黄 檗 辞 典 
HPトッフ あ~え   か~こ さ~そ た~と な~の は~ほ ま~も や~わ 凡 例
 
       
  なかけんぐ(中献具)
  法式用語。 献具(→)は法要の最初に行うのが一般的であるが、「疏(→)」を奉読する場合は、中献具と称し中間で実施する。 この場合、拈香師は心経末尾の真言部に入ったところで問訊、立席し、香机の前に進み折座具、胡跪し、中太鼓(→)で拈香、献具する。 さらに、この中太鼓が終わったところで、維那は定位置に進み出、知客から渡された「疏」を奉読する。 この奉読中、拈香師はじめ出班焼香各位は典具、俯伏拝をする。 
  奉読が終了すると、悦衆が維那に代わり発誦し、読経(三真言)を始める。 維那は、一拝後、収具し、定位置に戻る。 拈香師、出班焼香各位は三拝(真言一称一拝)の後、収具。 一方、知客は維那より受け取った「疏」を上供する。


 
  ながさき・にかんろもん(長崎二甘露門)
  隠元禅師が渡日直後、長崎では、禅師の多くの弟子たちの中でも特に光彩を放つ、木庵性瑫、即非如一の二人がこのように並び称されたと言われる。(→二甘露門)


         
  ながさき・よんぷくじ(長崎四福寺)
    長崎市内に在る唐人寺(黄檗宗寺院)を称して言う言葉。 分紫山福済寺(…別名・漳州寺)、聖寿山崇福寺(…別名・福州寺)、萬壽山聖福寺(…別名・広州寺)、東明山興福寺(…別名・南京寺)の四ヶ寺で、単に「四福寺」とも称する。→〔名数〕
  江戸時代初頭、長崎在留の唐人は、長崎奉行の小笠原一庵が慶長3(1598)年に創建した浄土宗の悟真寺の墓地に葬られていた。 その後、長崎代官の末次平蔵の尽力により、唐人墓地が整備された。
  しかし、媽姐(まそ。→)を祀る唐人たちにとっては、独自の檀那寺を自前に創建する必要に迫られた。 が、寺の施設は商人たちの財力によって間に合わせることができたとしても、住持に相応しい中国僧が居なければ寺院を開山できず、住持たる僧の長崎招致が次の課題となった。
  こうして、まず、浙江省と江蘇省出身の華僑たちの菩提寺として、寛永元(1624)年に興福寺が創建された。  開山は商人として来日していた真円が出家して住持となった。 次いで寛永5(1628)年に、覚海を開山として崇福寺が創建され、福建省でも漳州と泉州出身の華僑が集まった。 さらに、福建省の福州の華僑を中心として創建されたのが崇福寺であり、寛永6(1629)年に超然を開山として迎えた。

  創建当時、三ヶ寺は、特定の宗派に属する寺院ではなかった。 興福寺の黙子如定、逸然性融や、福済寺の蘊謙戒琬、崇福寺の道者超元といった僧が名を成している。 しかし承応3(1654)年に隠元隆琦が多くの弟子たちを連れて渡来すると、状況が一変し、当時の臨済宗黄檗派、後世の黄檗宗の寺院へと移行することとなった。 以後、宇治の黄檗山を本山とする黄檗派にとって、この3ヶ寺は、中国との大事な中継点になった。

         
 
 ↑ 東明山興福寺



 ↑ 聖寿山崇福寺



 ↑ 分紫山福済寺



 ↑ 萬壽山聖福寺


   
   
  なかじょう(那伽定)     

    那伽とは梵語で、龍のことを言う。 
  龍は常に静止して思念をするということから、龍像(禅門では僧のことをこう呼ぶ。)が禅定する様をこれにたとえ、「那伽大定」と呼ぶ。 転じて、檗僧が遷化(…僧が亡くなること。)に際し、霊龕(棺のこと)を荘厳する場をいい、「那伽定」と大書した紙を、霊龕を安置する鴨居に貼付するのが慣わしとなっている。 従って、開山堂を設け開山和尚の像などを安置する場合は、現在もご開山がさながら「禅定」に入っておられるものと理解し「那伽定」の額を掛けることが多い。
  なお、本山開山堂内の宗祖尊像厨子(右写真)にも、「那伽」の木額が掛けられている。


  なかだいこ(中太鼓)
  黄檗宗の読経法式は、香讃、読経、結讃を基本とする。 この中で、梵唄(節経)と称される鳴り物が入る部分はほとんどが最初と最後の部分であるが、読経の中程で、梵唄が入るときがある。 この時に打たれる太鼓のことを中太鼓と称する。


 
  ながやもん(長屋門)
  松隠堂の勝手門として使用されている、巾五間、奥行き二間の門。 総門を通り直進、影壁前を左折し、階段を上がったところにあるが、ほとんどの観光客は三門に向かって進むことから気づく人はいない。 言い伝えでは、現総門(漢門)が建立されるまで総門として立てられていたものを現在地に移築建立したと言われている。


  なぎなたぜん(長刀禅)
  隠元禅師のもとで修行した日本の修行僧は、その禅風を機鋒険峻、活気横溢とか、隠密繞路等と表しているが、より簡潔に武器の長刀に喩えて言った言葉。
  井伊家菩提寺清涼寺の仙英禅師が井伊大老に宛てた書簡に見える。


  なすび
    小木魚の俗称。 あたかも「なすび」の形状であることから、地方では隠語として使われるようになった。


  ななつどめ(七つ止め)
  ヒャンテン(仏殿太鼓)演奏法の一つ。 施餓鬼法要中、演淨儀を修する段で水瓶から洒水器に甘露水を注ぐ際に、間を持たせるためにゆっくりと七つ打ち下ろすことをいう。 道師はこの間に甘露水を洒水器に注ぎ入れる。


 
   
  ナムオミトフ(南無阿弥陀仏)
    宗門では六字名号を唐韻で唱え、行堂するのが慣習となっている。
  また境内で僧侶が対面し問訊(もんじん。→)する場合、「汝、仏なりや」の意味で阿弥陀仏(オミトフー、今日では慣例化して単にオミトーと言う。)と呼びかけると、相手も阿弥陀仏(オミトー。「仏なり」)と応えるのが慣わしとなっている。 →〔田中智誠著「黄檗宗と浄土信仰」〔文華〕121号〕



   
   
  なりもの(鳴り物) 
    宗門で用いられる、音によって法要の一助とする梵唄用法具の俗称。 いわば楽器。 その種類、数は他宗に比して多い。
  以下、法具名のみ五十音順に列記するのでそれぞれの項目を参照されたい。
  なお、これら法具は原則として右手で扱うことが基本とされている。左手で扱うことは厳禁されている。それは右を浄、左を不浄とするインド伝来の慣習があるからといえる。

① 引磬(いんきん)、大引磬、小引磬 
② 雲版(うんばん。→)
③ 大太鼓(→)
④ 魚梆(かいぱん)、開板(→)
⑤ 小鼓(こつづみ)、懺法太鼓(せんぽうだいこ。→)      
⑥ 接版(せっぱん)
⑦ 大鐘(たいしょう。→)
⑧ 柝(たく)、拍子木(ひょうしぎ。→)
⑨ 銅磬(どうけい)、磬子(けいす。→)  
⑩ 銅鑼(どら。→)
⑪ 鐃鉢(にょうはち。→)     
② 報鐘(ぱうちょん)、半鐘(→)
⑬ 鈸子(ばっす。→)      
⑭ 版木(はんぎ)、客版(かくはん。→)
⑮ 仏殿太鼓(ぶつでんだいこ。→)    
⑯ 木魚(もくぎょ。→)
⑰ 鈴(れい。→)


 
  に・こくし(二国師)
  国師の謚号を受けた隠元隆琦、高泉性潡の二人に尊称して名付けられたもの。 なお、黄檗名数がまとめられた時期には、国師号を受けていたのは、前記二人のみであるが、昭和7(1932)年、鉄眼道光に対し、昭和天皇から「寳蔵國師」号が贈られ、檗門で国師号を贈られた僧は現在では三人である。→〔名数〕


  にそ・さんぶつき(二祖三仏忌)
    宗門のみならず、禅宗にとって重要な祖師を祀るための法要を言う。 黄檗清規(→)・報本章に記されている。
  二祖とは禅宗祖師である菩提達磨と禅宗叢林の基礎を開いた百丈懐海を指す。
  三仏忌とは釈尊の生誕、成道、涅槃をお祝いする法要のことで、法要厳修日は左記の通り。
   達磨忌              10月 5日
   百丈忌               1月17日
   降誕会(「灌仏会」とも称す)  4月 8日
   成道会(「臘八会」とも称す) 12月 8日
   涅槃会               2月15日
  なお、達磨忌の代わりに臨済忌(4月10日)が行われた時期もあるが、今日は達磨忌でとおっている。


  につうもくぎょ(二通木魚)
  略木魚とも言う。 主に小木魚で開始する法要は、通常の三通木魚(→)で開始せず、二通木魚で始める。
  例えば繞佛や施餓鬼等で用いられる。 


   
  にばんざ(二番坐)
  本飯(→)終了後、裏方をしていた修行僧が食事をとる場のこと。


   
  にほん・さんきょう(日本三橋)
    我が国の名橋として「日本橋」(慶長8年建設)、岩国の「錦帯橋」、長崎の「眼鏡橋」の三っつの橋が挙げられている。
  このうち
、「錦帯橋」(→)と「眼鏡橋」(→)については、宗門僧侶が関わっている。


  にほん・さんだい・ぶっきょう・しか(日本三大仏教史家)
  高泉性潡は、『扶桑禅林僧寳傳』十巻、『同續』三巻、『東國高僧傳』十巻、『東渡諸祖傳』二巻等をものにしており、『元亨釈書』を著した鎌倉時代の禅僧・虎関師錬(1278~1346)や、『本朝高僧傳』、『延寳傳統録』を著した師蠻(1625~1710)に匹敵する我が国の三大仏教史家の一人であるとして高く評価されている。→〔荻須純道著「隠元禅師と黄檗山」禅文化第18号〕

 
   
  にょうはち(繞鉢)
    
   
 ↑ 清規に記載された繞鉢

    二枚の円形唐金を打ち出した、シンバル様の鳴り物法具。 
  梵唄(ぼんぱい。→)時、特に鉢回向(はちえこう。→)を実施する際に欠くことの出来ない法具である。
  ところが、この法具は取り扱いが非常に難しく、下手に扱うととんでもない音を出し、ただの騒音でしかない。 如何に二枚の鉢を重ね合わせ、材質の余韻を引き出すかが演奏者の技術である。 
  まず、持ち方であるが、鉢の音をきれいに引き出すためには紐の部分を親指と人差し指で挟み込み、同時に手全体で、鉢中央部のふくれた部分を握り込むのが良いとされる。 鉢は地面と垂直になるように構え(斜めに扱うことは望ましくないとされている。)両方の手をねじ込むように鉢を合わせる。



  にょうぶつ(遶仏) 
  法要の名称。
  八十八仏を讃え、仏の周囲を囲繞するように、堂内を練り歩くことからこの名がある。


  にれんかい(尼蓮会) 
  宗門内の尼僧の会。 平成7(1995)年7月27日発足。 初代会長は小佐田祐源尼。 機関紙「尼蓮」を発行するほか、会員相互の研修会等を実施している。


 
  ぬき・いんきん(抜き引磬)
    引磬打法の一つ。 四拍子リズムの二拍子目を抜き、三拍、四拍目を強調する打法。 
  施餓鬼における『観音禅定』の項のみ、引磬のみでこの打法による節経となっていて、いわば法要のクライマックス・シーンとなっている。
  なおご詠歌の鈴(れい)の鳴らし方は、この黄檗の抜き引磬の手法がそのまま取り入れられたものとされている。 



   
 
  ねわすれ(寝忘れ)
    修行僧は、原則として毎月、四と九の付く日は、剃髪、針仕事、灸施療をする日として、朝の勤行が免除されている。


   
  ネンキン(念経)
    読経のことをいい、唐僧がよく使った。 今では広く勤行をすることをもいう。


   
  ねんぶつ・こうあん(念仏公案)
    明朝末期頃には、禅が浄土門と融合する方向に進んでいたとされ、禅門の思想と浄土門の思想との一致(禅浄一致 → 禅浄双修)を唱える派が現れ、その風潮は顕著になったとされる。 しかし、六祖・慧能大鑑大師以来の禅の正統を守ろうとする派もあり、そうした禅匠は時代の動きにあがなうことなく、寧ろ念仏称名を公案に用いるようになったとされている。 →〔荒木見悟著「雲棲監宏の研究」大蔵出版〕
  隠元禅師の語録の中にも 「念仏する者は是れ誰ぞ」という示偈や法語が見られることから、念仏公案はこの流れの中にあるといえる。
  ただ、黄檗宗のみが用いているように捕らえる向きもあるが誤りである。


   
   
   
  ねんぶつぜん(念仏禅)
    中国明朝末期において、禅門の禅定方と浄土門の念仏を融合する形で、発展変容した様をいう。
  隠元禅師が招来した教義は、歴とした臨済禅であったが、明庵栄西禅師以降、鎌倉、室町期に我が国に伝播した臨済禅、曹洞禅の教えとはかなり異なった風情があった。 それは350年余の時代を経てやむを得ないことであったが、とりわけ大きな相違点は、中国における明朝時代の禅宗の教義が、浄土門の教義に比較的寛容であったことがある。
  明朝末期の本流の臨済禅は、すでに念仏を公案に取り入れ(→念仏公案)、あるいは勤行に阿弥陀経を読誦するといったことは当然の状況であったから、隠元禅師が伝えた法式(ほつしき)の中にもその傾向が見られる。 日本に定着していた在来の禅門関係者からみれば到底理解しがたいものであったといえる。 このため「念仏禅」と言う言葉は、我が国にあっては他宗が黄檗宗の宗旨を説明する時に用いる言葉として広まった。
  また、黄檗第四代獨湛禅師のように日常の教えに念仏を多用しておられた僧もあり、日本の禅僧が黄檗派の禅の特徴を表現する場合には「念仏禅」との言葉を用いることがわかりやすかったとも言えよう。
  他方、臨済禅、曹洞禅の側からしても、在来の禅と区別してとらえる必要があったことも事実である。
  しかし、黄檗派の僧が自らの宗旨を「念仏禅」と称したことは決して無い。
  隠元禅師の語録には、「念仏公案」の採用は伺えるものの、その禅風にいわゆる「念仏禅」の影響は皆無に近く、また、現実に多くの臨済宗、曹洞宗からの雲衲が隠元禅師のもとへ参禅したことを考えると、禅師が伝えた禅風には六祖慧能大師以来の禅の正脈が息づいていたことをうかがい知る。
  なお、松島瑞巌寺の雲居希鷹(うんごきよう)禅師のように、規矩を律院の規矩に準じて作り、厳格に実践した僧はいるが、それとて、禅ありきの次に念仏があったことを承知すべきである。
 

  ねんぶつ・どくたん(念仏獨湛) 



 
  ノーケー(那伽) 
    那伽定(なかじょう。→)のことを唐韻でこう読み慣わしているが、今日では、僧侶の津送(しんそう)時に読む結讃(→)の「ノーケー」の事を指す。


       
       
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