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(Mar.1 - 20, 2008)
(Compiled by Haruo Hirose)
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(Mar.20, 2008)

Ben Speer Interview (2001)

(1956年4月14日 "I Want You, I Need You, I Love You" を録音中の エルヴィスと ベン・スピア)

ベン・スピア・インタビュー (2001年)

Q : 初めて エルヴィスに会われたのは いつでしょうか?

A : 僕は ゴスペル音楽ファミリーの出身で、 50年代初めの頃、 よく メンフィスに 行ってたんだ。 そこで 彼を 見かけるようになった。 彼は ゴスペル集会に よく来てたんだ。 ゴスペルの大ファンで、 ブラックウッド・ブラザースの 友達だったんだ。 それで、 彼は バックステージに 来ていた。 彼らに 入れてもらっていたんだ。 そこで初めて 彼に会ったんだ。

Q : エルヴィスの印象は どうでしたか?

A : エルヴィスは 目上の人々に対し、 とっても礼儀正しく、 敬意を持っていた。 いつも 「イエス・サー、 ノー・サー、 サンキュー・サー」 という ぐあいだった。 それで、 僕はエルヴィスを 謙虚な男だと思っていた。

Q : 彼は 何歳だったのでしょうか?

A : 彼は 何年生まれなんだ?

Q : 1935年。

A : 35年。 僕より 5歳若いんだ。 1952年頃だから 彼は17歳。 56年に 一緒に レコーディングしたんだよね?

Q : そうです。

A : 僕が26歳で、 彼が21歳だったのか。

Q : どうして エルヴィスと レコーディングすることに なったのですか?

A : 僕たち スピア・ファミリーは RCAと 契約してたんだ。 そして、 50年代前に RCAは ナッシュビルに 事務所を開設した。 それまでは、 レコーディングするのに ニューヨークや ロサンゼルスに 行かねばならなかったんだ。 しかし、 ナッシュビルに 事務所ができ、 チェット・アトキンスが 所長になった。 そして、 チェットが 僕たち スピア・ファミリーの LP2枚分、 24曲の プロデュースをした。 そのようなことから、 エルヴィスが 「ハートブレーク・ホテル」の B面を録音するのに、 メンフィスの サン・スタジオより ナッシュビルの方が 良いだろうということで、 こちらに 呼んだんだ。 当時のスタジオは あの有名な「スタジオ B」でなくて、 マクガヴァク通りの、 今の ジム・オーウェンス・ カンパニーのはずだ。 当時は メソジスト出版社の建物で スタジオがあったんだ。 そこで 2曲録音したんだ。 最初が 「ただ一人の男」。 「ハートブレーク・ホテル」の裏面で かかることはめったに無い。 そして、 56年の4月に 「アイ・ウォント・ユー、 アイ・ニード・ユー、 アイ・ラブ・ユー」を 録音した。

Q : 「ただ一人の男」は エルヴィスの お気に入りだというのは 本当でしょうか?

A : その通りだよ。

Q : 70年に 彼は「ただ一人の男」を リハーサルしています。

A : そうだろう。

Q : エルヴィスとの仕事は どのようなものでしたか?

A : エルヴィスは いつだって 僕たちを 部屋の隅に呼んで、 ゴスペル・ソングを 歌わすんだ。 チェットや スティーブ・ショールスは いらいらしちゃって、 「彼に歌わせろ」って。 スタジオ一杯のミュージシャンは 時間通りに来て、 待ちぼうだ。 明らかに、 早く仕事に 取り掛かろうぜ って感じなんだ。 でも 強く出られない。 エルヴィスは マイ・ペースで ゴスペルを歌いながら、 「ただ一人の男」を歌う気持ちを 高めてるんだ。

どうして 僕たちが居たかって 尋ねたの? チェットから 電話があって、 彼のバックで歌う3人を 集めてくれないかと 頼まれたんだ。 僕の兄は ベース・シンガーで、 「ただ一人の男」の中で 「ドゥ・ドゥ・ドゥ・ドゥー」と 歌ってるのが 彼なんだよ。

Q : ブロック・スピアですね?

A : そして、 ゴードン・ストーカーを呼んだ。 ゴードンとは 古い知り合いなんだ。 彼は チェットが呼んだと インタビューで 答えてるんだけど、 僕は知らないぞ。 遠い昔の話だからな。 でも、 ゴードンは テノールなんだ。 ジョーダネアーズで テノールを歌ってるんだから。 僕の父は セッションが嫌いだった。 それが理由で、 父の代わりに ゴードンを呼んだんだ。

Q : それで、 あなたと お兄さんのブロックと ゴードン・ストーカーが コーラスを?

A : 3人だけだ。

Q : これで すっきりしました。

A : よかった。 ブロックは 1998年に死んだよ。

Q : 「ただ一人の男」は 何テイク 録音しましたか?

A : 数度かな? 20、25テイクだったかもしれない。 3時間かかったんだ。 あの当時だって、 今だって 3時間のセッションで、 3、4曲は 録ろうとするんだ。 あれ1曲のためだけに 3時間かけたんだ。 聞いたことだが、 今の ロック・アーティストの中には 何日も、 何週間も かける奴がいるらしいが、 あの頃は 一回のセッションで 3、4曲録るのが 一般的だったんだ。 彼は 完全主義者だったんだ。 おかげで、 僕も 完全主義者に見られたよ。 ありがたいことさ。

Q : エルヴィスは あなたに スピリチュアルなことを 話しましたか?

A : ああ、 でも これは あなたの方が詳しいだろう。 それで、 彼は ブラックウッドの 家族のカルテットの オーディションを 受けたんだ。 ブラックウッド・ブラザースではなく、 家族のひとり、 セシル・ブラックウッドが 結成して、 メンフィスだけの 限られた地域内で 友達だけで 歌っていたんだ。 彼らに バリトン・シンガーが 必要になって、 エルヴィスは そのオーディションを受けた。 そして、 セシルに 落とされたんだ。 エルヴィスは 言ってたよ。 「僕の人生で 最初に好きになったのは ゴスペル・ミュージック」だって。 彼は 成長期に アセンブリー・オブ・ゴッド教会に 通ってたそうだ。 僕の限られた接触からでは、 彼がどれほど 深く宗教に傾倒していたかは 分からないけど。

Q : グランド・オル・オープリーに 関係する話で、 エルヴィスは トラックの運転手に戻れと 言われた。 それが原因で、 エルヴィスは ゴスペル・グループに 入りたかったと ジョージ・クラインは 言ってました。 それが セシルのグループ なのでしょうか?

A : そうかも知れないなあ。 グランド・オル・オープリーの話は 聞いたことがあるよ。 直接じゃないけど。

Q : グランド・オル・オープリーに エルヴィスが出た時に、 あなたはそこに居ましたか?

A : いいや。

Q : セッションの後、 エルヴィスに会う機会は ありましたか?

A : ほとんど無かったが、 1度、ロング・ビーチの公会堂で ブラックウッド・ブラザースと ステイツメン・カルテットと 共演した時のことだ。 それは 純粋なゴスペル・コンサート だったんだが、 エルヴィスと 取り巻きが やってきて、 バック・ステージの 袖口に座って、 コンサートを 楽しんでいたことがあった。 もちろん そこでも 彼と親睦を深めることになったし、 ゴスペル・コンベンションに 彼は60年代から バック・ステージに 顔を出すようになり、 決して ステージに上がることは なかったが、 僕たちの歌を 楽しんでいたんだ。 ゴスペル・カルテットの ファンとしてね。

Q : エルヴィスは コンサートの後、 バック・ステージで あなたたちと ゴスペルを 歌いましたか?

A : コンサートでは歌わなかった としか覚えてない。

Q : 亡くなって年月が経っても、 エルヴィスが愛される理由は 何でしょうか?

A : その理由のひとつに、 ゴスペル音楽界で有名な 声楽の先生、 リロイ・エィバーナシーが このように 話したことがあるんだ。 「エルヴィスの 偉大たらしめるところは、 彼が歌うと、 あなた一人だけに 歌いかけてるように 感じることだ。 ただ一人のために歌ってると。 彼自身、 又は 彼の声には そのような特徴がある。」 僕は この言葉が よく言い表してると思うよ。

Q : エルヴィスが亡くなった時、 あなたは 何処にいましたか?

A : 僕はバケーションで フロリダ州 ディトナ・ビーチに いたんだ。 ニュース速報を 聞いてからは、 ビーチに出ないで、 モーテルの部屋で、 家族みんなで テレビのニュース番組を見ていた。 その時、 僕の息子が言ったんだ。 「パパ、この人は 世界で最も有名なんだって」と。 このことは 世界に出た時に 思い知らされるんだ。 彼は 本当に有名なんだ。 彼のファン・クラブは ヨーロッパにも 日本にもあるし、 アメリカ国内より 力があるんだ。 ノルウェイに エルヴィス・ファンの 友達がいるんだ。 国内のファン・クラブ集会に出た時も みんなそう言うね。

Q : 人々は あなたに エルヴィスに関する 質問をするのですね?

A : いつもなんだ。 いつも質問されるんだ。

Q : どのような質問ですか?

A : 人々が知りたいのは、 「彼ってどんな人?」 君と同じだ。 「彼と仕事をして、 どうでしたか?」 彼は完全主義者で、 仕事をしていて 楽しい男だった。

Q : エルヴィスが亡くなって、 個人的な喪失を感じましたか?

A : それは感じたさ。 もっと彼と 付き合いたかったし、 もっと僕のことを 知って欲しかった。 グレイスランドに 行ったこともないんだ。 行こうとは 考えてるんだが、 いつでも行けるだろうと、 延び延びになってる。 何百万人の人々と 同じように 喪失感があるね。

Q : エルヴィスについて、 ファンの人々に これだけは伝えておきたいことって ありますか?

A : 僕の個人的な感触では、 エルヴィスは もっと良い男だった。 今、 薬物治療とか とやかく言われてるだろう? 彼の晩年の生活は 奇妙だ。 彼の内面は、 スピリチュアルな男で、 こころ優しく、 愛しい男だ。 寂しく感じるよ。

Q : 今日はありがとうございました。

How's The World Treating You - Chet Atkins



(Mar.19, 2008)

レイチェル・ワイズ (Rachel Weisz)

オスカー女優もエルヴィス・ファン

 以前にも紹介したことのある人気女優、 レイチェル・ワイズ。 左の EPのネックレスをしてる 写真を 見つけたついでに、 ちょっと エルヴィス関連の発言を 検索してみました。

2001年1月、 「ハムナプトラ2、黄金のピラミッド」 プレミア会場にて

Q: そのネックレスの"EP"って、特別な人のイニシャルですか?

Rachel: エルヴィス・プレスリーよ。 グレイスランドで買ったの。 私って 大のエルヴィス・ファンなのよ。 グレイスランドは クールで、 キッチュ(俗悪)だった。 でも楽しかったわ。

2005年2月18日 TV "The Late Night with David Letterman" にて

Rachel: 前に ニューオーリンズから ニューヨークまで、 友達のメルと ドライブしたことがあるの。 すごく 楽しかったわ。 メンフィスは お気に入りよ。 グレイスランドに 行ったの。 壮観だったわね。

David: グレイスランドは どうでしたか?

Rachel: 想像してた以上に キッチュだったわ。 豹皮のベッドがあるの。 ツアー・ガイドが 可笑しくて。 でも、 家は美しかったわ。 私は 大の、大の エルヴィス・ファンなの。

David: たくさんの観光客が いたでしょう?

Rachel: いいえ、 いなかったの。 私たちのツアーは 私とメルと 他にひとりの 3人だけだったの。 きっと閑期だったのよ。

David: エルヴィス閑期。

Rachel: ドリーウッド(Dollywood)にも行ったけど、 閉まってたの。

 (レイチェル・ワイズは 2000年の暮れに グレイスランドに行ったと 思われますが、 グレイスランドの 著名人訪問客リストに 彼女の名前は 見当たりません。 きっと 一般観光客に混じって 入ったのでしょう)

2001年のインタビューにて

Rachel: 気が滅入った時は 友達と出かけることが 多いんだけど、 それで ダメな時は、 部屋にこもって、 エルヴィスに 話しかけるの。 彼が私を 癒してくれるの。 エルヴィスは 私の神様で、 家中に 彼の写真が 飾ってあるわ。

2006年2月19日のインタビューにて

 私は 全ての時代のエルヴィスが 好きなの。 彼が太って、 意識もうろうとして、 脱線して、 歌詞を忘れ、 苦笑いしてるところも 同じように 好きなの。 彼は 究極の歌手であり、 彼に匹敵するような人は 他にいないわ。

2007年12月24日 "Times of India" のインタビューにて

Q: あなたの憧れる人は 誰ですか?

Rachel: ケイト・ブランシェットは 並外れた女優で、 いつも感心させられるわ。 レニー・ゼルウィーガーも 好きよ。 彼女は スタイリッシュで いつもゴージャスなの。 でも、 私の模範にしてる人って 分かる? エルヴィスと フーディーニ。 私は この二人の大ファンなの。 マドンナにも 驚くわね。 彼女は ずっと自分を 変化させ続けてるでしょう。 先日、 ニューヨークの 彼女の作品展に 行ったの。 良かったわ。

レイチェル・ワイズ、 ラックス CM

「マイ・ブルーベリー・ナイツ」

 「ナイロビの蜂」で 2006年のアカデミー賞、 助演女優賞を獲得した レイチェル・ワイズ。 今、 最も輝いてる 女優のひとりです。
 彼女の最新作は 「マイ・ブルーベリー・ナイツ」 (ノラ・ジョーンズ主演、 3月22日公開)。
 ニューヨーク、 メンフィス、 ラスベガスが 舞台ですので、 エルヴィスも 出てくるかも(?)



(Mar.18, 2008) (Mar.13, 2008) (Mar.12, 2008)

George Klein Interview (2001)

ジョージ・クライン・インタビュー (2001年)

Q: ルイジアナ・ヘイライドのことから 始めましょう。 エルヴィスが ルイジアナ・ヘイライドに 出演した経緯から 話して戴けますか?

A: サム・フィリップスは グランド・オル・オープリーに エルヴィスを出演させて、 レギュラーで使ってくれるように 頼んだが、 受け入れて貰えなかった。 そこで、 サムは 「それなら、 ルイジアナ・ヘイライドに 行くぜ」って。 ルイジアナ・ヘイライドに エルヴィスを出演させたのも サムなんだ。 既に 当時 ルイジアナ・ヘイライドは 人気が高くて、 多くのスターを 輩出していた。 ハンク・ウィリアムス、 フロイド・クレイマー、 ディル・ホーキンス。 たくさんのスターが 出ていた。 そして、 事実、 エルヴィスにとって 良いスタート地点となったんだ。 ブラウンズ、 ジム & マキシン・ブラウンが ショーに出ていたし、 ドラマーの DJ・フォンタナにも会った。 実際、 彼にとって 申し分ないショーだったんだ。 電波は アメリカ南部一帯を カバーしていたので、 テキサスやオクラホマにも エルヴィスを知らしめることができた。 エルヴィスは アーカンソー、 ミシシッピ、 テネシーでは 知られていたにせよ、 テキサス、 ルイジアナ、 オクラホマまで 露出の地域が拡がり、 彼のキャリアの 助けとなったんだ。

ルイジアナ・ヘイライドは エルヴィスにとっても 楽しい職場だった。 彼は楽しんでいた。 グランド・オル・オープリーに比べて 自由な雰囲気があった。 些細なことに こだわらず、 緻密に計算されてない 自由さがあったんだ。 そして、 エルヴィスは ヘイライドで たちまちの内に 人気者になった。 ヘイライドのスターに なった。 そして、 他の出演者と共に ヘイライドのツアーに 出ることによって、 金銭的にも潤い、 レコード売り上げにも 貢献したんだ。

彼が ヘイライドで 1度 コマーシャルをやったことを 覚えてるよ。 彼の初めての コマーシャルだろう。 ルイジアナ・ヘイライドに 出演してる歌手なら 誰でもよかったんだ。 サザン・メイド・ ドーナッツの コマーシャルをやれば 50ドルも貰えたんだ。 僕はいつも エルヴィスの出演を チェックしていて、 エルヴィスに サザン・メイド・ドーナッツの コマーシャルをやるように 勧めたんだ。 それで 彼は 「冷たくしないで」のノリで、 「4時になれば ホッカホカ・ドーナッツが 食べられるよ (You get 'em piping hot after 4 pm)」 って やったので、 驚いたんだ。 僕のために やってくれたからさ。 僕の知る限り、 彼がやった 唯一のコマーシャルが サザン・メイド・ドーナッツだよ。 実現しなかったが、 メンフィスの新聞広告で、 家具のコマーシャルを やりそうになったこともあった。

ヘイライドは エルヴィスの船出の手段としては 最高だった。 映画「さまよう青春」の監督、 ハル・カンターは エルヴィスと一緒に ヘイライドに行ったんだ。 メンフィスから ルイジアナまで 同伴し、 ヘイライドで目撃した 当時の熱狂ぶりを 「さまよう青春」の中で 再現したんだ。 そこで ハル・カンターは アイデアを集めたんだ。 ヘイライドに関する 一番の名文句は パーカー大佐の一言だろう。 僕は パーカー大佐に 尋ねたことがあった。 「ヘイライドのエルヴィスを 知ってましたか?」 彼は「それ以上さ」 と答えた。 「どういうことですか?」 と尋ねると、 彼は言った。 「僕が ヘイライドを 辞めさせたんだ。」

Q: ショーは テレビでも 放送されたのですか?

A: いいや、 ラジオだけだ。 テレビ放送は無かった。 もしあったとしても、 僕は見た覚えがない。

Q: 「ハウンド・ドッグ」の歌詞について。 "You ain't never caught a rabbit" についての エピソードが ありましたね?

A: "You ain't never cut a record" のことだろう?

Q: 話していただけますか?

A: 「ハウンド・ドッグ」の レコードを 注意深く聴いてごらん。 "You ain't never cut a record, you ain't no friend of mine" (レコードを作ってくれなきゃ、 友達じゃないぜ!) と歌ってるように 聞こえるんだ。 それで、 このことを 1度 彼に尋ねたことがあってね。 彼は 僕が狂ってるんじゃないか というような顔で、 「そんなこと言ってない。 "you ain't never caught a rabbit" と歌ってるんだ」 と否定したんだが、 僕が 「"You ain't never cut a record" と聞こえる」 と言ったら、 彼は笑いながら、 殴りかかってきたんだ。 彼を知ってるだろう? 彼は殴りかかってきて、二人で大笑いさ。

Q: エルヴィスと グランド・オル・オープリーについて 話してください。 どうして 彼は出演できたのですか?

A: サム・フィリップスは ナッシュビルの WSM局の連中と 親しかった。 というのも 彼はそこで働いたことが あったからなんだ。 そして、 彼は グランド・オル・オープリーに ふさわしい商品があれば、 そこに差し向けようと 考えていた。 それが エルヴィスであり、 サムは エルヴィスを グランド・オル・オープリーに 出させるのに 大変な苦労をしたんだ。 エルヴィスは 将来のスター候補だと言って 彼らを説得した。 実際、 エルヴィスも グランド・オル・オープリー出演を 望んでいた。 オープリー出演は 彼の初期の夢だったんだ。 カントリー音楽を志す者にとって 誰もの願いが オープリー出演だった。 サムは ナッシュビルに出かけて行き、 ブッキング・エージェントを 説得して、 エルヴィスに 1曲歌わせることに 成功した。 それが 「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」だった。

エルヴィス自身は 「丁重に もてなされた」と 言っていた。 だって、 誰も 彼のことを知らなかったし、 彼を紹介した ハンク・スノーだって、 彼の名前を 忘れる始末だったんだ。 エルヴィスが歌った後で、 ディック・クラークの映画 (「ザ・シンガー」) の中のセリフ、 「トラックの運ちゃんに戻れば」 というのは、 僕が スコティ・ムーアや サム・フィリップスに 取材したところでは、 あのような言葉は 言われてないんだ。 ただ、 彼は両手を広げての 歓迎はされなかった。 ジム・デニーだったか 僕は知らないが、 そのような言葉を 遠まわしにも 言われなかったにせよ、 スコティ・ムーアが言うには、 ナッシュビルから メンフィスへの帰り道、 エルヴィスは ずっと不機嫌で、 怒っていたそうだ。 いずれにせよ、 エルヴィスは 冷たい扱いを受けた。 それが エルヴィスが ナッシュビルを好きになれなかった 理由のひとつなんだろう。 彼は レコーディングで ナッシュビルに 行くことはあっても、 決して ナッシュビルの ファンではなかった。 彼は 決して ナッシュビルを 嫌っていた訳ではないが、 彼にとって くつろげる場所ではなかった。 それは グランド・オル・オープリーでの 彼らの無礼な言動に 原因があったんだ。

Q: その場に ビル・モンローは 居たのですか?

A: どうだったかな、 覚えてないよ。

Q: エルヴィスは メンフィスに帰ってきてからも、 ナッシュビルの件に 不機嫌だったのですか?

A: その後、 57年に グランド・オル・オープリーに 行く機会があって、 我々は その男に会った。 その男は 悪びれずに エルヴィスに 仕事の世話をしようとしたんだが、 エルヴィスは 丁重に断った。 エルヴィスは その時もまだ グランド・オル・ オープリーでの一件を 忘れてなかった。 根に持っていたんだ。 エルヴィスは ナッシュビルの ミュージシャンは お気に入りだったし、 スタジオも 気に入っていた。 ヒット曲も たくさん録音した。 しかし、 彼は ナッシュビルに 家を持とうとしなかったし、 パーティもしなかった。 出歩くこともなかった。 こういうことなんだよ。

Q: RCA スタジオ Bが 出てきましたが。

A: それが何か?

Q: スタジオ・ミュージシャンについて 話して戴けますか?

A: ナッシュビルのスタジオは 狭くて、 サン・スタジオの エルヴィスを 思い出させた。 スタジオ Bは サン・スタジオより 僅かに大きいだけだろう。 最新の機器が 備えられていたし、 多くのカントリー・スターの レコードを録音していた。 RCAの所有だったことが 第一なんだが、 エルヴィスが 気に入ってたのは、 ミュージシャンと そのサウンドが とても良かったところなんだ。

でも 最初は サン・サウンドを 再現するのに 四苦八苦したんだ。 彼らは テープ・エコーを 用いたが、 正しい方法ではなかった。 「ハートブレーク・ホテル」や 「ただ一人の男」などの 初期のRCAレコードを 聴けば、 彼らが サン・サウンドを 追い求めていたことが 分かるだろう。 実際、 サムは スラップバック・エコーを 使っていたのを 彼らは知らなかった。 彼らの方が 進歩していて、 サムは 経済的な理由から スラップバック・エコーを 使っていた。 再生と録音を 同時にやる方法なんだ。 ラジオ局で エコーを出すのに 昔からやってた方法で、 サムは その方法を使っていた。 エコー・チェンバーを 買えなかったからだ。

しかし エルヴィスが ナッシュビルを好んだ理由は、 第一に、 良い曲が 集まってきたからなんだ。 「ハートブレーク・ホテル」、 「恋の大穴」、 「ただ一人の男」、 「トゥー・マッチ」など 初期のRCAレコード。 2番目に エルヴィスが好んだのは、 スタジオ・ミュージシャンの 素晴らしさであり、 加えて、 エルヴィス固有の サウンドを 見失いたくなかったからだ。 ボブ・ムーアや バディ・ハーマン、 偉大なミュージシャンが 揃っていた。

エルヴィスは レコード・ビジネスの歴史で 初めて、 セッションで 二人のドラマーを使った人間だ。 バディー・ハーマンと DJ・フォンタナの二人。 そのアイデアは ジェームス・ブラウンから 得たものなんだ。 彼は ステージで 大きな音を作り出すために 二人のドラマーを 使っていた。 二人のドラマーが 同時に叩くと 大きな会場が フル・サウンドとなって 効果的だったんだ。 エルヴィスは それをレコードで試して、 成功させたんだ。

スコティ・ムーアが座って、 ギターを弾き、 チャーリー・マッコイは 偉大な ハーモニカ・プレーヤーだし、 ジェリー・リードは 「ギター・マン」や 「アメリカ魂」で ギターを弾きに来た。 そして、 フェルトン・ジャーヴィス。 エルヴィスは ナッシュビルは 居心地がよかったんだ。 周りがみんな 南部の人間だったからだ。 ニューヨークのRCAでは ナッシュビルほどの 温かみがなかった。 ナッシュビルは、 よりカントリー的だった以外は メンフィスに 似ていたからだ。


(ジョージ・クライン、 エルヴィス、 ロイ・ハミルトン、 チップス・モーマン)

Q: メンフィスの アメリカン・スタジオに 話を飛ばしましょう。 チップス・モーマンと エルヴィスの関係について 話して戴けますか。 チップス・モーマンは エルヴィスから どのようなサウンドを 引き出そうとしたのでしょうか?

A: チップスは 究極のメンフィス・サウンドを 作り出していた。 サム・フィリップスの サン・サウンドを チップスは発展させた。 チップスは スタックス・レコードの サウンドの 生みの親でもあり、 マーキーズの 「ラスト・ナイト」や ブッカーT&MG’sの 「グリーン・オニオン」は 彼のプロデュースなんだ。 彼が スタックス・サウンドを 確立させたんだ。 彼は そのサウンドを アメリカン・スタジオに於いて、 よりポップスに、 ロックに しようとしたんだ。 彼は たくさんのヒット曲を 出した。 ダスティ・スプリングフィールドの 「サン・オブ・ア・プリーチャーマン」、 サンディ・ポゼィの 「シングル・ガール」、 ニール・ダイアモンドの 「ハリー・ホリー」。 R&Bより よりポップスに近い サウンドだ。 それが チップスの求めていた サウンドなんだ。 R&Bサウンドは 簡単に出せた。 R&Bをやってた連中 ばかりだったから。 でも 彼は アメリカンでは もっと洗練されたものに したかったんだ。


(左から; Bobby Wood (Piano), Mike Leech (Bass, Aranger), Tommy Cogbill (Bass), Gene Chrisman (Drums), Elvis Presley, Bobby Emmons (Organ), Reggie Young (Guitar), Ed Kollis (Harmonica, Assistant), Dan Penn (Writer, Producer))

そして、 エルヴィスとチップスは 初日から 意気投合したんだ。 彼らは お互いを 尊敬しあってた。 エルヴィスは チップスの アイドルだったし、 バンドの連中も そうだった。 エルヴィスが 最初の日に 現われた時には、 彼らは 舞い上がって、 我を忘れる始末だった。 現実に エルヴィスの後ろで 演奏できることに 彼らは喜び過ぎていたんだ。 エルヴィスもまた、 当時 南部で一番ホットな リズム・セクションと 共演できることを 喜んでいた。 ピアノのボビー・ウッズ、 オルガンのボビー・エモンス。 ドラムスに ジーン・クリスマン。 トミー・コグビルのベース。 レジー・ヤングがギター。

レジー・ヤングは、 あくまで 僕の考えなんだが、 僕の生涯で聞いた中で 一番の ギター・プレーヤーだ。 実際、 ナッシュビルでは、 3,4年連続で 最高のプレーヤーに 選ばれてるんだ。 彼は 素晴らしいギター・プレーヤーだ。 彼はメンフィス出身で、 長い間、 ビル・ブラック・コンボで 弾いていたんだ。 最初はハイ・レコードで、 それから、 サム・ザ・シャムズや ボビー・ウッドのレコードで スタン・ケスラーと 一緒に演奏していた。 彼は チップスの アメリカン・スタジオでは リズム・セクションの 大黒柱だったんだ。

そして、 エルヴィスは そのスタジオに 満足していた。 彼が気に入ってた点は、 小さくて、 ファンキーなところだった。 エルヴィスは 大きくて、 近代的なスタジオは 好きでなかった。 アメリカンは 古いサン・スタジオを 思い起こさせた。 決して 美しいスタジオでも、 見てくれの良い スタジオでもなかったが、 良い感触があり、 すごいサウンドを 醸し出していた。 「サスピシャス・マインド」、 「雨のケンタッキー」、 「イン・ザ・ゲットー」、 「ドント・クライ・ダディ」を 聴いてごらん。 エルヴィスの 最も素晴らしいレコードのいくつかは アメリカン・スタジオで 誕生したんだ。

Q: ロニー・ミルサップは 彼とハーモニーしてますね?

A: 彼は ハーモニーではなくて、 バック・ボーカルだと思うよ。 その当時、 ロニー・ミルサップは 街にいて、 T.J.s というクラブで 働いていたんだ。 彼は 数ドルもらって アメリカンで 夜間アルバイト、 コーラスや ピアノを弾いて、 セッションを 手伝っていたんだ。 ロニーは アメリカンの スタッフでもあったし、 チップスと アーティスト契約もしていた。 「雨のケンターキー」 だと思うんだが、 バック・コーラスの連中、 ホリディ・シスターズ、 サンディ・ポゼィに混じって ロニーも歌ってたようだ。 「雨のケンターキー」の 終わりの部分で 高い声を出してるのが ロニーだろう。

Q: ベン&ブロック・スピアが 最初のセッションに 連れてこられたと 仰いましたね?

A: エルヴィスが RCAに移って、 最初の録音で、 彼はジョーダネアーズを リクエストしたんだ。 チェット・アトキンスに 「ジョーダネアーズを 最初のセッションに 呼んで欲しい」 と言った。 彼らは「問題ない」 と答えた。 当時、 ジョーダネアーズは グランド・オル・オープリーに 出演していて、 エルヴィスは 彼らを見て、 気に入ってたんだ。 そして、 スタジオに行ってみると、 ゴードン・ストーカーだけしか セッションに 来ていない。 彼が 「他のジョーダネアーズは どうしたんだ?」 と訊くと、 彼らは いろいろと弁解して、 「代わりに スピア・ファミリーを 連れてきた」 と言った。 スピア・ファミリーは ゴスペル・グループで、 当時、 RCAの所属だったんだ。 僕の推測だから 確かなことでないが、 チェット・アトキンスが スピア・ファミリーを 推したのか、 ジョーダネアーズを 使いたくなかったのか、 ただの連絡ミスか、 僕は知らないが、 来たのは ゴードン・ストーカーだけ だったんだ。 それで エルヴィスは ゴードン・ストーカーに 「他の連中はどうしたんだ?」 と尋ねた。 ゴードンは 「僕も知らないんだ。 僕が来るように 言われたので、 当然 みんな来ると思ってた」 と話したんだ。 しかし、 スピア・ファミリーは 悪くなかったので、 エルヴィスはOKした。 エルヴィスは いい人間で、 ボートが 暗礁に乗り上げるような 真似は したくなかったんだ。 最初のセッションだったから、 強くは出なかった。 彼は 「次のセッションでは頼むよ」 とだけ言った。

ところが 次のセッションでも 同じことが起こった。 ジョーダネアーズ 全員が揃わなくて、 ゴードン・ストーカーと スピア・ファミリーが やって来た。 当然、 エルヴィスは怒った。 パーカー大佐も チェット・アトキンスに 「エルヴィスの好きなように やらせるんだ」 と訴えた。 それが理由で、 エルヴィスは チェット・アトキンスを嫌い、 次のセッションから 彼を外し、 ジョーダネアーズが 揃って 参加できるようになったんだ。

Q: チェット・アトキンスは 看板にすぎなかったのではないですか? エルヴィスのセッションに 必要だったのでしょうか?

A: チェット・アトキンスは RCAの看板だったんだ。 RCA・ナッシュビルの 音楽ディレクターであり、 A&Rのトップだったんだ。 その上、 偉大なギター・プレイヤーだった。 ナッシュビルの音楽や RCAの多くの面に 彼は関係していたんだ。

Q: エルヴィスは成功によって、どのように 変わりましたか?

A: 何年のこと?

Q: 56、7年頃。 最初の成功によって エルヴィスは 変わりましたか?

A: どれぐらい 変わったかって? そうだな、 彼の音楽は進歩したし、 彼の服装も 斬新になった。 ステージのやりかたも変化した。 ダンスするようになった。 それ以前から 彼は良いショーをしてたんだが、 57年頃には、 彼は 世界から見られてることを 意識していた。 それで、ステージ上で 100%の力を 出すようになった。 どう言えばいいのか 分からないが、 彼のステージが 良くなったんだ。 とても良いショーになった。 収入も増えて、 派手なステージ衣装を 買えるようになった。 ゴールド・スーツのようなものをね。 それで、 彼のステージは 以前にも増して ドラマチックに なったんだ。 ヘイライドやツアーでは、 ダイナミックなステージで 多くの観客を 引き付けた。 彼のステージは 目が離せないものだった。 彼は さらにその部分を 強調したんだ。 分かるかな? 服装に関して言えば、 派手な服も より格調高い派手さに変わった。 ビール・ストリートの ランスキーで買ってた服が、 ハリウッドの サイ・デボアや スターご用達の 有名な店で 彼の普段着から ステージ衣装まで 買えるようになったからだ。

Q: 「監獄ロック」のセットでは いかがでしたか?

A: 「監獄ロック」は 僕の夢が叶った ってことかな。 メンフィスで ラジオ、テレビの仕事をしながら、 いつも ハリウッドを夢見ていた。 伝え聞く 大きな撮影所、 MGMの門、 その他の映画スタジオにまつわる お伽話。 MGMは 当時、 ハリウッド最大の 映画スタジオだったんだ。 ハリウッドで 最も有名なスタジオだった。 お馴染みの MGMのアーチゲート。 初めて スタジオに行った時のことは 昨日のことのように 覚えてる。 リムジンに乗って行った。 門番の名前は ケニー・ハリウッドって 名前だった。 彼は 今も居るのかな? 信じられない名前だろう。 ハリウッドって言うんだぜ。 良い奴でさ。 彼は毎朝、 スター全員と 挨拶するんだ。 そして、 入って、 僕たちが 最初に向かったのは エルヴィスの ドレッシング・ルームだった。

僕は吹っ飛んだよ。 だって、 エルヴィスが使ってたのは クラーク・ゲイブルの ドレッシング・ルームだったんだ。 僕とクリフ・グリーブスは 「ワオ! クラーク・ゲイブルの ドレッシング・ルームじゃん」 てなもんさ。 本当に興奮したよ。 そこは 古いビルの一室で、 仮設の建物では なかった。 10分もしない内に 僕たちは 部屋中を探し回ってたよ。 押入れの奥に クラーク・ゲイブルの 記念品はないかなってね。

そして、 ノックがしたから、 ドアを開けると、 グレン・フォードが立ってった。 僕は 「グ、グレン・フォード。 中にどうぞ、 フォードさん」 と言うと、 彼は 「エルヴィス、 グレン・フォードです」 と自己紹介したんだ。 グレン・フォードと 話ができるなんて、 信じられなかった。 まだ 着いたばかりだっていうのにさ。 グレンは エルヴィスに 「君のドレッシング・ルームは どうかね?」と 尋ねたんだ。 エルヴィスは 「素敵だ。 クラーク・ゲイブルのと 聞いてたんだが、 少し狭いね」 と言ったんだ。 すると、 グレン・フォードは 「僕のを使っても構わないよ。 すぐ近くにあるから。 僕のは少し広いから、 君がよければ、 両方使えば?」 と言った。 すると エルヴィスは 「いいえ、 ここだけで十分です。 だって、 クラーク・ゲイブルの ドレッシング・ルームなんですから」 と答えたんだ。 それで 僕たちは そこに滞在した。 もちろん エルヴィスには スタジオのすぐ近くに 移動ドレッシング・ルームも 用意されていたんだ。

そして、 もちろん 色々なものがあって、 衣装に、 ヘアスタイルを示した写真。 様々な衣装を着た エルヴィスのスチル写真だよ。 僕は 何事も見落さないように 細心の注意を払っていたんだ。 僕自身 とてもエキサイトしていたし、 エルヴィスもいたので、 スタジオ中が 活気溢れているようだった。 大手映画会社の 大スタジオだから、 当然、 多くの映画が 進行していた。 ユル・ブリンナーが 撮影中だったし、 ロバート・テイラーも 撮影中だった。 キム・ノバックは 次の映画の 準備をしていた。 僕は本当に興奮したよ。

そして、 スタジオに行った 最初の日に 「カラマゾフの兄弟」のセットを 覗きに行ったんだ。 ユル・ブリンナー、 ジーン・シモンズらが 出ていた映画だ。 僕たちがセットに入ると、 エルヴィスは 「静かにするように」 と言ったんだ。 そこは 立ち入り禁止のセットで、 まさに今 撮影が始まろうとしていた。 すると、 ビンセント・ミネリ、 ジュディ・ガーランドと 結婚した監督だ。 彼が監督してたんだが、 急に振り返って、 ここでは言えないほど 汚い言葉で 怒鳴ったんだ。 「そこの誰それ、 誰だか知らないが、 ここは立ち入り禁止だ。 出て行け!」って。 エルヴィスが 「出ようぜ!」 と言ったので、 僕たちはセットから出て、 大笑いしながら、 歩いてたんだ。 僕たちは 平気だったんだが、 エルヴィスは 明らかに バツの悪そうな顔をしていた。 でも、 「何て気の短い奴なんだ」って 笑っていると、 ジーン・シモンズが 僕たちの方に向かって 走って来たんだ。 走りながら、 「エルヴィス、 ちょっと待って!」って。 僕は声をひそめて 「あれは ジーン・シモンズだろう」って。 彼女は美人でね。 彼女は 「エルヴィス、 ミネリ監督に代わって 謝りにきたの。 彼は あなただって 知らなかったの。 それに、 私たちは セットから あなたを追い出すつもりは なかったの。 立ち入り禁止のセットだけど、 あなたは歓迎よ」 と言った。

エルヴィスは ユル・ブリンナーとは 親しかったんだ。 彼女が 「謝りにきたの」と言うと、 エルヴィスは 「心配しないで。 分かってるから。 僕のセットも いつも立ち入り禁止で、 人々を追い払ってるんだ」 と言った。 彼女は 「あなたは大スターだし、 こんなことになって、 私たち、 どうしていいか 分からないの」 と言った。 エルヴィスは 「心配しないで」って。 彼女は 「私は 謝ってくるように 遣わされたの」 って言ったので、 僕たちは握手をして、 少し話をした。 そして 彼は 「ユル・ブリンナーに 休憩時間に 僕が会いに行くと 伝えて」 と彼女に頼んだんだ。


(エルヴィスとジーン・シモンズ)

そして、 彼らが休憩してる時に、 僕たちは ユル・ブリンナーの ドレッシング・ルームに 出かけた。 そこで 彼と立ち話してる自分が 信じられなかった。 だって 彼はスーパースターだったんだ。 あの時の彼は アカデミー賞を 獲ったばかりだった。 彼とエルヴィスは 友達だった。 他にも たくさんのことがあったが、 ここだけでも 1時間のビデオ・テープじゃ 足りないだろうね。

僕は 「監獄ロック」の撮影の 一部始終を目撃した。 僕は どのように映画が作られるか 興味を持っていたので、 撮影所の何事も 見落としたくなかったんだ。 他の連中が トランプをしたり、 昼寝していても、 僕は エルヴィスを見ていた。 彼は 「ジョージ以外は 居なくなった」と 言ったものさ。 撮影は 決して楽じゃないんだ。 撮影して、 休憩。 始めて、 待って、 始めて、 待っての 繰り返しなんだ。 でも僕は エルヴィスと 行動を共にして、 照明の方法とか、 大道具や、 スタンドインの動きを 見ていた。 僕にとって とても興味あることだったんだ。 監督のリチャード・ソープ。 彼はとっても 撮影が早かったよ。

撮影所では 楽しい時間を過ごした。 多くのスターが エルヴィスに 挨拶しに セットを訪ねてきた。 ビンス・エドワーズも やってきた。 映画のエルヴィスの役名は ビンス・エバレットだが、 最初は違っていたんだ。 エルヴィスの役名は ビンス・エドワーズだったんだ。 後の 「ベン・ケーシー」の俳優の名前だ。 それで ビンス・エバレットに 変えられた。 とにかく、 ビンス・エドワーズに ロバート・テイラーの 映画のセットで 会ったんだ。 彼が エルヴィスに会いたいと 言ったので、 僕が 彼を連れて行った。 ビンスとは すぐに友達になって、 よく 遊びに行ったものさ。 彼が ベン・ケーシー医師になる前のことだ。

他にも 多くのスターが エルヴィスを訪ねてきた。 最初の2週間ほど、 エルヴィスは 撮影所内の大食堂で 食事を取っていた。 そこで ポール・ニューマンに 会ったこともあるんだ。 彼も大食堂に来ていた。 他のスター連中も みんな昼食時には 食堂に来ていたんだが、 1、2週間後に エルヴィスは 食堂に行かなくなった。 ほとんど 食堂で食べることは 無くなったんだ。 だって、 スターの中でも 彼が一番目立つんだよ。 彼がいると 大騒ぎになるんだ。 彼に握手を求めたり、 サインを求めて 人々がやってくるんだ。 知ってのように、 エルヴィスは 決して 嫌な顔をしないからね。 それで 彼は 食事もままならぬ内に 撮影に戻らなくてはならない。 そんなことで、 以後、 食事をドレッシング・ルームに 運んでもらって 食べることになったんだ。

それから、 僕は 何度も 大食堂に行くことはあったけど、 それは 他のスターに 出会いたいがためだったんだ。 ほとんどは エルヴィスと一緒に ドレッシング・ルームで 食べていた。 彼の仲間として 行ってたんだから 当然のことだろう。 でも、 エルヴィスが 休んでる時には、 スタジオ中をうろつき回った。 エルヴィスが 台本を読んだり、 リハーサルに出ている時は、 離れて、 スタジオ巡りをしていた。 当時、 ジーン・ケリーの 「魅惑の巴里」も 撮影中だったんだ。

「監獄ロック」の撮影では、 エルヴィスは グレン・ストレンジに会えて 感動していた。 (フランケンシュタインを演じる 大男のグレン・ストレンジ) エルヴィスは ベテラン俳優が 好きだったんだ。 他に ビッグ・スターは いなかった。 ミッキー・ショーネシーは コメディ出身で、 映画に転向したばかりだった。 あの役は 彼にとって ラッキーだったんだ。 あの映画で良かったのは ディーン・ジョーンズぐらいだろう。 DJ役の俳優だ。 彼は あの後 テレビ界で成功した。 エルヴィスの映画から スターになった人は 多くいないんだ。 その理由は、 人々は エルヴィス映画には エルヴィス・プレスリーだけを 見に行ってるからなんだ。 これは ジョー・エスポジトから 聞いたことなんだが、 ジェリー・ルイスの マネージャーがやってきて、 パーカー大佐に 「ルイスの映画に エルヴィスに ゲスト出演してもらえないか?」 と頼んだそうだ。 「代わりに、 ジェリー・ルイスを お返し出演させるから」と。 その時の パーカー大佐の言葉が 的を得ているんだ。 「エルヴィスの映画に ジェリー・ルイスを 見に来る奴って いないだろう」って。


(「監獄ロック」に エキストラ主演している エルヴィスの取り巻きたち。 左から; Arthur Hooton, Cliff Gleaves, Gene Smith, Elvis, George Klein, Lamar Fike, Junior Smith)

撮影所は楽しかった。 僕や クリフ・グリーブスは いくらか ショー・ビジネスに 関係した仕事を していたから、 尚更 楽しかったのだろう。 有名監督やスターが 近くにいるんだ。 「監獄ロック」撮影中に、 「ジョージ、 キム・ノバックが 出てくるぞ!」って。 すると、 キム・ノバックを 見に行くんだ。 彼女が ドレッシング・ルームから 出てきて、 車に乗り込もうとしている。 僕は駆け寄って 「ミス・ノバック、 こんにちは!」と。 彼女も 「こんにちは!」って。 それだけ。 彼女に 挨拶するだけなんだけど、 近づけただけでも 嬉しかったんだ。 当時のキム・ノバックは 大スターだったからね。

「監獄ロック」や 「闇に響く声」、 「さまよう青春」、 「やさしく愛して」では、 その後の 映画のセットと違って 僕たちは バカ騒ぎをやってなかった。 ジョーの方が よく知ってると思うが、 15本目の映画あたりから、 退屈を紛らわせるために、 水風船や 水鉄砲合戦を やるようになったんだ。 しかし 「監獄ロック」や 「闇に響く声」では、 真面目そのものだった。 エルヴィスは キャリアを 確立したばかりで、 セットでふざける 生意気な奴という風評は 望んでなかった。 彼は、 時間に正確で、 セリフは覚えてくる。 協調性のある人間に なろうとしていた。 今でも覚えてる。 6時 起床、 7時 出迎え、 8時 メイクアップ室入り、 9時 撮影スタート。 エルヴィスは 毎朝9時きっかりに スタジオ入りした。遅れたことは 一度もなかった。 自分のセリフだけでなく、 他人のセリフまで 覚えてくる。 彼は 抜群の記憶力の 持ち主だったんだ。 彼はセリフ回しも 上手だったし、 協力的で、 誰とも 論争をしなかった。 その頃のエルヴィスは ハリウッドで 名を成そうとしていたからだ。 ロックンロール映画の中で 飛び跳ねるだけの俳優でなく、 彼は 演技を学んで、 本格的な俳優に なろうとしていたんだ。

Q: アレックス・ロメロの 振付に対する エルヴィスの反応は いかがでしたか?

A: アレックスは 今、どうしてるんだ?

Q: 彼は元気ですよ。 (2007年9月に亡くなった)

A: まだ踊ってるの?

Q: ええ、 まだ踊ってます。 振り付けを教えてます。

A: 彼は良い奴だった。 「監獄ロック」の振付師である アレックス・ロメロが 最初に示したダンスに エルヴィスは 首を振ったんだ。 「これは僕じゃない。 アレックス、 君の努力には 感謝するが、 僕には これは出来ない」って。 彼は エルヴィスに ジーン・ケリー、 フレッド・アステア・ タイプのダンスを やらせようとしていた。 「それは僕じゃない。 ここで それを踊ってみようか」 と言って、 エルヴィスは立ち上がって、 踊ってみせた。 「アレックス、 分かったかい? 僕じゃないだろう?」 と彼が言うと、 アレックスは 「君のステージ・アクションを 取り入れて、 うまく行くか 試してみよう」 と言ったんだ。 そして、 翌日、 彼は エルヴィスのアクションを 取り入れたダンスを 披露した。 エルヴィスは 「それなら僕にもできる」 と言って、 MGMのリハーサル室で 1度見ただけで 彼は それをOKしたんだ。 それが エルヴィス映画の中で 最高のダンス・シークエンスに なったんだ。

Q: エルヴィスは 「闇に響く声」を どのように 感じてたでしょうか?

A: 僕は 「闇に響く声」は エルヴィス映画の中で 最高の映画だと 思ってるんだ。 脚本がベスト。 監督もベスト。 マイケル・カーティス監督は ボガートや 多くの大物俳優と 仕事をしていた。 共演の俳優も ベストだろう。 ウォルター・マッソー、 ビック・モロー、 キャロリン・ジョーンズ。 強力な助演陣だ。 音楽も 良かったと思う。 ニューオリーンズのセットが 良かったし、 脚本が 素晴らしかった。 ハリウッドの エルヴィスの良さが 全て含まれていた。 エルヴィスの演技も 他のどの映画よりも 優れていた。 それには 隠れた理由があったんだ。 彼は 「今度は 真面目に取り組む」 と言ったんだ。 それまでは、 単調な撮影に 気分を変えるために ふざけたりしてたんだが、 彼にはその時 「闇に響く声」の撮影のために 徴兵猶予まで 与えられていたんだ。 彼は このように言ったんっだ。 「僕は軍隊に入る。 2年後に 軍隊から戻ってきた時に、 ロックンロールが どうなってるか 分からない。 そうなれば、 僕には 俳優の道しか 残されていない。 ここで僕が 演技できるとこを示せば、 帰って来た時に、 ロックンロールが消えていても、 僕は ハリウッドに戻って、 俳優になれるだろう。 だから僕は 100%のものを出すんだ」と。 「闇に響く声」を 見てごらん。 彼の映画キャリアの中で、 最高の演技を 見せてるのが 「闇に響く声」の彼だと思うよ。

Q: エルヴィスが除隊して 帰ってきた時のことを 話していただけますか? 駅まで出迎えに 行きましたね?

A: エルヴィスが軍隊から帰ってきた時、 パーカー大佐は 特別列車を手配して、 エルヴィスを故郷に戻した。 ドイツから ニュージャージーまでは 飛行機だったが、 エルヴィスは 飛行機を嫌っていたから 列車にしたんだ。 それで、 特別列車を連結させて、 エルヴィスを メンフィスに 帰した。 そして、 もちろん、 大佐の いつものやり方で、 エルヴィスが 何時に 何処そこを 通過するか マスコミに リークした。 彼は賑やかなことが好きで、 その通りに 群衆が集まった。

決して忘れられないのが、 エルヴィスが列車で入ってきて、 彼が 乗降口から 降りてきた時のことだ。 僕もその場にいて、 エルヴィスを迎えてる 写真があるはずだ。 エルヴィスはハンサムで、 軍服姿だった。 僕はそれを見て、 「その軍服は支給品なのかい?」 と尋ねた。 彼は 「まさか。 これは別誂えだよ。 お金を出せば、 誰にだって 作ってくれるんだ。 ただでくれたりは しないさ」 と言った。 誰も 別誂えの軍服なんて 作らないから、 そこが エルヴィス・プレスリーらしいところなんだ。 エルヴィスは 綺麗な軍服で 降りてきた。 エルヴィスは 3等軍曹だったので、 そで章を示して言った。 「ジョージ、 これは間違いだよ。 線が1本多いだろう。 間抜けだね」 って。


(「そで章」の間違いを 指で示すエルヴィス。 右の写真の 3本線が正しい)

彼は健康そうだったし、 彼の表情から、 故郷に帰れて 幸せそうに見て取れた。 ニュージャージーに 到着したのと、 メンフィスでは 大きな違いだったんだ。 彼は 安堵してる様子だった。 彼は 僕に囁いたんだ。 「ジョージ、 これで グレイスランドも 目を覚ますぜ。 今晩、 彼女たちを 家に集めてくれ。」 そんな内輪の話だよ。 戦場から 兄弟が帰還したような 気の昂りを 覚えたんだ。 実際、 あの時は 戦争でなかったが、 そのような感じだな。 門には 沢山のファンが 集まっていて、 横断幕も 掲げられていた。 「おかえり! エルヴィス」って。 これには彼も 気分を良くしたはずさ。

ここで、 取って置きの話をしよう。 本を書く予定もないから 話すんだ。 3月なのに エルヴィスの顔は 日焼けしていた。 人々が口々に 「エルヴィスは とても綺麗に 陽焼けしてるわ」 と言うのを聞いて、 僕は 吹き出しそうになった。 僕は 彼に近づいて、 そっと訊いたんだ。 「エルヴィス、 僕が送ったマンタン (日焼けクリーム) は届いたかい?」 エルヴィスは 「ああ、 でも 黙ってるように。 マンタンのことは 話すんじゃないぞ」 って。 マンタンを知ってるかい? マンタンは 室内用日焼けクリームの さきがけなんだ。 それを塗れば、 太陽の下に行かなくても、 部屋の中で 焼けるんだ。 僕の話が分かるかい? マンタンには そんな効果があるんだ。 最初に出た その種の商品なんだ。 それを塗れば、 太陽の下に出なくても、 良い日焼け効果が得られる。 一瓶買って、 僕とアラン・フォータスで 試してみたら、 うまく行ったんだ。 それを エルヴィスにも ドイツから帰る前に 一瓶送ったんだ。 「エルヴィス、 これを試して。 効果あるんだ。 列車から降りてくる時に、 化粧する必要はない。 美しく 日焼けした状態になってるから」 って。 それで、 彼は それを使った。 3月で 日差しも強くない。 ドイツから帰ったばかりなのに、 彼は 日焼けバッチリだったんだ。

Q: 話は飛んで、 「フロリダ万才」について 話してください。

A: 「フロリダ万才」のセットのエルヴィスは 「監獄ロック」の頃とは 完全に違っていた。 単調さを 紛らわすために ふざけてばかりいた。 彼はくつろいでいた。 その頃には エルヴィスは スーパースターになっていたし、 彼のキャリアも 確立されていた。 彼は MGMでも パラマウントでも、 どこに行っても スターであり、 みんなに 愛されていた。 それもこれも エルヴィスが 協力的であったからだ。 僕が気付いたことは、 エルヴィスは セットでリラックスしていた。 力を抜くことを 覚えたんだね。 最初の頃は 多かれ少なかれ、 彼は監督の言葉に 従っていた。 しかし 経験を積んだこともあり、 エルヴィスはそつなく、 機転をきかせて 演技出来るようになっていた。 監督の忠告を あまり必要としなくなっていたんだ。

Q: エルヴィスの 映画キャリアの中で 悪い方の分岐点は 何処だったでしょうか? そして、 その理由は?

A: 「ハレム万才」が 悪い分岐点だろう。 どうして パーカー大佐が あのような「ハレム万才」に 出させたのか 理解できない。 一番悪い映画じゃないかな。 1週間で撮影された 安物だ。 エルヴィスだって 決まり悪かったと 思うよ。 でも、 振り返ってみれば、 エルヴィスの弁護を するわけでないが、 ポール・ニューマンの いくつかの作品も、 スティーヴ・マックイーンの 「絶対の危機」も ひどいもんさ。 それでも 「ハレム万才」に比べれば ましだろう。 貧弱な脚本の 安物映画だよ。 あんな映画に出たのが 僕には理解できないんだ。

Q: 「闇に響く声」以外に、 エルヴィス映画で 良いものはありましたか?

A: 「監獄ロック」のダンス・シークエンスは いかしてる。 アン・マーグレットとの 「ラスベガス万才」も いいよね。 かなり良いものも 何本かあるよ。 最後の方で 彼が医者になった映画。 「チェンジ・オブ・ハビット」も 良い小作品だ。 「夢の渚」も好きだな。 チューズディ・ウェルドと ゲィリー・ロックウッドと 共演した 「嵐の季節」。 バーバラ・スタンウィック共演の 「青春カーニバル」も 悪くないよ。 「闇に響く声」以降で 彼のハイライトは 「ラスベガス万才」だろう。 エルヴィスと アン・マーグレットの間に 火花が散っていたからだ。

Q: エルヴィスの高校時代、 他の生徒と違っていたのは 何故でしょうか?

A: エルヴィスが違ってたのは、 彼が目立とうと していたからだ。 彼なりのやり方で 主張していたんだ。 運動選手は運動で 目立とうとする。 チアリーダーは チアリーディングで 主張する。 僕は生徒会で 頑張っていた。 高校で目立つにも 色んなやり方があるだろう。 今の子供だって やってるだろう。 イヤリングを付けたり、 変てこな髪形にしたり。 学校で 花柄のシャツを 着たりさ。 エルヴィスも 目立ちたかったんだ。 でも、 悪いやり方ではなかった。 他人と違った服装で、 違った髪形で、 学校にギターを持ってきた。 あれは目立っていたんだ。 ヒュームズ高校に ギターを持ってきたのは 彼ひとりだったんだ。 白いストライプの入ったズボンも 彼ひとりだった。 スポーツコートの 襟を立てて 廊下を歩いてたのも 彼ひとりだった。 まるで 「理由なき反抗」の ジェームス・ディーンだよ。 彼なりのやり方で 目立とうとしてたんだ。

Q: 高校でも 彼はシャイだったのでは ありませんか?

A: エルヴィスはシャイだった。 本当に。 彼は社交的でも、 外向的でもなかった。 クラスの道化役でも なかったし、 皮肉屋でもなかった。 彼は普通の男だったし、 仲間はずれされることも なかった。 ただ、 服装、 髪形、 ギターで 目立っていただけだ。 高校での彼は 決して前に出ようと、 目立とうと したことはなく、 物静かだったんだ。 パーティーで騒いだり、 ステージに上がって 歌ったり、 飛び跳ねたりは しなかった。

Q: エルヴィスと一緒に、 ジーン・オートリーや トニー・カーティスの映画を 観に行きましたか?

A: これは 知られたことなんだけど、 彼は トニー・カーティスや クラーク・ゲーブルが 好きだった。 もちろん、 僕たちみんな マーロン・ブランドや ジェームス・ディーンが 好きだった。 そんな時代だったんだ。

Q: あなたとエルヴィスは 同じクラスだったのですね?

A: 8年生(中学2年生)の時から 多くのクラスで 一緒になった。 偶然だろう。 8年生の音楽クラスでも 一緒になった。 マロン先生で、 そこで初めて エルヴィスの歌声を 聴いたんだ。 彼は学校に ギターを持ってきて、 歌ったんだ。 それ以来 僕たちは 友達になった。 無意識の内に 僕はショービジネスの世界に 進みたいと 願ってたのだろう。 彼も同類のように 見えたんだ。 その時には 知らなかったがね。 エルヴィスとは 社会、国語、歴史、 スピーチ・クラスと たくさんのクラスで 一緒になったんだ。

Q: エルヴィスの高校時代に 恋人はいましたか?

A: 彼は ヒュームズ高校では あまり デイトしてなかったようだ。 彼のデイト相手は 他校生が 多かったんだ。 理由は知らないが、 サウスサイドという高校が 街の反対側にあって、 バーバラ・ハーンや ディキシー・ロックは サウスサイドの 女子高生だったんだ。 他にもいたんだが、 ヒュームズではなかった。 彼のデイト相手は 決まって 他校生だったんだ。 プロムに連れて行くのも 他の学校の女の子だった。

Q: 彼は 誰とプロムに 行ったのですか?

A: プロムは2度あるんだ。 高校2年の時と、 3年の時。 2年の時の少女は、 最近 彼女の夫に 会ったんだが 名前は忘れてしまった。 3年生の時は ディキシー・ロックだよ。

Q: デューイ・フィリップスと 彼の番組 "Red Hot & Blue" について 話してください。 どのような経緯から レコードが かけられたのでしょうか?

A: ダイジェスト版でいいかい? デューイ・フィリップスは 特異な ディスク・ジョッキーだったんだ。 彼独自のスタイルがあって、 他のDJとは 違っていた。 実際のところ、 彼はR&Bレコードをかける カントリーのDJだったんだ。 彼は 人気のないカントリー番組も 持っていた。 でも 彼のWHBQ局 "Red Hot & Blue" は 夜9時から深夜まで 放送されていて、 とても人気があった。 彼は そこでは 黒人音楽、 R&B、 当時は レイス(人種)ミュージックと 呼ばれていたものだけを かけていた。 彼は 2つの理由で 人気があったんだ。 第一に、 その手の音楽が 若い白人の聴衆に アピールし始めていた。 第二番目は、 WDIA局(黒人局)は 日暮れと共に 放送が終了した。 デューイ・フィリップスは その手の音楽をかける 唯一のDJだったんだ。 彼には 競争相手が いなかった。 黒人の聴衆も 夜には デューイを聴くしか なかったんだ。

白人の子供は 丁度あの頃 R&Bを聴き始めたんだ。 ドリフターズ、 クロバーズ、 プラターズ、 ロイ・ハミルトン、 クライド・マクファター、 ジャッキー・ウィルソン、 ジェームス・ブラウンなど。 デューイは そのような音楽を提供し、 白人の聴衆に 子供たちは ペリー・コモ、 エディ・フィッシャー、 アンドリュー・シスターズから 離れていった。 みんなが R&Bを提供する デューイ・フィリップスを 聴くようになり、 彼は人気者になったんだ。 メンフィスの夜の 彼の聴取率は 凄かったんだ。 そして、 サム・フィリップスと デューイは 仲が良かった。 彼らは 同じ苗字だが、 親戚関係ではなかった。 デューイ・フィリップスは サムに一目を置いていた。 サムは 頭が切れ、 知性的だった。 サムはデューイを、 デューイはサムを 気に入っていて、 とても 仲が良かった。 一時、 彼らが共同で レコード会社を興そうと したことがあったぐらいだ。

そして、 サムはデューイと共に ユニークな音楽の道を広げた。 デューイは 気に入った曲しか かけなかったが、 いつも サムの曲に対する意見を 取り入れていた。 彼はサムを 天才と認めていた。 そして、 サムはデューイに 新人歌手のレコードを 持ってきては、 デューイが メンフィスで最初に 曲をかけるかける DJになるように 努めてたんだ。 デューイは そのことに 感謝していた。 新曲を最初にかける DJというのが 彼の売りになったんだ。 まるで 音楽界の中心にいる 重要人物のようだろう。 その上に デューイは 音に対する 耳が良かったんだ。 彼は ヒット曲を聞き分ける 能力を持っていた。 曲の潜在的魅力を 聞き分け、 ヒットを 予言できたんだ。

とにかく、 サムは アセテートの デモ・レコードを デューイに届け続けた。 彼が録音した B・B・キングや アイク・ターナー、 ルーファス・トーマスの録音などだよ。 そして デューイはサムに 恩返しをした。 当時は 音楽ディレクターなんて いなかったから、 ディスク・ジョッキーは 自由に 音楽を かけられたんだ。 そして、 良い音楽をかけることが 彼らの成功に 繋がったんだ。 サムは 新曲をデューイに届け、 デューイは サムの恩に報いた。 そのように サムは エルヴィスのレコードを 持ってきた。 確か 金曜日の夜だったと思う。 サムは 「デューイ、 このアセテートは とてもユニークなんだ。 ちょっと 聴いてくれないか? 黒人のサウンドを持った 白人なんだ」 と言った。 デューイは そのレコードを聴いて、 「ヒットするだろう」と 僕に言ったんだ。 彼の言葉は こうだった。 「ヘイ・ママ、 これはヒットする。 スマッシュ・ヒットだ」と。 デューイは その夜に それをかけた。 あいにく僕は その夜は スタジオにいなくて、 翌日に デューイから聞いたんだ。 彼は 7度も そのレコードをかけたと 言ったんだ。 1時間に1度かかるだけでも ヒットなのに、 ありえない数字だったので、 「7度もかけたって?」と 聞き返したよ。 「そうだ。 サムにヒット曲が生まれた」 と言ったんだ。 そして、 彼の予言は当たった。

(ジョージ・クラインのインタビューは 2時間ぐらい なされましたが、 発言の正確な書き起こしは ここまでの 約1時間分だけで、 残りの1時間分は、 残念なことに、 時間経過と 話の概要だけしか 記されていません。 その発言の概要だけでも 興味深いものがあるので、 ここに記します。)

  • 1957年から58年、 エルヴィスのツアーに 同伴したこと。
  • 1954年、 カッツ・ドラッグストアの オープニング記念のショーで ジョージ自身が 司会を務めたこと。
  • エルヴィスのツアーは 信じれないほどに 騒動を起したこと。 都市の移動に エルヴィス自身が 車の運転をしていたこと。
  • パーカー大佐は 出会った頃は ハンク・スノーの マネージャーだったこと。 パーカーが エルヴィスを 前座に使い、 南部で 彼の人気が高まったこと。 パーカー大佐は 何かを感じてはいたが、 まだロックンロールが 存在しない時代で、 それが何か 確信が持てなかったこと。
  • パーカー大佐が いつもエルヴィスが ショーを乗っ取ることに 気付いたこと。 彼の契約が切れそうであることを 知っていたこと。 パーカー大佐と ハンク・スノーが 共同で レコード会社を 作ろうとしたこと。
  • パーカー大佐が エルヴィスの両親に 話を持っていった時、 あまりに彼が 高圧的だったので、 エルヴィスの両親は 彼を不審に思ったこと。 パーカー大佐は ハンク・スノーを遣わして、 両親の説得に 当たらせたこと。 パーカーが エルヴィスと契約したと 知ったハンクが 「僕たちは エルヴィスと サインをしたんだね?」 とパーカーに尋ねると、 パーカーは 「『僕たち』って 何のこと?」 と答えたので、 パーカーと ハンク・スノーの 関係が終わったこと。 エルヴィスは パーカーを 全面的に 信用はしてなかったが、 マネージャーとしては 信頼していたこと。
  • キャリアの中頃、 エルヴィスは 映画制作に 飽き飽きしていたこと。 彼の言葉。 「ロケ地が違うだけで、 同じストーリーの 繰り返し。 喧嘩の後に、 女の子に歌って、 最後にゴールイン。」 彼は ディーン・マーティンや スティーヴ・マックイーンのような ドラマチックな役を 望んでいた。 パーカーは エルヴィスに、 「このようなタイプの映画を ファンは望んでる」 と説得していた。 パーカーは エルヴィスが 新しいものにチャレンジした時に ファンが拒絶するのを 恐れていたこと。
  • エルヴィスは ハリウッドを 自分なりのやり方で 学んでいて、 明けても暮れても 映画館に通っていた。 エルヴィスは ジェームス・ディーン、 マーロン・ブランド、 ポール・ニューマンのように なりたいと思っていて、 決して お決まりの ハリウッド・スターには なりたくなかったこと。
  • エルヴィスが 海外ツアーに出なかった理由は たくさんあるが、 第一の理由は、 取り巻きが多すぎたことと、 大規模なショー全体を 海外に持っていくには 経費が掛かりすぎたこと。 パーカー大佐は アメリカ市民になろうと思えば 簡単になれたことから、 それが理由では ないであろうこと。
  • 1968年のクリスマスに、 エルヴィスが ジョージ・クラインに キャデラックのプレゼントを 贈った時に 言った言葉。 「友達と分ち合えてこその 富と名声さ。」 エルヴィスは 世界一、 気前が良かった人物であること。
  • エルヴィスが事故で 路肩に停まってるのを 見過ごし、 通り過ぎて、 グレイスランドに 着いた時に 知らされたこと。
  • エルヴィスが ある時のクリスマス・プレゼントに、 冗談で マクドナルドの無料券2枚を 全員に配ったこと。
  • 映画のセットでやった 悪戯の数々。
  • 「ラスベガス万才」で エルヴィスとアン・マーグレットが 親密になったこと。 アンは決して わがままな女性でなく、 気さくで 素晴らしい女性であること。 エルヴィスは アン・マーグレットに 深入りしそうになり、 自分を抑制したこと。
  • アニタ・ウッドは 才能のある女性で、 リンダ・トンプソンの ユーモアのセンスを エルヴィスは 買っていたこと。 エルヴィスは ハリウッドの女性より 南部の女性を 好んだこと。 ジンジャー・オールデンは 良い娘だが、 若すぎたこと。
  • グループの男性の何人かは ジンジャーの立場を 理解できず、 彼女を 嫌っていたこと。 彼女は 若すぎて、 世間知らずであったこと。 ジンジャーと エルヴィスは 別れるだろうと、 ジョージは アリシア・カーウィン(Alicia Kerwin)を エルヴィスに 紹介したこと。 ジンジャーが 最後のツアーの同伴を 拒否してれば、 アリシアが 呼ばれたであろうこと。 (注: アリシア・カーウィンは エルヴィスの死の数年後、 薬物中毒で亡くなった。)
  • エルヴィスとプリシラの 結婚式の思い出。 プリシラは エルヴィスにとって 完璧な女性であったこと。 数年の幸せな結婚生活。
  • プリシラが 復縁を望んでいたら、 エルヴィスは 拒否しなかったであろうこと。 ジョージは、 エルヴィスにとって プリシラが いつも一番で、 リンダや 他の女性は 浮気相手に過ぎないと 思っていたこと。
  • 司法解剖で エルヴィスの体内から 危険薬物は 発見されなかったこと。 エルヴィスは 処方薬を 乱用してるとは 考えてなかったであろうこと。
  • エルヴィスは 暇をもてあまし、 退屈さから 刺激を求めていたこと。 パーカー大佐は もっとエルヴィスを 忙しく働かすべきだったこと。 エルヴィスは 自己管理できない人間だと パーカーは 理解してなかったこと。 パーカーの最大の失策は 「スター誕生」に エルヴィスを 出演させなかったこと。
  • 「監獄ロック」の撮影時、 ロバート・ミッチャムが ホテルに エルヴィスを訪ねてきて、 「サンダーロード」の 脚本を見せ、 エルヴィスの出演を 希望したが、 パーカーが 拒否したこと。
  • ジョージがいた時に、 エルヴィスに 徴兵令状が届いたこと。 エルヴィスが 出頭延期を求めたこと。 全ての立場に エルヴィスが 不満を抱いていたこと。
  • ジョージがいた時に、 エルヴィスが 「監獄ロック」の共演者、 ジュディ・タイラーの 交通事故死を知って、 取り乱したこと。
  • スコティ・ムーアと ビル・ブラックが 契約を更新しなかったことに エルヴィスが うろたえたこと。 彼らが辞めたことに エルヴィスが傷ついたこと。
  • エルヴィスが 私たちに遺した物の多さから、 彼は永遠に 生き続けるであろうこと。

Elvis & George Klein, Sept.1956 (後ろにいるのは ニック・アダムス)


Elvis Presley, The Family Album (by George Klein)
\3,131.

 ジョージ・クラインが 昨年暮れに出版した 写真集。 ジョージ・クラインが 出したにしては 珍しい写真が ほとんど無いと 評判が悪かったので、 期待せずに買ったので、 私は 特に ガッカリすることは ありませんでした。 ファミリー・アルバムという タイトルにしては 家族写真は ほとんどありません。 3,131円という価格も 高いと思うか 安いと思うか 微妙なところでござる。 (28cm x 24cm, 144頁)



(Mar.15, 2008)


 (写真拡大)
エルヴィスが電話してる相手とは?

 前に紹介しました ルイジアナ・ヘイライドの本の中に 気になる写真が 1枚ありました。 左の写真がそれで、 キャプションに 「日本のそっくりさんと話す 本物のエルヴィス」 と書いてあります。
 調べましたところ、 電話の相手は小坂一也で、 日劇の楽屋から エルヴィスに 電話インタビューし、 この模様は 文化放送の 「お好みヒットパレード」 という番組内で 紹介されたそうです。 また、 1957年1月30日付の スポーツニッポンにも 載ったようです。
 エルヴィスは1956年12月15日、 最後のルイジアナ・ヘイライド公演のために シュリブポートにいました。
 小坂一也は 「ハートブレーク・ホテル」が 大ヒット中でした。



(Mar.14, 2008)

エルヴィス関連(?) テレビ情報

宮沢りえ 「今、プレスリーに はまってます」
 昨日(3/13)の「笑っていいとも!」 テレフォン・ショッキングに登場した 宮沢りえさん。 近況を語るなかで、 プレスリー・ファンの りえママから譲り受けたLPを、 アナログ・プレーヤーを 買ってまでして アトリエで 聴いているそうです。 「まるで プレスリーが そばにいるようなんです。 ライブ盤も良いんですよ」 などと話しました。
 フジ・テレビ系 3月16日(日) 10:00 am〜 「笑っていいとも!増刊号」で 再放送されるかも(?)

映画「守護神」(The Guardian)
 WOWOW 3月16日(日) 8:00 pm〜 [再放送] 3月22日(土) 3:40 pm〜

 アメリカの沿岸警備隊の 海難救助活動を描いた「守護神」。 この映画の中で、 ルイジアナ州 シュリブポートにある ジェームス・バートンの 「ロックン・ロール・カフェ」 (James Burton's Rock'n Roll Cafe) が登場します。 警備隊員の溜まり場 「マジーの店」 (Maggie's Hanger) がそれで、 外観はそのまま、 内装は エルヴィスや R・ネルソンの写真は外され、 救助隊を表すロープなどに 模様替えされたそうです。
 劇中、女主人マジー役のボニー・ブラムレット (元デラニー&ボニー) が歌う場面で、 バック・バンドの ひとりとして ジェームス・バートン本人も 出演しています。
 昨年の封切り時には 話題になりませんでしたが、 これは すごく良い映画で、 主演のケビン・コスナーも 久しぶりに 素晴らしいです。



(Mar. 8, 2008)

Wink Martindale Interview (2001)

ウィンク・マーティンデイル・インタビュー (2001年)

Q : 初めて エルヴィスに会われたのは いつですか?

A : 僕が 初めてエルヴィスに会ったのは まさにあの1954年7月、 WHBQラジオで デューイ・フィリップスが 初めて「ザッツ・オール・ライト」をかけた後に、 彼がスタジオに やってきた時なんだ。 その話は 知ってるよね? あの時なんだ。 まったく偶然の出会いで、 短い時間だった。 驚いたよ。 だって、 黒人のサウンドだったから、 僕はてっきり 彼は黒人だと思ったんだ。 彼の音楽は カントリー、 ロック、 R&B、 ゴスペルの混合で、 彼はそれらを聴いて育った。 僕が「ザッツ・オール・ライト」を 聞いた頃のデューイは 白人の少年向けに 黒人のレコードだけを かけてたんだ。 それで、 黒人に違いないと 思ったわけさ。 サムは 白人と言ったんだが、 エルヴィスは チスカ・ホテル (Chisca Hotelから 番組は放送されていた) の中2階に とんで来た。 あれがプレスリー旋風の始まりで、 以来、 彼の死まで 関係は続いたんだ。

僕はメンフィス・マフィアに 入ったことはなかった。 早く結婚して、 子供もいたんだ。 彼らのグループに入ることは 無かったが、 彼らとは親しかった。 ジョージ・クライン、 彼とは一緒に WHBQラジオ、 TVで働き、 メンフィス州立大学に通った 間柄なんだ。 僕は彼のことを 友人と思ってたが、 親しい友人ではなかっただろう。 彼には取り巻きが 多くいたからね。

Q : エルヴィスは その時 インタビューを受けたのですね?

A : 僕は WHBQで働き始めて まだ数ヶ月で、 モーニング・ショーの タイム・キーパーを やってたんだ。 僕が その特別な夜に その場にいたのは、 ジャクソンの友人が スタジオ見学をしたいって 望んだから そこにいたんだ。 ジャクソンでは デューイ・フィリップスは人気者で、 みんな聴いてたんだ。 ジャクソンは メンフィスから 85マイルしか離れてないし、 音楽のよく掛かる WHBQを 子供たちは 聴いて育ってたんだ。 それで、 南メイン・ストリートの チスカ・ホテルの 中二階に構えていた WHBQラジオに 友人を連れてきたんだ。 大きなラジオ局でなかったが、 デューイは 専用スタジオを持っていた。 彼は 取り扱いが荒っぽかったので、 いつも ターンテーブルや 真空管を 交換していたんだ。 まだ トランジスターが出る前の時代だ。 彼はスタジオでは 暴れん坊だったんだが、 "Red, Hot & Blue" という番組をやっていた彼に みんな 会いたがったんだ。 それで、 僕は友人を 最初に "Red, Hot & Blue" の狂人に会わせるために 連れて行ったんだ。

その日の夕方に サム・フィリップスが 「ザッツ・オール・ライト」の アセテート盤を持ってきて、 デューイに かけるよう 頼んだんだろう。 エルヴィスは その夜に 曲がかけられることを知っていて、 誰かがローダデイル・コートの プレスリーのアパートに 電話をした時、 母親が 「彼はスゾレ映画館に行ってる」 と言ったんだ。 彼は デカーター通りの映画館で 2本立てを見てたんだ。 彼は デューイが レコードをかけることに 居たたまれず、 家でじっと 放送を聴けずに、 映画館に 逃げ込んだんだ。 それで、 プレスリー夫妻の どちらかが 彼を捜し出して、チスカ・ホテルに 連れてきた。 デューイは 彼をマイクの前に 座らせた。 これが 全ての始まりなんだ。 デューイが 彼のレコードをかけるやいなや、 聴取者のリクエストが 殺到して、 それから1時間以上も エルヴィス・プレスリーの レコードだけを 繰り返しかけ続けたんだよ。 もちろん エルヴィスを インタビューしてるんだが、 あとでエルヴィスは 誰かに インタビューのことは覚えてないと 語ったらしい。 彼はあの頃 内気で シャイだったから、 マイクを前にして 声が出なかったんだ。

Q : あなたの番組 「ダンス・パーティ」に 彼がやってきた時のことを 話してください。

A : 僕が初めて担当したテレビは 「ウィンク・マーティンデイルと火星パトロール」という 子供番組で、 毎日 子供相手に インタビューしていた。 人気があって 2年程続いた頃、 ビル・グランブルという 局の偉いさんがやってきて、 「フィラデルフィアのディック・クラークが バカ当たりしてる」 と言ったんだ。 ABCの彼の番組が大当たりして、 どこの都市でも ディック・クラークと同じものを やり始めたんだ。 それで、 ビル・グランブルは 我が13チャンネルも ダンス・パーティ・ショーをやると 宣言したんだ。 そこで 彼は僕に 「低学年の子供番組は止めて、 高学年の子供番組を やらないか?」って。 僕は「そりゃ凄いや」って。 それで 「トップ・テン・ダンス・パーティ」を 始めたんだ。 アシスタントに スージー・バンクロフトを 見つけて、 スポンサーに コカ・コーラがついて、 毎週土曜日の午後、 90分間の放送で、 たちどころに 人気が沸騰したんだ。 スージーは 外に出かけて、 毎週 違った学校で インタビューを行った。 ティーンエイジャーが 集まってきて、 土曜日は お祭り騒ぎだったんだ。 ヒット曲をかけて、 それに合わせて踊るだけの 単純なもので、 「アメリカン・バンドスタンド」と 全く同じことを やったんだ。

エルヴィスに 1954年7月に会ってから、 彼は瞬く間に 飛び立って行った。 あれは1956年で 「やさしく愛して」で ハリウッドに行く前のことだった。 チャリティ・ショーで、 確か メンフィスの ラスウッド・パークでやった シンシア・ミルク基金集めのための 慈善コンサートだったよ。 その宣伝のために 彼はやって来たんだが、 あの当時の彼でも 「トップ・テン・ダンス・パーティ」の ゲストに呼ぶことは 困難だったんだ。 大佐は彼に 無料出演はさせなかった。 あらゆるものに 金を要求したんだ。 もちろん 我々には予算はないし、 僕だって安い給料だった。 エルヴィスに払う 金は無かったが、 デューイ・フィリップスと ジョージ・クラインのおかげで、 彼がやって来て、 シンシア・ミルク基金の 宣伝をした。 ジューク・ボックスに 彼が寄りかかってるやつ。 今では とっても有名なインタビューだ。 あれは みんなが覚えていて、 フィルムに 少し残ってるし、 オーディオ・テープには 全てが残ってるんだ。 あのキネスコープは ジョージや 多くの エルヴィス・スペシャルを作る連中に 貸し出したよ。 何故 あれが残ってるかというと、 誰かが あのインタビューを フィルムに残すように 僕に進言したんだ。 エルヴィスはビッグに、 さらにビッグに なりつつあったからね。 僕自身のお金で やったことなんだ。 ボブ・ジマーマンという男がやってきて カメラをセットして、 撮影した。 僕は緊張するし、 子供たちも みんな同じだった。 あの日のWHBQ、 チャンネル13は まるで魔法の世界のようだったよ。 警備員は増やされ、 建物に近づくこともできない。 正面玄関には 沢山の車が止まっていた。 だって、 1956年のエルヴィスは 既にエルヴィス様だったんだ。 彼は大物だったんだ。 まったく あの日の事は 忘れられないよ。 しっかり記憶に 残ってるよ。

Q : 彼の出演に パーカー大佐は 驚いたでしょう?

A : 「トップ・テン・ダンス・パーティ」で エルヴィスをインタビューした 数日後、偶然 パーカー大佐に 会ったんだ。 僕は WHBQラジオ局の ディレクターだったので、 RCAレコードの卸問屋に レコードを取りに行っていた。 そこで会ったんだが、 彼に話しかけても、 返事してもらえなかった。 僕が 彼の許可なしに エルヴィスに インタビューしたことに 彼は不機嫌だったんだ。

Q : エルヴィスの ルイジアナ・ヘイライド時代を あなたは覚えてますか?

A : いいえ、 僕は関係してなかったから。 彼が出たときの放送は 何度か聴いたことがあるだけだ。

Q : 他に エルヴィスとの出会いを 話していただけますか?

A : 1959年の3月に 僕はメンフィスから ロサンゼルスに進出した。 そこで 最初にやったのは 朝のラジオ番組で、 夏頃には メンフィスと同じように 「ティーンエイジ・ダンス・パーティ」を チャンネル9、 KHJテレビ局で やり始めたんだ。 それで、 当然のことに 僕はエルヴィス関係者と 接触を試みて、 大西洋横断 エルヴィス電話インタビューが 出来たんだ。 彼は当時 ドイツに駐留していたのでね。 僕は それを前もって録音し、 僕のフィルムと組み合わせて 土曜日の番組で 放送したんだ。 それが大当たりで、 だって、 突然のごとく ハリウッドに エルヴィスを 昔から知ってる人間が 現われたんだからさ。 それで、 スタジオで踊ってる子供たちは エキサイトするし、 その日の視聴率は 最高だったんだ。 実際、 その番組も メンフィス時代の 「トップ・テン・ダンス・パーティ」 同様に 視聴率は良かったんだ。 あれが メンフィス以来 初めての エルヴィスとの接触だ。 そして、 彼が除隊して 「GIブルース」を 撮影している時に、 僕の 「ティーンエイジ・ダンス・パーティ」の プロデューサー、 アル・バートンが エルヴィスに会いたいと 言いだしたので、 僕は彼を パラマウントの撮影所に 連れて行った。 その時の アル・バートン、 エルヴィスと僕の 3人の写真は 僕の本 "Winking At Life" の中に載っけたよ。

Q : 最後に エルヴィスに会われたのは あなたの誕生日でしたね?

A : そうだ。

Q : 話していただけますか?

A : サンディから聞いてるだろうが、 僕も繰り返して話そう。 サンディと僕が 最後に エルヴィスに会った場所は ラスベガスの 古いインターナショナル・ホテルだった。 ショーの後で話したいからと 僕たちは バックステージに 呼ばれたんだ。 それで、行った。 ドレッシング・ルームに入ると、 そこは 人で混んでいた。 当時の彼のフィアンセだった ジンジャー・オールデンがいて、 ジョー・エスポジトがいて、 部屋中 人で一杯だった。 興味深かったのは エルヴィスは サンディと僕だけに 話をしたがってる様子だったことだ。 部屋は静かで、 まるで みんなが 僕たちの会話に 聞き耳を 立ててるようだった。 とても静かだったんだ。 彼はバーの後ろに立って、 僕たちは 反対側に立って 話した。 彼は サンディが僕と結婚したことに 興味を持っていた。 僕たちは 二人とも テネシー出身だったし、 彼はサンディと 長くデイトしていた 間柄だったからね。 そして、 まさにその日に 彼は「タトルティルズ」という CBSの バート・コンベィの番組に 出演していた僕たちを 見ていたんだ。 それは 夫婦お互いのことを どれほど知ってるか 競う番組で、 彼は、 僕がサンディのことを、 サンディが僕のことを とてもよく知ってることに 驚いていたんだ。 彼はその日に その番組を見ていて、 興味を持っていたんだ。 それと ひとつ 可笑しなことがあった。 僕たちの帰り際に、 彼が 僕の成功を祝う 言葉を言ったんだ。 これには サンディと僕は 可笑しくて、 「一体、 何事があったんだ?」って。 エルヴィス・プレスリーが 僕の成功を祝う? ちっぽけな ゲーム番組の司会で、 DJにすぎない僕を 世紀のスーパースターが 祝うなんて。 でも、 このことが とても悲しく、 ほろ苦く 思い出されるんだ。 その時のエルヴィスは むくんだ顔で、 破滅への警笛が 鳴っていたからだ。 初期の彼は まるで大理石の彫刻像を 写したように ハンサムで、 カッコよかった。 その男が とても痛々しく 見えたもんだ。 さよならを言って、 彼と別れ、 部屋を出て、 ドアを閉め、 サンディと 顔を見合わせた時に 僕は言ったんだ。 「エルヴィスに会えるのも これが最後になりそうだな」って。 サンディは 「どういうこと?」って 言ったんだけど、 僕は 何も言わなかった。 僕たちは 部屋に帰るなり 泣けてきたんだ。 今 見てきたものが とても悲しかったんだ。 そして 半年後に 彼は亡くなった。

Q : 何処で それを知りましたか?

A : 僕は KMPCで放送中に エルヴィスが亡くなったことを知った。 スティーブ・アービン、 彼は僕が エルヴィスと親しいと 知っていて、 僕がレコードをかけてる時に コントロール・ルームに 入ってきた。 彼は ニュース速報を読む前に 僕にその内容を 伝えたかったんだ。 彼は言ったんだ。 「君に 話したいことがあるんだ。 このニュース速報を読む前に 君に知らせようと思ってさ。」 僕は 「何だい?」って 尋ねると、 彼は 「エルヴィスが たった今 メンフィスで亡くなった」 と言ったんだ。 僕は泣き崩れてしまったよ。 それから 覚えてることは、 その速報の後で、 僕はエルヴィスのレコードを かけ続けたんだが、 話すことが 出来なかったんだ。 15分、 20分と 僕は声が出なかった。 衝撃を受けたようにね。 まったく 予想だにしなく 家族の一員が 亡くなったようにだ。 長患いでもしてれば、 遅かれ早かれ 起こることだろうが、 全く 準備が出来てなかったので、 衝撃だったんだ。

Q : "That Was Elvis to Me" について 知りたいのですが・・・。

A : 70年代の初めに 「エルヴィス・プレスリー・ストーリー」 という ラジオ・ドキュメンタリーの ナレーターを頼まれたんだ。 僕が選ばれたのは、 テネシー訛りがあって、 エルヴィスをデビュー当時から 知ってるという 理由からだった。 ウォーターマーク・プロダクションの製作で 12時間の 典型的な ドキュメンタリー番組だった。 12時間だけでも それは素晴らしいものだったんだが、 彼が 1977年に亡くなった時に 連絡があり、 彼らは 1時間付け足して 最新版にしたいと 望んだんだ。 彼の最期を付け加えて、 全13時間の 完全版 エルヴィス・プレスリー物語さ。 その13時間の最後に 僕が言いたかったこと、 それが "That Was Elvis to Me" なんだ。 これは僕個人の エルヴィス・プレスリー観を 語ったもので、 エルヴィスが亡くなった当時、 レッド・ウエストや ソニー・ウエストの本などで エルヴィスの暗い面ばかり 書かれていたのに対して、 彼のプラス面を "That Was Elvis to Me" にまとめて、 KMPC放送局だけの為に 13時間ドキュメンタリーの 締めくくりに 流したんだ。 それが凄い反響で、 多くのファンから コピーが欲しいと 言われたんだが、 グレイスランドが 発売を許可しなかった。 それが 何年もたって、 昨年、 ベガスのオークション会場で、 グレイスランドを管理している ジャック・ソーデン氏に会った時に 頼んでみたんだ。 「ジャック、 ずっと前から 僕が "That Was Elvis to Me" を出したいと 思ってることは 知ってるだろう。 そろそろ いい頃じゃないか?」って。 彼は 「君なら間違いないだろう。 進めてもいいよ」 と言ってくれた。 エルヴィス・プレスリー・ エンタープライズの許可を得て、 出せることになって、 インターネットで 販売を始めたんだ。 お金儲けのためじゃない。 お金がかかり過ぎてるからね。 フル・オーケストラに コーラスを使って 素晴らしい出来栄えになった。 2度の僕とエルヴィスの インタビューを加えて CDにしたんだ。 1956年の 「ダンス・パーティ」と 1959年の 電話インタビューが 25分あるんだ。 これが "That Was Elvis to Me" なんだよ。

www.winkmartindale.com
Top 10 Dance Party, Wink Interviews Elvis
Elvis' Audubon Drive Home



(Mar. 3, 2008) (Feb.28, 2008)

Sandy Martindale Interview (2001)

サンディ・マーティンデイル・インタビュー (2001年)
(エルヴィスの恋人。 1975年に ウィンク・マーティンデイルと結婚)

Q : サンディ、 初めて エルヴィスから 話があった時のことから 話してください。

A : 分かったわ。 私の父が パノラマ・シティに クロスボーという ナイトクラブを持っていたの。 エルヴィスが除隊して やって来た時、 そこで、 レッド・ウエストが用心棒として、 ランス・ルゴーが バンド・リーダーとして 働いていたの。 クラブの形というのが、 今の 「エルヴィス・プレスリーズ・ メンフィス・レストラン」のように、 2階にバルコニー席があって、 下にダンス・フロアがあったの。 エルヴィスにとって 安全な、 邪魔されない場所だったのね。 そして、 踊ってるところとか 全てが上から見渡せたの。

きっと 彼は 父のオフィスで 私の写真を見たんじゃないかしら、 電話がかかってきた。 彼は私に会いたくて、 「クラブに出てこられないか?」 と訊いたの。 私は「できません」と 答えたわ。 だって、 夜の10時だったし、 翌日に 学校があったのよ。 母も反対したので、 彼は「分かった、 また次の機会にしよう」って。 それで、 電話を切ったの。 その時に思ったのは、 「エルヴィス・プレスリーって 変な名前ね」 だったわ。 私は彼のことを ほとんど知らなかったのよ。 次の週にも 再び電話が かかってきたんだけど、 状況は一緒だったの。 それで、 彼は「来週の木曜日に、 クラブに行くから、 母親に送ってくれるよう 頼んでくれないか」 と言ったの。 それで、 母に尋ねたら、 「いいわ」ってことに なったんだけど、 その時までに 父が家で 彼の話をしてたの。 彼はアドニスのように すっごい美青年で、 今までに会った 最もハンサムな男だと 言ってたの。 それで、 もちろん 私は会いたかったので、 次の木曜日に 母に車で送ってもらったの。 彼は派手な女性を連れてたわ。 キャシー・カーシュという女優だった。 (ビンセント・エドワーズと結婚した キャシー・カーシュ

その時、 私は14才で、 髪はポニーテイルだった。 彼は私の手を取って、 ほっぺにキスしたの。 それだけ。 彼は本当にハンサムだった。 それから、 電話が かかってくるようになって、 ある日、 レッド・ウエストから、 彼はエルヴィスと ビバリー・ウィルシャー・ホテルで 同居してたの。 彼から電話で、 「エルヴィスが会いたがってる」と。 母は 「ファラオだとしても お断りよ。 娘は まだ14才なんだから」 と言ったの。 そして、 エルヴィスは 母と約束して、 最初のデイトは 母親同伴になったの。 この後も3度、 母が付いてきたの。 彼は母が好きだったの。 私は取り乱して、 泣いたわ。 「ママ、 何を考えてるの?」って。 でも、 彼は母が好きで、 気が合ってたの。 彼の母親を懐かしんでたの。 それで、 みんで ファッジ・サンデーを 食べたり、 お喋りしたり、 TVを見たり、 ダンスをしたり。 そして、 母が彼を信用して、 次のデイトからは 女友達と行くようになったの。 しばらくして、 彼は紳士的で、 私のことを大事にしてくれると 判ったので、 それからは、 ひとりで 行けるようになったの。

Q : ひとりで行くようになって、 あなたとエルヴィスの恋の花は 咲いたのですか?

A : そう、 6年間も続いたの。 凄いでしょ? 凄いことなのよ。 エルヴィスのキスは 最高だったわ。 私の夫は 夫として最高だけど、 キスはエルヴィスが最高。 何時間もキスしたし、 何時間も踊ったわ。 テレビを見たり、 彼が歌って、 ピアノを弾きながら 歌ってくれたの。 とっても楽しかった。 私は彼の映画の中で 踊ってるの。 「ラスベガス万才」 「トラブル・ウイズ・ガールズ」 「フロリダ万才」 「ダブル・トラブル」など 5,6作品で 私は踊ってるの。 もちろん、 ダンス・オーディションを 受けて、 行ったのよ。 お金を貰って、 行って、 彼と一緒に 昼食を食べて、 若い娘にとって 最高の生活だったわね。

Q : 彼とのデイトって どのようなものでしたか? どこに行かれましたか?

A : 映画。 初めて 彼と行った映画は 忘れられないわ。 「サイコ」なの。 あの映画館は 今は無いわ。 ウィルシャー通りの フォックス・シアターよ。 隣のガソリン・スタンドも なくなってる。 私たちは ガソリン・スタンドに行って、 そこで ジョー・エスポジトが降りて、 全員のチケットを 買ってくるの。 そして、 映画が始まり、 場内が暗くなるのを待って、 入って行くの。 まるで、夜戦よね。 私たちは 最後列の席を 全部買ってあったの。 エルヴィスと仲間たち全員が 女友達連れだったので、 かなりの多人数で、 車だって 2,3台で移動してたの。彼の仲間の一人が 足を前の席に 投げ出してたので、 案内係が来て、 ライトを照らして、 「足を下ろしなさい」って。 その時 エルヴィスが見つかったの。 と同時に、 エルヴィスは 「出よう」と言って、 立ち上がって、 指を鳴らした合図で、 一列全員の人間が 出て行ったの。 終わりまで見られなかった私は 後で 母と 映画の結末を 見に行かねば ならなかったのよ。

彼は 最初は ビバリー・ウィルシャーに 住んでたんだけど、 その後、 ペルージャ通りに 家を借りて、 それから 何軒も借り替えてるの。 みんながやってきて、 パーティをして、 ダンスに歌に、 食べて、 ビリヤードをやって、 とても楽しかったわ。

Q : ある時、 シリアスな局面を 迎えましたね?

A : そう来ると思ってたわ。

Q : 何があったのですか?

A : 何かあったの?

Q : 聞いた話では、 あなたが ウェイン・ニュートンか、 ウィンク・マーティンデイルと 付き合い始めたと。

A : そう、 彼ったら怒ったのよ。 その時は まだウインクは知らなかった。 エルヴィスとウインクは 10年来の友人で、 不思議なことに 私の周りは テネシー出身者ばかりなの。 一番の友達のブレンダ・リーが テネシー出身で、 エルヴィスも 夫のウィンクも テネシーなの。 テネシー人に囲まれて 育ったようなものだわ。 あれ、質問は何でした?

Q : 色々と書かれましたね?

A : そう、ウェイン・ニュートン。

Q : 説明してください。

A : エルヴィスは 沢山の女性と デイトしていたの。 でも エルヴィスは その女性たちが 他の男性とデイトすることは 望んでなかった。 彼がはっきりと そう言ったことは無いわよ。 そして、 ブレンダ・リーと行った ラスベガスで ウェイン・ニュートンに 会ったの。 そこで 写真を撮られて、 彼がロスに来た時に、 彼は レコーディング・スタジオや ショーに 私を招待してくれたの。 そして、 そのことが ハリソン・キャロルの コラムに載ったの。 「サンディ・フェラ、 ウェイン・ニュートンとデイト」って タイトルだったかしら。 そして、 翌日、 エルヴィスとデイトした時に、 彼は その記事を取り出して、 「このニュートンって 野郎は何だ?」 って言って、 怒ったの。 そして、 これは後で ウェインの本で 読んだことなんだけど、 全く私は知らなくて、 彼がエルヴィスの 映画撮影のセットを 訪問した時に、 エルヴィスから 「僕たちは同じ女性と デイトしてるようだ」 と言われたらしいの。 冗談みたいでしょうけど、 その時 どちらも 私のデイトを 止めさせようと しなかったし、 そんなやりとりを 知らなかった私は 結構長い間 二人とデイトしていたの。

Q : ウェインが「ボナンザ」か、 パラマウントの作品に 出てた頃だと思います。

A : そうだったかもね。 彼がエルヴィスに 会いに行ったのでしょう。 でも 可笑しいところは、 二人とデイトしてる私と デイトするのを 二人は止めなかったことよ。

Q : それも 徐々に終わりになりますね。 でも あなたは エルヴィスと ずっと友達でいられた。 何かきっかけが あったのでしょうか?

A : いいえ、 私は積極的な女性でなかったの。 あの当時の風潮では、 女性から男性を 誘うことはしなかったの。 それで、 エルヴィスから 電話が掛かってきたら、 出かけて行き、 ウェインから 電話が掛かってきたら、 出かけて行ってた。 それだけなの。 でも エルヴィスと 出かけた回数の方が 多かったわ。 ウェインは ラスベガスに住んでたから、 彼がロスに出てきた時か、 私がラスベガスに 行った時だけしか 会ってなかったの。

Q : エルヴィスと比べて、 ウェイン・ニュートンとのデイトは どのようなものでしたか?

A : エルヴィスが ライブ活動を再開する前のことで、 ウェインは ライブをやっていて、 例えば、 彼がクレシェンドに出ていたら、 そこに出かけて、 彼のショーを見て、 その後で、 食事に行くか、 家に帰るの。 ラスベガスでは ショーの後に ドライブね。 時々 ミド湖まで行って、 牛の鳴き声を聴いてた。 ショーが終わるのが 朝の2時、 3時でしょ。 それに 私たちは 未成年だったから カジノに入れなかったの。 ドライブして、 おしゃべりしていた。 事実、 あの頃の彼は 「サンディ、 僕は エルヴィス・プレスリーのように ビッグになりたい」と 言ってたの。 彼は 私がエルヴィスが好きなのを 知ってたからなの。 どのような家に住みたいとか、 細かく説明してくれた。 結局、 彼は 少年の時に熱く語った夢を 実現させたわね。

Q : エルヴィスとウェイン・ニュートンは 同時進行だったのですね? ウインクとは どうでした? 彼とも その頃でしたか?

A : いいえ、 ウインクとは 10年間 会ってなかったの。 実のところ、 別の男性がいたの。 その人は 父のクラブに出ていた ライチャス・ブラザースを 見に来ていたの。 彼は俳優で、 Swinging Summer という映画の中で ラクウェル・ウェルチの 恋人役を やったこともあったの。 彼はいい人で、 私に惚れたのよ。 彼の口癖は 「僕と結婚してくれなければ、 自殺する」 だったの。 その言葉に 私は舞い上がって、 「彼は エルヴィスやウェイン以上に 私を愛してくれてる。 私のために自殺するなんて・・・」 と思ったの。 それで 婚約して、 結婚したの。 それは エルヴィスとプリシラが結婚した 同じ年で、 彼らは5月、 私たちは9月だったわ。 でも、 結婚して6ヶ月しか 続かなかった。 すぐ離婚したの。

Q : エルヴィスとプリシラが結婚すると どのあたりで 気づきましたか?

A : ロスでエルヴィスと会っていて、 彼が可笑しなことを 言うようになったの。 「人々は自分の居場所を捜し求める」とか。 彼はテネシーに 戻ろうとしていたの。 そして 彼は 「この本を読んで、 素晴らしい本だから」 と言って、 「インパーソナル・ライフ」 という本を 私にくれたの。 そして、 私とブレンダ・リーが サンフランシスコに 行った時に、 ブレンダが新聞を持って 部屋に入ってきて 言ったの。 「サンディ、 これを見て!」 「エルヴィスとプリシラ、 ラスベガスで結婚」 彼女が泣き出したので、 私も泣いたの。 二人して 床に座り込んで 泣いたの。 何か起こりそうな 感じもしたけど、 まさかってね。 だって、 彼は結婚する直前まで 私とデイトしてたんですもの。

Q : 何が起こるか 感づかなかったのですね?

A : 何か感じてはいたの。 何かありそうだと。 プリシラは メンフィスの グレイスランドに居て、 時々、 カリフォルニアに来てたの。 そのことは知ってたから。

Q : 彼女が エルヴィスと会ってはいても、 結婚までするとは 思ってなかったのですね?

A : 分からないけど、 彼女がグレイスランドに移り住み、 そこに錨を下ろし、 場所を確保し、 権利を主張する。 これって当然のことだわ。 その数年前に、 彼が私の母に 私のグレイスランド移住を 勧めたことがあったの。 母は断ったけど。

Q : でも、 あなたとプリシラは 良いお友達になりましたね。

A : ええ、でも、 ベスト・フレンドと言えるほど よく会っていたわけじゃないわ。 私たちって 彼の好みの 女性だったの。 物静かで、 控えめで。 あの頃はね。 今は お喋りで、 でしゃばりなんだけど、 あの頃の私は 内気で おしとやかだったの。 プリシラと私は 年令も近くて、 同じボビー・ダン・ ダンス・クラスに通っていたの。 二人は 背格好も似ていたので、 よくペアで踊らされたものよ。

Q : 特に心に残ってる エルヴィスの思い出って ありますか?

A : 特別な思い出って? たくさんありすぎるわ。 彼が話したことで、 ラリー・ゲラーは すっかり このことを忘れていて、 私が彼に 思い出させたことがあるの。 彼が亡くなって5年後に メンフィス州立大学で行われた ジョージ・クラインのイベントで、 私たちは集まって、 彼の思い出話を披露した。 その時に 彼が話したの。 彼は昔 飛行機を使わずに 自家用バスで移動してたの。 そして、 テキサスかどこかの 砂漠の真ん中で、 エルヴィスは キリストの形をした 雲に出会い、神のお告げを聞いた と言ったの。 そこで彼は 人生で何か本当に大きな事を 成し遂げると 知ったの。 それは 実際の彼以上のものであるか 彼自身分からなかったし、 彼が死んでからのこと かもしれない。 彼は生前 すでに人気者であったこと 以外のことかも。 でも 彼は 自分に何かあることは知ったの。 そのことが 特に印象的なんだけど、 当然、 彼とのデイトは すべて素晴らしくって、 楽しいものだったわ。

Q : エルヴィスの スピリチュアルな面を もう少し話して戴けますか? 彼は読書家でしたね。

A : 彼は聖書の 最初のページから 最後まで知っていて、 一節を唱えることもできたの。 彼はスピリチュアルな人間で、 神を愛してた。

Q : 彼が追究していたものは、 彼の存在理由でしょう。 彼は何故に あのように大成功したのでしょうか?

A : 彼自身、 理解できなかったので、 彼は大佐の手腕を評価してたと思うの。 でも、 彼の才能なくして、 大佐は彼に 成功をもたらせなかったでしょう。

Q : 彼は 本の中に 答えを見つけようとしたのでは?

A : そう。

Q : 彼の置かれた立場。

A : 彼の置かれた立場じゃなくて、 「どうして私が選ばれたの?」 ってこと。 どうして神は 私を祝福する一方で、 悲しみをも もたらした。 母親が亡くなって以後の彼は 虚しさを感じていた。 喪失感があったと思うの。 彼の大きな部分を占めてたものを 失くしたから。 彼は母親のために 頑張っていたの。 彼女が亡くなって、 彼は目的を見失った。 それで、 彼の存在意義を見つけようとしていたが、 答えが見つからなかった。 当時、 彼が読んでた本を 私も読んでみたの。 ヨガナンダの本など 彼が読んでた本を、 後になって 読んでみたら とても面白かったわ。 ただの好奇心から 読んだだけなのに、 彼の宗教観を知り、 彼を尊敬するように 変わったの。 彼は他の人たちが どのように考え、 どのように行動するか 知りたかったの。 これは 私の見解にすぎないけど。

Q : 自己能力の開発について 話していただけますか?

A : ええ。

Q : エルヴィスと一緒に 行かれましたか?

A : サンセットのあの場所に 彼とは行ってないの。 でも、 彼が行ってた場所だから 後になって 私も行ってみたの。 美しい、 物静かな場所よ。 ウインクと結婚してから 一時期 あの近くに住んでたから、 よく散歩したことがあるの。 いい所だわ。

Q : 彼は映画について 話しましたか?

A : 彼は バーブラ・ストライサンドの申し出に 興奮してたわ。 彼は「スター誕生」を やりたがってたの。 彼にとって 新しい領域になるはずだったし、 彼のキャリアにとって 必要だったの。 彼には 新しく挑戦するものが 必要だったの。 あれが それだったのよ。 彼が健康面でも 立ち直るチャンスだったの。 あれをやってれば、 ここで 彼の思い出話をしてることは 無かったでしょうに。

Q : エルヴィスの気前の良さについて 思い出すことは ありますか?

A : それは無いわ。 私と彼が付き合ってた頃は、 私は恵まれた環境で、 何も望んでなかったし、 彼も 私たち家族は お金持ちだと 知ってたので、 逆に、 彼の方が 私からの贈り物を 期待してたの。 私から よく彼に贈り物をしてたの。 彼は 「サンディ、 今日は 贈り物を持ってきてくれたかい?」って、 私が いつも持って行ってたの。 彼が誰彼なく 贈り物をするようになる 以前のことよ。 私が彼から貰ったものは、 スウェットやパジャマで、 EPとかTCBって 書いてあるのを持ってるわ。 でも、 私は何も欲しがらなかったので、 彼にとっては 楽しくなかったんじゃないかしら。

Q : レッド・ベルベットについて 話してください。 エルヴィスはそこに よく訪れましたね。

A : 最初に、 エルヴィスと私の父は 二人とも山羊座で 気が合ったのでしょう。 それで、 彼が軍隊を出て、 「GIブルース」の撮影で 彼がこちらに来た時に、 父のナイトクラブ、 クロスボーに 来るようになったの。 レッド・ウエストが 用心棒をやってたので、 そこは安全だと 感じたんでしょう。 そこで 父との関係が築かれて、 サンセットに レッド・ベルベットを 開店してからは そちらに来るようになったの。 そこには 3つのブース席があって、 柵で区切られていたの。 一つ目のブースが エルヴィス専用で、 人数が多い時は 3つのブースを 独占することもあったわ。 誰かが立ち上がっても 邪魔にならない席だったので 楽しく過ごせたの。 それで、 彼はよく来たの。

Q : クロスボーの場所は 何処でしたっけ?

A : クロスボーは パノラマ・シティの バンナイス・ブールバード。 今はもう無いわ。 何も建ってないの。 レッド・ベルベットは サンセット・ブールバード。 今は ランジェリーという店になってる。

Q : ライチャス・ブラザースも 出演してましたね。

A : 「ふられた気持ち」がヒットした頃の ライチャス・ブラザースは 父のクラブに出てたの。 グレン・キャンベルは 一晩5ドルで働いてたのよ。 ただの時だってあったの。 毎日がパーティのようだったから、 勝手にやって来ては 演奏してたのよ。 みんなそうだったの。 あの頃を知らないなんて、 惜しいことをしたわね。 良いものを見逃したわ。 エルヴィスとプリシラが 結婚してからも よく来て、 楽しんでたわ。 エルヴィスが仕事でいない時に、 プリシラが 友達連れで 来たこともあったの。 私の父が面倒をみていたから、 安全だし、 快適だったの。 でも、 エルヴィスが来ると、 彼は誰にでも 100ドルのチップを あげていたから、 駐車係りをしていた 元モンキーズの ミッキー・ドレンツなんて、 初めて 100ドルのチップを貰った時は、 飛び上がって 喜んでいたものよ。

Q : 最後に エルヴィスに会われたのは いつですか?

A : 最後に エルヴィスに会ったのは 76年の12月。 彼は77年に亡くなったから 76年の12月で確かよ。 ウィンクの誕生日(1934.12.04) だったので、 ラスベガスに行ったの。 エルヴィスを見て、 バックステージに行くと、 彼はその日、 「タトルティルズ」という クイズ番組に出てる 私たちを見たと 言ったの。 そして 彼は 「何て狭い世界なんだろう」と言ったの。 だって、 彼はテネシー時代から ウィンクを知っていたし、 私を子供時代から 知ってたでしょう。 今、その二人が 結婚してるってわけ。 信じられないわね。 私は彼に言ったのよ。 「エルヴィス、これは あなたの責任よ。 ウィンクが テネシー出身と言っただけで、 彼は 私の心を掴んだのよ。 だって、 私は テネシーってだけで 好きになっちゃうの。 それもこれも 全てあなたの責任だわ。」 彼は「それは驚いた」って。 その時、彼は ウィンクの前で言ったの。 「僕たちのデイトには、 いつもお母さんが 付いてきたんだ」って。 私がそのことを ウィンクに話した時は 彼は信じなかったのに、 エルヴィスに言われて、 初めて信じたの。 ウィンクは 「彼女の言葉を 僕は信じてなかったんだ」 と言うと、 彼は私のことを 「最高に素晴らしい家族に育てられた 素敵な少女だった」 と言ったの。 その言葉が ずっと心から離れないわ。 だから 特別な夜だったの。

彼は太りすぎで、 健康に見えなかった。 でも ショーは素晴らしかった。 彼の 神から与えられた声は 誰も敵わないわ。 でも、 彼はその時 ジンジャー・オールデンと デイト中で、 彼女は長椅子に 他の男たちと一緒に 座っていて、 無言だったの。 彼は 私たちと話したくて、 ウィンクや私との 過去の思い出話を 立ったままで、 結構 長く話したの。 彼は私たちを 帰したくなさそうに、 まるで 過去にしがみつくようだったの。 だって、 彼は ウィンクとの思い出も、 私との思い出も 楽しいことばかりだったの。 彼は私たちを 帰したくなかったんだけど、 ウィンクは 決して長居するような 人でなかったし、 他人の時間を 邪魔するような人でなかったの。 エルヴィスも 疲れてるように見えたので、 「さあ、サンディ、 行こうか?」って。 エルヴィスは 「行かないで」と言ったんだけど、 「行こう」って。 別れ際に 彼はウィンクに 「ウィンク、 僕は君のことを 誇りに思ってる。 仕事も順調にやってるようだし」 と言ったの。 彼は ウィンクの仕事振りに 敬意を表しただけだと 思うんだけど、 ドレッシング・ルームを 出たところで、 ウィンクが 「彼は今、 『僕のことを誇りに思う』 と言ったよな? どういうことなんだ?」って訊いたの。 だって、 私たちの方こそ 彼のことを 誇りに思ってたんですもの。

彼が 初めてラスベガスで公演した時に、 私は 母と妹の三人で行ったの。 バックステージで 彼が「サンディ、 次のショーで着る衣装を 選んでくれないか?」 と言ったの。 色んなスーツがあって、 ブルー、 グリーン、 ブラック、 ホワイトとあって、 私は「ホワイトが一番いいわ。 まるでアドニスのように 見えるから」 と言ったの。 それ以降、 彼は ほとんど ホワイトを着るようになったのよ。 これは ちょっと私の影響かなって 思うことがあるの。

Q : あなたがブルーと言ってたら、 彼はブルーばかり着ていたと。

A : その通り。 ブルーばっか だったかもしれないわ。 彼はブラックが 好きだったのよ。 ブラックが多かったわ。

Q : 彼は あなたの人生を変えましたか?

A : 私の人生を変えたかって? 彼は 私の人生の一部なの。 彼は 私の初恋の人であり、 私の人生の一部分 そのものなの。 彼の影響を受けたのは 食べ物かな。 私はイタリア食が中心で、 彼はいつも私に言ってたの。 「いいかい、サンディ、 太るから 気をつけるように」って。 それで、 いつも 体重に気をつけるようになったの。 それから、 ダンスね。 彼とよくダンスして、 楽しかったの。 二人で踊るのが 好きだった。 彼が 私の人生を変えたのでなく、 彼は 私の人生の一部なの。 彼が私を育んでくれたの。

私が知ってるエルヴィスでなく、 伝え聞くエルヴィスに ガッカリしたこともあったわ。 乱痴気騒ぎに、 女、 ワイルド・セックス。 私は その場に居なかったから、 知らないわよ。 私が知ってる エルヴィス・プレスリーは 礼儀正しくて、 センチメンタルで、 敬虔だったの。 彼は女性と 遊びほうける人で なかったし、 私には優しかったの。 私はバージンで 結婚したの。 それは彼の影響で、 彼は私に いつもこう言ってたの。 「早く経験したいなんて 思わないように。 愛を知ってからの方が、 素晴らしい経験になるだろう」って。 それで、 私は 結婚まで待ったの。 彼は私に ずっと言い続けてきたの。 「僕の愛を 受け入れる準備ができたら、 言っておくれ」って。 それで、 彼が私と 長い期間 デイトしてきたのは、 私が「ハイ、準備できたわ!」 と言うのを 彼はずっと 待ってたんじゃないかって 思ってるの。 でも、 私は言わなかった。 私は 結婚してからするものと 決めていたから。 この点でも 彼は私に 強い影響を与えたわね。 時間をかけることは 良いことよ。

Q : あなたは エルヴィスと結婚すると考えた時期も ありましたね?

A : まだ プリシラがドイツにいた頃、 彼は母に、 私に グレイスランドに来るように勧めたの。 私は日記をつけていて、 彼とのデイトのこととか、 彼が言った言葉を 書き留めてあるの。 彼はいろんなことを言っていて、 私を信じ込ませたの。 彼は私に 大学に行って欲しくなかった。 彼より 賢くなって欲しくなかったのよ。 でも、結局は、 プリシラの方が可愛くて、 彼は 彼女に獲られたの。 このことは はっきりしてるわ。

Q : エルヴィスについて 間違って伝わってることで 正したい事柄はありますか? 彼が亡くなってから いろんなことが書かれてますが。

A : 彼に会ったこともない人が 彼について語るのが いらいらするわね。 他人から聞いた 些細なことを 大きく広げて、 まるで真実かのように センセーショナルに書くの。 彼があのような 素晴らしい人間だっただけに 残念なの。 ドラッグのことも、 彼は全く無知だったの。 映画の撮影で 痩せてみえるように ダイエット・ピルを使ったのが 最初なの。 彼は あのように 大量のハンバーガーを 食べてたでしょう。 それから、 睡眠薬。 6時に起きて 映画のセットに行くために、 早く寝る必要があったの。 その錠剤も、 最初は一錠で よかったものが、 2錠に増えていったの。 まるで悪循環よ。 私がトイレで ドラッグを見つけた時、 彼は笑って、 「これは医者の処方薬だから 安全だ。 何も問題ない」 と言ったの。 それから、 何年もして、 彼が空手に のめり込んで、 板やレンガを 割るようになって、 当然、 手を痛める。 でも、 彼は空手の デモンストレーションを 見せるのが好きで、 楽しんでやってたの。 でも痛みから 薬を使うようになる。 私は全ては 手の痛みから始まったと 思ってるの。 私の知ってるエルヴィスは 薬中毒なんかじゃなかったもの。 ひどいことに なったもんだわ。 周りの連中は 仕事を失いたくない為に 何も言わない。 誰も彼に 面と向かうことを しなかったの。 楽しい暮らしを 失いたくないが為に。 もし母親がいれば、 「ダメ」と言えたの。 無償の愛情から 「これはダメ、 これをしなさい」 と言えたのよ。 でも、彼の周りには そのように言ってくれる人が いなかったの。

最近、 「エルヴィス・ザ・コンサート」で リサ・マリーに会ったの。 私から会いに行ったの。 彼女には 子供の時に会ったきりで、 もちろん 彼女は覚えて無かったわ。 私は言ったのよ。 「私とあなたのお母さんは 同じ時期に お父さんと デイトしてたのよ」って。 すると 彼女は 「私に兄弟がいるなんて 言わないでよ」 と言ったの。 私は「それはないわ」って。 「だって、 今 いろんなこと 言われてるけど、 彼って そんな人じゃなかったもの。 彼は素晴らしい人で、 目上の人を敬い、 私の母を敬い、 敬語で話したの。 人前では お酒も飲まなかったし、 タバコも吸わなかった。 彼は素晴らしい人だった。 愛くるしくって、 喜びを分かち合い、 情に厚かった。 この冷たい世の中が 彼を食い物にして、 ぼろぼろにしたんだわ。」 とにかく、 こんなところね。 これで私の演説は 終わりにしましょう。


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