黄 檗 辞 典 
HPトッフ あ~え   か~こ さ~そ た~と な~の は~ほ ま~も や~わ 凡 例

 
 
  まいさおう(売茶翁)
    売茶翁(ばいさおう。→)


       
       
  マカラ(摩伽羅)  
    摩竭魚とも書く。 魔除けとして黄檗山総門の屋根に乗せられた想像上の動物。 鯱(しやち)に似ているが鰭(ひれ)の代わりに足が生えており、インド辺りにその原型が求められるという。 女神の乗り物として喩えられた、ガンジス川に棲息するワニだと言われている。
  水辺の動物の中でも最強であることから、アジアでは、聖域の結界にあたる入り口の門、屋根などに置かれるほか、仏像の装飾にも用いられているが、日本ではあまりみかけない


 

↑ 雄の摩伽羅

 

↑ 雌の摩伽羅

     
   
  まふ(麻腐)
    胡麻豆腐(ごまどうふ→)の略称。


  まんさん・せがき(満散施餓鬼) 
    授戒や大規模な法要の円成時に、当該法要の功徳を以て餓鬼衆に回向する施餓鬼法要をいう。


  まんじくずし・こうらん(卍崩し勾欄)   

    黄檗山の勾欄(手すり)や半扉には卍の模様が組み込まれているが、これが異国風の雰囲気を倍加している。 この装飾は法隆寺の堂塔以来、他に類例を見なかったもので、黄檗独特の装飾とも言われている。 なお、開山堂前の勾欄は、卍の字そのままに勾欄として組み込まれているが、法堂の勾欄(右写真)は、かなり表象的である。


  まんじゅか・じゅうさんぱ(万寿下十三派)
    塔頭(たっちゅう→)の内、長松院、聖林院、緑樹院、慈福院、別峰院、宝蔵院、法林院、紫雲院、大潜院、慈照院、白雲庵、吸江院、寿光院の十三院の各塔頭を言い、万寿下十三院ともいう。
  万寿派は、本山二代木庵禅師の塔所であり、前記十三院は全て木庵禅師の法嗣である和尚方の塔所であるから、「派」の「下」にくる塔頭という意味で使われ出した称号である。 従って、これら十三院へ祝拝に伺う際は、先に万寿院に伺ってから、自派の法系の宿院にいくこととなる。 →〔「名数」「檗林集」「派下」〕


  マンナラ(曼拏囉)
    施餓鬼法要の際に、須彌盛り(→)の段で用いる宝鏡(→)のこと。 「マヌラ」と称することもある。


  まんねんゆうけい(万年有慶)
    本山伽藍を修理するために納められた天真院納金(→)の納入額とその使途および存庫銀(剰銀)を記録した書。 七代悦山道宗の冠記がある。


     
     
   
  みつうんえんご(密雲円悟 1566~1642
   

  (黄檗山文華殿蔵)

   宗祖が最初に修行した時の師が密雲円悟禅師であり、この出会いが、隠元禅師の生涯を決定づけたと言っても過言ではない。 このことから、宗門では密雲禅師のことを祖翁と称する。
  道号は密雲。 諱は円悟で、臨済正伝第30世である。 得度師、嗣法師ともに幻有正伝禅師である。
  嘉靖45(永禄9、1566)年11月16日に中国江蘇省常州府宣興県で生まれた。 俗姓は蒋氏で父の名は曦、母は潘氏である。
  天台山通玄寺、金粟山広慧寺、黄檗山萬福寺、天童山景徳寺等の住持を歴任し、嗣法者は、五峰如岳、漢月法蔵、破山海明、費隠通容、石車通乗、朝宗通忍、木陳道忞(弘覚禅師)、萬如通徹、牧雲通門、浮石通賢等の12人を数える。
  崇禎15(寛永19、1642)年7月7日示寂、世寿77才であった。
  康煕帝から 『慧定禅師』号が特謚されている。
  著書として如学編『密雲禅師語録』がある。 参考書として、 『密雲悟禅師伝』、『天童密雲禅師行状』、『天童密雲禅師年譜』等。



  みつうんぱん(三ツ雲版)
    粥座(しゅくざ。→)や斎座(さいざ。→)、薬石(やくせき。→)の合図に鳴らされる雲版の敲き方のこと。なお、粥座の場合は雲版と言わずに火版(かはん。→)ともいった。


  みつだいこ(三ツ太鼓)
    法要時、出頭半鐘のあと(施餓鬼法要の場合は三通触れのあと)に、点灯等が完了し法要開始の準備が完了したことを告げる合図として殿司が打つ太鼓。 大きく緩やかに三つ打ち鳴らす。
 

  みっとう(蜜湯)
    梅干しの果肉をほぐし砂糖を入れ煮たお湯。 疲れを癒し、喉を潤す作用があることから、施餓鬼や授戒法要等の長時間法要時、あるいは茶礼時に伝統的に利用されている。


  みやこ・しちふくじん(都七福神)
    七福神は、江戸時代初頭に創始された日本と中国の仏や神々である。 いつしか信仰を集め、七福神巡りが盛んに行われるようになった。 中でも全国で最も初期に作られた七福神巡りのコースが、この京都の「都七福神」と言われ、「日本最古」との肩書きがつけられている所以である。
  今日では、全国津々浦々に見られる風習であるが、京都の「都七福神」は、ゑびす神社のゑびす神、松ヶ崎大黒天の大黒天、東寺の毘沙門天、六波羅蜜寺の弁財天、赤山全員の福禄寿神、革堂の寿老人、萬福寺布袋尊(天王殿(→)の弥勒菩薩)で構成されている。


  みょうこうほう(妙高峰)   

    本山・万福寺の背後に聳える最も高い円形の山を言う。 
  黄檗十二景の一である。 妙高の文字は須彌という梵語の訳である。 →〔渓道元著「黄檗案内」〕
  
 隠元禅師の叙文に曰く
  翆靄 妙高竟日看 翆
(すいあい)たる妙高 竟日(ひねもす) 看る  見時容易到時難 見る時容易にして到る時難し
  自憐老足無何用 自ら憐む 老足何の用無し
  収拾風光焔胆肝 風光を収拾 胆肝を焔らす


     
  みょうしんじ・へきしょ(妙心寺璧書)  
    もと妙心寺住持・龍谿性潜禅師の僧籍剥奪を行った妙心寺は、2年後の寛文7(1667)年、派下寺院に「妙心寺璧書(貴重な書の意)」と題した通達を下した。 
  その主旨は、暗に龍谿を批判し、妙心寺派の僧が黄檗派と関わることを禁止するというものであった。 もっとも当時の情勢下では、黄檗派の隆盛によって妙心寺派の動揺が著しくなっており、統制をとる必要から出たやむを得ないものでもあった。 →〔「鉄眼」日本の禅語録17号、ほか〕


 
     
  みろくぼさつ(弥勒菩薩)   
    黄檗山天王殿の中央に祀られた仏像。
  范 道生(→)の製作になるもので、弥勒菩薩の化身であったとされる布袋和尚の姿で作られている。
  黄檗山が中国情緒溢れる寺院としての雰囲気を醸し出す、大きな役割を演じている。
  なお、布袋
(ほてい)は、唐末に中国明州(現在の浙江省寧波)に実在した釈契此(しゃくかいし)であるといわれ、常に袋を背負っていたことからこの俗称がつけられたと伝えられているが、はっきりしない。


     
  みんちょうたい(明朝体)  
    今日、新聞等の刊行物やワープロ等の標準文字として使用されている、いわゆる「明朝体」という書体(フォント)は、黄檗版(→)と称される黄檗宗独自の開刻技術によって発展継承され、我が国に定着したものである。 
  この文字は、鉄眼禅師が一切経(大蔵経)の版木を彫刻する場所として設置した黄檗山内の塔頭「宝蔵院」において彫られ誕生したものである。 宝蔵院は実に我が国明朝体の故郷とも言うべき場所である。
  さて、右図版の左側の文字が一切経を製作する刷印楼で彫られた文字を拡大したものである。 今日の明朝体書体(右側図叛)とほとんど差異が無く違和感すらないことを感じられるだろう。
  実は、明朝体はその名の通り、明の時代に普及した書体であるが、版木の刻字技術の発展とともに生まれるべくして生まれた書体だといわれている。  
 
 
    文字を刻字する場合は、一人が版木の全てを彫るのではなく、十人ほどの職員が横一列にならび、作業を進めるという。 縦の線を彫る職人は縦線だけ、横線を彫る職人は横線のみ、と、それぞれに専門の担当部分を受け持ち、流れ作業の法式で彫られたという。 これがために、どの文字も非常に均整がとれ形の整った均一の文字が誕生したのである。
  当時の版木作成技術の高さをうかがい知るとともに、鉄眼禅師の事業が、いかに我が国の印刷文化に貢献したかを知るのである。
 


     
 
  むこうふざ(向扶座)
    施餓鬼の法座に着席する僧侶のうち、東単側最上席者(即ち、大趺坐の正面)を言う。
  導師に不要不急の事態が発生したとき、その務めを変わって果たす役割を担う者とされているので、導師に代われるだけの法要の熟練者でなければならない。 しかし、事実上、法要の最中にそのようなことは起こりえないのが実態であるから、寧ろ実際の役目としては、法要を順調に進行するために、導師の扱う法具や疏などを準備する係となっている。


   
  むつじゃんこん(六上供)
    上供(シャンコン。→)は六本立てが基本であるが、狭い本堂では、前机も狭く、せいぜい四本しか置けなかったため、「四上供」(よつジャンコン。→)の言葉が出来た。 この言葉に対して、「六上供」の語が出来たとされる。


 
   
 
  めいきん・さんぱい(鳴磬三拝)
    導師や尊宿が出班焼香時等に、磬子を合図に展具拝を行うことをいう。→〔「拝儀」〕


   
   
   
  めいせん(名簽) 
    儀袋(→)の中央に名題と自分の僧名を記する紙片のこと。 拝票(→)ともいう。〔「儀袋」〕


  めいたん(名単)
  法要に当たって作成する随喜僧侶の役位分担を記した表。 名簿のこと。→(「戒会須知」)



 
  めんぜんだいし(面然大士)
    施餓鬼の経本である「瑜伽焔口科範」縁起文中に出てくる神の名。 その姿は、口から火炎を吐き髪は針の山のごとく羞悪であるが、実は六道に迷う衆生を救済する観世音菩薩の化身とされ、中国民間信仰に由来する。


   
  めんれい(免礼) 
    祝拝時に、宿院へ伺うことを免除されることを言う。


   
 
  もうざん(蒙山)
  蒙山施餓鬼の略称。
  「蒙山」とは、四川省の雅州府名山県の西方にある五山の内の最も高い山のこととされるが、ここでいう「蒙山」は、西夏の金剛法師・不動の代名詞であるという。 つまり「蒙山施食儀」は金剛法師不動の著であり、標題にその代名詞である「蒙山」の名を冠したといえる。 →〔野川博之著「黄檗宗常用の西夏仏教遺文」〔文華〕129号〕


  もうじゃかい(亡者戒)
  授戒を受けたいのに受けられずに故人となってしまった人(亡者)のために、授戒を行うことをいう。


  
  もうす(帽子)
  中国風帽子のことで、誌公帽子(→)が正式名称である。 唐韻で「マオツ」とも、唐帽子
(とうもうす)とも言う。


 
  もくあんか・さんけつ(木庵下三傑)
  「黄檗三傑」とも言う。 鉄牛道機、潮音道海、慧極道明の三禅師を言う。→〔名数〕


 
  もくあんか・じゅってつ(木庵下十鉄)
  木庵法嗣45位の中、で特に優れた「鉄」の道号を持つ鉄文智、鉄堂融、鉄眼光、鉄崖空、鉄柱肝、鉄心胖、鉄禅廣、鉄獅子、鉄岩廓、鉄航慈の十人の和尚を言う。 また「木庵下八鉄」と言う呼称もある。→〔「仏家」〕


 
  もくあんぜんじ・すいごさんそく(木庵禅師垂語三則)
    木庵禅師の室内における次の三つの公案をいう。
  一、和泥合水処認取本来面目作麼生認取
    (この浮世の世界に居ながら禅の眞髄をつかむには、どうしたらつかみ取れるであろうか。)
  二、横呑巨海倒卓須弥甚麼人分上事
    (口をあけて大海の水を呑みほし、倒れた卓に須弥山を立てるには、どのような人にして初めてそれが出来るであろうか。)
  三、荊棘林中坐大道場具什麼眼到恁麼地
    (いばらの林の中に迷い込んでいながら、しかも禅の悟りの大道場に坐っている。そのような心になるには、どのような境涯を得て、始めて可能だと言えるだろうか。) →〔中尾文雄著「木庵禅師」〕


  もくぎょ(木魚)
  木魚は黄檗派の僧が持ち込んだ法具としてよく知られている。
  その原型となる物は開板(かいぱん→) であるが、江戸時代前半期に作成された清規に記載された形(図)を見ると、姿、形は今日使用されているものとほとんど変わらず、明朝末期にすでに完成領域にまで発展していたことを伺い知る。 ただ、バイ(木魚をたたく棒)だけは形を変えている。
  据え置きの大型木魚のほか、携帯用の小さな小木魚など大きさは多種ある。 また日本に導入されてから塗り製品の木魚も現れた。
  木魚の望ましい敲き方としては、初めはゆっくりと敲き、ある時点から龍が動きを見せ天に昇り出すかの如く、除・破・急の調子をもたせて敲くことが望ましいとされる。 忌むべきは、曲打ちと称される敲き方や、急に強く打ったり弱くしたりする打ち方である。


 
  もくそき(木祖忌)
  木庵性瑫禅師(→)の祥忌を言う。 師は、黄檗宗第二祖であり、50年ごとに宗門挙げて遠忌が挙行されている。 また、万寿派ならびに万寿下十三派の開山であることから毎年1月20日には派祖忌として、挙行されている。


 
  もどき・りょうり(擬き料理)   
  普茶料理は精進と決まったものであるが、その精進の素材を使って肉や魚を思わせるようなモノを作る疑似料理をいう。
  カマボコやそぼろ肉のようなものから、ウナギの蒲焼きまである。 禁欲の山内であればこそ考案された料理という人もあるが、それほどにストイックなものではなく、寧ろ遊び心から考案されたものと言えよう。 
  例えば、この代表格のウナギの蒲焼きは、豆腐と海苔を素に作られ、まさに蒲焼きにそっくりで、目も楽しませてくれる。


 
   
   
   
 
  ももかわら(桃瓦)  
  黄檗山内には、隠れたところにも中国情緒が溢れている。 
  たとえば松隠堂に上げられている役物瓦は、桃が大きく彫られている。右は、庫裏(典座)の大屋根の四隅に据えられた瓦である。意外と気づかない場所にも桃が多用されているのがわかる。


 
  ももど(桃戸)
  黄檗宗の建築物に多く用いられている正面入り口の観音開きの半扉。桃の彫刻が施されていることから、この名がある。
 なぜ桃の図柄が彫られているかについて、中国では桃が『桃符(タオフー)』といって魔除けによく使われていることから魔除け説が有力であるが、招福説もあり判然としない。
 中国では「桃」には、不老長寿を呼び寄せ厄を払う。 また、女性を象徴し、生命の源を表すなどが、信仰される理由とされている。
 宗門寺院では、半扉だけではなく、須彌壇の飾り衣装として、また、役物瓦にも桃が多く用いられている。


 
 
  もり・の・ほうなん(森の法難)
  延宝12(1674)年11月2日から、鉄眼禅師が大分県玖珠郡森の安楽寺(曹洞宗)に招かれ楞厳経の法話を行った際に出会った事件。
  この時、禅師は楞厳経第六巻に説くところの「三決定」を話されたという。
  「三決定
(さんけつじょう)」とは、「戒(かい)、定(じょう)、慧(え)」の三学が具わっているかいないかによって、「正法と邪法」、「仏道と魔道」とを判別、決定するという意味である。 つまり、念仏や坐禅をいくら修行したところで戒律が欠けていれば正法ではないと説かれたのである。
  ところが、この段の法話の際に一向宗の僧侶や宗徒が騒ぎ出した。 禅師がもと一向宗(浄土真宗)の僧であったことから、「肉食妻帯」をことさら取り上げるのは、意図的に特定の教団を誹謗中傷するものだとして訴訟に及び、ついには禅師を殺傷せんとする動きにまで広がり大事件となった。 これを森の法難という。
  この事件は、その場は藩主・久留嶋公の介入により難を逃れる事が出来たという。 その後、一向宗関係者が投獄されるなどしたが、鉄眼禅師は「仏法から起きたことは仏法で解決すべし」として関係者の赦免状を藩主に願い出、実に仇に報いるに恩で以てしたとされる。 →〔服部俊崖著「鉄眼禅師」、「人名」、ほか〕
  なお、余談ながら、この騒動の最中に鉄眼禅師をお茶と饅頭により毒殺せんとする試みがあったとされ、今日なお禅師の遠忌には茶と饅頭はお供えしないこととなっている。


  もんじん(問訊)
    仏をはじめと、祖師、尊宿、同輩などに対し、合掌低頭して無言で敬意を表すこと。 歩行中の対面者が問訊する場合の作法としては、約5m手前で立ち止まり、直立不動の姿勢で合掌し、約20~30度の角度で礼拝をするのが適切とされている。
  唐韻ではウンシンと発音する。→〔拝儀〕



   
  んじんおろし(問訊降ろし)
    問訊(→)の姿勢を停止し、合掌していた両手を下ろすことをいう。 なお、降ろした両手は、必ず叉手當胸するのが常態である。


   
  もんばい(門牌)
    法要開催の道場であることを示すために、一枚一字あての文字を書き入れた紙製で作られた幡風の標識。 なおこの一枚の牌を「紙牌(しはい。→)」と呼ぶ。 当日もしくは、一定期間以前から、外部から見えやすいように法要の壇を設ける主堂の正面入り口に吊り下げる。
  書かれる文字は法要によって異なり、授戒の開戒時には「蘇羅(スル)道場」、施餓鬼法要時には「瑜伽(ユガ)啓建道場」、「水陸道場」等が吊される。
  本山の中元法要の場合、総門には「蘭盆勝会」を掲出し、天王殿に「中元啓建頂禮梁皇懴法道場」を掲出している。 その他、大般若転読会であれば「吉祥結縁」、「諸縁吉祥」等がある。



 

 ↑ 授戒の戒壇が設置された
   場所に吊される門牌

   
   
   
       
       
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