黄 檗 辞 典 
HPトッフ あ~え   か~こ さ~そ た~と な~の は~ほ ま~も や~わ 凡 例

 
   
  だいいちぎ(第一義)
① 黄檗山総門(漢門)の額名。 
  本山総門に掲げられた額に書かれた額字。 第五代・高泉禅師の揮毫になる。
  この額字については、逸話が残されていて、この語とともに高泉禅師の名を有名にしている。 
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② 黄檗宗青年僧の会会報の名称。


   
 
 
  だいいちぎもん(第一義門)  
  総門(→)の通称。
  高泉禅師揮毫の「第一義」の額がかかっている門のこと。  
  禅宗寺院の最初の門は「山門(→)」であるが、黄檗山萬福寺においては、山門より前に建てられた門であることから、この門は「総門」、あるいはこの名称で呼ばれる。



   
  だいおうほうでん(大雄寶殿)
    「だいゆうほうでん」とも読むが、宗門では通常見出しのように読む。 略称・大殿(だいでん)。
  大雄(だいおう)とは釈尊のことをいい、この名が示すとおり、この名称がつく建物内の本尊は釈迦牟尼仏、脇侍は、向かって右側が迦葉尊者、左側が阿難陀尊者である。 
  黄檗山のそれは、重要文化財。 西向重層瓦葺。
  寛文7(1667)年5月25日、将軍家から二万両とチーク材(→)が下賜され、建設が始められた。 青木甲斐守端山居士が現場監督となり、寛文8(1668)年3月25日に上棟された。 堂内正面の「真空(→)」額は、明治15(1882)年、明治天皇から下賜されたご宸翰である。
  両単に並ぶ、十八羅漢(→)は范道生作。 左方奥霊拝所には悉多太子の御肖像を祀る。
  また、堂内東単奥に開創350年記念として造られた宗祖騎獅象を祀る。
  なお、本堂用材はジャワ原産のチーク(→)材で、オランダ人が台湾に築城用材として輸送中、船が難破して長崎に漂着。 宗祖に帰依の巨商・勝性印(かつしょういん)ならびに徳川幕府が寄納したものと伝えられている。


   
   
  だいきっぽう(大吉峰)
      黄檗十二景の二番目に所載される。
  寛文4(1664)年頃に命名されたと言われる。 
  本山東南に見える合い連なる高い峰で、その形は鳳凰の翼を広げたように見えると伝承されているがどの山をいったものかは不明である。 田中智誠禅師は、位置関係から天王山であろうと推測されている。 →〔「文華」117号〕〔渓道元著「黄檗案内」〕

  隠元禅師の叙文に曰く、
   天生三秀出雲嚢    天 三秀を生じ 雲嚢(うんのう)を出ず 
   竣抜来朝正法場    竣抜(しゆんばつ) 来り 朝(ちよう)す 正法場 
   万福門開鐘間気    万福の門を開けば 間気(かんき) 鐘(あつ)まり 
   永垂千古為禎祥    永く千古に垂れて禎祥(ていしよう)と為る
     注:三秀とは、大吉峰、妙高峰、五雲峰のこと。



 
   
 
  たいこうふしょうこくし(大光普照國師) 
    宗祖・隠元禅師の徽号(きごう)で、禅師存命中の寛文13(1673)年4月2日、後水尾法皇から特賜された。
  この徽号は、前記の日に届けられていたが、一般に公表されたのは、実に23年後のことである。
  その理由として中尾文雄禅師は、幕府と法皇との確執が続いていたからと説明しておられる。→〔中尾文雄著「後水尾法皇と黄檗宗」〕
  なお今日、宗門では隠元禅師のことを親しみをもって普照国師、または国師と呼んでいる。
  〔注〕徽号とは、特に生前中に贈られるもので、死後に贈られる謚号(しごう)と区別されている。隠元禅師はその偉大さの故に、遠忌毎に各天皇から国師号や大師号を特謚されている。(→四朝国師)


 
   
  だいし(大師) 
    大師号は、もともと中国で高徳な僧に朝廷から勅賜の形で贈られた尊称であり、我が国でもそれに習って貞観8(866)年7月、清和天皇より最澄に「伝教」、円仁に「慈覚」の大師号が初めて贈られた。 他に僧侶に贈られる謚号としては、国師号、禅師号などがある。
  ところで宗門で大師号を受けた方といえば、もちろん宗祖であり、大正6(1917)年3月7日に大正天皇より 『真空大師』号を勅賜され、また、昭和47(1972)年3月27日には昭和天皇から 『華光大師』号の加賜を受けている。
→〔名数〕


  たいしゅうしょうとうぜんじ(大宗正統禅師)
    寛文9(1669)年、後水尾法皇からに後水尾法皇から龍谿性潜禅師に贈られた謚号。
  法皇は、これに合わせ、『請益録』(→)を 『正統録』に変えて出版するようにと序文まで賜られ、龍谿禅師は『御版宗統録』として版行されている。


 
  たいせいきょう(大成経) 
    大成経は、平安時代初期の「先代𦾔事(くじ)本紀(ほんぎ)」をベースに新たな創意を加えて再編された経典とされ、正式には「先代𦾔事本紀大成経」という。 古事記や日本書紀にもない神話・伝承を数多く含み、神儒仏一体の教えを説いた史書・神書として知られている。 
  この経典の骨子には、「伊勢内宮の別宮だった伊雑宮(いざわのみや。三重県志摩郡。)こそ、古くから天照大神を祀る本宮で、伊勢外宮・内宮はそれぞれ月神、星神の宮に過ぎない」と読み取れる記述があり、大事件に発展した。 伊勢両宮は「(以前からの)伊雑宮の主張を裏づけ、強調する内容だ」と反発。 幕府に強く詮議を求め、ついに幕府は天和元(1681)年に大成経を偽作と断定、禁書にするとともに大成経を版元に持ち込んだ長野采女と潮音道海、これに加担した伊雑宮の神官は「流罪」と決まった。 しかし、潮音道海禅師(→)は、五代将軍・徳川綱吉の母・桂昌院が深く帰依していたことから減刑され、謹慎五十日の刑に服することになった。 それまで潮音は、館林藩主時代の綱吉が全面支援して建立した広済寺の住職として、ここを拠点に活動していたが、天和3(1683)年に館林藩が廃藩になり、広済寺が取り壊されたのに伴い、南牧(なんもく)村の黒滝山不動寺に移って、新たな宗教活動を展開することとなる。


   
   
  だいねんきん(大念経) 
    

  たっちゅう(塔頭)
    「たっとう」とも読むが宗門では「たっちゅう」と読みならわしている。 
  黄檗山内にあって開山のお弟子方の常在する寺院をいい、宿院とも言う。
  隠元禅師存命中に松隠堂(しょういんどう。→)、東林院(とうりんいん。→、最初、東林庵)、華蔵院(けぞういん。→)、漢松院(かんしょういん。→)、法苑院(ほうえんいん。→)、瑞光院(ずいこういん。→)、崇寿院(そうじゅいん。→最初、景福院)、慈福院(じふくいん。→)、華厳院(けごんいん。→)、法林院(ほうりんいん。→)、宝善院(ほうぜんいん。→ 最初、宝善庵)、万松院(ばんしょういん。→)、宝蔵院(ほうぞういん。→)の十三塔頭があった。この後、紫雲院(しうんいん。→)、万寿院(まんじゅいん。→)、天真院(てんしんいん。→)、自得院(じとくいん。→)、獅子林院(ししりんいん。→)、真光(しんこういん。→ 最初、幻梅院)、大潜庵(だいせんいん。→)、寿光院(じゅこういん。→)、緑樹院(りょくじいん。→)、別峰院(べっぽういん。→)、長松院(ちょうしょういん。→)、寿泉院(じゅせんいん。→)、聖林院(しょうりんいん。→)、竜興院(りょうこういん。→)、法恵院(ほうけいいん。→)、吸江庵(きゅうこうあん。→)、慈照院(じしょういん。→)、白雲庵(はくうんあん。→)、竜華院(りょうげいん。→)、鳳陽院(ほうよういん。→)が建立され、三十三院となった。
  宗門僧侶は、以上三十三院の内、松隠堂および白雲庵を除いた三十一塔頭のいずれかの所管に属してきた。 →〔平久保 章著「隠元」吉川弘文館刊〕


   
  たはらばん(田原版)
    宗門常用の経本「禅林課誦(→)」の種類。 京都二条鶴屋町に店舗を構えた版行書肆の経営者・田原仁左衛門の名から、こう呼ばれた。 田原版は、方冊で一行二十字、十行から成っている。 →〔人名〕


  たんざん・さんぼだいじ(端山三菩提寺) 
    青木端山(重兼)居士の開基寺院三ヶ寺を言う。 すなわち、紫雲山瑞聖寺(東京白金)、 摩耶山仏日寺(大阪池田市)、 大覚山方廣寺(兵庫三田市( →〔名数〕


 
  チーク
    東南アジア原産で、インド、ビルマ、タイ、ラオスなどに広く分布する落葉高木樹。 樹高 30m、直径 60 ~ 80㎝、花は円錐花序で白色、 30 ~ 35㎝ になるとされている。芯材は軽く堅く、膨張や収縮が少なく、樹脂が均等に含まれていることから耐久性、耐火性、酸性に優れ、シロアリの害もないとのことで、家具、建築、彫刻などの高級品用材や、艦船、車両用材として世界的に広く利用されている。
  黄檗山の柱材は、もともとオランダ人が台湾築城用に運んでいたものが台風で長崎に漂着したものを、宗祖に帰依した貿易商の勝性印居士と江戸幕府が寄進したもので、天王殿工事の際に奈良国立文化財研究所によって、間違いなくチーク材であることが確認されている。 なお禅堂ならびに天王殿も同材を使用している。


  ちくりんしょうじゃ(竹林精舎)
    旗本・近藤貞用によって寄進された建物で、寛文3(1663)年に建立されている。 現在の東林院付近にあったと言われる。 本山重役の会議場として使用されていたと言われる。

  ちしへん(知耻篇) 
    松尾芭蕉の高弟・向井去来の父、向井元升(1609~1677。)が著した随筆集。 
  向井元升は、江戸前期の肥前の人で、医者。 名を元松、字は以順・素柏、 号は観水子・霊蘭。 本草学の祖といわれ、和漢洋の医学を折衷したほか、南蛮天文学を批判し、「乾坤弁説」を著したとされる。  この随筆集は、隠元禅師渡来時の騒々しさを記した書として知られている。


   
  ちゅうわせい(中和井)
  ① 開山堂付近は元、後水尾法皇のご生母、中和門院(→)の隠棲された屋敷跡で、大和田御殿と称されていたところである。 後、近衛家の所領となっていたが、黄檗山が建立されることとなり、喜捨された。
  隠元禅師は、宮跡の遺された井戸を修理され、「中和井」と名付けられた。
  


 


↑開山堂前に残されている屋敷跡の井戸
  ② 黄檗十二景の十一番目。  
    隠元禅師の叙文に曰く 
     天開玉井古里前   天 玉井開く 古里の前 (天はこの宮跡に井戸を開いた)
     特地輸誠繁若泉   特地輸誠繁きこと泉の若し (この井戸はことさらに水がわき出てくる)
     一脉鏡清功徳水   一脉鏡清功徳水 (清らかな鏡のような功徳水である)
     二時捧献老金仙
   二時捧献す老金仙 (朝夕に御仏にお供えしよう)  


   
     
     
     
  チュセンタイ(出生台)
    →さばだい (生飯台) ともいう。


  ちょうはん(長版) 
    雲版の別称。 粥座の時間になると雲版を長打するところからこの名称が生まれたという。 今日ではこの名称を使うことは皆無で、知る人もほとんどいなくなった。


  チンノケ 
    歴代忌(先覚忌)の法要に際し、読まれる香讃、結讃の経典名を確認する際にそれぞれの頭文字をとって読んだ言葉。  
  香讃、結讃ともに、宗祖、開山、一般衆僧等、その対象によって読まれる経典は別々である。 通常、香讃は 『真香無礙(チンヒャンウーガイ)』が、結讃は 『那伽既入(ノーケーキージー)』が読誦されるが、この「チン」と「ノーケー」を続けて読んだ言葉。


 
  つうげんもん(通玄門)
    開山堂に通じる正門。 中国様式の建築法により建設された門。


 
  つばきぬま・かんたくじぎょう(椿沼干拓事業)
    黄檗三大事業の一つに数えられている鉄牛道機禅師が支援し完成に導いた千葉県内に於ける干拓事業。 
  千葉県香取郡に所在する椿沼は、昔から椿湖または椿海と称されるラグーンであった。 江戸時代初期、この地帯に新田開拓の着眼をした杉山三右衛門は幕府の許可を得て資材を投じて干拓に着手したが、資力がつきてこの地を去ったという。 その後、白井治郎右衛門が新たに着手したが、やはり志半ばで断念せざるを得なかったことから、白井は幕府棟梁である辻内刑部左衛門にこれまでの経過を説明し、なんとか応援をして欲しいと申し入れた。 刑部は、白井の申し入れに賛同したものの、自分たちの力だけでは何ともならないと考え、大老・酒井忠清が帰依する鉄牛禅師に助力を求めることにした。
  鉄牛禅師は、大法を弘むることも民の利を興すことも衆生を利済することでは同じ事だとし、早速老中の稲葉美濃守正則に進言したところ、幕府が資金を拠出する方向で話がまとまり、ここに干拓事業が大きく前進することとなった。
  幕府が許可の決断をした背景には、大老、老中をはじめ、鉄牛禅師の人脈がいかんなく活かされており、とりわけ禅師が長崎滞在時に隠元、木庵両禅師の侍者をしていた当時、知り合った長崎奉行の甲斐庄屋喜右衛門が、この時には勘定奉行の地位にあったことも幸いしたとされている。
  さて、幕府の助力を得てスタートした事業であったが、難事業に変わりはなく、最初に着手した測量だけで実に11,050人もの人夫が従事したという。
  測量の結果、干拓の目途が立つことを確認した幕府は、白井、辻内両名の干拓の出願を許可し、干拓工事は寛文9(1969)年10月3日に正式に着工された。 
  開鑿工事は翌寛文10(1670)年12月に完了し、その翌年には予想以上の収穫があったという。 その後も広く干拓工事は続けられたが、地元民の力だけでは到底進まず、折に触れて鉄牛禅師の支援により幕府の助成が得られたことから、新田の開発は、禅師の斡旋の労に負うところ大であるとして、新田一帯を師の檀信徒にしようとの議が起こったという。 しかし、禅師はこの事業の成功は神仏の加護と、役人衆にその人を得たこと、また庶民の協和の結果であるとして固辞されたという。 のち、幕府は、禅師に対し、寺地三ヶ所を与え、香取郡小南村に補陀洛山福聚寺を、匝瑳郡春海村に如意山修福寺を、匝瑳郡鎌数村に仏日山廣徳寺を創建したという。 この三寺院は新田開拓によって建立されたことから、「新田三寺」と称されたという。 →〔干潟開発三百年記念事業委員会発行記念誌「追遠」、千葉県内務部編纂「鉄牛」〕
 


   
  つまみシャンコン(つまみ上供)
 
  宗門の独自様式である上供(シヤンコン。→)をお供えするスペースが狭い場合、供物を小皿に盛り分けて供える方法が用いられた。 これをいう。
 この場合、略式ながらも美的感覚を失わずに盛りつけることが求められ、宗門の独特な風習として伝えられている。

 
   
 
  ていとう(低頭)
  大衆一同が展具俯伏して額を座具に着け、至敬の気持ちを表わすことをいう。 一般に言われる正座をし、平身低頭でお辞儀をする形である。 法要時の公式場所等で、主催者等が発言をする際には展具拝をしてから口上を述べる。 その際、大衆は一斉に頭を下げるのが礼儀で、その作法をいう。
  一方、発言者は、相手方に自分より上位者がいる場合はもとより、一般的には「ご低頭には及びません」と、低頭を辞退するのが作法である。


 
  てつぎゅうぜんじ・しょうとくひ(鉄牛禅師頌徳碑)
  鉄牛禅師の尽力により完成した椿沼干拓事業(→)を顕彰するため、明治39(1906)年、時の千葉県知事はじめ有志者によって協賛を得て建立された銅製の碑。 千葉県香取郡東庄町の福聚寺境内に建立されている。
  碑の高さは2.97m、周囲2.8m、文字は小松宮殿下揮筆による。
  なお、太平洋戦争のため供出されたことから、昭和25(1950)年10月、当初の碑と寸分違わず再建された。→〔干潟開発三百年記念事業委員会発行記念誌「追遠」〕 


 
   
   
  てつげんどうこう(鉄眼道光 1630~1682) 
   

  ↑ 鉄眼道光画像(宝蔵院蔵)

 
  道号は鉄眼(旧号・徹玄)、法諱は道光(臨済正宗第34世)。 宝蔵院開基で、準世代・紫雲派宝蔵下祖。
  寛永7(1630)年1月1日、肥後下益城郡守山村(旧小野部田村北部田、現・熊本県宇城市小川町)に誕生。 俗姓は佐伯氏(父・佐伯浄信玄澄、母・円照院心月妙観)。 元浄土真宗の僧侶であったが宗祖隠元禅師渡来の報に長崎に向かい、禅修行に入った。 その後木庵性瑫のもとで修行を続ける一方、大蔵経(一切経)開刻事業に奔走、13年間をかけて完成した。 鉄眼が着手したこの事業により、我が国の印刷事業が大きく前進したことはいうまでもなく、庶民の識字率も大きく高まった。 
  開刻された版木は6万枚におよび重要文化財に指定されていて、今日なお印刷されている。 その偉業は、福田行誡をして「鉄眼は一生に三度一切経を刊行せり」といわしめ、大正12年から昭和20年まで、尋常小学校国語読本国定教科書に「鉄眼と一切経」として掲載された。
  彼のこの事業にかけた願心の強さは、曹洞宗の宗統復古運動を興した卍山道白、東大寺大仏殿を再建した公慶とともに「日本三大大願」の一人として著名である。 さらに事業遂行途中に発生した洪水や飢饉で苦しむ難民を救ったことから、「救世大士」と称された。
  この鉄眼の「一切経開刻事業」は、龍溪の「黄檗山造営事業」、鉄牛の「椿沼干拓事業」、とともに「黄檗三大事業」として賞讃されている。 
    遺偈 『七転八倒 五十三年 妄談般若 罪犯弥天 優游華蔵界 踏破水中天』を遺し、天和2(1682)年3月22日示寂、世寿53才。  昭和7(1932)年5月19日昭和天皇から『寳蔵國師』号が特謚されている。 塔所は黄檗山宝蔵院
  住職地は、黄檗山宝蔵院※、大阪難波・瑞龍寺※、東京青山・海蔵寺※、豊中・金禅寺※、熊本守山・三寳寺※、滋賀県五個荘・小松寺※、大阪泉北・寳泉寺※、滋賀県近江八幡・延命寺※、京都亀岡・常観寺等。この内※印の付いた寺院を鉄眼八ヶ道場という。
  著書に『瑞龍鉄眼禅師仮字法語』、『鉄眼禅師遺録』がある。 参考書として赤松晋明著『鉄眼』(雄山閣)、服部俊崖著『鉄眼禅師』(鳳林社)、源了圓著『鉄眼』(講談社・日本の禅語録7)等がある。

 
  てつげん・いっさいきょう(鉄眼一切経)
    鉄眼道光禅師が開刻した一切経(大蔵経のこと)のこと。 黄檗版(→)大蔵経ともいわれる。
  一切経とは、経蔵、律蔵、論蔵と言われる三蔵の全てがそろった経典の意である。 鉄眼禅師は、当時、 我が国に仏教経典の完全版が少ないことから、当初、大蔵経を購入する企画をたてた。 後に、自ら開刻の発願をたて募財の行脚をするとともに、事業の推進をはかった。 延宝6(1678)年7月17日、一応の完成をみて後水尾法皇に献上され、天和元(1681)年に全部が完成したといわれている。
  その偉業は、飢饉に際し行われた難民救済事業とも合わせ賞賛され、明治期の浄土宗・福田行誡上人をして「鉄眼は一生に三度一切経を刊行せり」といわしめた。 また大正12(1923)年には尋常小学校国語読本国定教科書の教材として採用され、昭和期にかけて20年近く使用されていた。

  大蔵経の開版は鉄眼以前に天海版があるが、両者の基本的な相違は、
① 天海版が元蔵を翻刊したのに対し、鉄眼版は明の北蔵(嘉興蔵版大蔵経・万暦本を底本とし、なおそれ以外の続蔵版をも加えて開版している。
② 天海版は小型木造活字(一字だけの活字)を組み合わせて使用しているが、鉄眼版は固定木版を使用している。
③ 天海版は6,323巻、鉄眼版は6,956巻。
④ 天海版は木活字のため完成本が少ないが、鉄眼版は後継者の寳洲道聰禅師(鉄眼禅師の事業の後継者、宝蔵派二祖)在世時に405部も流布し、海外にまで輸出されている。
⑤ 天海版は官制版であるが、鉄眼版は民制版である。等である。
  また、使用された明朝風の書体は、その後の刻経のみならず、明治以降の活字書体に大きな影響を及ぼしている。 版木の規模の概略は、縦約二十四センチ、横約九十センチ、厚さ約一.五センチの山桜材の一枚の版木に、経文8頁分が両面に彫刻されている。 版木総数は、約6万枚で、全てを印刷するには230,183枚の紙が必要とされている。
  昭和32(1957)年、版木約6万枚の内、48,275枚が重要文化財として指定されている。
  こうした優れた事業が完成した原因として、源了圓氏は、次の5点を揚げている。
① 鉄眼禅師が仏教教学に強い関心をもっていた。 
② 中天正印、鑑源興寿ほか、隠元禅師に至る古黄檗の歴代住持は大蔵経に強い関心をもっていた。 
③ 古黄檗(→)は、刷印楼(さついんろう。→) と言う印刷、出版の機関をもっていて、鉄眼は強い刺激を受けていた。 
④ 黄檗一派は「教禅一致(→)」の考えを強く推しだし、禅の修行にゆとりがあるときは教学をも学ぶべき伝統があった。 この伝統は後「黄檗清規(→)」にも規定され、触発されていた。 
⑤ 中国の伝統として教禅一致の伝統があり、大蔵経開版に努力した禅僧のことを知っていた鉄眼は、自分の発願に抵抗感が無かった。 
⑥ 近世の精神的文化的成熟と経済的向上が彼を支えた。

  
    版庫(版木倉庫)は当初、黄檗山塔頭の宝蔵院に設けられていたが、手狭になったことを知った大眉性善禅師は、延宝元(1673)年9月25日、自ら自分の東林院と宝蔵院とを交換しようと申し出、交換されたという。 その場所は現在の黄檗病院の辺りである。 しかしその地も明治5(1872)年、陸軍弾薬庫に接収されることとなり、移転せざるを得なかった。 
  新しい版庫が出来たのは大正5年、現宝蔵院の裏山墓地付近で、それまでの40数年間は、版木は法堂に野積み状態にされていたという。 
  昭和32年、版木が文化財として指定されるにおよび、その収蔵方法が問題となり、昭和36年、防災設備も整った新たな鉄筋コンクリート3階建ての収蔵庫が完成、現在地の宝蔵院に移転している。 →〔源了圓著「鉄眼」、松永知海著黄檗版大蔵経「文華」116号、ほか〕
 


 


↑ 版木の印刷風景

   
  てつげん・さんしょ(鉄眼三所)
    鉄眼禅師は、一切経開刻の大事業を実施するため必要な組織を分業化し組織的に運営した。 すなわち、募財行脚の拠点は大阪難波の瑞龍寺(→)においた。 版木彫刻と印刷実施は黄檗山宝蔵院で実施した。 京都木屋町二条には製本、販売を行う印房知蔵寮を置いた。 この三ヶ所のことを「鉄眼三所」という。 これら三所の責任者(瑞龍寺、宝蔵院の住職、ならびに印房の知蔵)は、輪番とされた。


 
  てつげん・はちかどうじょう(鉄眼八ヶ道場) 
    鉄眼道光禅師が開山の寺院 下記 8ヶ所を言う。
  本山塔頭宝蔵院、 大阪難波・瑞龍寺、 東京青山・海蔵寺、 豊中・金禅寺、 熊本守山・三寳寺、 滋賀県五個荘・小松寺、 大阪泉北・寳泉寺、 滋賀県近江八幡・延命寺


  てんこうとう(天光塔)
    萬松院(→)内にある、龍谿禅師の開山堂の名称。 禅師は、寛文10(1670)年8月23日、大阪・九島院にて台風の津波に遭遇され、激浪中に趺座して示寂された。 嗣法の弟子である後水尾法皇の勅により、その真骨塔が建立され、それを納める塔として建立されたのが天光塔(京都府指定文化財)である。
寛文11(1671)年に創建され、黄檗諸様式を調和させて建てられており、宗門初期の塔頭の開山堂形式を遺していることから、高く評価されている。


   
 
  とういん(唐韻)
    今日では「黄檗宗で用いる昔の中国音」の意で使用され、宗門では今でも多くの言葉を使用している。   ただし、黄檗宗に伝わった中国音は、明末期に福建省で使用されていた福建語(閩南語(びんなんご))、あるいは南京官話(明代から清代にかけて官吏が使った共通語。華南広州辺りの方言。)とされている。
  開宗当時は唐僧(中国僧)が多く、唐通事(通訳)が必要不可欠であったわけであるが、そのうち、和僧(日本僧)の中にも唐韻に通じる者も多出し、簡単な日常会話や単語は「黄檗常用語」として記録され、衆僧の間に定着する様になったという。
  
  因みに唐韻による読み方例を下欄に列挙してみると・・・・・・

◇数字 ・・・・   (一)壱(イー)、 (二)弐(ルー)、 (三)参(サン)、 (四)肆(スー)、 (五)伍(ウー)、 (六)陸(リユゥー)、 七(チー)、 (八)捌(パー)、 (九)玖(チュゥー)、 (十)拾(シィー)、 百(ペイ)、 千(チェン)、 (万)萬(ワン)、 億(イィー) 。

◇十干 ・・・・ 甲(キャ)、 乙(イ)、 丙(ピン)、 丁(チン)、 戊(メゥ)、 己(キ)、 庚(ケン)、 辛(シン)、 壬(ジン)、 癸(クィ)

◇十二支  ・・・・ 子(ツ)、 丑(ウゥ)、 寅(イン)、 卯(マゥ)、 辰(シン)、 巳(ツ)、 午(ウ)、 未(ウィ)、 申(シン) 酉(ユゥ) 戌(メゥ) 亥(ハイ)

◇一般用語としては  ・・・・ 飯子(ハンツゥー)、 香物(ヒャンウー)(漬け物のこと)、 醤油(チャンユゥー)、 銀子(インツゥー)(お金のこと、)、

◇「般若心経」の冒頭部分  ・・・・  『般若(ポーゼー)  波羅蜜多(ポーローミートー)  心経(シンキン)  観(カン)  自在(ツゥーサ゜イ)  菩薩(プーサー)  行深(ヘンシン)  般若(ポーゼー)  波羅蜜多(ポーローミートー)  時(スゥー)  照見(チャウケン)  五蘊(ウゥーイン) 皆(キャイ) 空(クン)』

  なお、ルビで間違いでは、と思われた方もあろうが、中国音には日本語にない、無気音、有気音というのがある。 日本人は、こうした独特な発音について、表記方法で相当苦労したようで、例えばサに○を打つ「サ゜」と記し、ツァに近い読み方をさせている。
  ところで、平成の時代に入った頃から、宗門内では唐韻を用いる檗僧が急速に減少し、これを「隠語」と理解する僧すら出始めているが、法式等で常用されている語彙については、まだまだ残っている。→〔「破草鞋」ほか〕


 
  どうかん・じゅり・ぶつけさ(道冠儒履佛袈裟)
    檗僧の衣体をみて他山の僧が揶揄して称した言葉という。
  檗僧の帽子(→)をかぶる姿は道教の僧を思わせ、靴は儒者が履くようなもので、袈裟だけが仏教徒であることを示しているというもの。 この言葉が言わんとするところは、道教、儒教、佛教とそれぞれが馴染まないのに合わせもつ新興黄檗僧への物珍しさを もの語っているように聞こえる。 もっとも、一面では、形こそ違えど、この三つの思想は底辺で共通した思想を持っているうえに、隠元がもたらした黄檗の宗風そのものも明朝末期の中国禅の傾向をよく表していたともいえるのである。 →〔高井恭子著「獨立性易の六義解釈について」文華118号〕


 
  どうけい(銅磬)
   
     

   一般に磬子(けいす)と称される、法要で使用する鳴り物法具。 
  宗門の本堂等は土間であることから、立ったままの読経となり、磬子台も高く造られている。


  ←左図版は清規に掲載された銅磬


  とうじとうや(冬至当夜)    
    毎年12月22日の冬至の夜は、臘八の厳しい修行を終えた、修行僧(雲水)たちのお祝いの日とされている。
  雲水たちは修行のために喜捨をするなど協力をしてくれた支援者を招待し、お礼の祝宴を開催し、腕によりをかけ手作りの料理で来客をもてなす。 一山の僧は、衣を付け、駆けつける。
  この日は、会場正面に「免禮」の額を掛け、時を知らせる魚梆の撞木は熨斗を巻いて飾り付ける。 時を告げる魚梆はこの日ばかりは鳴らさないということである。 つまり、修行から解放された無礼講の日であることを示している。 もちろん翌朝の勤行も行われない、といいたいが、平成の御代では、冬至の翌日は天皇誕生日のため、祝聖を実施するので、勤行無しというわけにはいかず、通常通りである。
 

  とうぜんのはい(塔前の拝)
    年忌等の法要時、本来は石塔(墓碑)へも礼拝すべきであるが、天候やその他の事情でゆくことが不可能な場合は、法要が一旦終了した後、その場所で知客等の「塔前の拝」の発声により改めて展具三拝することをいう。


  とうたん(東単)
    堂内正面に向かって右側に設けられた席、台(もしくは棚)等の呼称であるが、今日では広く堂内の右側全体を指す場合もある。 
  この呼称は建物が北面していようが東面していようが関係なく、宗門の建物は南面して建てられているものとの理解の上で用いられた呼称である。 なお、法要時に大衆が座る場合、原則として東単側に常住側が、西単側には客分側が着くこととされている。
  また、この座り方は、今日のセレモニーの座り方として、右に主催者、左に招待者という形式で受け継がれている。


  とうふかん(豆腐羹)
    中国風豆腐。 日本の豆腐よりさらに水分を抜き、固めたもの。 隠元禅師来朝と共に伝来し、一般に黄檗豆腐といわれる。 ごま豆腐とはまったく別ものである。 黄檗山の普茶料理には必ず使用されている。 現在、黄檗山門前の松本という店舗一軒だけが製造している。


  とうほうじょう(東方丈)
    黄檗山堂宇の一。 北向単層こけら葺きで、寛文3(1663)年建立。 「寿位の間(→)」を備え、万福寺住持(管長)の重要な政務の場所である。 池大雅筆の襖絵「五百羅漢図」は著名である。


  とうめい(塔銘) 
    隠元禅師道行碑のこと。 寿塔の銘板に当たることからこの名がある。 禅師示寂後36年目の宝永6(1709)年建立。 花崗岩で造られていて、清初の中極殿大学士、燕山杜立徳になる宗祖の遺徳讃仰文が彫られている。 ただし、荻生素来は、これを偽書としている。


  とうりんあん(東林庵)
  ① 〔建築〕 寛文2(1662)年、大眉性善禅師が本山東南一丁の所(現黄檗病院あたり)に建てた、本山最初の塔頭寺院。 中国江西省廬山東林寺の開創者である慧遠法師(334~416年)のことを追慕され、その名を付けられたという。
  慧遠法師は浄土宗の創始者であり、また、この東林庵で白蓮社が結成されたことや、蘇東坡の「廬山烟雨浙江雨」の詩で知られ、中峰明本禅師も住したことで知られた著名な寺院である。
  大眉禅師は、鉄眼禅師が開刻した版木を収納する場所に困惑していることを知られ、惜しげもなく提供されている。
  のちに、大眉禅師の法嗣・梅嶺道雪禅師によって延宝2(1674)年、現在の宇治市営プール付近に再建されたが、明治8(1876)年に陸軍火薬庫として接収され、やむなく太平洋戦争後に壊され現在地(斎堂裏付近)へ移転している。 →〔坂本博司著「万福寺の塔頭に関する覚書」文華118号〕

 
   

   ② 〔風景〕 黄檗十二景の一。
   隠元禅師の叙文に曰く、

    把茅蓋頂息知音   把茅 蓋頂 知音を息む
      (ここ東林庵は茅が屋根を覆い 不便な山中で誰も尋ねてこない)
    一念無生亘古今   一念無生 古今に亘る
      (ここにいれば いつまでも何事も想うことなく)  
    徹悟昔年圀地処   徹悟昔年 圀地の処
      (悟りに徹することの出来る国家の地所)
    渾身瀟洒在東林   渾身 瀟洒 東林に在り
      (満身俗離れしさっぱりと東林庵にいる)


  どくたん・まんだら(獨湛曼荼羅)
    当麻曼陀羅(たいままんだら)は早くからその縮小版が作られ流布されるとともに、江戸時代には曼陀羅信仰が隆盛を極めていたが、黄檗第四代・獨湛性瑩禅師(1628~1706)は、この当麻曼陀羅を見て感動し、移動、吊懸に適した小型のものを製作し、上部に自作の讃を付けたものを印刻して大いに普及に努めたところから、「獨湛曼荼羅」と称されて広まったという。
  黄檗文華殿に現存する獨湛曼荼羅は禅師自筆の紙本極彩色で、縦321,5ミリ 横298.3ミリ、浜松・初山宝林寺伝のものが四日市観音寺に移され、黄檗山に寄託されたものである。


  どくりゅう・いっしゃくのみず(獨立一勺の水)
    獨立とは、黄檗僧獨立性易のこと。 俗姓は戴氏。 儒学と医術を学び明朝に仕官していた。 名流が集う詩社に参加し、詩や書で名が聞こえていたという。 
  明朝滅亡後、永暦7(1653)年、58歳のとき長崎に渡来。しばらく帰化人の医師頴川入徳の許に身を寄せ、ここでは朱舜水と同居している。
  承応3(1654)年12月、渡来した宗祖隠元禅師に請うて興福寺で得度し仏門に帰依した。 道号を独立、法諱を性易と名乗った。 隠元の普門寺行きには記室として随行し、万治元(1658)年、隠元が徳川家綱に謁見するための江戸行きにも随うと、漢詩や書、篆刻、水墨画などが高く賞賛された。 噂を聞いた老中松平信綱より平林寺に招かれる栄誉にも浴した。 しかし、病を得て万治2(1659)年には長崎に戻った。 興福寺の幻寄山房にて脚痛の養生をしながら、自著『斯文大本』を元に 『書論』を著し、正しい書法の啓蒙に努めた。 明代の新しい篆刻を伝え日本の篆法を一新した。また初めて石印材に刻する印法を伝えている。
  万治4(1661)年に岩国藩主・吉川広正と子の広嘉に招聘され施術した。 岩国では錦帯橋(→)の架設に重要な示唆を与えている。
  この際、獨立は、紅葉谷付近の「浄土院」に住み、静かな生活を楽しんだと云われている。 また、篆刻の好きな獨立は龍門寺の岸壁に漢詩を刻んだと云われ、今日その内の「一勺」の二文字が残されている。 
  昭和48(1973)年、錦帯橋創建三百年祭に際し、実行委員会は、禅師の漢詩の一節「一勺源頭水作池 流通頼有何全支」の揮毫を、中国仏教界会長趙樸初氏に依頼し、戴曼公獨立禅師祈念碑として建立されている。
寛文2(1662)年、67歳からは各地を行脚しながら医業に専念。 貧富にかかわらず民に薬を施し病を癒したという。 とりわけ疱瘡の治療で知られた。 岩国吉川家や長州毛利家、小倉小笠原家などからも招かれている。


  とちょう(戸帳) 
    黄檗山大雄宝殿および禅堂の正面入り口に吊り下げられた映画スクリーン状の大きな幕(白い布の周りを黒い布で縁取りしてある)のこと。
  中国では暖簾(ヌァンレン)と呼ばれ、日本の「のれん」の原型となったもので、扉代わりに用いられている。
  宗門系の寺院でも、黄檗山以外には見かけない。

 

   
   
   
  どら(銅鑼)
   



   黄檗宗を特徴づけるものの一つに、鳴り物法具の豊さがあるが、その代表的な法具が銅鑼である。
  銅鑼は仏殿太鼓とセットで設置され、仏殿太鼓が東単側に置かれるのと対照する西単側に設置される。 
  鳴らし方は、木魚と同じであるが、よりその音を活かす形で、打ち替え時に大きく敲かれる。 その重低音で余韻を残す音色は荘重で、梵唄(→)の厳粛な雰囲気を倍加させるのに欠かせないものとなっている。



     
   
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