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インドネシア−ジャカルタ
 インドネシアの首都ジャカルタ、人口1000〜1200万人に及ぶこの街は政治・経済の中心地として発展してきた。 モナス記念碑の南に位置するタムリン通りからスディルマン通りには、高層ビルが立ち並び日系企業のオフィスビルも目にとまる。 また、次々といたるところで新しいビルやマンションが建築されておりこの都市の急成長ぶりには目を見張るものがある。


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ジャカルタ前史

ジャカルタの前身は西部ジャワのヒンドゥ教国パジャジャラン王国(1333年建国)の港町として発達したスンダ・クラパ(Sunda Kelapa)であり、その繁栄は王国建設の以前、少なくとも12世紀にまで遡る。13世紀頃にはイスラムの布教活動も始まっていたといわれ、パジャジャラン王はイスラム勢力との対抗上ヨーロッパ勢として最初にやってきたポルトガルと1522年に協定を結び、軍事援助の代償に胡椒の提供を約束していた。

1527年パジャジャラン王国を滅ぼしたバンテン王国のイスラム王スーナン・グヌンジャティ(本名をファルテンまたはファタヒラと言う)は、ポルトガルの追放に成功して、スンダ・クラパをバンテン王国の封土とし「ジャヤカルタ(Jayakarta:「偉大なる勝利」の意)」と改名した。このポルトガル勢を撃退したとされる6月22日がジャカルタの創立記念日に定められている。

その後、1619年オランダ東インド会社の第4代総督として、東インドにおけるオランダ支配の地歩を固めたヤン・ピーテルスゾーン・クーン(Jan Pieterszoon Coen)はジャヤカルタに要塞の建設を始め(1645年に完成)、オランダ本国の先住民バタウィ(Batavi)にちなんで、ジャヤカルタをバタヴィアと改名した。
このバタヴィア建設には数こそ少ないものの日本人も従事したという記録が残っている。東インド会社の職員となった者が81人、バタヴィア市民の日本人が108人(男性48人、女性24人、子供11人、男女の奴隷25人)であった。その多くは平戸のオランダ商館で雇われ、帰航するオランダ船でバタヴィアに渡っている。長崎や平戸の出身者が多数を占め、キリスト教徒が多かったようである。1635年の鎖国以降は日本人と渡来はほとんど途絶え在留日本人は婚姻を通して現地に融合していった。

現在の「ジャカルタ」という名前に変わったのは、日本軍政期の1942年のことである。

(※ジャカルタ・・・現在、正式にはジャカルタ首都特別州という。)


ジャカルタ


ジャカルタ展望

 大都会である。メインストリートを挟んで立ち並ぶ高層ビル、次々と建築されているビルやマンションを目の当たりにするとインドネシアという名前から想像されるイメージは払拭される。 しかし、そのビル群とその背に広がる瓦屋根の家々とではあまりにも対照的である。 それだけでなく、この街を構成するものすべてが両極端である。 そして、それらがあまりにも隣接して存在するため、しばらくはその落差に驚かされる。



 道路には車・オートバイが溢れ、排気ガスと途切れることのないクラクションの音がたちこめる。 交差点の信号待ちや渋滞時には車と車の間をオートバイやバジャイが埋め尽くし、人ひとり入りこめる隙間もなく、よくこれだけ接触せずに割り込めるものだと半分感心させられてしまう。 かろうじて入れるところには新聞・煙草・水などの品々を抱えた物売りが歩きまわる。 車線はあるがほとんど役にはたっていないようだ。目の前に障害物がなければどんどん突っ込んでくる。 追い越し、割り込み、様々な車両が猛スピードで交錯する。 さらにその中を横切る人々。走っても、止まっても冷や汗は止まらない。



 しかし、この街で走っている車はほとんど日本車であり、道路も左側通行でそれほど違和感がない。 ただ、10〜20年前の型が当たり前に流れている。 この普段なにげなく見ている車やバス。この交通手段をひとつとってみても、この街の階層社会を写しだしている。 バスをみても、大小さまざまで、黒煙をまき上げいまにも壊れそうなものからエアコン付の大型バスまで、それぞれ人によって使い分けられている。 外国人にとっては利用しにくいかもしれないが、手を差し出せばどこにでも止まってくれる(本当はだめらしいが)これらのバスは、この街の人たちにとってはかかすことのできない移動手段なのであろう。



 バスに乗っていると新聞やガムやらを売りに乗り込んでくる人がいる。新聞はともかくガムなんか誰が買うのかと最初は思ったものだが、以外と買う人が多い。 その他に見たものをあげると、電卓、ボールペン、万年筆、雑誌、地図、アドレス帳など、実にいろんな物が売られてくる。そして、ひとりひとり席を回る前に必ず商品の説明がしばらく続く。私のような外国人の前では他の人より長く商品を見せられるのは言うまでもない。 そして、流しも結構多く、勝手に数曲歌ってお金を集めていく。この街では、何でも商売にしてしまうところがすごい。 しかし、よく聞いてみると一般市民の働く場が十分にないということも事実で、どんなことをしてでも生活をたてていかねばならないという厳しい現実もあるようだ。



 買い物にでかけるといつも感じることがある。店員の数がやたらと多い。何をしているのかと見れば何をしている様子もない。 ただ立っているか、他の店員とおしゃべりをしている。有名ブランドがならんでいるような百貨店でも例外ではない。 なかには、床に座り込んで化粧をしている女性を見かけたこともある。 レジでの対応も非常に機械的で、あまり心地よいものではない。 インドネシア人の友人にこれが普通かと尋ねれば普通だというが、気分はやはり良くないという。 なにも日本流を押し付ける必要はないと思うが、この街に「サービス」という概念はまだ薄い。
とは言え、長くこの街にいると笑顔で丁寧に対応してくれる人にも時折出会う。こういう人との出会いがホッとする瞬間である。



 この街にいる限り日常生活品で必要なものはほとんど手にはいる。 食料品の価格は日本の1/3〜1/2くらいだろうか。それでも一般の人の所得からみるとエンゲル係数は非常に高いことが伺える。 最近郊外に作られてきているショッピングモールへ行けばその規模の大きさにも驚かされる。 日本の大型ショッピングセンターに比べても遜色なく、むしろこちらの方が立派にも見える。 今も他のビルやマンション同様、次々と建設されており一年もたてばこの街の景観はすっかり変わってしまうのであろう。

せっかく完成したビルも今の厳しい経済状況を反映してか、入居者が少なく9割以上空きになっている所も見受けられる。 これまでのショッピングモールに出店しているところでも1年前に比べ、撤退した業者が結構見られるのも事実だ。 また、50%、100%といった異常な程の物価の上昇にはさすがに閉口してしまう。 特に食料品に関してはまさに生きていく為の生活必需品であり、あちらこちらからため息が聞こえてくる。非常に厳しい・・・。(98/11/26追記)



 街中を歩いていて必ず目にするのが路肩に並ぶ数々の屋台(ワルン)である。 おかしのようなもの、揚げ物、カットフルーツなど内容はさまざまであるが、一つのワルンで扱うのは1〜2品ぐらいだ。 もちろん、多彩なメニューをそろえているところもある。 聞くところによると、やはりおいしいところとそうでないところはあるらしく、実際混んでいるワルンと閑古鳥が鳴いているところは一目瞭然だ。 正直言って清潔感という意味ではどうしても私は避けてしまうが・・・。  利用する場合は必ず熱をしっかりと通してあるものを選んでくださいね。



 この国に限らず手軽に利用できるのがファーストフードのお店。マクドナルドをはじめ各種の店舗がここジャカルタでも見られる。 メニューや味は多少異なるが、味に関しては想像のつく範囲。日本と違うところと言えば、ハンバーガーなどを売っているところは、必ずといっていいほどチリソースがおいてあること。 それほど辛くはないが、よく見ていると誰もがこのソースをつけて食べている。ここでは必須アイテムのようだ。 それと後片付けは店員がやってくれるので日本のように自分で片づける必要はない。そういうためか、従業員の数が日本にくらべとても多いことに気がつく。 従業員同士の喧嘩もたまに見る光景だ。 トラベルガイドなどには生水や氷は口にしないように書いてあるが、これらのファーストフードのジュース類に入っている氷は一応大丈夫なようだ。 胃腸の弱い私も何度も利用しているが特に体を壊したことは今のところない。



 それにしても赤道間近の国にしてはそれほど暑くはない。風があるためであろうか、あの京都の夏の蒸し暑さに比べればこちらの方が過ごしやすいようにも思える。 デパートやショッピングモールにいる限りはエアコンも十分きいており、日本と変わらない。 ただ、一般家庭ではエアコンがまだまだ普及していないため、エアコン馴れしている我々には少々つらいかもしれない。 それでも、明け方には肌寒く感じることもある。

日本で考えていた程は暑くないと言っても、やはり暑いのである。 当初、この国へ来て道路脇に座り込み、また辺り構わず寝転んでいる人たちを見て不思議に思ったものだが、自分自身街中を暑い中歩き回るようになると、その気持ちが分からなくもなくなってきた。 外国人や上流階級の人は気軽に近くのショッピングモールやホテルなどの涼しい場所へ逃げ込むことも簡単なことだが、ワルンで商売している人などはそうもいかない。 日陰でじっと体を休めるより他はないのである。 日本では夏は涼しく、冬は暖かい環境が十分整っているが、インドネシアではこういった環境が少ない為、冷房が効いた場所へ逃げ込むことが出来ない環境におかれると風が吹く木陰の涼しさが身にしみる。(98/11/26追記)



 バスの中に入ってきたり、また信号待ちの車の隙間を歩いている物売りたちの中にまだ小学校低学年ぐらいの子供の姿をよく見る。 新聞を売ったり、手製の楽器を使って歌を歌ってお金をもらっている。 なかには親が働かせているようなケースもあるらしいが、どんな事情があるにせよ、遊びざかりの子供たちが汗びっしょりになりながら働いていることに間違いはない。 テレビなどを通してこのような場面を見たことはあっても、いざこの現実を目の当たりにするとなんともやりきれない気分である。 この国の現実を思い知らされると同時に、私たちが当たり前のように思っている日々の暮らしがいかに裕福なものであるかを感じさせられる。 国が異なれば、政治、経済、文化など色々と違いはあるものの、子供たちの世界もあまりにも両極端である。



 日本人が他の国々の人と接する時に、一番戸惑うのが宗教ではないだろうか。日本人の宗教観はどのようなものかと尋ねられて、しっかり答えられる人は少ないであろう。私も同様この手の質問には苦笑いをしてしまうばかりである。 お正月や七五三で神社仏閣をまわり、結婚式は神社か教会で行い、お葬式は仏教式で行うというのが一般的な日本人の行動である。これをひとつの宗教を信仰する人たちに説明するのはかなり難しいことであるし、それ以前に自分自身の宗教観について説明できる人は少ないと思う。 もうすでに言うまでもなくこの国の人口の90%前後がイスラムを信仰しており、小さなモスクはいたる所にあり、駅やショッピングモール、空港、車やバイクのサーキット場まで人が集まるような所には必ずといっていいほど礼拝所が設けてある。 ここでは老若男女を問わず、礼拝の時間になると人が集まってくる。インドネシアは他のイスラム圏の国に比べればそれが非常にマイルドに表現されている国ではあるが、イスラムの精神が人々の心の奥底に流れている社会であるということをあらためて感じさせられる。 私たちには非常にとっつきにくいことではあるがイスラムの精神を理解することなく真の意味で彼らと交流を深めることは難しい。本当に難しい。


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