黄 檗 辞 典 
HPトッフ あ~え   か~こ さ~そ た~と な~の は~ほ ま~も や~わ 凡 例
 
           
  おうきんきょう(黄近協)
    黄檗宗近畿地区協議会(→)の略称。


   
   
  おうじくずし(黄字崩し) 
   

  黄檗宗の「黄」の字をデザイン化し、宗紋の様に用いたことからこのように呼ばれ、法衣法服の模様や茶器等の模様として愛用されている。
  黄の字崩し(こうのじくずし→)とも称される。
  このデザインがいつ頃から使われ出したのか不明であるが、大正11(1922)年に宗祖250年大遠諱が厳修された際の資料には既に散見されることから、これ以前もしくは、このとき頃からと推定される。
  なお作者については、二文字屋の先々代らしいと伝えられているが定かではない。

 
   
   
  おうばく(黄檗)
  ① 〔地名〕 京都府宇治市黄檗。 
② 〔駅名〕 ア、JR奈良線「黄檗」駅のこと。 イ、京阪宇治線「黄檗」駅のこと。 
③ 〔寺院名〕
 ア、日本・黄檗山万福寺(新黄檗ともいう。→)のこと。
 イ、中国・黄檗山萬福寺のこと。 なお、この寺院は、宗門では「古黄檗」(昔は「唐黄檗」)の呼称で親しまれている。 
 ウ、中国・黄檗山黄檗寺(黄檗希運禅師→)のこと。 
④ 〔仏教宗派名〕 黄檗宗のこと。 
⑤ 〔人名〕 黄檗希運禅師(→)のこと。 
⑥ 〔植物名〕 黄檗樹。 黄蘗(→)のこと。 
⑦ 〔薬品名〕 黄檗(きはだ)から抽出した漢方薬原料のこと。 
⑧ 〔紙名〕 黄蘗(檗)紙のことで、黄紙(きし)ともいう。
⑨ 〔代名詞〕 黄檗僧のこと。


   
   
  おうばく・がぞう(黄檗画像)
    画像様式の一。 禅宗高僧の肖像画は通常、頂相(ちんそう)とよばれるが、黄檗宗の伝来とともに伝わった祖師方の画像の描写方法は、従来我が国になかった写実的で独特な様式(→唐絵)で描かれていたことから、特に黄檗画像と呼ばれ頂相という言葉は使用しない。 
  その特徴は、ほとんど例外なく正面向きの像容で描かれ、主として檗門の高僧、居士を描き、実写に近いものである。 
  画風は、写実主義的迫真性を重んじ、檗風建築と軌を一にしている。 また他方、同じく黄檗文化の一と言われる南画とは好対象をなすものである。 いわば、黄檗画像は我が国における肖像画史上の新生を拓いたものと言える。 
  初期の黄檗画像画家としては、逸然、楊道貞、喜多宗雲、道矩などがいる。 やや下っては、喜多元規、狩野安信、法橋徳應、長崎系画人などがある。 〔池長孟著「黄檗画像志」〕
  なお、宗門寺院で画像を製作する場合は、必ずと言っていいほどこの形式で製作するのを慣わしとしている。



  おうばく・きうん(黄檗希運)
    唐・貞元時代の福建省出身の僧。 はじめ「黄檗山建福禅寺」(後の万福寺 →古黄檗)で出家、修行し、のち百丈懐海禅師に嗣法する。 江西洪州(現・江西省高安県) に鷲峰山を開創したが、修行した時代を忘れないようにと「黄檗山建福禅寺」の山号をそのまま用いて黄檗山黄檗寺(→黄檗山)と名付けたという。
  黄檗希運の門下法系は栄え、それに従って黄檗山黄檗寺も知られるようになり、同時に黄檗希運と言えば黄檗山黄檗寺のことと連想されることとなった。 しかし、年代が経つうちに黄檗寺と万福寺とは混同されることとなり、著名な書籍等でも誤った記載がされたこともあり、今日なお万福寺の住持であった僧と間違われるがその事実はない。 のち、断際禅師の謚号を受け黄檗断際禅師とも呼ばれる。
  法嗣(はっす…特に師匠が認めた弟子のこと)に、臨済宗を起こした臨済義玄(りんざいぎげん)禅師がいるので、黄檗宗と無関係と言うことではない。

 ◇禅の系譜◇   釈尊から黄檗宗まで。 ( )内数字は、釈尊から何代目かを示す。
 (1)釈尊 →…→  (28)菩提達磨  →…→  (33)慧能大鑑 →…→  (36)百丈懐海 →
     →(37) 黄檗希運  → (38) 臨済義玄(臨済宗を開創)  →…→  (56) 中峰明本 →
         →(66)幻有正伝 → (67)密雲円悟 → (68)費隠通容 →  (69)隠元隆琦禅師


  おうばく・きおしょう・すいごよんそく(黄檗琦和尚垂語四則) 
    隠元禅師が参禅の徒に示された垂語(公案の一種)四則を言う。
  垂語とは、示衆、垂示、垂誡と同義で、問題を提起することによって自ら工夫させ、自己の力によって解答を発見させる機縁を作るものといわれている。 このため、垂語は、釣語(ちようご。餌をつけて魚を釣り上げる意。)とか、索語(さくご。模索して何とか自分で道を見つける意。)と表現されることもある。

  この黄檗琦和尚垂語四則は、以下の四則を言う。
 一、 金剛圏如何跳得出 (固く仕切られた囲いの中からどうしたら飛び出すことが出来るか。)
 二、 栗○蓬如何呑得下 (とげがいっぱい出た栗をそのまま食ってみよと言われたとき、どのようにして呑み込んだらよいものか。  (注): ○は束偏に束の字)
 三、 夜半日頭紅誰人得見 (夜中に照り輝いている太陽を、いったい誰が見ることができるか。)
 四、 日午打三更誰人得聞 (真昼に真夜中の時報が鳴っている。 それを聞けるのは誰か。)
  →〔野中茂著「隠元禅師の垂語四則」文華19号〕


  おうばく・げき(黄檗外記)
    臨済宗妙心寺派僧侶、無著道忠禅師(1653~1744)による隠元禅師東渡の伝聞記。 
  
無著禅師は妙心寺の住持を三度も拝命した学匠であることのみにとどまらず、龍谿性潜とともに隠元禅師を妙心寺へ招請しようとした竺印祖門の弟子であり、記述内容に大きな関心が払われている。
  原本は、妙心寺龍華院にあり、一部は鷲尾順敬博士の『日本仏教文化史研究』、辻善之助博士の『日本仏教史』近世編三に収録されている。


 
  おうばく・けっしょ(黄檗血書)
    古来、僧侶は、修行にかける自身の熱意や覚悟を示す目的で、或いは願をかけたときの成就を祈願し、種々の苦行を行ったりしているが、その方法の一つとして、自分の血を採血し、その血でもって写経をしたもので、書かれた経典を血書経(けつしよきよう)という。 採血の多くは、指からであるが、鼻や耳から採血することもあったという。 
  ところで、この血書経に取り組んだ僧が、ことさら檗僧に多いとされる。 
  確かな比較記録はないが、中でも惟一道実禅師は、この点で群を抜いていて、「華厳経」81巻を写経し、「華厳菩薩」と称されたほどである。 彼はさらに「法華経」、「楞厳経」等、200巻を残しており、まさに黄檗血書の先駆けといえる。


   
   
  おうばく・ごう(黄檗号)
    第二次世界大戦末期に宗門が寄進した戦闘機の名称。 昭和20(1945)年、当時の宗教界は挙って大政翼賛的であったから、「一億玉砕」の旗印の下、臨済宗はもとより、宗門でも山田玉田猊下はじめ挙って決起する意志を示さんと、戦闘機寄進をすることとなった。 集まった募金額は95,000円で、この内、8万円が戦闘機購入費用として当てられたという。


 
   
  おうばく・ごだいほうよう(黄檗五大法要)
    萬福寺の年中行事の内、以下の五つの大きな法要をいう。
   三元法要  … 年始法要 ・ 1月1日 ~ 3日
   開山祥忌  … 宗祖隠元禅師ご命日法要 ・ 4月3日
   中元法要  … 盂蘭盆会 ・ 7月13日 ~ 15日
   法 皇 忌  … 後水尾法皇(第108代天皇)ご命日法要 ・ 9月19日
   慈愍忌(じみんき) … 隠元禅師の誕生日 ・ 11月 4日


   
   
  おうばく・ざいけあんじんほうご(黄檗在家安心法語)
    黄檗山第38代・道永通昌が著わした、檀信徒向けの法語。 宗門の教義を、片仮名交じりで平易に記した解説書ともいえる。 明治13(1880)年6月15日出版。 略称「安心法語→」。    
  全体は25節からなり、各節は平均440字。 各節に標題は無いが、「佛性」、「即心即佛」、「見性の念仏」、「参禅の心得」、「唯心(ゆいしん)の浄土己身(こしん)の弥陀」、「戒」、、「三宝」、「因縁」、「安心の心得」、「見性成仏」、「正念相続」、「坐禅」、「菩提心」、「信解(しんげ)の必要」、第二十一節「唯心の浄土の正しい理解」、「仏心宗とは」、「念仏公案の真の意義」、「隠元禅師の法門」等について説かれている。


   
   
   
   
  おうばく・さんきょう(黄檗三経)
    宗門で主として読誦される「金剛般若波羅蜜経(こんごうはんにゃはらみつきょう)」、「楞厳咒(りようごんしゅう)」、「観音経(かんのんきょう。正式名称は「妙法蓮華経普門品(ふもんぼん)第二十五」)の三種の経典を言う。 なお、宗門では、いずれも唐韻で読経するのを慣わしとしていたが、今日ではその習わしも薄れつつある。 →〔名数〕


   
  おうばく・さんけつ(黄檗三傑)
     →木庵下三傑)


   
  おうばくさん・しょうしんぎ(黄檗山小清規)
    享保11(1716)年8月、聖林院の漢嶺沖別禅師が、元禄年間に知客寮にあった原稿を編集し「黄檗清規」を補完するものとして作成したもの。 →〔中尾文雄著「黄檗清規ノート二」〕

  おうばく・さんそ(黄檗三祖)
    宗門で特に「徳行」に優れた隠元禅師、「道行」に優れた木庵禅師、「禅行」に優れた即非禅師の三人の祖師方を尊称してこう呼ぶ。→〔名数〕


  おうばく・さんだいじぎょう(黄檗三大事業)
    龍谿性潜禅師(→)の黄檗興隆事業(黄檗山万福寺開創)、鉄牛道機禅師(→)の椿沼干拓事業、鉄眼道光禅師(→)の大蔵経開刻事業の三事業を言う。 さらに筆者は、上記三事業に、了翁道覚禅師(→)の勧学(我が国初の公開図書館事業→)を含め、黄檗四大事業と称している。 →〔名数〕


   
  おうばく・さんぴつ(黄檗三筆)
    書に堪能な隠元、木庵、即非の三禅師を称した語で、隠木即(いんもくそく。→)という呼び名で膾炙されてもいる。 三人の書にはそれぞれの個性と特徴がある。
  隠元の「穏健高尚な書」、木庵の「雄健円成の書」、即非の「奔放闊達な書」と評される。
  これら三人には中国人ならではの共通した明末清初期の書風に満ち満ちており、しかも臨済正宗という厳しい修行と悟入に裏打ちされた風格が溢れ、これを「黄檗もの」あるいは「唐風」、「黄檗風の書」とも称し、今日なお珍重されている。


   
  おうばくしゅう(黄檗宗)
    宗名。
  「黄檗宗」名が公的に使われるようになったのは、明治9(1876)年2月4日で、この日、明治政府によって正式に禅宗一派として承認されたという。 
  隠元禅師渡来以来、「臨済正宗黄檗派」を名乗っていた宗門であるが、明治維新による新たな宗教政策に基づき、教部省の命令で明治7(1874)年、強制的に臨済宗に合併させられることとなった。 しかし、時の和尚方の尽力により、2年後、臨済宗から独立し、「黄檗宗」という禅宗一派を名乗ることとなり、これにより、我が国の禅界は、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三派となったのである。
  もっとも、黄檗宗は、その伝来時期や宗風の違いから、独立したかのようにおもわれるものの、根本的には臨済宗と何等相違することはなく、当時から引き続き臨済宗と連携して、教化活動を継続しているところである。(→「黄檗派」、「臨黄合議所」)
  ところで、この宗派名称はいつ頃から使われだしたものであろうか。
  文化5(1808)年に発刊された、上田秋成の『膽大小心録』にはすでに、この宗名が使われており、ここには 「儒の天はさまざま也。黄ばく宗の油につかはるるに似たり」 と書かれているから、秋成の在世時には、この宗名が膾炙されていたと思われる。


  
   
  おうばく・しゅうか(黄檗宗歌)
    大正11(1922)年2月に宗務本院に於いて選定され、同年4月に挙行された宗祖250年遠忌事業において宇治小学校の斉唱に続き、参拝者全員が合唱したという。
  ト調、四拍子。 作詞者は、作曲者は。

 一 大倭(やまと) 島根(しまね) の 法(のり) の 庭(にわ) 冬がれそめしおりからに
   霊山(りようぜん) 会上(えじよう) の 花 一枝(ひとえ) 移りて 春は めぐり来(き)ぬ
 二 黄檗山の 朝ぼらけ 霧は 不断(ふだん)の 香(こう)を焚き
   妙高峰(みようこうほう) の 夕まぐれ 月常住の 法灯(ひ) をかかぐ
 三 普(あまねく)く 照らす 大光(みひかり)は いや 年々(としどし) にさえゆきて
   三千世界 隈(くま)もなく 直(ただち)に 指(さ)すや 人(ひと)ごころ


  おうばく・しゅうかんろく(黄檗宗鑑録)
    黄檗宗の法を嗣法し教師職としての資格を有する僧名及びその嗣法師と嗣法年月日を世代ごとに配列し、まとめた書。 通常、宗鑑録という。 元禄5(1692)年に本山五代・高泉性潡が第一冊目をまとめ上げ、享保11(1726)年に十二代杲堂元昶が第二冊目をまとめている。 寛政2(1790)年には、二十二代格宗浄超が三冊目をまとめたが、その後暫くまとめられることがなかった。
  昭和11(1936)年、四十八代義道弘貫が第四冊目をまとめ、戦後の昭和59年、五十七代玄妙廣輝の時代に第五冊目が発行されている。


  おうばくしゅう・きんきちくきょうぎかい(黄檗宗近畿地区協議会)
    略称・黄近協(→)。 宗門人の資質向上、各寺院間の相互扶助などを目的として、近畿二府四県の宗門住職、副住職、寺族らを会員とする組織。 昭和61(1986)年10月11日に発足。 独自の研修会開催や研究会を開催し、現代人向け法式集を刊行するなどしている。 初代会長・盛井了道禅師。


   
  おうばくしゅう・けいふ(黄檗宗系譜)
    黄檗宗務本院法務部長・黄檗宗報主筆・宮川黙雄によって制作されたもので、宗門の法系を一覧図にしたもの。 昭和5(1930)年12月に完成し、特別刊行物として頒布されている。 巻子本一巻のもので、修正版が「黄檗法系譜」として黄檗文化人名辞典に掲載されている。


  おうばく・しゅうせい(黄檗宗制)
    宗教法人黄檗宗に関する宗旨、本尊、教義、法脉相承、その他諸制度について定めたもので、明治24(1874)年2月19日、明治政府内務大臣によって正式に認可された。
  新憲法の下、昭和28(1953)年には大改正が加えられ、以来、数度にわたり改訂されている。


  おうばくしゅう・せいねんそうのかい(黄檗宗青年僧の会)
    黄檗宗教師資格を有する20歳から45歳までの宗門青年僧を会員とする全国的組織。 
  昭和57(1982)年12月9日結成。 会員の力で寺院の諸問題や自己究明に努めることを目的とする。 
  初代会長は森本信光禅師。 各種研修会や経典解説書の発行、あるいは手帳やカレンダーの発行等、活発な活動を展開している。


   
   
  おうばく・じゅうにけい(黄檗十二景)
    古黄檗十二峰にならって、日本の黄檗山万福寺をめぐる景勝地を十二選し、隠元禅師が命名かつ景趣を叙されたもの。
① 妙高峰(みょうこうほう。→)  ② 大吉峰(だいきっぽう。→)  ③ 五雲峰(ごうんぽう。→)  ④ 白牛巖(はくぎゅうがん。→)  ⑤ 青龍澗(せいりゆうかん。→)  ⑥ 雙鶴亭(そうかくてい。→)  ⑦ 三汲池(さんきゅういけ。→) ⑧ 龍目井(りゅうもくせい。→)  ⑨ 松隠堂(しょういんどう。→)  ⑩ 萬松岡(ばんしょうこう。→) ⑪ 中和井(ちゅうわせい。→)  ⑫ 東林庵(とうりんあん。→)の十二景がある。 →〔「新黄檗志略」、渓道元著「黄檗案内」ほか〕 
  なお、これに対して古黄檗においても、「古黄檗十二景」というのがある。


  おうばくしゅう・にしにほんちくきょうぎかい(黄檗宗西日本地区協議会) 
    宗門人の資質向上、各寺院間の相互扶助などを目的として、山口、九州地区の宗門住職、副住職、寺族らを会員とする組織。 昭和51(1976)年9月4日発足。 初代理事長・末永一道禅師。 合同開山忌、寺庭婦人会、機関紙「檗葉」発行等の事業を実施している。


  おうばくしゅう・ひがしにほんちくきょうぎかい(黄檗宗東日本地区協議会)
    宗門人の資質向上、各寺院間の相互扶助などを目的として、東海以北地区の宗門住職、副住職、寺族らを会員とする組織。 昭和62(1987)年4月15日発足。 初代会長・近藤正典禅師。「寺院録」発行、その他の事業を実施している。


   
  おうばくしゅう・ゆうこうほうちゅうだん(黄檗宗友好訪中団)
    古黄檗(→)拝塔を目的として宗門が編成した訪中団で、これまでに数次の派遣団を編成、派遣している。 伽藍の復興支援、新設協力や地元福建省仏教会との交歓交流など数々の実績を上げている。  中国側は「日本古黄檗拝塔友好訪華団」と記録。
〔第一次〕 昭和54(1979)年12月 9日~20日、団長・吉井鳩峰、他19名。 
〔第二次〕 昭和58(1983)年11月10日~21日、団長・盛井了道、他20名。
〔第三次〕 昭和59(1984)年12月10日~17日、団長・森本信光、他20名。 
〔第四次〕 平成 4(1992)年 6月22日~27日、団長・奥田行朗、他50名。
        6月24日には日中両僧による「隠元禅師生誕四百周年記念法会」が挙行される。 
〔第五次〕 平成 5(1993)年 3月 8日~14日、団長・飯野純紹、他45名。 
〔第六次〕 平成 6(1994)年 4月13日~18日、団長・内藤文雄、他30名。
        隠元記念堂に宗祖椅像(等身大)を安置し開眼法要を営む。 
〔第七次〕 (略)
〔第八次〕 団長・林文照、他。禅堂落成記念。
〔第九次〕 (略)
〔第十次〕 (略)
〔第十一次〕 『黄檗宗祖隠元禅師東渡三百五十周年記念、日中国交正常化三十周年記念』鉄眼大般若経六百巻寄贈。
       平成15(2003)年10月24日~31日、団長・赤松達明他15名。
〔第十二次〕 (略)


   
  おうばく・しょうみょう(黄檗聲明) 
    声明とは仏教の儀式・法要で僧の唱える声楽の総称〔広辞苑〕とされているが、宗門内でこの表現を用いることは少なく、梵唄(ぼんぱい。→)を通称としている。
  舞台芸能が盛んになる中で、伝承芸能の一つとして黄檗宗独特の読経形式も舞台公演の一演目として取り上げられるようになり、文化庁等の主催で公演される場合は、「天台声明」等と並び称せられ、この名称で発表されるようになった。
  その最初は、昭和50(1975)年11月13,14日の第十回国立劇場声明公演として開催されており、この公演における演目は、「帰化僧請来の伝統」と題して、第一部が拝懺(パイサン)(→)、第二部が施食(スーシー)(→)であった。


   
  おうばく・しんぎ(黄檗清規)
    一般に清規と称される。 「隠元和尚黄檗清規(→)」のこと。


  おうばく・だんしんと かいかん(黄檗檀信徒会館)
    宗祖三百年大遠忌記念事業として、黄檗山五雲居(ごうんきょ。→)南側に建設された檀信徒のための宿泊や休憩場所として供する建物。
  昭和43(1968)年着工、昭和44年4月3日落慶。


  おうばくつづり(黄檗綴)
    宗門法要時の記録綴りは、綴じ紐で仮止めの後、本綴じをするが、その様式方法は定められている。 
  本綴じの方法は、5~6㎝角の正方形の赤紙で綴り紐を隠すようにしながら、三角形状に二つ折りにし、表裏一体に貼り付ける。 仕上がりは写真のようになり、これを黄檗綴りという。

       
  おうばく・てんじょう(黄檗天井)
     蛇腹天井(じゃばらてんじょう。→) のこと。

  おうばくどう(黄檗堂)
  ① 愛知県猪子石に設置された黄檗山資料施設の名称。
② 前項『黄檗堂』の設置者である山本悦心(悦心廣良)和尚の別称。 師の活動は、宗門内外から賞賛され、施設名称がいつしか師の道号として呼ばれ、また本人も著述等の署名に用いるようになり定着したという。 
禅師は、宗門の梵唄、特に授戒法儀に精通し、「戒会須知」ほか、宗門に関わる書物を多数発行し『東の悦心 西の雪堂』(→)と並び称せられた。 晩年は著述に没頭し、昭和33(1958)年6月26日寂。 世寿84才。 →〔田谷黙雷著「檗林集」〕


  おうばく・とうふ(黄檗豆腐)
    豆腐の一種。 豆腐羹(とうふかん。→) のこと。 胡麻豆腐(→) を言う人もあるが誤り。


  おうばく・ななふしぎ(黄檗七不思議)
    一般に、黄檗山についての七不思議をいう。
  七不思議は一般的常識から外れた現象等を言うが、時代感覚によって変遷があることから、七つ以上を数える不思議が言い伝えられている。 したがってもともとの七不思議がどれかを言い切ることは出来ないが、次に古いと想われる順に列挙する。
▽ 「黄檗に火打ち箱無し」・・・・・・ 黄檗山が創建された頃は全国から雲衲が参集し、このため修行僧の食事準備のために火を絶やす事が出来ず、火打ち石が不要と言うことで、「火打ち箱無し」と言われていたという。
▽ 「諸堂取り締まり無し」・・・・・・ 往事は、山門の上まで寮舎に供しなければならないほどに修行僧がいたことから、絶えず巡照・検単が行われていたようで、盗賊の伺う余地もなく、また戸締まりの必要もなかったと言われている。
▽ 「座敷無く、名園無し」・・・・・・ 黄檗山は、全体が中国様式で設計されていることから、和風寺院と比して、大殿(本堂)等に座敷はなく、また境内に一つの名園もない、というもの。
▽ 「天王殿の丸柱と太鼓石」・・・・・・ 天王殿四隅の柱は角柱で、敷石も角張っているのに対し、堂内の柱は丸柱で敷石も太鼓形をして奇異に見えることから不思議に数えられている。
▽ 「禅堂の逆さ柱」・・・・・・ 十分と言えば欠くる恐れありをもって、わざと逆さにしたとも、魔除けであるとも言われている。 しかし、今以て何故逆さなのか本当のところは不明。
▽ 「魚梆(かいぱん。→)の存在」・・・・・・ 黄檗山は持戒禅を標榜し、山門表に禁牌石(きんぱいせき。→)を立てているが、それならば木製とは言いながら、なぜ山内に生臭い魚に模した道具(魚梆)が置かれているのか。
▽ 「監護六員」・・・・・・元文4(1739)年12月16日、何故か官命によって本山に六名の監護和尚を配置することとなった。
▽ 「漢門の天狗の鬼瓦」・・・・・・ 中国様式で建立された総門に、一時期、天狗の鬼瓦が設置されていたという。(今日は現存しない。) 天狗は、古来より、日本の風物であり、何故それが設置されていたのかは不明。
▽ その他、 黄檗山は中国風の建築様式で在来の日本建築物とは際だたせた特徴を有していたことから、多くの日本離れした点や、ことさら目を引く箇所について七不思議として呼び伝えられている。 以下に順不同ながら、列挙する。
① 「樋がない」・・・・・・ 日本建築にあるべき樋が使われていない。 中国建築には樋は使用されない。(注・黄檗山内で樋が使用されているのは松隠堂と、後年建設された一部の日本式建物だけである。) 
② 「唐様桟(からようさん。→)」…中国では障子の桟の見える側(紙の貼っていない側)が日本とは逆に、外側に向けて嵌められている。 
③ 「蛇腹天井」(→)
④ 「卍崩し勾欄(こうらん)」(→) 
⑤ 「桃戸」(→)
⑥ 「戸帳}(→)
⑦ 「東方丈虎壁」…壁の下地にした竹に巻いたわら縄が壁表面に浮き彫りとなり虎の模様のように見える。(現存せず。)→〔「宗報」187号、「琉璃」3号ほか〕


   
  おうばく・ぬぎ(黄檗脱ぎ)
     宗門内での履き物の脱ぎ方。 
  我が国で、礼儀作法として教えられる標準的な履き物の脱ぎ方は、「出船式」(上がり口に対して爪先を反正面に向けて脱ぐ)が一般的である。
  一方、この逆の「入り船式」(爪先が正面を向く)で並びそろえることもある。
  これらの脱ぎ方に対し、「黄檗脱ぎ」は、「横付け式」ともいうべき宗門独特の作法である。
       

      ↑ 一般的脱ぎ方

 

           ↑ 黄檗脱ぎ

    正面玄関上がり口に対して平行に並べそろえる。 なお、上がり口中央部は開けて互いに向かい合って並べる。 上がる時も、降りる時も便利かつ迅速に出来、雲水にまず教えられるのはこの作法である。
  この脱ぎ方の利点は、履き物を脱ぐに早く、はくにも早いことである。 ただ、一般には理解されにくく、民家へ行ってこの脱ぎ方をして上がり込んだところ、帰り際にその家の主人がわざわざ「出船式」に直してくれていたということがある。


  おうばく・の・そうび(黄檗の双美)
    悟心元明禅師(1713~1785)、終南浄寿禅師(1711~1767)の二人の僧を称して言う。
  ともに松坂市の生誕で互いに交流があり、ともに篆刻や詩文に長じていたという。 さらに池大雅、売茶翁等、文人との交流も共通していた。 またこの二人は、古来「御神酒徳利」とも称されていたという。
  なお、赤須真人という真宗高田派の僧とともに「伊勢松坂の三詩僧」とも称されていたと言う。 →〔名数〕〔人名〕


  おうばく・は(黄檗派)
    黄檗開山・隠元禅師は歴とした臨済僧であったから、黄檗山が開かれ、教団活動を開始した当初は、宗門僧は臨済正宗(りんざいしようしゆう。→)を名乗っていた。 しかし、隠元禅師が伝来した宗風には明末の禅定混交的色彩が反映されていたことから、既存の我が国臨済宗各派の僧の目からは、臨済禅ではないのではとする見方も広がり始めていた。
  一方、黄檗山は将軍家菩提寺であり、鎌倉五山、京都五山と同格もしくはそれ以上の格を有する寺院として開かれていたことから、在来の臨済禅とは違うという意識を持つ僧も現れだし、自ら黄檗派を名乗る僧も出始めた。 こうして、徐々にではあるが、「臨済宗黄檗派」が定着するようになった。 この呼称は明治7(1874)年まで続くこととなる。


  おうばく・ばん(黄檗版)
    黄檗宗または黄檗系の寺院、機関等が出版した刊行物を総称していう。 ただし、一般に「黄檗版」と言う時は、鉄眼一切経(てつげんいっさいきょう。→) と同義として受け止められている場合が多い。
  隠元禅師は、渡来とともに、古黄檗で展開されていた明朝風の出版活動を我が国に於いても活発に展開した。 禅師渡来の翌年の明暦元(1655)年には、早くも『隠元禅師扶桑國長崎偕興福禅寺語録』が、刊行されている。 その後、刷印楼(→)が設けられ、数多くの出版物が相次いで刊行されたが、それらは、木版による製版印刷であり、活字書体は明朝体(→)、版式は20字10行という特徴をもっていた。 これらの特徴は、それまでの我が国の出版物と体裁を異にしていたから、出来上がった刊行物はこの様に称されたのである。
  こうした活動は、いわば我が国メデイアベンチャーの先駆けともいえるもので、他宗からは羨望の眼差しをもって見られたという。 明朝体は、パソコンや新聞等に標準書体(フォント)として用いられ、今日の活字印刷に書かせない基本活字として定着している。 また版式は、原稿様式の原型となって今日に至っている。 →〔大槻幹郎著「草創期黄檗の出版について」〔文華〕第116号〕


   
  おうばくばん・だいぞうきょう(黄檗版大蔵経)
    鉄眼版一切経と同義で使用されている。


 
  おうばく・ぶんか(黄檗文化) 
  ① 宗祖隠元一派が伝えた中国文化の総称。 隠元禅師の渡来は、単に臨済正宗(→) という中国禅の伝播に留まらず、多くの新鮮な大陸文化を伝えた。 書、絵画、詩文、彫刻、篆刻、料理、衣装、印刷、書籍、建築、医術、煎茶道等々の技術で、これらを列挙すれば限りなく、総称して「黄檗文化」と称された。 庶民にとっては、黄檗文化は驚きと珍しさをあわせ持つ、非常に好奇心をそそるものであった。
 こうした黄檗文化は、祭りや落語、その他の伝承文化にも積極的に取り入れられ、元禄文化を花開かせる原動力ともなった。
  一方、隠元豆(→)や錦明竹(→)、孟宗竹(→)のように、確かに隠元禅師はじめ渡来僧が伝来したと確認されているものはともかくとして、この時代に伝わったものは何でも「隠元」の二文字を冠することもあったようで、それほどに黄檗文化は江戸時代の市井を席巻したのである。

② 誌名。 昭和23(1948)年発刊の文化誌。 発行者は黄檗山内「黄檗文化社」で発行人は瀬戸衛。有料誌であるが、いつ頃まで続いたかは不明。


   
  おうばく・ぶんか(黄檗文華)
    文化殿(→)が発行する所報として、また黄檗文化研究所(→)の発行する研究紀要としての発刊物のタイトル。 当初はB五版4~12Pものの新聞スタイルで、昭和48(1973)年9月1日に創刊された。 以降、定期的に発行され続けている。 第115号からは、冊子として年一回の発行に変更されている。


 
   
   
  おうばくぶんか・けんきゅうしょ(黄檗文化研究所)
    黄檗文化の普及、興隆をはかり、黄檗宗を宣揚するために文華殿(→)内に設置され、資料の収集、収蔵、調査並びに展観等を実施する機関。 所長は宗務総長があたることとなっている。 これまでに数々の研究成果を紀要「黄檗文華」として発表するほか、毎年、企画展の開催なども実施してきている。 →(「宗制・黄檗文化研究所細則」)


  おうばく・よう(黄檗様)
    黄檗様式の意。 黄檗建築といわれる独特の建築方法、三壇戒会とうに見られる宗門独自の風格有る梵唄(→)を基調とした法式、黄檗画像と称される独自の頂相作風等をひっくるめ、表現した言葉。 こうした作法、様式等は、あらゆる仏教諸宗派に時間をおかず伝播し、それぞれの好まれる形で様式を変えつつ取り入れられていった。

  おうばく・れいえん(黄檗霊園)
    昭和30(1955~)年代後期に、旧来の萬松岡(ばんしようこう)の墓地を整備する一環として公園墓地として整備されたもの。 また、霊園南側一帯には、華僑霊園(→)が広がっている。


  おたふくこいこい
    開静太鼓(かいちんだいこ。→)の打ち方を覚え易くするために作られた言葉。 その敲き方は七五三の流れ打ち(→)という言葉で表現されるが、この七つ、五つあるいは三つを構成する一つの打ち方が、この「おたふくこいこい」であり、語感から太鼓が打ち易く、初心者への指導に最も理解されやすく便利であるとして今日でも使われている。


  おどけの・ゆうねん(おどけの悠然) 
    悠然道永禅師のこと。 はじめ龍谿禅師の弟子であったが、獨照禅師、獨本禅師等にも歴参、父とともに隠元禅師にも参じている。 古寺を復興し隠元禅師を請じて落慶を行い、このとき禅師から「水月庵」と命名され、以後、水月庵悠然とも言われた。 萬福寺の開創にあたっては、搬土伐木の手伝いをするばかりか、日々変装をし楽器を携え材木運搬をする職人の間を駆け回り、彼らの鬱を癒し、耳目を喜ばせ、仕事に嫌気を来さないよう工事の進捗を図るなどしたことから、「おどけの悠然」という奇僧で通ったという。 →〔「人名」、吉永雪堂著「偉大なる徳化と包容力」真空大師と黄檗所載〕


  オミトー(阿弥陀)
    → 南無阿弥陀仏(ナムオミトフ)


  おりざぐ(折座具)
    座具は常に左腕に掛けることとされているが、正座する時は、腕から外し、正面に四つ折りにしておくこととなっている。 これを「折座具」という。 また、触礼拝(→)の時や、展具拝であっても、悦衆や副悦は引磬をもっていることから展具することが出来ないので折座具のままでの拝とされている。


  おんしん・びょうどうとう(怨親平等塔)
    黄檗山大雄寳殿東横、慈光堂南側に位置する場所に設置された宝筐印塔(供養塔)。
  戦前から萬福寺には多くの華僑が出入りしていたが、昭和12(1937)年に勃発した支那事変で、多くの戦死者が出たことを憂えた第四十九代玉田管長は、「法華経」69,643文字を一字一石に書き、宝筺印塔に収め冥福を祈ることを発願された。 そのことに感激された信者の九鬼悠儼氏とその一族により、昭和19(1944)年に建立されたのがこの「怨親平等塔」である。 
  以後、毎年、普度勝会(ふどしょうえ。→)の際にはこの塔前で法要が挙行され、両国の末永い友好と、親話親前の浄界が実現されんことを祈願している。



     
     
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