内田教授と學生たち





内山保は、大正10年4月に法政大學豫科に入學した。その後の3年間、内田榮造教授に第二外國語の獨逸語の文法譯讀を、毎週8時間習っていた(「代返」)。しかもその年の10月27日から、百闡に書生として入ったので、家庭では百閧フ執事として、また有力な家族の一員として、およそ10年の間、百閧ニ居食を共にしたのである。
 内山のもうひとつの顔は、宮城道雄の随筆の口述筆記である。百閧フ推輓により、毎週金曜日の夜、宮城道雄宅を訪問して、宮城の口述を筆記した。それが随筆集『雨の念佛』『騷音』『垣隣り』に纏められている。第一随筆集『雨の念佛』の卷末に、内山が「跋」を書いている。
 だから内山は、百閧ゥら直接随筆の指導を受けていたであろうことが、容易に推察できるのであるが、そんな御仁が随筆集 一分停車』 を殘してくれている。そして、その文章の大半が、百閧ニ宮城の噂話であって、どれをとっても堪えられないくらいに面白い。その全部をここで紹介したいくらいだが、その中の一つ、
「撫筝の圖に題す」という一文がある。これは『續百鬼園随筆』の巻末にも内山呆人「百鬼園先生撫筝の圖に題す」として所收されており、近年ではちくま文庫『殘夢三昧 内田百闖W成 16』に所收された。話は逸れるが『續百鬼園随筆』所收されていながら、當然のことながら、百闡S集では讀むことができない。筑摩書房の偉いところである。
 内山書生の百閧ノ対するグチ噺。
“百鬼園先生は、自ら生田流筝曲の名人の如く称していられるが、私はあまり信用していない。まとまった曲を終りまで滿足に彈いたためしがない。・・・(略)・・・いくら彈いてもうまく彈けないらしい時は、しまいに爪でガラガランと琴を掻き廻して、座敷の中で、一人で大きな聲をたてて、笑っている。そういう所が名人なのかも知れない。・・・(略)・・・私は百鬼園先生の琴に悩まされながら、十年の間、先生と居を共にして暮らした。氣も狂はずに無事にすんだことは何よりの幸せである。”
 書名とした「一分停車」は内山の經験談で、百間の「二錢記」と何処か似ている。この他「代返」「ゾルフ大使」「『冥途』縁起」「晩飯」「青春の日」「砂利場の大將」「二本のパイプ」「退職金」「軸」 などは百閧フ噂話で、「大検校の鼾」 は宮城の噂話である。百閧フ著述のなかにも 「ゾルフ大使」(『有頂天』所載) や「砂利場大將」(『無絃琴』所載)等がある。
 この本について、出久根達郎が『今讀めない讀みたい本』で、次のように紹介している。
 著者に覺えがある人は、相當の研究者といってよい。エッセイ集のタイトルであるから、タイトルそのものには重要な意味はない。しかし全く無意味というわけでもない。・・・(略)・・・『一分停車』は書生の目で見ていた百先生を、エッセイにまとめたものだった。すなわち、作家・内田百研究には、缺かすことのできない一册なのであって、知る人ぞ知る本とは、こういうものを指すわけである。”
 内山は谷中安規とも交流があって、この『随筆集 一分停車』の摯笏ナ(平成8年 凾入 私家本 非賣品)は、安規の装幀で、安規の思い出を綴った「小びとのおじさん」も所收している。昭和2年3月 法政大學獨逸文學科を卒業して後、關東短期大學(群馬縣)と東洋大學で、獨逸語の教師を兼擔していたと云うから、正に百閧ニ同じ道を歩んだ直弟子と云ってもいいのかも知れない。この摯笏ナ「ドイツ語の歌」のなかで、内山は百閧ノ「僕は獨逸語では君たちの肉を食らい、骨をしゃぶり、血をすすってやるから、その覺悟で勉強しろ」と云われ、三年間獨逸語でいじめられたと記している。
 内山の同級生に北村徳がいる。豫科三年の卒業寫眞には内田教授らと共に寫っている。(『随筆集 一分停車』扉)
 北村は、昭和2年3月法政大學法學部を卒業後、小田急へ入社し、のち役員も勤めた。北村もまた『湘南新聞』や『小田急沿線新聞』等に多くの文章を殘しており、これ等が『めぐる盃』[書名は百關] に纏められている。
 百閧フ誕生日(5月29日)に毎年開催されていた“摩阿陀會”の肝煎りを勤め、その囘文は、昭和43年5月まで全部、北村が書いたものである。しかし、「まあだかい」 と云っているうちに、百閧謔閧熕謔ノ、昭和43年12月 67歳で永眠した。同日正六位に叙せられ勲五等雙光旭日章を授与された。
 『めぐる盃』には、この囘文のほか、“摩阿陀會”や“御慶の會”の樣子(「案内状」「百闌芟cの會」「御慶の宴」「めぐる盃」) を傳え、「實説百關助M<いすかの合歡>」「百關謳カ暮らしの手帖」「百關謳カと翠佛」 など百閧フ話題が豐富であり、また“孟徳”の故事來歴(「孟徳の傳」) など随所に博識を披露している。
 北村の 「盗癖前科」 は、内山の 「青春の日」 の續篇である。毎週水曜日を訪問の日に決めて、級友10名ほどが百闡で飮み喰いをやる。
 “・・・先生は鍋の中の御飯を、上下にかきまわす。御飯はすっかり、臟物の汁を含んで、いい色になり、ギラギラした黄い脂肪で、つやが出て、うまそうである。事實、これほど榮養があって、うまいものはない。”
 その後一同は、林閑としている夜中に外へ出て行って、惡戯の限りを盡くして練り歩く。この惡戯の樣子は百闔ゥ身も「梟先生」(『有頂天』所載)で書いている。夜もすっかり明ける頃、正氣に戻って歸り着き、昨夜の臟物の朝食を食べて學校へ行く。寢不足で、はれぼったい顔をして授業の席に就くが、先生も眞面目くさってにこりともしない。ここまでが内山の 「青春の日」。
 この後、北村の 「盗癖前科」 へ移る。北村の學生時代は、親ゆずりの財産がなくなって、恐ろしく貧乏した。アルバイトして、一日二食にしたら、晝食時になってもナンにも喰べるものがない。
 
“・・・そこで、私は三時間目の授業が終ると、早速、休み時間中に内山という學生の持って來る辨當を氣のつかないうちに喰べてしまうことにした。内山は百
先生の所で書生をしながら學校へ通っているのであるから、内山の辨當を喰べることは、先生のお宅で御馳走になるのとちっとも變わったところはない。殊にデアル、前の晩に、鳥の臓物の鍋でもひろげた翌日なンかは、最後に喰い殘した一番おいしいところが、辨當の中に返り咲いているのであるから、トテモ黙ってはいられない。”
 この辺を百閧焉u豫科時代」(『凸凹道』所載)に書いている。
“朝十時の時間に鐘が鳴ってから、少し早目に行く事があると、いつでも教室のあちこちで辨當を食っている學生があって私の姿を見ると、急いで蓋をして机の下に入れてしまう。・・・(略)・・・早くたべておきませんと、お午までには、おかずをみんなに食われてしまいますと云った。北村、金矢の二人が級友に対する親愛の情を示すために、體操や合併授業でみんなが教室にいない時を見計らい、片っぱしからおかずをぬすんで食うのだそうである。・・・”
 更にこの場面を百閧ヘ「カメレオン・ポナパルテ」(『夜明けの稻妻』所載)にも書いている。
 “・・・早く食べておかなければ、金矢と北村が人の辨當を開けます。開けて食べるのならまだいいですけれど、開けて見て氣に入らなければ、その儘蓋をしてまた外の者の辨當に手をつけるのです。・・・”



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