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(April - June, 2011)
(Compiled by Haruo Hirose)
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(June 28, 2011)

リッキー・ネルソン、 "私はこれで歌手になりました"

 リッキー・ネルソンの家族が出演するTV番組 "Adventures Of Ozzie & Harriet"、 1957年1月の放送で、 まだ16才のリッキーが エルヴィスを真似て "Love Me Tender" を少し歌います。 これがきっかけで リッキー・ネルソンの歌が もっと聴きたいと ファンからの リクエストが殺到し、 リッキーは レコードを出すことに なったのです。

 ちなみに、上のビデオで、 お兄さんのデビッドが 「王様と私」の ユル・ブリンナーを真似て "エトセトラ、エトセトラ" と言いますよね。 私が中学1年の時 だったと思うのですが、 学校から映画を 見に行く機会があり、 クラス全員で 「王様と私」を 見に行きました。 ユル・ブリンナーが 何度も使う このセリフ "エトセトラ、エトセトラ"、 私たちのクラスで 流行ったのを 思い出しました。

 この "Adventures Of Ozzie & Harriet" という番組、 日本では 1960年から1962年まで、 NHKで 「陽気なネルソン」 というタイトルで 放送されてた らしいのですが、 私は全く 見た記憶が ございません。 その後、 1966年頃、 フジテレビで、 関西では関西テレビで、 土曜日の夕方に 「すてきなリッキー」に タイトルが変更されて 放送されてました。 こちらの放送は よく見てまして、 当時の私は リッキー・ネルソンが 一番ハンサムだと 思ってました。

 エルヴィスの映画は よく見てましたが、 当時の私は エルヴィスがハンサムだと 思ったことは ありませんでした。 彼のハンサムぶりに 初めて気付いたのは、 河原町六角にあった 京都スカラ座で 「スピードウェイ」を 見た時です。 私は同じ映画を 2度続けて見ることは しなかったのですが、 この時ばかりは 2度見ました。 そして 映画館を出て、 六角通りを ぶらぶらと歩いて 新京極に出たら、 そこに 京都松竹座の 大きな次週予告の看板があり、 「ブルー・マイアミ」の エルヴィスの絵が ドカーンと 目に飛び込んできて、驚きました。 当時は エルヴィスに 飢えてたので 信じられない 光景だったのです。

リッキー・ネルソン来日

 ビートルズ来日の約2か月前、 1966年4月14日、 リッキー・ネルソンは 取り立てて 報道されることなく 来日し、 東京、京都、神戸、 米軍基地で 公演を行いました。 この時のバンド・メンバーは リード・ギターは もちろん ジェームス・バートンで、 ベースは まだ有名になる前の グレン・キャンベル、 ドラムスが リッチー・フロスト。 サンケイ・ホールで行われた 最初の東京公演の セットリストを見ると、 エルヴィスに関係する 曲が多いのに 興味が持たれます。

    Setlist: Ricky Nelson Live In Japan (1966.04.15)
  1. My One Desire
  2. Poor Little Fool
  3. Hallo Mary-Lou
  4. Yesterday
  5. Baby, What You Want Me To Do
  6. Travelin' Man
  7. Have I Told You Lately That I Love You
  8. Fools Rush In
  9. Someday You'll Want Me To Want You
  10. Kentucky Means Paradise
  11. Night Train To Memphis
  12. My Babe
  13. Summertime
  14. I Got A Woman
  15. La Bamba
  16. (アンコール) Shirley Lee
他の公演では "Milkcow Blues Boogie" も歌ってます。



(June 21, 2011)

(これはエルヴィスとは関係ありません。 ただ 書きたかっただけです)


ヴェローナの ジュリエット像と私 (15年前)
 映画、「ジュリエットからの手紙」 を見てきました。

  (右の写真) 優しい眼差しで見つめ合う フランコ・ネロと ヴァネッサ・レッドグレイヴ。

 1966年の映画「キャメロット」 共演がきっかけで、 ヴァネッサ・レッドグレイヴは フランコ・ネロと 駆け落ちしました。 その後、二人は 正式結婚することなく、 月日だけが過ぎ去り、 2006年に 結婚したのです。 燃える恋は冷めやすい と言いますが、 二人は45年も 続いていたのですね。 映画のストーリーも絡まって、 感動しました。

「キャメロット」の ロバート・グーレ

 ロバート・グーレと言えば、 エルヴィスの世界では、 ロバート・グーレが出ていた TV画面を エルヴィスが 拳銃で撃ったことが 有名なのですが、 私は エルヴィスのレコードを 買い集め出す以前から ロバート・グーレのレコードを 何枚も 持っていました。

 ロバート・グーレは 1960年の ブローウェイ・ミュージカル 「キャメロット」 (右の写真、 ロバート・グーレ、 ジュリー・アンドリュース、 リチャード・バートン) のランスロット役で 一躍 有名になりました。 勿論 ミュージカル・ファンの私は この「キャメロット」の ブローウェイ・キャスト盤も 買って、 彼のオペラチックな バリトン・ヴォイスを 毎日のように 聴いていました。 特に、 「キャメロット」の 主題歌である "If Ever I Would Leave You" は大好きで、 この曲は エルヴィスの レコーディング候補に 何度も のぼりながらも、 エルヴィスが 録音しなかったことが 残念でなりません。

If Ever I Would Leave You - Robert Goulet

ロバート・グーレから フランコ・ネロへ

 1966年になって、 「キャメロット」の映画化にあたり、 注目のランスロット役に 新人の フランコ・ネロが選ばれたと 知りました。 私は ロバート・グーレでないことに ショックを受けたのですが、 フランコ・ネロという 新人俳優にも 興味を持ったのです。

 フランコ・ネロは 映画「天地創造」(The Bible) で ジョン・ヒューストン監督に 見出され、 彼の推薦で 「キャメロット」に 出ることになったのです。 「天地創造」は、 当時 「題名のない音楽会」 の司会をしていた 黛敏郎が この映画の 音楽を付けるために、 度々、 番組を休んでは アメリカに 行ってたこともあって、 黛敏郎の音楽と フランコ・ネロ見たさに 封切り初日に 梅田のニューOS劇場まで 「天地創造」を 見に行ったのですが、 フランコ・ネロは 背中が少し写るだけで、 顔は全く拝めず、 ガッカリしたものです。
 1967年になって、 「キャメロット」のスチル写真が 映画雑誌に 載り始め、 初めて見る フランコ・ネロのハンサムぶりに ますます 私は フランコ・ネロに 興味を持ちました。
 右の写真は、1967年当時の私の部屋。 エルヴィスの 2枚に対して、 フランコ・ネロの写真が 3枚、 壁に貼ってあります。

フランコ・ネロ、 ヴァネッサ・レッドグレイヴ、 不倫の恋の行方

 映画「キャメロット」は、 アーサー王 (リチャード・ハリス)の お妃グエナビア (ヴァネッサ・レッドグレイヴ)と、 アーサー王の 円卓の騎士のひとり、 ランスロット (フランコ・ネロ) との不倫の恋を 描いたもので、 この映画そのままに、 当時、 有名監督、 トニー・リチャードソンと 結婚していて、 2人の娘がいた ヴァネッサ・レッドグレイヴは、 映画撮影終了と同時に 4歳年下の新人俳優、 フランコ・ネロと 駆け落ちするのです。 その後のフランコ・ネロと ヴァネッサ・レッドグレイヴは てっきり 別れたものと 私は思ってたのですが、 調べたところでは、 その後も ずっと 続いていたようで、 1969年に 男の子を授かってます。

 期待された映画「キャメロット」は、 「南太平洋」で有名な監督、 ジョシュア・ローガンの 才能の無さもあって、 ガッカリな作品に なりました。

 映画「ジュリエットからの手紙」の中で、 フランコ・ネロは 馬に乗って 登場するのですが、 あの場面は まさに 「キャメロット」で、 ヴァネッサ・レッドグレイヴの前に 白馬に乗って登場した フランコ・ネロを 表しているのでしょう。

 映画「キャメロット」では、 グエナビア妃は 最後に 出家するのですが、 実際のフランコ・ネロと ヴァネッサ・レッドグレイヴは "If Ever I Would Leave You" の歌詞、 『たとえ、あなたと 別れるとしても、 それは 夏でも、 冬でも、 秋でも、 春でもありません。 あなたとは 決して別れない』 のように、 永遠の愛を誓い、 2006年に 正式結婚しました。

 現在 74歳の ヴァネッサ・レッドグレイヴと 70歳の フランコ・ネロですが、 「ジュリエットからの手紙」 の中の二人は 幸せそうな いい顔してました。

If Ever I Would Leave You - Franco Nero (映画「キャメロット」より)


 映画「キャメロット」より、 ヴァネッサ・レッドグレイヴ、 フランコ・ネロ、 リチャード・ハリス



(June 16, 2011)

新刊書
「鴨とぶ空の、プレスリー」 (野中ともそ、著)

出版社: 理論社、B6判、236頁
発売日: 2011年 6月17日 \1,470

 中学二年のキンヤスこと金安耕太の父は、 イケてない エルヴィス・プレスリーの コピーバンドを している。 その上、 ひどい音痴だ。 未来のシンガー ソングライターとして、 友人の進藤の腕を信じ、 バンドに夢をかける キンヤス。 プレスリーおたくの 親父を超え、 オリジナルにこだわり、 本物の ロック・ミュージシャンになると 意気込んでいた。 そんな親子が ひょんな事から、 プレスリーの聖地・ メンフィスを旅する事に。 父と息子が 対立し合いながらも、 音楽を愛する気持ちを 確かめ合う、 一夏の音楽の旅。 ユーモアあふれ、 ちょっとセンチな 青春ストーリー。

野中ともそさんのHP



(June 16, 2011) (June 15, 2011)

"Young Man With The Big Beat" 5-CD Box Set
発売予定日: 2011年 9月27日

 9月27日にソニーから発売される "Young Man With The Big Beat" の内容が 発表されました。
 30センチ角、 LPサイズの 豪華ボックスに入るのは 5枚のCD。 80頁ブック。 ポスターなど 多種多様な エルヴィス・メモラビリアの レプリカ等。
 でも、 ファンにとって 最高のプレゼントとなるのが、 ルイジアナ・ヘイライド "さよなら" 公演の 完全ライヴ録音盤でしょう。 エルヴィスが歌った 10曲の内 7曲が未発表なのですから。
 5枚のCDの収録曲詳細は CD News にアップしました。



(June 9, 2011)

カート・ラッセル主演、 ジョン・カーペンター監督作品
DVD 「ザ・シンガー」 (Elvis)

発売元:キング・レコード、 \4,170 \3,065
発売予定日: 2011年 8月10日

ELVIS (1979) - DVD Trailer



(June 8, 2011)

コピー&タブ譜
エルヴィス・プレスリー・ソングブック
[楽譜]

楽譜: 120ページ
2011/6/9 発売、 \2,310
出版社: シンコーミュージック・エンタテイメント

長らく絶版となっておりました エルヴィス・プレスリーの ソングブックが 復刻です!



(June 4, 2011)

コモンズ・スコラ vol.8、
大滝詠一選曲、 「ロックへの道」

commmons: schola vol.8,
Eiichi Ohtaki Selections: The Road to Rock

CD + Book(120頁)
2011/5/25 発売、 \8,925


 昨年までNHK教育で坂本龍一が解説を務めていたシリーズなんですが、 今回は放送されないのでしょうか?  放送して欲しいものです。

コモンズ・スコラ、ホームページ

[商品概要] テレビ放送(NHK教育)、 京都芸術劇場春秋座における公開講座など、 各種メディアへの展開も 好評な音楽全集 『commmons: schola(コモンズ・スコラ)』。 シリーズ第8巻のテーマは、 非クラシック3作目となる 「ロックへの道(The Road to Rock)」。 アメリカのスーパースター、 エルヴィス・プレスリーを軸に、 そこへ集約される 壮大なロックンロールの源流を 辿ります。
 今回、この野心的なテーマで選曲を担当するのは、 日本有数のミュージシャン であるとともに 音楽界屈指の 理論家でもある大滝詠一氏。 そして 大滝氏とともに 多角的な視点から 選曲を補完・解説するのは、 長年のキャリアをもち 専門家の尊敬を集める 執筆家・北中正和氏。 いずれも、 さまざまな時代や 地域の音楽を 膨大に吸収した視点から、 テーマとなる 音楽が生まれた背景や アーティストたちの特性を わかりやすく示します。 果たして、 ロックの起源に迫る 重要な楽曲群と 貴重な解説から 坂本龍一が見る 深奥の世界とは?  現代の音楽を 大きく方向づけた 激動の時代を 一冊に収めた schola第8巻を ぜひ お楽しみ下さい。

 大滝詠一といえば、 彼が1972年に出したファースト・アルバム に エルヴィスの曲の邦題を 歌詞に連ねた曲 "いかすぜ! この恋" を発表しました。 そして 1981年には 西田敏行が それをカバー。 バック・コーラスは "グッドナイト・ベイビー" のキング・トーンズです。

西田敏行の "いかすぜ!この恋" (詩・曲:大滝詠一)



(June 1, 2011)

"逃亡者" も現れた "GI・ブルース" プレミア上映会

 1960年11月15日、 ロスのフォックス・ウィルシャー劇場で "GI・ブルース" プレミア上映会が 大々的に行われました。 もちろん エルヴィスは "嵐の季節" 撮影中という口実で 欠席しましたが、 この上映会に現れた 顔ぶれがすごいのです。 "サンセット77" ロジャー・スミスと 最初の奥さん、 ビクトリア・ショウ。 ジュリエット・プラウズの連れは 元大リーガーで名物監督の レオ・ドローチャー。 TVで人気のピーター・ブラウン。 フランキー堺、 クレージー・キャッツが範とした "冗談音楽" の元祖、 スパイク・ジョーンズ。 エルヴィスの友人だった ニック・アダムス、 キャロル・ヌージェント夫妻。 まだ19歳のポール・アンカと ビーチ・ムービーで 人気を博した アネット・フニチェロ。 俳優のシーザー・ロメロ。 後のアメリカ大統領、 ロナルド・レーガン、 ナンシー・デイビス夫妻。 "逃亡者" デビッド・ジャンセン、 エリー・グラハム夫妻。 "GI・ブルース" の出演者では ロバート・アイバース、 レティシア・ローマン、 ジュディス・ロウリンズが出席。

 この上映会は 血友病患者のための チャリティ・イベントでして、 恐らく ローカルTV局で 中継されたのでしょう。 インタビュアーを ウインク・マーティンデイルが 務めています。 この映像の 最初の数10秒は 以前 ジョー・タンジ発売のDVDに 入ってたのですが、 ここまで長いものは 初めて見ました。

 "マーチで行こう" (Didja' Ever) は "あるある探検隊" の歌版。 歌詞が面白い。

 エルヴィスの映画挿入歌の中には 原曲のある歌が 多いのですが、 この "マーチで行こう" はバレエ "白鳥の湖" の音楽を ヒントに作られたと 思えてなりません。 "白鳥の湖" 第2幕、 "4羽の小さな白鳥"、 "大きな白鳥" のあとぐらいに 出てきます。 下記の映像です。 曲調が似てると 思いませんか?

バレエ "白鳥の湖" より



(May 27, 2011)

1972年、ニューヨークでの記者会見

 ABCニュースのアーカイブスより。 マディソン・スクエア・ガーデン公演 直前に行われた 記者会見の映像に 字幕を付けてみました。



(May 22, 2011)

ラヴィング・ユー・ベイビー (ツイスト・バージョン)

 数年前に帝国劇場で 「マイ・フェア・レディ」を 観たとき、 出演者の中に 藤木孝を見つけて、 とても懐かしく思った ことがありました。 藤木孝は1961年に 「24000のキッス」で デビュー。 これが大ヒットして、 日本中に ツイスト・ブームを 巻き起こしました。 そして、 1962年、 その人気絶頂の最中に、 彼は 所属する渡辺プロと 喧嘩して、 音楽界から 追放されたのです。 当時の日本人で ツイストを踊らせれば No.1。 それが藤木孝でした。 以来、私は テレビで歌う彼の姿を 見たことが なかったのですが、 下記の映像を見ると、 テレビで歌ったことが あったようです。 知りませんでした。

藤木孝 - 24000回のキッス

 映画「踊りたい夜」(1963年)で、 当時の藤木孝の ステップが見られます。 (2:20辺りから)

踊りたい夜(1963年) - 藤木孝とスマイリー小原

 1962年は クレージー・キャッツも 大人気で、 彼らの出るサラリーマン映画が 数多く公開されましたが、 当時 小学生の私が 唯一 映画館で見た クレージー・キャッツの 映画がこれでした。 みんな ツイストしてます。

スーダラ節 わかっちゃいるけどやめられねえ(1962年) - ツイスト・ブーム

 1959年に フジテレビ系列で放送が始まった 「ザ・ヒット・パレード」。 私は 第1回目の放送から 欠かさず見てましたが、 何と言っても、 バンド・マスター、 スマイリー小原には びっくりしました。 踊りながら 指揮する人なんて 初めてでしたから。 今見ても 素晴らしいですね。 ザ・ピーナッツも 素晴らしい。

私と私(1962年) - ザ・ピーナッツ、スマイリー小原



(May 18, 2011)

Got A Lot O' Livin' To Do (別テイク映像)

 映画の予告編は 封切り日より かなり早い段階で 編集・公開されるので 実際の劇場版での 使用映像と 予告編の映像が 異なる場合が 多くあります。 これもそのひとつで "Got A Lot O' Livin' To Do" のエンディングに 全く異なるテイクが 使われています。



(May 11, 2011)

O Sole Mio - It's Now Or Never (Sherrill Nielsen & Elvis)

シェリル・ニールセン と エルヴィス

シェリルが亡くなった時の ドニー・サムナーのインタビューより

ドニー、あなたとシェリルの出会いは?

僕がシェリルに会ったのは 彼がインペリアルズにいた 1965年のことで、 僕はスタンプスの メンバーだった。 その少し前、 スピア・ファミリー時代に 彼を見てはいるんだが、 実際に会ったのは スタンプスに 移ってからなんだ。

シェリルって どんな人柄でしたか?

シェリルは一緒にいて楽しい男だった。 ジョークが好きで、 紳士だし、 みんなに親切だった。 彼とは 人生や家族について よく話した。 彼と僕は 基本的な目標が 同じだったんだ。

シェリルが エルヴィスのバンドに加わった背景は?

シェリルが スティツメン・カルテットを辞めた同じ頃に、 僕もスタンプスを辞め、 そこで、 二人で テネシー・レンジャース というグループを結成した。 そして、 エルヴィスの依頼で、 ベガスの トム・ジョーンズ・ショーの バックを務めた。 トム・ジョーンズの公演の後に エルヴィスと 僕たち3人が 契約したんだ。 シェリル、 ティム・バティと僕。 エルヴィスの専属 ゴスペル・グループになった。 彼の愛読書から "ヴォイス" と名付けられたんだ。

シェリルは ヴォイスやエルヴィスのステージで どのような役割をしてたのですか?

シェリルは一般のテノール歌手より 高い声が出せた。 そこをエルヴィスは 気に入っていて、 バラード曲のエンディングを 二人で盛り上げて 決めていたんだ。

エルヴィスのパームスプリングスの邸宅で、 シェリルが 頭髪の植毛をした時の話を していただけますか?

人それぞれに外見上の悩みがあっても、 お金で解決できることは エルヴィスの面前では 話さないほうがいい っていう例なんだ。

エルヴィス・ファミリーに加わった 1973年9月頃だったと思う。 エルヴィスの リビング・ルームに みんなといたんだ。 リック・スタンリー、 チャーリー・ホッジ、 ジョー・エスポジト、 ソニー、 レッド・ウエスト。 そして、 冗談ながら レッドが みんなの欠点を 言い始めたんだ。

僕たちヴォイスは新入りだったから、 彼らとはまだ 打ち解けてなくて、 遠目から眺めていた。 そんなところに エルヴィスは いつも敏感で、 僕たちが楽しんでないと 感じたんだろうね。 彼は笑いながら 「この中で完ぺきな人間は 僕とヴォイスだけだろう」 と言ったんだ。 その時 シェリルが 「僕は隠してることがある」 と言ったんだ。 「一体、何を隠してるんだ。 欠点があるように 見えないぜ」って。 シェリルは照れながら打ち明けた。 「頭髪のてっぺんが 薄くなって、 横の髪で隠してる。 それと、 前歯がすいてるのが 恥ずかしくって、 大きく口を開けて 笑えないんだ。」と。

その場はそれで終わったんだが、 翌朝、 近くのモーテルに 泊っていた僕たちは レッド・ウエストの電話で 叩き起こされたんだ。

「エルヴィスが 君たちとシェリルに 直ちに ここに来るように言ってる」って。 僕たちが駆けつけると、 エルヴィスは 「ドクター・シャピロを 紹介しよう。 彼が君の前歯の隙を 直してくれる」って、 友人で歯医者のシャピロを 呼んでいたんだ。

唖然としたよ。 歯医者の予約をとるのに 普通は2日はかかるだろう。 きっと シェリルも 同じ気持ちだったろうね。 彼は呆然として 何も話さず、 長椅子に座った。 まるで 映画でも見るかのようにさ。 数分後、シェリルは 椅子から立ち上がって、 笑うと、 そこには 美しくキャップされた 前歯があった。 エルヴィスの贈りものだった。

次は数時間後、 僕たちがランチを食べながら、 TVを見ている時に、 ドアのベルが鳴った。 レッドが出て、 背の低い、 東洋紳士を 中に入れた。 エルヴィスは彼と握手して、 シェリルに向かって 言ったんだ。 「ハイ、シェリル、 君を驚かせることがある。 彼は君に 植毛を施しにきた医者だ。」

シェリルは新しい歯のキャップのことは すっかり忘れて、 今度は ベッドにうつ伏せに 寝かされた。 医者は エルヴィスのベッド・シーツに 丸い穴を開け、 そこに頭がくるようにして、 シーツをシェリルの身体に 被せた。 我々が見ている中、 医者は シェリルの後頭部の毛を 100本ほど切り取り、 それを 薄くなった頭皮に 植え付けていったんだ。 施術が終わると、 医者は シェリルの頭全体に 分厚い包帯を巻いた。 彼はまるで 「透明人間」 のようだったよ。 僕は思ったね。 シェリルはきっと 前夜の発言を 撤回したかっただろうと。

翌日、急きょ、エルヴィスは パームスプリングスの邸宅で レコーディング・セッションを アレンジした。 あの時に録音したのが "Are You Sincere" で、 よく聞くと、 エンディングで シェリルが キーを外してるのが 分かるよ。

その時の様子を話していただけますか?

パーカー大佐から電話があり、 彼はエルヴィスに、 RCAとの契約上、 数日中に "Raised On Rock / For Ol' Times Sake" のアルバムを 完成させなければならない と告げたんだ。

1973年7月のメンフィス、スタックスでのセッションは、 エルヴィス愛用の ハンド・マイクが 盗まれて、 それで嫌気をさした エルヴィスは セッションを 途中で止めたんだ。 それでパーカー大佐は 彼にロサンゼルスで レコーディングを完了させるよう 迫っていたんだ。 二人のやり取りを 聞いていたら、 エルヴィスが最後に 荒っぽい口調で 「そんなに俺の声が欲しいなら、 お前らがこっちに来れば いいじゃないか」って。

神さまに不可能がないように、 大佐にも不可能は ほとんどないように思えたね。 その日の午後のうちに 大きなトラクターが エルヴィスの邸宅の 玄関前に横付けされ、 驚くエルヴィスの目の前に、 3人の男が トラックから出てきて、 レコーディング用の機材を 降ろし始めた。 瞬く間に エルヴィスのリビング・ルームは レコーディング・スタジオに 衣替えさせられたよ。

ところが、全くの予定外のことだったので、 エルヴィスは曲の準備も ミュージシャンの確保も できてなかったんだ。 チャーリーが何とか ジェームス・バートンだけは 呼び出すことができた。 ベースは我々の仲間の トミー・ヘンスリー、 ピアノは私、 チャーリーが アコースチック・ギターを弾いた。 我々がリビング・ルームに集合すると、 エルヴィスはマイクを持って、 テーブルの上に立って、 ラジオ・アナウンサーの口調で 言ったんだ。 「諸君、本日、私たちは レコーディングを行う目的で ここに集まりました。 ところで、 私からひとつ質問があります。 一体全体、 私たちは 何を録音するのですか? 何を歌えばいいのでしょうか?」 って。

その時に録音したのが私の作品の "I Miss You" と "Sweet Angeline" で、 この2曲の録音が終わると、 やることが無くなったんだ。 午後から始めて、 もう深夜になっていたから、 みんな疲れていて、 冗談を言う元気もなかった。 しかし、 アルバムを完成させるのに あと1曲必要だったんだ。 エルヴィスは レッド、ソニーと 話し合って、 "Are You Sincere" を選んだ。

何度かエルヴィスが "Are You Sincere" 歌った後、 彼にアイデアが ひらめいたんだ。 曲の終わりの部分に シェリルの声で "Are You Sincere" の一句を繰り返し 歌わせようとした。 その時のシェリルは 植毛の後の痛みから、 多量の鎮痛剤を 服用していて、 万全の調子じゃなかったんだ。 何とかシェリルは マイクに向かって "Are You Sin" までは 完ぺきに美しい声で 歌うことができたんだが、 最後の "cere" を 4分の1ほど 音を外してしまった。 シェリルが音を外したので エルヴィスは 大喜びしたんだ。

頭に包帯を巻いた情けなさそうなシェリルは エルヴィスに 「もう一度やらせてくれ。 とちったから」 と懇願したが、 エルヴィスは 笑いながら 「君が音を外したのを 初めて聞いた。 君が私より 歌が下手だと 世界に証明するためにも このままで行こう」 と言ったんだ。 録音テープは ロスに送られ、 エルヴィスの笑い声は 消されたが、 シェリルの外れた声は そのまま残された。 エルヴィスに感謝したいね。

Elvis Presley - Are You Sincere

ヴォイスのメンバー、左から Pete Cummings (Guitar), Billy Blackwood (Drums), Sherrill Nielsen, Tommy Hensley (Bass), Donnie Sumner, Tim Baty, Per Erik "Pete" Hallin (piano)

衣装からもわかるように Sherrill Nielsen, Donnie Sumner, Tim Baty の3人が ボーカル担当で、 ベガスのエルヴィス公演にも 出演していたのですが、 1974年3月のメンフィス公演では、 シェリル・ニールセンに変わって、 ピアノのピート・ハーリンが ボーカルで 参加しています。 そして メンバー紹介の時、 エルヴィスは ピート・ハーリンを 「ピアノも歌も素晴らしい ピート・ハーリン」と、 一人だけ特別に紹介しているのです。

「プロミスド・ランド」セッションを成功させた ピート・ハーリンの存在

ピート・ハーリン (Per Erik "Pete" Hallin) は トニー・ブラウンが スウェーデンで見つけて、 アメリカに連れてきた ピアニストです。 1973年12月の スタックスのセッションで エルヴィスが 最初に録音した "I Got A Feelin' In My Body" での ピート・ハーリンの エレクトリック・ピアノの 音を聴いて、 エルヴィスはごきげんになったと 伝えられています。 彼はピアノで "Help Me", "My Boy", "Love Song Of The Year"、 クラビネットで "Promised Land" に参加。 恐らく、 あの軽快な "Promised Land" のエレクトーンの音は ピート・ハーリンが 弾いてるのでは ないでしょうか。 彼は1974年には 本国のスウェーデンに 帰ってるので、 僅か1年にも満たない アメリカ滞在でしたが、良いものを残してくれました。

Per Erik "Pete" Hallin - I Got A Feelin' In My Body
Per Erik "Pete" Hallin - Peace In The Valley

また、ヴォイスのミュージシャンだった Pete Cummings も エルヴィスの思い出を 語っています。

Uncle Pete's Elvis Stories


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