻きのみで手柄を独占し、あるいは功績を捏造して次々と出世や特権を手にした。
霍維華が辺境(満洲族との戦いであろう)で手柄を立てる事を教えたのは、大罪であろう。
満洲族との戦いで手柄を立てる機会は幾らでもあり、辺境ゆえに確かめる者もいないのだ。
彼等は国難を出世の道具としか考えていなかった。
先に紹介したある男が娼家で遊んでいた際、妄言があり捕らえられ、スパイとされた事件はその典型といえる。
スパイを逮捕し、その工作を未然に防いだ「素晴らしい」功績で彼とその一族は爵位や荘田を与えられる。
また自分の子分の宦官を山海関へ派遣して、手柄を独り占めした。
袁崇煥が寧遠にてヌルハチを破った際、魏忠賢はそれを一族の出世に利用した。
魏鵬翼を安平伯に、良棟を東安侯に、良卿は太師となった。
戦勝の恩恵は忠賢派の廷臣にも回され、崔呈秀は兵部尚書に任命されている。
ところが袁崇煥一人なんら報われる事はなかった。
鵬翼や良棟は歩くこともままならない乳飲み子であったのに、である。
赤ん坊がいったい、遼東方面でいかなる功績を立てたのであろうか?
明軍は軍政官僚が手堅く指揮を執りつつも、辺境の満洲族の勢いを止める事は出来なかった。
軍そのものの弱体化や、それ以上に満洲族の錬度が高かったのかもしれないが、
戦っても報われないのであれば、どうして戦うことが出来るであろうか?
魏忠賢は敵対者を弾圧する一方、自分を支える味方作りも怠らなかった。
宦官の中でも王礼乾や李朝欽、孫進ら30名が彼を支え、内廷の守りを固めた。
また外廷の廷臣らの中では崔呈秀、崔呈秀、田吉、呉淳夫、李?龍、倪文煥らは「五虎」と称し謀略面で活躍。
特に呈秀は一門を中央に呼び寄せて忠賢派で固めて、批判できない雰囲気を作った。
武官では悪名名高い許顕純を筆頭に田爾耕、孫雲鶴、楊寰、崔応元が「五彪」と名乗り、殺人・拷問など実行面を担った。
高官らの中でも吏部尚書周應秋、太僕少卿曹欽程等が「十狗」と称する体たらくである。
さらに「乳飲み子」や「孫」を号する者もいた。
宮廷で生き残るためとはいえ、強い者に巻かれようとする様は非常に醜いと言わざるを得ない。
内閣、六部を始め、地方の総督、巡撫も彼の息がかかった人間が送り込まれたのである。
この様な風潮を皇后の張氏は嫌っていた。
彼女がある時読書をしていたので、天啓帝は「何を読んでいるのか?」と問うた。
彼女は「趙高(秦末に暗躍した宦官)伝です」と言い、暗に忠賢の専横をほのめかした。
が、それはすぐ魏忠賢側に漏れてしまった。
報復として皇后の父親張国紀が罪人に仕立てられたのである。
この一件は皇后が皇帝にとりすがった為に、叱責程度で済んだが魏忠賢はもちろん納得しなかった。
再び国紀を告発させ、さらに皇后は国紀の娘ではないというデマを流した。
「さすがにこれはやりすぎだ」と王禮乾らに忠告され、嫌がらせは止んだのである。
皇后とはいえ、反対すれば容赦されなかったと証左といえよう。
魏忠賢はまさにわが世の春を謳歌し、それに追従する動きが多々見られた。
様々な人が魏忠賢に気に入られようと、色々なアイデアを出してくるのである。
浙江巡撫潘汝驍ヘ忠賢の功績を称える祠を建てる事を請うている。
倉場総督の薛貞言は失火で罰せられようとしたが、忠賢のとりなしで罪無しとなった。
この一件で彼を功徳者と称える者が相次ぎ、潘汝驍フ提案に習って皆競って祠を建て始めた。
また役人だけでなく、商人やヤクザの類など庶民レベルでも競い合って祠を建てたと伝えられている。
当時の世相は、熱狂的に人々が富貴に群がった…というべきだろう。
ここで、何より迷惑したのは普通の、力の無い庶民であったと言えよう。
祠を建てるからと土地を奪われ、あるいは樹木を切られ、また建立すると称して金を要求された。
そして当然、誰も訴える事は出来なかったのである。
天啓7(1627)年末には、監生の陸万齢なる者が忠賢を孔子と同列に扱うべきだと主張した。
忠賢を聖人とすべし----権力や利権に対する欲望が、このような軽薄極まる事態を生み出すに至った。
無論、全員がそうというわけではなく、いまだ気骨の士も存在していた。
胡士容は碑文を書くことを拒み、またある者は祠に拝する事を拒否し、皆、投獄され死んでいった。
しかしこの厳しい処罰で、人々はより一層媚びへつらい、大小ともに訴え出る者はいなくなった。
とは言うものの、やはり後ろめたい所があったのだろうか。
当時、彼にへつらう者を「廠臣」と呼んだが、自ら廠臣と名乗る者はさすがに少なかった。
が、詔に「廠臣」という言葉が使われており、魏忠賢としてはそれを誇りに感じていた様である。
山東地方で麒麟が出たという報告があれば、帝から「廠臣が徳を治めているから、仁獣が出た」と褒める詔が出された。
詔の中には「朕も廠臣である」という文言があり、あること無いことが書かれていた。
その低俗で知性のない詔に、心ある者は果たして一体、本当に書いたのは誰かと疑ったという。
この頃出された詔は魏忠賢の偽作であろう(彼は字が書けなかったので代筆させたと思われる)。
この一件からも分かる様に、彼はもはや皇帝も同様であった。
甥の魏良卿は皇帝に代わって皇帝のみが行う天地と先祖を祀る大祭を行っている。
人々は魏忠賢が神器を盗んだと疑ったという。
彼は思いつきで自由に外出する事ができ、夜であれば辻ごとにお供の者が提灯を照らして出迎えた。
青い蓋いのある立派な車を四頭の馬にひかせ、市中にドラの音を轟かせながら黄塵を撒き散らして疾走していく。
左右は美しい衣装をまとった近衛兵に守らせ、コック、俳優、道化師、召使らの長い行列が後に続くのである。
人々は彼を九千歳と呼ばねばならなかった(皇帝を称える「万歳」に対して)。
宮廷においても、士大夫は彼が通り過ぎる際には伏せねばならず、奏上の際は彼の足元に馳せ参じなければならなかった。
客氏は皇后を脅してその動きを制限し、女官や妾を残酷に扱った。
2人は宮廷を牛耳り、まるで自分たちが大明帝国の主であるかの如く振舞った。
その間、帝国全土に計り知れない毒が撒き散らされた。
国家はそれを支える民衆があって始めて存在しうるのではないか?
それなのに、国家を運営する者はいかに自分たちが富貴を得るかばかり考えた。
その結果、民衆のことや天下のことが忘れられ、結果的に自分たちの首を絞めていることにすら気がつかなかった。
力ある者は魏忠賢にへつらって富貴を得ようとし、
力のない者はそれらの犠牲となり、負担を強いられたのである。
魏忠賢はその際たるものだが、明代はその全体を通して多くの混乱に見舞われた。
建文帝と叔父の燕王による内戦、皇帝親征が失敗して皇帝自身が捕虜になるという前代未聞の事件…
王朝の一つや二つが亡んでもおかしくない様な大事件が何度も起こった。
とは言え、明が数百年に渡って存続し得たのは、その自浄能力の高さであったかもしれない。
皇后は家柄など重視されず、全国からそれに相応しい女性が集められた。
それこそ名の知れぬ家庭の娘が皇后になることも出来たのである。
結果的に宮廷には新しい風が入ってきた。
常に風通しを良くすると言うのは明の気風であったかもしれない。
宦官の専横も激しかったが、決してそれが永遠に続く事もなかったのである。
宦官は所詮、皇帝の影にすぎない。皇帝が消える時、また宦官も消えゆく運命にあった。
魏忠賢の栄華にも最後の時が訪れようとしていたのである。
(その3へ続く)