黄 檗 辞 典 
HPトッフ あ~え   か~こ さ~そ た~と な~の は~ほ ま~も や~わ 凡 例
 
   
   
   
  あいし(鞋子) 
    修行期を終え、暫暇挨拶にきた雲水に渡す心付けの儀袋の題簽(だいせん。→)銘。 
  雲水は行雲流水で引き続き修行に旅立つものとして「草鞋代」の意味が込められている。 この習慣は、今日あまりみられなくなった。


  あたごさんもうで(愛宕山詣で)  
    愛宕山と同名の山は全国的にたくさんあるが、ここで言う愛宕山は、京都市右京区の北西部にあり、明智光秀が本能寺の変の直前に参詣したことで知られる愛宕神社がある愛宕山のことである。
  標高924m、山頂は京都市に所在し、約1.5km西に市境があり、山体は亀岡市にまたがっている。 
  山系の高雄山には神護寺などの寺社があり、北の比叡山と並び、古くより信仰対象の山とされたが、山頂には愛宕神社の総本社があり、古来より火伏せの神として京都住民の信仰を集め、全国各地にも広がっていったという。 したがって臨済宗各派の寺院はもとより多くの寺院も、古来からこの山に詣でる習慣があったという。
  宗門においても、宗祖・隠元禅師が万治2(1658)年1月に68歳で、この愛宕山登りをされたことに由来し、正月には宗務本院や塔頭の当番が登山し、火伏せのお札を頂いて帰るのが慣わしとなり、今日に至るまで続いている。


 
  あみだきょう(阿弥陀経)
    黄檗宗は禅宗であるから、どうして「阿弥陀経」のことがこの黄檗事典に登載されるのかといぶかる方もいるかもしれないが、実は、当黄檗宗では立宗以来この経典を読誦しているので掲載する。
  『仏説阿弥陀経』は、中国姚秦(ようしん。中国南北朝時代初期(384~417年)時代に中央アジアから出身したと伝えられる三蔵法師・鳩摩羅什(くま らじゅう)により西暦402頃に訳出されたといわれ、浄土教の根本聖典の一つとして、『仏説無量寿経』、『仏説観無量寿経』とともに「浄土三部経」と総称され、特に浄土門系の寺院で読誦されている。
  また『一切諸仏所護念経』ともいわれ、非常に短い経典のために『小経』とも『四紙経』とも称されている。
  内容は、釈迦が祇園精舎において舎利弗をはじめとする弟子に説法されたもので、まず阿弥陀如来の浄土の荘厳と阿弥陀如来の徳を説き、ついで、その浄土に往生するためには阿弥陀仏の名号を執持(しゆうじ)することを勧めるというもの。 最後に六方(東南西北下上)の諸仏が阿弥陀如来の徳を称讃し、そのみ教えを信ずる者を護(まも)ってくださることが説かれている。
  この経典は、中国宋時代までの禅門で読まれることはなかったが、明時代に入り徐々に起こった禅浄混淆の影響をうけ、宗祖隠元禅師が中国で活躍した時代には禅宗でも盛んに読誦されるようになっていた。
  その影響で吾が宗門でも立宗期から勤行経典として広く読誦されたという。
  したがって、この経典は、宝永期から明治期にかけて刊行された禅林課誦(→)には掲載され、古老の話では、昭和初期まで、晩課で読誦されてきたという。 ただし唐韻読みである。 また、今日では読まれていない。 なお、勤行時の唐韻による念仏称名の風習は今日も続いている。


  あんじんほうご(安心法語)   
    黄檗山第三十八代・道永通昌(→)著「黄檗在家安心法語(→)」の略称。


アンヤホーン(?唖吽)
    唵唖吽とは「三字咒」とも言われる真言である。 
  宗門で用いる施餓鬼経本「瑜伽焔口科範」(→)の中に幾度となく出てくる。 口伝では、「み仏の教えを理解しました。帰依します。」の意とされるが、出典は不明である。 →〔田中智誠著「唵唖吽□□△△○○来受甘露味」〔文華〕129号〕

 

   
   
  いざわのみや・じけん(伊雑宮事件)    
    潮音道海(ちょうおんどうかい。→)が著した大成経(たいせいきよう。→)が偽作と断定され、潮音ほか、関係者が断罪された事件をいう。
  この事件は 三重県志摩市磯部町にある式内論社・伊雑宮(右写真。 通称いざわのみや。いぞうのみやとも称される。 天照大神の遙宮(とおのみや)と呼ばれる伊勢神宮の別宮。)に関することが記されていて、その内容の真偽を巡って事件となったことから、こう称された。 
  この際、潮音は、五代将軍・徳川綱吉の母・桂昌院から深く帰依されていたことから減刑され、謹慎50日の刑に服することになった。

 
  いしつき(石槻)
    魚梆(カイパン)(開板)を敲く僧の足下付近に敷かれた50㎝四方の石板の名称。 開板を敲く直前、僧はバイを一旦床の槻石に垂直に落とす形で突く。 この時、バイは落とした反動で跳ね上がり、その余勢を借りて開板を敲く。


  いちみぜん(一味禅)
    恵極道明禅師(→)は、民間の俗人にわかりやすいように、仮名書きの「一味禅」と題した法語を作り、黄檗派の持戒禅について分かり易く解説した。 この法語は口述筆記されたもので瑞聖寺(→)時代の元禄4(1691)年盛夏刊本となっている。 日本禅の研究者・町田瑞峰氏は、黄檗禅は一味禅に尽きるといっている。 →〔李家(りのいえ)正文著「黄檗三傑恵極道明禅師伝」大蔵出版刊〕

 〔注〕 かな法語「一味禅」を読んでみたい方は、ここをクリックしてください。


  いだてんぼさつぞう(韋駄天菩薩像)          
    韋駄天菩薩は、増長天(四天王の一)の部下にあたる勇猛果敢な将軍の一人とされている。 宗門系の明朝様式で建設された寺院では山門と本堂(大雄宝殿)との間に天王殿を配置するが、この天王殿中央に置かれた弥勒仏の背後の厨子に安置されるのが韋駄天像である。
  韋駄天菩薩は、足が速いとされ、法の守護神として境内を荒らし回る者を見張る役目を担っているところから、本堂を見守る形で置かれているのだという。
  ところで、黄檗山のこの韋駄天さんは、不思議なことに金網の中に安置されている。 実は、開創当時、夜な夜な抜け出すようになっていなくなるという噂が立ち、抜け出さないように金網で閉じ込めたというおもしろい伝説が伝わっている。    そのことと関係があるのかどうかは分からないが、今でも女性に最も人気がある仏像である。



   
  いっさいきょう(一切経)
    経蔵・律蔵・論蔵の三蔵およびその注釈書を含めた仏教聖典の総称をいう。 正式には「大蔵経」と称する。 宗門では、鉄眼道光(てつげんどうこう。→)禅師が開刻した「鉄眼版一切経」(→)のことをいう。→〔名数〕

  俚言集覧にいう。
  七千餘巻山城宇治黄檗山に一切經の版木あり



  いつつどめ(五つ止め) 
    読経時に止めの合図をする鳴り物の打ち方。 打ち切り(→)をする際の方法としては、通常は三ツ止めであるが、そのほかに五、七、二十一等の止めがある。


  いとくでん(威徳殿)
    黄檗山開基の四代将軍徳川家綱公(戒名・厳有院殿贈正一位相国公)をはじめ徳川家歴代将軍を祀るために万福寺山内に建てられた堂宇。
  法堂(はっとう。→)裏の、境内でも最も高く全山を見渡せる位置に在る。 もっとも、法堂の大きな屋根が邪魔し、実際には全山を望むことは出来ない。 また、観光客も法堂裏にそんな建物があることも気づかない。 西向き単層屋根で、貞享4(1687)年建立。
  毎年、家綱公の祥忌である5月8日には厳有忌(ごんゆうき)と称する法要が厳修される。



   
  いの(維那)
    なまって「いのう」とも読まれる。 衆僧の綱紀を司る役で、修行僧の手本となり、皆が和合するように務める役位。 山内法要の総指揮を担当し、触書を作成する。 修行者の指導、読経の読み出し、題目や回向文を読み上げること等を行い、全員の調和を計ることが重要な責務である。 なお、法要時には役目柄、磬子(けいす)を担当し、読経時の指揮をとる。 →〔「清規」〕、〔中尾文雄著「清規ノート」ほか〕
 


 
 
  いんきん(引磬)          

↑ 清規に記載された引磬

    鳴り物法具の一つ。 柄のついた小さな磬で、音色の違う2個を一組として用いる。 
  2個の内1個は大引磬(おおいんきん)と呼び、高音(チン)で鳴る。 小引磬(こいんきん)は低音(ツン)で鳴り、音色の相違があるものを一組として求める。 これが、黄檗梵唄(ぼんぱい。→)の音楽性を華やかなものにしている。  
  仏具屋さんでは、前述するような組みセットでは販売されていないので、求めるときにそのように選ぶのである。
    この法具は、誦経時の遅速や緩急の調節をするメトロノーム的役割を果たすほか、鳴らし方により、法式上の所作を指示したり、数度唱和する真言の読誦がこの回で最終回であるなどと、一定の指示を発する役割を果たす。
  「引磬」が最も効果的に使用されるのは梵唄時であるが、二個の音色の違いが梵唄の音楽性を一層豊かにしている。 このため購入時に音感が鈍い者が選ぶと、とんでもない組み合わせになるので慎重にならざるを得ない。 心得た仏具屋さんは、「阿」「吽」の音色で選んでおきましたと言ってくれる。
  宗門の独自様式は、黄檗清規では丸座布団であるがいつの頃からか台座布団が四角で、大引磬には柄の取っ手下部に金色の筋模様を施し、小引磬と区別する。
  なお、雛僧に鳴り物の指導をする際には、大引磬、小引磬と呼ばずに「チン」、「ツン」と音色で呼び、引磬本体を目の高さまで持ち上げて鳴らすようにと指導される。


   
  いんげんおしょう・おうばくしんぎ(隠元和尚黄檗清規)
    清規とは仏道修行者を清浄に導く規矩(きく。定規のこと)準縄(じゅんじよう。すみなわ。)のこと。 即ち規則、規範のことである。 禅の叢林で最初に清規が制定されたのはいうまでもなく百丈清規であり、これにならって各叢林も独自の特徴ある清規を作成している。
  黄檗山万福寺は将軍家直轄寺院として五山格を有し、なお宗祖・隠元禅師が異国の地で臨済禅を宣揚する拠点であったから、その叢林を束ねていくために清規の作成に当たっては、禅師自ら陣頭に当たって腐心された。
  隠元禅師自身が寛文12(1672)年に記述した「黄檗清規序」を巻頭に、高泉禅師(本山第五代)の記述により二代木庵禅師が校閲したもので、正式名を「隠元和尚黄檗清規」といい、巻末には「跋」が掲載されている。
  今日では一般的に「黄檗清規」と呼ばれ、全体は十章から構成されている。 祝釐(しゅくり)章第一、報本(ほうぼん)章第二、尊祖(そんそ)章第三、住持(じゅうじ)章第四、梵行(ぼんぎょう)章第五、諷誦(ふうじゅ)章第六、節序(せつじょ)章第七、禮法(れいほう)章第八、普請(ふしん)章第九、遷化(せんげ)章第十である。 付録として、「仏事梵唄讃」、「開山豫嘱語」、「塔院規約」、「古徳語輯要」、「法具図」が付けられている。 なお、現代人に理解できるようにと、「黄檗山の儀礼と規律」(中尾文雄著)と題する翻訳版が平成14(2002)年に出版されている。→〔中尾文雄訳「黄檗清規」宗務本院発行〕


   
  いんげん・き(隠元忌)
    俳句 初夏の季語。
  黄檗山は、その異国情溢れる雰囲気から、江戸時代から多くの俳人が吟行に訪れ、いつしか開山忌法要の独特な法要風景が初夏の季語となったという。


    『 翠巒に生まるゝ風や隠元忌 』  
                      北 山河(俳人1893~1958 ・大樹主宰)黄檗文化(→)創刊号所載



   
  いんげん・きねんどう(隠元紀念堂) 
 

     ↑ 古黄檗・隠元紀念堂
    古黄檗(こおうばく。→)の復興が進められる中、滋賀県在住の黄檗宗信者・山岡容治氏の寄進によって建立された宗祖・隠元禅師を祀るための記念堂。
  古黄檗は、平成5(1993)年から日中の協力により復興計画が推進され、日本の華僑や黄檗宗もこれに協力するために募財活動を進めていた。 これに呼応し、戦時中から戦後にかけて中国に深い関わりのあった山岡氏が土地処分の財産の中から三千万円を寄進したいと申し出られ、実現したもの。
  建設契約は平成5年に交わされ、平成7(1995)年6月20日に落慶法要が執り行われた。
  建坪は約420坪、内部に隠元禅師の木造が安置され、「隠元紀念堂」の扁額を中国仏教協会・趙撲初会長が揮毫、また堂内聯額の文字は日本黄檗宗第59代林文照管長が揮毫した。


  いんげんささげ(隠元さゝげ)
  俚言集覧にいう。
  〔草蘆漫筆〕云八外豆ハ隠元禅師其種を持来り南京寺に植しより世に流布す此外にも天茄唐菜芥藍金紫等の野菜を携へ来たるとかや。


 
  いんげんずきん(隠元頭巾)
  俚言集覧にいう。 
  〔嬉遊笑覧〕今、お高祖頭巾といふものにや此禅師ハ承応三年来朝す元隣が今様といへる寛文中よりなれハ当時のことなり。


 
  いんげんぜんじ(隠元禅師)
    →隠元隆琦(いんげんりゅうき)


  
  いんげんぜんじ・くどくひ(隠元禅師功徳碑)  
   、隠元禅師が宇治川から最初に登岸された地であることを顕彰するために、建立された亀趺形式の石碑。
  場所は宇治市五ヶ庄谷前地先隠元橋東詰袂である。、
  平成20(2008)年3月27日に竣工。 幅1.04m×奥行1.3m×高3.11m大で、中国福建省産花崗岩で特注製作されている。 表面には第60代泰山猊下揮筆の「黄檗開山隠元禅師渡岸之地」の文字とそれを抱え込む形で2羽の鶴が彫られている。 在日華僑の尽力により建立された。
 

     
     
  いんげんぜんじ・じゅうだいでし(隠元禅師十大弟子) 
    隠元禅師法嗣(はっす)24名の内、木庵性瑫(もくあんしょうとう。→)、即非如一(そくひにょいち。→)、慧林性機(えりんしょうき。→)、龍谿性潜(りょうけいしょうせんる→)、獨湛性瑩(どくたんしょうえい。→)、大眉性善(だいびしょうぜん。→)、獨振性英(どくしんしょうえい。→)、南源性派(なんげんしょうは。→)、獨吼性獅(どっくしょうし。→)、獨本性源(どくほんしょうげん。→)禅師の10人をいう。 
  彼らは、それぞれに塔頭を構え、宗門拡大の基礎を築いた。


 
  いんげんぜんじ・どうぎょうひ(隠元禅師道行碑)
    寿塔(→)の東側に建てられた隠元禅師の功績、徳行を認めた碑文。 「塔銘」とも称される。 高さ約三メートル。 丸彫りの亀形の石の上に石碑が建ち(この形を亀趺といゝ、古代中国では皇帝や権力者の顕彰碑に用いられた型式という。)、吹き通しの覆い屋を架ける。 碑石は和泉石、亀は花崗岩が用いられている。 石碑の上部、横一直線に「特謚大光普照國師塔銘」と刻まれ、この下に縦書きで28行約1,900字の文章が彫られている。 末尾に「宝永六年歳次己丑四月穀旦」と記載されている。 宝永6(1709)年は、禅師示寂後36年目に建設されたこととなる。


  いんげんぜんじ・ねんぷ(隠元禅師年譜)
    黄檗宗開祖隠元禅師の年譜は、一巻本と二巻本が伝わっている。
  最初に出版されたのが一巻本で、正式には、「黄檗隠元禅師年譜」の題名がつけられている。 
  はじめ、宗祖還暦の誕生日に弟子たちから懇願されて、宗祖自らが誕生から60才までのことについて語られたものが、「行実」の名称で簡潔に編録されている。 この行実をもとに、侍者であった独燿性日が「隠元禅師語録」の名称で編録し、長崎で開版したものがこの一巻本である。
  ただし、この一巻本もその成立時期によって三種類の年譜がある。
  また二巻本は、一巻本に多少の変更が加えられ、宗祖の誕生から示寂までの一代がすべてが網羅されていて、「黄檗開山普照國師年譜」の名称がつけられている。
  なお、一巻本と二巻本には記載年次や記述内容に多少の相違があり、今後の研究が待たれる。 →〔能仁晃道編著「隠元禅師年譜」、木村得玄著「隠元禅師年譜【現代語訳】」ほか〕
 

   
  いんげん・ちゃ(隠元茶) 
    隠元禅師の所望により寛文7(1667)年、黄檗山萬福寺の近隣に茶畑が開かれ、同9年から製茶が行われるようになった。 茶畑の場所は不明であるが、製茶されたお茶はいつしか隠元茶と呼ばれ、月餅とともに来客への土産にすることが慣例化したという記録が残されている。


 
  いんげんな(隠元菜)
  俚言集覧にいう。
  草菜、はぼたんをいふ



  インゲンの・ひ(インゲンの日) 
  「インゲン豆の日」のことで4月3日とされる。 インゲン豆を我が国に伝えた隠元禅師のご命日、延宝元(1673)年4月3日に因んで生産者等、関係業界が制定したものという。


  
  いんげん・ばし(隠元橋) 
  ① 宇治川に架けられた橋の名称
   隠元禅師が幕府から寺地を賜り、候補地を下見に来られたとき、淀川をさかのぼり宇治川で下船された場所に架かる橋、とのことでこの名が付けられたという。
  近年まで、この付近には川の渡し舟があり、対岸の「向島の渡し」を結ぶ、「隠元渡し」と呼ばれ存在していたという。いわば交通の要衝であったことから、昭和24(1949)年には木橋が架けられ、「隠元の渡し」に因んで「隠元橋」と名付けられたという。 ところが4年後の昭和28(1953)年、死者300人を超す南山城大水害が発生し、この橋は流出してしまった。
  その後、昭和31(1956)年、新たに鋼桁、コンクリート床製、橋長144m、幅員6mの橋が架設された。 しかしその後も交通量が増え続け需要に合わないことから、平成20(2008)年3月1日、上流に新たに架けられた幅員25米、片側二車線歩道つきの橋に架け替えられた。 その際、橋の東側袂に元たてられていた「隠元禅師登岸の地」の標識も亀趺型の功徳碑として建て替えられた。 本来の場所は、現在地よりさらに数十米上流であったようで、その橋から黄檗山までは大きな道路が付けられ、萬福寺建設用材が運ばれたと言う。
 
   
  ② 古黄檗境内にある橋の名称
 古黄檗に建立された「隠元紀念堂」へ大雄宝殿から向かう途中、小川に架けられた橋の名称。


   → 古黄檗境内の隠元橋。隠元紀念堂正面にある。(右写真)
 
  いんげん・ふみきり(隠元踏切) 
  宇治市京阪電車黄檗駅手前の踏切の呼称。


 
   
  インゲン・まめ(隠元豆) 

  隠元禅師が大陸から持ち込んだマメ科植物で、帯来者に因んで隠元豆と称されて知られている。 莢(さや)が上を向くことから「捧げる」に通じるとしてササゲと呼ばれるようになったとも言われ、インゲンササゲ、ゴガツササゲという名前でも呼ばれるようになったという。 
  ところで隠元豆が我が国に普及するには相当量の持ち込みが必要であるが、これについて、当時日本は飢饉が続き食糧事情が悪いことが伝えられており、それに備えて多くの種類の穀物、野菜類の種を帯来されたと伝えられている。 西瓜、蓮の実などもそうした非常食用として持ち込まれた物のようである。 伊藤若冲(じゃくちゅう)の、初めて見たこの植物に感動して描いたのであろう、双幅「隠元豆・玉蜀忝(とうもろこし)図・部分」(和歌山県草堂寺蔵・京都国立博物館保管。)が伝えられている。
  なお、今日言うところの「ササゲ」とは異なる。
 

  俚言集覧にいう。
  〔學語篇〕鵲豆眉見豆○俗に隠元豆世俗に云ハ隠元禅師帰化の時もたらせ来りてはじめてうえしといへり。


  いんげん・もうす(隠元帽子)
  
桃のような形をした唐人帽。


 
  いんげん・もうで(隠元詣)
    渡日以降、宗祖のもとへは多くの来訪者が訪れたと云われ、それは長崎から大阪の普門寺、黄檗山へと移っても減ることがなく、隠元詣でと言われた。


    
  いんげんもんか・にけつ(隠元門下二傑)
    宗祖隠元禅師法嗣は24人いたが、日本に渡来した中でも木庵性瑫(もくあんしょうとう。→)、即非如一(そくひにょいつ。→)禅師の二人は二甘露門(→)とも二傑とも称された。 〔「仏家」)〕


  いんげんやかん(隠元薬罐)
  俚言集覧にいう。
  〔近代世事談〕相傳ふ隠元禅師状をこのみ作らしめ常に爐におかれけるとなり或説に湯気薬罐と云なり罐子の蓋をとりてその跡へ薬罐をすへて下の茶の湯気をもて上の素湯の沸ことを工夫して是を湯気薬罐と名付となり



  いんげん・やぶ(隠元藪)
  孟宗竹は、隠元禅師が帯来されたものというのが定説である。 それを裏付けるかのように、隠元藪と名付けられた藪が、万福寺総門を入ったすぐ左手の看門寮付近一帯に広がっている。 なお、この藪の名称がいつ頃名付けられたかは不明である。


      
  いんげんりゅうき(隠元隆琦 1592~1673 

 喜多元規筆、宗祖像
(黄檗山蔵)
    道号は隠元。 法諱は隆琦。行琦、松堂とも。 万歴20(文禄元、1592)年11月4日、中国福建省福州府福清県万安郷霊得里東林に生誕。 俗姓は林氏(父・林徳龍氏、母・龔氏。 3人兄弟の末っ子で、幼名を曾昺、諱を子房といった。)
  得度師は(古黄檗)黄檗山萬福寺・鑑源興寿。 嗣法師は費隠通容。 臨済正伝第32世。 順治11(承応3、1654)年7月5日夕刻長崎に到着し、翌日興福寺に入寺、時に63才であった。 随従者は、独言、独知(のち慧林と改称)、大眉、惟一、独吼、独湛、良衍(のち南源と改称)、雪機、古石、楊津、良哉ほかに職人等30名。
  黄檗山萬福寺を開山。 寛文元(1661)年5月8日(黄檗山建立日)入山し、同年閏8月29日晋山。
  寛文3(1663)年1月15日に法堂に於いて)開堂。 住山すること3年余の寛文4(1664)年9月4日、弟子の木庵性瑫(→)に禅譲し松隠堂に退隠した。  別号は黄檗主人、松隠老人と称す。 寛文13(1673)年4月2日、後水尾法皇から徽号『大光普照国師』が特謚された。
  翌日の4月3日、遺偈 『西来楖栗振雄風 檗山幻出不宰功 今日身心倶放下 頓法界超一真空』 を認め示寂(世寿82才)し、松隠堂横に造られた壽塔に埋葬された。 後、開山堂が建立された。
    享保7(1722)年3月13日、霊元天皇は『仏慈広鑑国師』号を、明和9(1772)年3月13日、後桃園天皇は『径山首出国師』号を、文政5(1822)年3月13日、光格上皇は『覚性円明国師』号を加賜された。  また大正6(1917)年3月7日、大正天皇は『真空大師』を、昭和47(1972)年3月27日、昭和天皇は『華光大師』を加賜されている。
  一代の住職地は、中国-黄檗山萬福寺(福建省福州府福清県。「古黄檗」とも「唐黄檗」ともいう。)、石門福厳寺(浙江省嘉興府)、長楽龍泉寺(福建省福州府)。日本-崇福寺(長崎県)。
  嗣法者は24位。 内7名が東渡した。 また、龍谿、独照、独本、提宗の四位は日本人である。 なお、医術や篆刻で知られる独立性易の得度師は隠元である。
  著書に『隠元禅師語録』、『黄檗和尚太和集』、『三籟集』、『雲濤集』、『隠元擬寒山詩』、ほか多数ある。参考書とて『黄檗和尚年譜』、平久保章著『隠元』、悦心『東渡僧宝伝』等多数。木庵の「道」、即非の「禅」に対し、「徳」の人と称される。  
  書に優れ、書は、木庵、即非とともに「隠木即」あるいは「黄檗三筆」と讃えられた。 また、詩偈にも優れ、作詩数は非常に多い。黄檗山萬福寺の開創とともに、渡来僧によってもたらされた文物の多くは「インゲン」の名が冠され流行ったが、特に藤豆は、「インゲン」の名で親しまれ、またたく間に普及した。寒天の名付け親でもある。
  禅師の禅風は歴とした臨済禅であるが、特に持戒を重視され、寛文3(1663)年12月1~8日(於・法堂)にかけ、我が国で初めて一般人を対象とした三壇戒授戒を実施し、或いは放生思想を広められるなど、我が国の仏教界を活性化され、『日本仏教中興の祖』と仰がれている。



  いんげんわたし(隠元渡)
  今日、私たちが見ている宇治川の「隠元橋」が架けられるまでは、その付近には川の渡し舟があり、対岸の「向島の渡し」とを結ぶ場所であったとされている。
  隠元禅師が幕府から寺地を賜り、候補地を下見に来られたとき、淀川をさかのぼり宇治川で下船された場所であったことから、「隠元渡し」と呼ばれたという。
 いわば交通の要衝であったことから昭和24(1949)年には木橋が架けられ、「隠元の渡し」に因んで「隠元橋」(→)と名付けられたという。


   
  インピー(影壁) 
    「えいへき」とも呼ぶ。 中国建築様式の特色である魔除けの壁で、玄関から侵入してきた邪鬼が主用建物に近づけないように配慮した一種の防護壁をいう。 邪鬼はまっしぐらに壁に突進、激突し、ただ立ち去るほかなく、智恵有る者のみが山門に至るとされている。
  黄檗山の場合、山門から法堂まで主要建物が一直線にならんでいる(下図参照)ことから、総門(→)の位置を中央線上からわざとずらした位置に配置していて、この総門から進入した正面に土塀が設けられているが、これが影壁にあたる。(右図朱書き矢印部)中国の建物配置は今日でも、この考え方を伝統的に用いているという。
  日本の城郭建築にもこの仕組みが導入されている。


     
 
   
  いんぼう・ぶへい(印房武兵衛)
    一切経の印房知藏寮(→)は、当初、宝蔵院が管理運営していたが、民間に委ねられ、この権利を取得した武兵衛は、「印房武兵衛」を商標とし、商売を進めた。 今日の貝葉(ばいよう)書院の前身である。


 
  いんぼう・ちぞうりょう(印坊知蔵寮)
    版木から印刷した経典の用紙を製本仕上げし頒布する等、いわゆる書肆的な業務を行う場所をいう。 これを円滑に処理・運営するために知藏という役位の僧が配置されていた。
  鉄眼禅師は半ば寺院、半ば民家のような印房知蔵寮を木屋町二条に建てられた。 この一切経印房は、昭和9年4月1日には、左京区吉田神楽岡町の印地に移転、宝蔵院出張所知藏寮の新設となった。 あわせて黄檗版大蔵経の印刷権は民間に渡され、貝葉(はいよう)書院(→)、一時、其中堂へと移り、現在は貝葉書院が持っている。→〔松永智海著「黄檗版大蔵経」〔文華〕116号〕、→〔赤松晋明著「宝蔵国師鉄眼和尚行実註解」〕ほか
 


  いん・もく・そく(隠木即) 
    黄檗宗能書家の三人、即ち隠元、木庵、即非の三禅師を言う。 黄檗三筆(→)とも称される。


 
   
  いんろう(隠老)
    隠元禅師のこと。 記録文書等に散見される。


   
   
  うこんいろ(鬱金色)
    色名。 宗祖が愛用した法衣の色で、金色をイメージさせる明るい黄色。 JISの色彩規格では「つよい黄」としている。
  現在、スリランカ、ミャンマーなどでの、上座部仏教の僧侶の法衣の色として知られる。
  江戸時代前期、黄檗僧によって伝えられたというが、はっきりしない。
  ショウガ科の多年草ウコンの根茎こんけいで染めた色といい、熱帯アジア原産の植物で、同地域の僧衣はウコンで染色するとされる。 また抗菌作用があり、虫除けなどが必要な布地にも適している。 英語ではターメリック(turmeric)といい、カレーの着色料、香辛料としても知られ、ほかに止血薬としても用いられる。


  うじし・めいぼく(宇治市名木)
    宇治市名木は、昭和56(1981)年3月1日付けで市内の名木として選定された100本の樹木。
  黄檗山内の樹木としては、これら100本の内、8本の樹木等が指定されていた。 
  「そよご」、「いぬまき」、隠元藪の「もうそうちく」、「はくもくれん」、「松の群生」、「菩提樹」、「しいのき」、「キンモクセイ(一対)」である。 その後、「そよご」と「はくもくれん」が枯死し、現在は6種類となっている。
  また別に塔頭・宝善院の「くろまつ」も指定されていたが、惜しくも平成20年に枯死した。
  なお、銘木には指定されていないが、獅子林院には特大の「サザンカ」などもある。


  うちあげ(打ち上げ) 
    鳴り物(→)による法要開始の合図が完了する状態をいう。 
  通常は、二度の予備の触れ(一通触れ、二通触れ)があり、三度目が打ち上げ完了となる。


 
   
  うちきり(打ち切り)
    梵唄用語。 読経の区切りがついたことを、木魚、太鼓、繞鉢(にょうはち)等で大衆に知らせる合図のこと。  多くの場合、維那(いの。→)が磬子(けいす。→)や木魚で合図するが、そのけじめとなるのは仏殿太鼓の打ち切り合図の打ち方によってでである。 当然、これが無いとけじめがつかず何度でも同一の真言や経文を諷誦し続けることとなるため、重要である。 とりわけ、節経が続く施餓鬼法要の際などは、次の段へ進むきっかけともなることから、この「打ち切り」がなされないとけじめが付かず、維那和尚からは「打ち切り!」と、大声で叱りつけられること必定である。 なお、経本等には「凸」の印を朱書きで書き入れ、覚えとしている。 「打ち止め」ともいう。
  また、鉢回向では、三通目の最後にけじめをつけることをいう。



   
  うちこみ(打ち込み)
    梵唄用語。 
  節経に入るときのきっかけ作りとなる合図をいい、仏殿太鼓に付属するけい磬(けい。→)がその役割を担う。


  うちどめ 
    打ち切り(→)


  うめのしせき・たけのたいほう(梅の紫石 竹の大鵬)
    黄檗物(→)墨画好事家の間で用いられる言葉。 梅の画は紫石聯珠(しせきれんしゅ。→)、朱竹は大鵬正鯤(たいほうしょうこん。→)に勝る物はないとされている。


   
  うろこいし(鱗石) 
    石條(せきじょう。→)の別称。


 
   
   
  うんてん(運転) 
    施餓鬼法要の際に、中座(ちゅうざ。→)が点水(てんすい。)と弾指(だんし)をした後に連続して密行の印(いん)を組む所作を称して言う。 


 
   
  うんぱん(雲版)        



↑ 清規に記された雲版
    雲形をした青銅製の鳴り物法具。
  主に粥座(しゅくざ。→)や斉座(さいざ。→)の食事時間を報じるほか、朝課(ちょうか。→)等の勤行の触れにも用いる。 
  食堂(じきどう。→)や典座(てんぞ。→)、庫裏等の前に吊す。
  別称、火叛(かはん。→)。


 
   
  ウンペン(雲片) 
    「普茶(ふちゃ)料理」(→)の献立の種類。 料理に使用した野菜の残り物を葛で味付けしたもの。


 
   
   
   
  えいへき(影壁)
    →影壁(インピー) 


   
  えちょんすこいこい
    パウチョン(→)の敲き方を覚えるために造られた符号。 言葉に特別な意味はなく、ただ、言葉の読み方のアクセントに調和するように敲くとうまく敲けることから使われる。


   
  えっしゅう(悦衆) 
    大引磬、小引磬、木魚を担当する役位の呼称。 三悦衆とも云う。 但し施餓鬼法要の場合は、六扶座(ろくふざ。→)の内、大小引磬を担当する二役位を云い、木魚は維那が担当する。

  えんきょう(焔口)
    施餓鬼経本「瑜伽焔口科範(→)」のこと。


  えんざ(円座)
    土間に敷く、藁で編んだ丸い形をした座布団様の敷物のこと。 黄檗山はじめ宗門寺院の多くの建物は、中国様式の建築のため堂内は瓦敷きである。 このため勤行の際は、立ったまま読経するのを通例としているが、拝をするときや胡跪(こき。→) の際には、そのままでは衣が汚れることからこの円座を使用する。
  なお、通常は一人が一枚を敷くのを通例とするが、黄檗山開山堂にあっては特定の尊宿僧侶のために二枚敷きをする。(→二枚円座)
 また、円座を置く時は、表裏を間違わず、結び目が出ている個所を上に向ける。

 
   
  えんざまわり(円座まわり)
    宗門での法要時は、両序(りょうじょ。→)はじめ、大衆が東単(とうたん。本尊に向かって右側。→)と西単(せいたん。本尊に向かって左側)に別れ、お互いに向き合って勤行する作法になっている。 ところが、朝課(→)、晩課(→)時の始めと終わりの拝や、「念仏縁起文」を読誦する際には、経衆は一斉に位置と方向を変え、本尊に向かって拝礼をすることとなっていて、その際の移動作法は、さながら円座を回るように移動することから、この名が付けられている。その作法は見事と言うほかない。


  えんじょうぎ(演浄儀)
  道場を浄める法式。 大般若会、放生会、開眼法要等の場で必ず厳修される法要。 


  えんそう(円窓)
    黄檗様建築物の特徴の一つとして挙げられる丸窓のこと。 完全な円窓であり、「日(太陽)」と「月」を表象したものといわれる。 
  黄檗山が建立されるまで、我が国の寺社建築・城郭建築の窓は火灯窓・花頭窓が一般的であったため驚きを以て迎えられた。
 、黄檗山内の諸堂宇に多く使用されているが、この形の窓が堂宇の正面に左右対称に設置されている建物は、宗門系以外の寺院で見かけることは少ない。


   
  えんつうでん(円通殿) 
    黄檗山法堂の名称。 空印(くういん)居士(→)の寄進によって建てられた。 寛文2(1662)年2月に落成。 重要文化財

 

   
   
   
   
   
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