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(August, 2008)
(Compiled by Haruo Hirose)
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(Aug.25, 2008) (Aug.21, 2008)

 ジム・マロイ -- エルヴィス・プレスリーは、 彼の私生活や音楽面で 悪い面ばかり 取り上げられ、 いかにも 彼ならやりそうな事だと 何でも話のタネにされているが、 彼と仕事で関係した 12年の間で、 彼が常識を外した 行いをしたのを 私は1度たりと 見たことがなかった。 彼はいつだって 親切丁寧だったし、 水以外の飲み物を口にせず、 葉巻も 咥えてるだけだった。 1度、 彼に聞いたことがあった。 「どうして葉巻に 火を点けないんだ?」って。 彼は笑って、 「点けたことはない」 と言ってた。 ただ格好をつけていた だけなんだろう。

 典型的なエルヴィス・セッションは こんな風に 始まった。 まず、 ニューヨークの ハリー・ジェンキンスから 電話が掛かってくる。 「何日からの君の予定を 全てキャンセルした」と。 ハリーは エルヴィスのセッションだと 話すこともあったが、 何も言わないこともあった。 それは、 彼のファンに エルヴィスの行動を 知られたくないためだった。 ハリーは RCA全体のアーティストを 管理していた トップの人間で、 クリエーティヴな面の 最終決定権を 委ねられていた。 彼はRCAの 大物アーティストの レコーディングには 必ず立ち会っていたので、 私とは 顔なじみだった。 彼のような立場の人間が 私のような 一介のサウンド・エンジニアに 直接電話をすることは ほとんど無いことだったが、 私は彼に信頼されていて、 彼から いつも セッションに問題はないかと 尋ねられていた。

 私のお気に入りは フェルトン・ジャーヴィスだった。 彼はABCレコードの プロデューサーをやっていて、 彼と私は トミー・ローのセッションで 一緒に仕事をしたことがあった。 ABCレコードが ナッシュビルのオフィスを 閉めることになり、 彼は職を失いかけていた。 フェルトンは チェット・アトキンスが レコード・プロデューサーを 探していることを知り、 チェットに 紹介してくれるよう 私に頼んできたのだった。 そこで、 私はチェットに会って、 フェルトンとなら 良い仕事ができるだろうと 約束した。 そして、 ハリーが 次のエルヴィスのセッションに フェルトンはどうだろうかと 私に尋ねてきた時に、 私はエルヴィスに うってつけのプロデューサーだと 答えた。 実は それ以前から 私はフェルトンに エルヴィスのセッションについて いろいろ話していた。

 サンセット大通りのRCAスタジオでの アン・マーグレットの 映画のオーバーダブ・セッションに エルヴィスが 付いてくることもあった。 アンとエルヴィスは デイトしていて、 エルヴィスは コントロール・ルームの 私の隣の席から アンの仕事振りを見ていた。 私はエルヴィスとは ラジオ・レコーダース時代からの 知り合いだったから、 彼は寛ぐことができたのだ。 ある夜、 レコーディングを終えて、 アンとエルヴィスが スタジオを出ようとした時に、 私が 「二人は有名人だから、 気をつけないと」 と声をかけると、 彼は上着の裾をめくって、 腰のベルトに付けていた デリンジャーを 見せてくれた。 エルヴィスは アンの推薦もあって、 私と仕事をしたいと言っていた。 しかく、 しばらくして、 私はナッシュビルの RCAスタジオに移ったために、 ハリウッドのRCAスタジオで エルヴィスと仕事をすることは 一度もなかった。

 ナッシュビルのセッションでは、 前もって ハリー・ジェンキンスが エルヴィスに、 次の仕事のエンジニアは私で、 プロデューサーのフェルトンも 気に入るだろうと 伝えていた。 エルヴィスが レコーディングを始める日の スタジオの駐車場内は 50人から100人の人々で 溢れていた。 新聞のコラムに エルヴィスが レコーディングでやってくると 載ることがあり、 きっとあれは パーカー大佐自身が リークしていたのだろう。

 エルヴィスのセッションは スタジオBと決められていた。 エルヴィスのスタジオ入りは いつも ファンを騙していた。 リムジンが 正面入り口の前に着くと、 誰かが 「彼だ!」と叫ぶ。 すると、 コートで顔を隠した エルヴィスになりすました人間が 素早く リムジンから飛び出し、 ドアに駆け込む。 みんなひと目 エルヴィスを見ようと、 正面入り口に 殺到する。 その隙に、 オンボロ車に乗った エルヴィスは 裏口から入る。 この作戦は いつも成功していた。

 エルヴィスのレコーディングで 一番の厄介物は 二組のドラム・セットだ。 ミュージシャンと シンガーで 一杯の部屋に 二組のドラム。 ドラムの音が 他のマイクに入るのを コントロールするのは 不可能だった。 スタジオBは 狭い部屋で、 当時は DJフォンタナと バディ・ハーマンを 同時に使っていた。 例えば、 "How Great THou Art" セッションでは、 ピアノ、 ベース、 ハーモニカ、 オルガン、 スチール・ギター、 サックス、 複数のギター、 大編成ボーカル、 2組のドラム、 そして、 エルヴィス。 スタジオは超満員だった。 エルヴィスは決して ドラムを一人にしようと 言わなかったし、 オフ・マイクにも させなかった。 私がエルヴィスに ドラムについて 何か注文をつけても、 彼は 「僕に任せてくれ」と 言うばかりだった。

 エルヴィスが スタジオに入ってきて 最初にすることは、 スタジオ内を歩き廻って、 スタッフ全員と 握手、挨拶を することだった。 ミュージシャンをはじめ、 全員が エルヴィスは特別だと 思っていた。 沢山の有名な 演奏家のレコーディングを 経験していても、 エルヴィスがキングだと 全員が認めていた。 次に彼がやることは 曲選びだった。 エルヴィスは ただ良い曲を選ぶことは 出来なかった。 最大の問題は 出版社だった。 エルヴィスがRCAと 高額契約した話は 有名だろう。 しかし、 私がスティーブ・ショールスから 直接聞いた話をしよう。 スティーブは エルヴィスをRCAと 契約させた人物だ。

 スティーブは サン・レコードのオーナー、 サム・フィリップスから エルヴィスの契約を買い取ることで 合意した。 その金額は 4万ドルであった。 しかし、 RCAが エルヴィスの移籍に出せる金は 半分の2万ドルだった。 そこで スティーブは ヒル&レンジ出版の エイバーバック兄弟に かけあって、 エルヴィスの RCA移籍に必要な 残り2万ドルを出させた。 その見返りが エルヴィスの出版社、 グラディス・ミュージックの 共同経営だったのだ。

 フレディ・ビーンストックは エイバーバックに勤めており、 彼は エルヴィスの全ての レコーディング・セッションに 立ち会っていた。 フレディは 箱一杯のアセテート盤や リール・テープを スタジオに 持ち込んだ。 それらは 彼が エルヴィスに聞かせるために集めた 曲のデモ・レコードだった。 それらの曲のほとんどは 平凡な作品なのだが、 エルヴィスが録音すれば、 自動的に エルヴィスの音楽出版社の 所有となるものだった。 ある日、 隣でプレーバックを 聴いていたエルヴィスに 私は言った。 「出版社のせいで あなたが良い曲を 録音できないでいることは 残念だ」と。 彼は 「人々は、 出版社が何をやってるか 私が知らないとでも 思ってるだろうが、 そんなことはない。 我々が 作者の権利の一部を 放棄させる時は、 その作者に 3千ドルの 最低保証を約束してるんだ。 それは、 ほとんどの作者が 1曲から得られる金銭より 多い額なんだ」 と答えた。 でも、 音楽業界の ほとんどの人間は、 あの音楽出版社との 取引が無ければ、 もっと多くのヒット曲を エルヴィスは持てたと 信じている。

 録音する曲が決まったら、 それをバンドに聞かせ、 バンドの連中は その曲のコード進行を 書き留める。 エルヴィスが バック・シンガーが 何処で入るか 決める。 そして、 マイクを通して リハーサルが行われ、 音のバランスを チェックする。 私の準備が完了し、 ミュージシャンが 譜面を間違わず、 コーラス隊が パートを理解すれば、 「さあ、やろうぜ!」の 私の掛け声と共に テープは廻される。 私は モノ・テープ、 2トラック・テープ、 3トラック・テープの 3台を同時に廻した。 エルヴィスの場合は、 映画のサントラの仕事が多く、 映画会社は 後で 音響効果を入れるために 3トラックのテープを 要求してきた。

 エルヴィスが新曲を覚えるのは早く、 初めて聴いた時から 僅か15分から30分で 彼はレコーディングの 準備ができた。 エルヴィスは レコーディングを 難しく考えないタイプの 人間だった。 彼はレコーディング中は ほとんどの時間を スタジオ内で過ごし、 楽しんでいた。 エルヴィスが ピアノで ヒムを弾き始めると、 何人かが 彼をとり囲み、 即席の ゴスペル・カルテットが 出来上がった。 エルヴィスは テノールのパートを歌った。 エルヴィスが ヒムを歌うのに、 私たちは 何時間も付き合わされた。 ハリー・ジェンキンスの口癖は、 「彼の好きなようにやらせろ。 彼が レコーディングしたい曲を 録音し、 彼が1ヶ月 続けたいと言えば、 そうさせるんだ」 だった。

 エルヴィスは 冬になると 体重が増えた。 それで、 彼は 次の映画のために 極端なダイエットを迫られた。 1度私は、 どのようにして 15から20ポンドの体重を あんなに早く 落とすことができるのか 尋ねたことがあった。 彼が言うには、 「昼は プレイン・ヨーグルトだけで、 夜は 小さなステーキと サラダだけしか食べない」 らしい。 レコーディングの時の 彼の食事は ビッグ・マックと 決まっていた。 彼は食事も、 タッチ・フットボールを やる時も、 歌う時と同じように 一生懸命だった。

 デビッド・ブリッグスが 初めて エルヴィスのセッションに 参加した時、 エルヴィスは 即席カルテットの伴奏を 彼にやらせた。 私とフェルトンは 彼の後ろから ピアノ演奏を眺めていた。 デビッドは ピアノを弾き始めると、 極度の緊張からか 彼の首筋に 赤い発疹が出てきた。 私たちがそれを見つけて 笑っていると、 エルヴィスも それを見て笑い出した。 今も デビッドに会う度に、 あの時のことが 思い出される。 エルヴィスがスタジオで ヒムを歌うのは、 レコーディングするムードを 高める儀式のようだった。 エルヴィスは 母親のために 2枚目のゴスペル・アルバム "How Great THou Art" をレコーディングした。 そのアルバムが 彼の初めての グラミー賞受賞となり、 私は ベスト・ レコーディング・エンジニアに ノミネートされた。 大人数のミュージシャンと シンガーたちが スタジオBに 詰め込まれた、 難しいレコーディングだったのです。 私は 2トラック・テープと 3トラックの バックアップ・テープに 直接録音したのです。

41年前の今日(8/21)、 ひとりの日本人植木職人が エルヴィスの車に 轢かれて死んだ

 ジム・マロイ -- ある日、 デンマークの アーンスト・ヨルゲンセンから 電話がかかってきた。 彼が言うには、 何年もの間、 彼は私に接触を試みていたそうなんだ。 彼はRCAで エルヴィスの音楽と歴史を 任されていた。 そして、 アーンストは エルヴィスの あるひとつの レコーディング・セッションの ミステリーを 解明したがっていた。 彼の手元には エルヴィスが ミュージシャンに支払った 小切手の控えや、 ミュージシャン、 アレンジャー、 曲目リストなどの資料があった。 それとメモだ。 ハリー・ジェンキンスが ニューヨークから やって来る。 フェルトン・ジャーヴィスは ナッシュビルから、 私はデモインから。 丁度その時、私は バケーション中だったんだ。

 彼の言うミステリーとは、 「1967年8月22日の レコーディング・テープは 何処に行ったのか?」 ってことだったんだ。 私はその時の レコーディング・セッションの 唯一の 生き証人だったんだよ。

 あの日のことは 昨日のように覚えてる。 エルヴィスが レコーディングするからと、 私たちは ハリウッドに 集合したんだ。 彼は忙しくて、 ナッシュビルに 来られないから、 それで 私たちが ハリウッドに 行ったんだ。 到着するや、 「セッションはキャンセルだ!」 と言われた。 エルヴィスの側近の一人 (リチャード・デイヴィス)が、 エルヴィスのドライブウエイの 街路樹で仕事をしていた 日本人の植木職人を 轢いてしまうという 事故を起こしたんだ。 植木職人が 車道に飛び出したのが 原因で、 彼は即死状態だった。 エルヴィスの車だったので、 大佐は エルヴィスに 召喚令状が来るのを恐れて、 彼を プライベート・ジェットで ラスベガスに 避難させた。 翌日が レコーディングって時で、 ミュージシャンの組合では 48時間以内の キャンセルは出来ない 取り決めになっていたから、 RCAは ミュージシャンの日当を 支払わねばならなかったんだ。 でも、 実際は セッションは行われなかったし、 当然、 テープも存在しないよな。

 ジム・マロイは、 エルヴィス世界では、 60年代中期の エルヴィスのレコーディングを 担当しただけの ただのエンジニアにすぎないと 思われてますが、 当時の彼は 米国のレコード業界では 大変に有名で、 超売れっ子の エンジニアでした。

 彼は元々、 電気設備会社の技師として サンタモニカの レコーディング・スタジオ、 ラジオ・レコーダースに 出入りしてました。 米国で最初の ステレオ・レコード (ルイ・アームストロングのアルバム) は 1957年に ラジオ・レコーダースで 録音されたのですが、 その時に モノラル設備から ステレオ録音できるように 配線や録音機器の設備を買い替えたり、 当時のラジオ・レコーダースを 最先端の設備を誇る トップ・スタジオに変えるのにも 彼は携わっています。

 機械などの微妙な調整に 一番詳しいことから、 彼は レコーディング・エンジニア (ミキサー)に ならないかと誘われ、 ボーンズ・ハウと共に ソーン・ノガーの元で 見習い修行します。 そして、 1961年に、 ハリウッドのRCAスタジオ専属の レコーディング・エンジニアになります。 1963年には ヘンリー・マンシーニの 「シャレード」で グラミー賞 「ベスト・エンジニア」を 獲得。 1965年1月に ナッシュビルの RCAスタジオに移り、 カントリー音楽の繁栄にも 貢献します。 1963年から1967年まで 5年連続して グラミー賞「ベスト・エンジニア」に ノミネートされ、 その1967年のノミネート・アルバム 「偉大なるかな神」で エルヴィスは初めて グラミー賞を獲得したのでした。



(Aug.18, 2008)

映画「監獄ロック」から カットされたシーン

 「監獄ロック」の映画が始まって、 丁度 1時間位の時、 突然のように 上の写真の エルヴィスの映像が 現われます。 余りに短い 数秒のシーンなのですが、 初めて見た時から ずっと気になっていました。 そして、 数年前に 「監獄ロック」の台本が 手に入った時に、 真っ先に探したのが このシーンの部分でした。

 映画では、 「やさしくしてね」(Treat Me Nice) のヒットのあと、 ビジネス・パートナーとして 契約したショア氏が、 その後の ヴィンスの行状を かいつまんで 説明します。 この部分が 大幅に カットされました。

 レコードのヒットのあと、 当然 ヴィンスには 色んな仕事が舞い込み、 ナイト・クラブにも 出演します。 そして、 「やさしくしてね」に続く 2枚目のレコードが発売され、 これもヒットします。 そして、 全国ネットのテレビ出演となり、 「監獄ロック」を歌うのです。

 それでは、 台本には どのように書かれているのでしょう。

 <ナイト・クラブ内部 - 夜>
 一流のナイト・スポットとまではいかないが、 程よい場所設定。 ヴィンスは 彼のバンドと共に 新曲を歌う。 衣装はフォーマルでないもの。 数行歌って  <場面転換>

 <レコーディング・スタジオ - 昼>
 レコーディング・シーンとなり、 ヴィンスは 同じ曲を続けて歌う。 歌い終わって  <場面転換>

 <モンタージュ - レコード・プレス>
 レコードの製作過程を見せる。 プレス完了。 山積みのレコード。 発送の様子など。

 <ショア氏のコメントが続く>

 このように 簡単に書かれています。 映画と この台本(1957年3月15日付)を 見比べましたが、 数箇所の 場面カットや セリフのカットは あるものの、 追加場面はなく、 全て この台本通りに 撮影・編集が行われたと 想像できます。 エルヴィスが歌う 曲のタイトルは 「監獄ロック」以外は 何も記されていません。

 果たして このナイト・クラブのシーンで エルヴィスは 何を歌ったのでしょうか? 明らかに バラードですよね。 それで、 「ヤング・アンド・ビューティフル」を 映像に被せてみました。

Night Club Scene (削除 WMV - 1.1 mb)



(Aug.17, 2008)

1972年11月、ハワイ公演

  に 私が撮影した 1972年11月の エルヴィス、ハワイ公演の映像を アップしました。 残念なのは 最初の公演の ラストの「好きにならずにいられない」 の撮影に失敗したことです。 真っ暗な座席での 8ミリ・フィルム・ カートリッジの装填に 失敗したのでした。



(Aug.17, 2008)

ジェームズ・バートン、 ライヴ・イン・ジャパン 2008

* 2008.09.13.(土) 2:30pm & 7:00pm 銀座タクト (03-3571-3939)
* 2008.09.16.(火) 8:00pm 赤坂 B flat (03-5563-2563)
* 2008.09.17.(水) 8:00pm 赤坂 B flat (03-5563-2563)
* 2008.09.20.(土) 6:00pm & 9:30pm 大阪エブリワン (06-6448-1055)、 主催: Toy Box Co.



(Aug.17, 2008)

Elvis Week 2008

 8月15日夜のキャンドルライト・ヴィジル、 今年は雨模様だったようです。 その様子が メンフィスの コマーシャル・アピール紙のサイト で見ることができます。

 エルヴィスの そっくりさんコンテストの ビデオ も見ましたが、 ドニー・エドワーズは 惜しくも2位でした。 選曲が悪かったのかな。



(Aug.14, 2008) (July 24, 2008)

★ 魂のステージが 命日(8.16)に甦る

「エルヴィス・オン・ステージ」 自主上映会

<日時> 2008年 8月16日 (土)
       8:00pm 開場
       8:20pm〜10:00pm 一回上映

<場所> 新京極シネラリーベ (旧 京極弥生座)

<参加費> 1,000円

<主催> 京都のファン有志

<協力> RCS


<場所> 京都市中京区新京極通り六角下ル72ビル


※新京極通り沿いの東側にあります。

電車でお越しのお客様へ
  阪急河原町駅より 徒歩約10分
  京阪三条駅より  徒歩約15分
  地下鉄京都市役所前駅より 徒歩約10分



(Aug.12, 2008)

パチンコ「CR エルヴィス・プレスリー」 (タイヨーエレック)

パチンコ・エルヴィス

 全国のパチンコ店に エルヴィスのパチンコ台の出荷が 始まったようです。 あなたの住まいの近くで、 何処のパチンコ店が 設置してるか、 ネットで探す 簡単な方法があります。 下記のリンク先に行き、 「設置店を探す」のところの 「県名」を選択して、 「設置店検索」ボタンを クリックしてください。 ただし、 エルヴィスのパチンコ台は 3機種ありますので、 機種毎に 検索してください。

CR エルビス プレスリー ATX 設置店 (8/12現在、 全国403店舗)
CR エルビス プレスリー KTX 設置店 (8/12現在、 全国195店舗)
CR エルビス プレスリー MTZ 設置店 (8/12現在、 全国257店舗)



(Aug.11, 2008)

A Poor Man's Gold

(貧しくても、 貧しくなくても、 金は金)
 エルヴィスの1969年、 メンフィス・セッションでも、 バックの演奏トラックだけ 録音して、 エルヴィスの声は 吹き込まれなかった曲が 3曲あります。
* A Poor Man's Gold (Mac Davis 作)
* Memory Revival (Dallas Flazier, Doodle Owens 作)
* Come Out, Come Out (Don Thomas, Mike Millius 作)

 これら3曲の演奏トラックは 公式には未発表となってます。

 "A Poor Man's Gold"、 この曲は 同じマック・デイビスの 「ドント・クライ・ダディ」とは 視点が全く逆の、 父親が子供を眺めて、 幸せを感じてる歌ですね。 エルヴィスは 1行だけ歌って、 照れ臭くなったのか、 録音を止めてしまいました。

A Poor Man's Gold - Elvis Presley (one line) (削除 WMA - 0.2 mb)
A Poor Man's Gold (Instrumental Track) (削除 WMA - 2.6 mb)
A Poor Man's Gold - Mac Davis (1974年) (削除 WMA - 3.1 mb)

It's the feeling I get looking down at my brand new baby,
Holding on to Daddy's thumb just as tightly as he can hold;
And it's hearing people say he looks alot like his daddy,
These things are A Poor Man's Gold

 "Memory Revival""Come Out, Come Out"が どのような曲なのかは、 演奏トラックから 判断するしかありません。 この2曲は まだ誰によっても 録音されてないようです。

Memory Revival (Instrumental Track) (削除 WMA - 3.1 mb)
Come Out, Come Out (Instrumental Track) (削除 WMA - 1.5 mb)



(Aug.10, 2008)

Colour My Rainbow (カラー・マイ・レインボー)

 エルヴィスのレコーディングは ほとんどが スタジオ・ミュージシャンを交えての 同時録音で、 エルヴィスは ライブ感覚を 大切にしましたが、 何らかの事情で、 先に バックの演奏トラックを 録音して、 後で エルヴィスの声を 吹き込む場合も ありました。 しかし、 エルヴィスの気持ちが 変わったりで、 吹き込まれずに、 そのままになってしまった曲も いくつかあります。

 1973年のメンフィス・セッションでは、 次の3曲が 吹き込まれずに 残されました。
* Colour My Rainbow (Mark James 作)
* Good, Bad, But Beautiful (Clive Westlake 作)
* The Wonders You Perform (Jerry Chesnut 作)

 これら3曲の演奏トラックは、 昨年発売された FTD-CD "Raised On Rock" に収められています。

 恐らく皆さん 聴いたことないでしょうね。 "Colour My Rainbow" (カラー・マイ・レインボー)って こんなに素敵な曲なんですよ。 「サスピシャス・マインド」等の マーク・ジェイムスの作品です。

Colour My Rainbow - Maywood (1982年)
Colour My Rainbow (Instrumental Track)

 メイウッド (Maywood)は、 オランダ出身で、 1979年デビューの 女性デュオ。 1980年前後に ヨーロッパでは とても人気があったようです。 アバを意識したような アレンジですが、 エルヴィスはこの曲を どのように 歌ったのでしょうか。 あなたも エルヴィスの カラオケ・トラックに合わせて 歌ってみませんか?

(chorus)
Colour my rainbow in blue
Take me to much better places
Baby come over and take me in your arms
Let me be there and aware of your charmes
Colour my rainbow please do
And I follow you

(* repeat chorus)

Why...
Do I get lonesome when you're far away
For just one day
Why...
Please tell me why I got to know
I won't let go

(* repeat chorus)

Some...
Are about to run away when times get rough
I need your love
Stay...
Please stay with me until the end
My friend

(* repeat chorus)

 "Good Bad But Beautiful" はシャーリー・バッシー 1975年発売の アルバム・タイトル曲で 日本語タイトルは 「想い出の光と影」。

Good, Bad, But Beautiful - Shirley Bassey (1975年)
Good, Bad, But Beautiful (Instrumental Track)

 "The Wonders You Perform" はタミー・ウィネットが 1970年に 録音・発表した曲で、 特にイタリアで 大ヒットしました。 下の YouTube の映像には タミー・ウィネットの歌に続いて エルヴィスの カラオケ・トラックが入ってます。 歌詞を読めば エルヴィスが歌いたくなったのも 理解できることでしょう。

The Wonders You Perform - Tammy Wynette (1970年)

 "Fire Down Below" は ジェリー・シェフの作で、 1976年の 「ジャングル・ルーム・セッション」 (FTD-CD "The Jungle Room Sessions" ) で 演奏トラックのみが 録音されましたが、 最後まで エルヴィスは 吹き込みませんでした。

Fire Down Below - Terry Mike Jeffrey & TCB Band (2002年)

 1966年製作の映画 「ゴー!ゴー!ゴー!」 では、 "Leave My Woman Alone" という曲の 演奏トラックのみが 残されています。 これも 昨年発売された FTD-CD "Easy Come Easy Go" に収められていますが、 この曲は元々、 作者レイ・チャールズ自身の ヒット曲で、 多くのアーティストによって カバーされてます。

Leave My Woman Alone - Ray Charles



(Aug. 8, 2008)


 (March Of Dimes [10セント募金] の 巨大なロリポップを舐める エルヴィス)

僕には ロリポップの思い出なんて ないんだ

 アメリカで 今週 発売された 「'68 カムバック・スペシャル」 CDボックスの 解説書の中で、 スティーヴ・ビンダーが 次のように話してます。

 「このことは、 誰にも、今まで 話したことは 無いんだが、 『メモリーズ』の オリジナル歌詞の中に、 綿菓子か 風船ガムか 何かが出てきてね。 その部分を エルヴィスは 気に入らなくて、 『スティーヴ、 何か別のに替えてよ』って 言ったんだ。 それで、僕が 歌詞を替えたんだよ。」

 スティーヴ・ビンダーは このことを、 数年前に NHKで放送された 「矢野顕子、 エルヴィスはあなたの町で 歌いましたか?」 の中でも 話してましたね。 では、 その エルヴィスが 気に入らなかった部分は いったい何だったのでしょうか? それは この部分です。

 エルヴィスの歌では;
I touched them and they burst apart with sweet memories,
Sweet memories
Of holding hands and red bouquets
And twilights trimmed in purple haze
And laughing eyes and simple ways
And quiet nights and gentle days with you

 オリジナルの歌詞では;
I touched them and they burst apart with sweet memories,
Sweet memories
Of lollipops and red bouquets
And twilights trimmed in purple haze
And laughing eyes and simple ways
And quiet nights and gentle days with you

 ロリポップの部分ですね。 エルヴィスには ロリポップの思い出は 無いということでしょう。 この私だって ロリポップの思い出は 全くないし、 エルヴィスが ロリポップを 舐めてるところすら 想像できません。 (何か気持ち悪い!)

(後半に) Mac Davis & Lynn Anderson - Memories

 それで、エルヴィスは歌詞に ロリポップの入った歌を 歌ってないかといえば、 それが有るのです。 ここで問題です。 その歌は 何でしょうか? (ヒント: 子供相手に歌います)
答えは この歌です



(Aug. 6, 2008)



 (「68カムバック・スペシャル」の 「好きにならずにいられない」で エルヴィスの顔に オーバーラップする アン・モーゼスの顔。 初めて アンが エルヴィスに 会った時の エルヴィスの第一声は 『どこかで お見かけしましたね?』 でした。)

アン・モーゼス
 エルヴィス がカムバックしてきた当時、 アン・モーゼスは 米国のティーン雑誌 「タイガー・ビート」の 編集長であり、 英国の音楽紙 「ニュー・ミュージカル・エクスプレス」の 米国特派員として、 エルヴィスの記事を 多く書いていました。 当時、 芸能ゴシップ雑誌以外に、 音楽面で エルヴィスを 定期的に取り上げていた 唯一の存在だったでしょう。 彼女の記事を求めて、 私は 毎日のように 学校帰りに 洋書売り場に 寄ったものです。 ところが 「ニュー・ミュージカル・エクスプレス」紙に 掲載された ロサンゼルス・フォーラム公演 (1970.11.14)の レビュー記事を最後に 彼女は エルヴィスから 去って行きました。 いったい 彼女の中に 何が起こったのでしょうか?

アン・モーゼス、 最後のエルヴィス・リポート

El's Ego Trip! (エルヴィス、エゴ丸出し!)

 土曜の夜の ロサンゼルス・フォーラムでの エルヴィスのショーは、 時には エルヴィスらしくない エゴ丸出しの ショーではあったが、 キングは 満員の会場を揺さぶり、 献身的なファンたちさえも 驚かす サプライズを 与えてくれた。

 ショーの途中で 彼は、 今日の観客は 9時間の 18,000席のチケット争奪戦を 勝ち抜いた人たちだ と指摘し、 「素晴らしい観客だ。 みんな愛してる」と 言ったまでは、 彼の感謝の気持ちを 伝えるつもりであったろうが、 その後の彼の 自慢話には いささか辟易した。

 「いろいろと書かれてるが、 ほとんどデタラメだ。」 特に何について 彼が言いたかったのか 私には 分からなかった。 「多くの人は 『ハウンド・ドッグ』が 僕の最大のヒット曲だと 思ってるようだが、 実際は 『イッツ・ナウ・オア・ネバー』で、 2000万枚売れたんだ。」 ショーの終わりの方で 彼はこんなことも 喋った。 「僕は56枚の ゴールド・シングルと 14枚のゴールド・アルバムを 獲得したんだ。 嘘だと思うなら、 メンフィスに来るんだな。 1枚残らず 壁に掛けて、 飾ってあるからさ。 僕の自慢さ。 ビートルズと トム・ジョーンズを 足したって、 僕には敵わない」と。 エルヴィスは ただ単に 観客に 「記録を正した」 だけだと思う人も いるだろう。 でも、 私は、 こんなことや、 彼のとてつもない成功話は ショーで話すべきことじゃないと 思うのです。

 この日の2回目のショーは 開演が遅れた。 フォーラムに押し寄せた群衆で、 交通渋滞が起こったからだ。 15分遅れで ステージに現われたエルヴィスは、 床に届かんばかりの 長いフリンジが 袖に付いた 真っ白なジャンプスーツを 着ていた。 生憎、 そのフリンジが 失笑をかった。 「全く、 このフリンジったら。 いいアイデアだと思ったのに。」 エルヴィスは 絡みついたフリンジを解きながら 言った。

 観客は 奇妙な組み合わせの人たちだった と言えるだろう。 15年前に エルヴィスに悲鳴をあげていた 当時のティーンエイジャーたち。 現代的な髪形の少女たち。 太いもみ上げの リーゼント野郎たち。 エルヴィス & プリシラ・ファッションの人たち。 見たところ 観客の平均年齢は 25-30才であろうか。 これも 私の想像だが、 チケット代が 5〜10ドルと、 こんなに高くなければ、 もっと若い 10代の観客が 増えたであろう。

 全てにおいて、 コンサートは 彼のラスベガス公演に 似たものであったが、 2000席の インターナショナルの ショールームにおける 親密度は欠けていた。 しかし、 新しく加えられた曲目は とても エキサイティングなもので、 大いに観客に 受け入れられた。 「偉大なるかな神」、 このようなタイプのコンサートにおいて、 観客を静かにさせることができるのは エルヴィスだけであろう。 「時のたつのは早いもの」 「ワン・ナイト」 「ラブ・ミー」 「トライン・トュ・ゲット・トュ・ユー」 等など。

 フィナーレは いつもの 「好きにならずにいられない」 であったが、 最後のコーラス部分で、 またまた長いフリンジが 彼に絡まった。 彼は バンドの演奏を止めさせ、 「こんな不細工に ショーは終われないよ」 と言って、 絡まったフリンジを 解き、 再び、 最後のコーラス部分を、 ドラマチックに歌い収め、 ステージを駆け下り、 待たせてあったリムジンに 消えたのであった。 (終)



(Aug. 5, 2008)

"Christmas Duets" CD Album

エルヴィス初めてのデュエット・アルバムが 10月14日に 米国Sony-BMGから発売されます。 下記は予定されてる曲目の一部。

  • "I'll Be Home For Christmas" with Carrie Underwood
  • "Blue Christmas" with Martina McBride
  • "Here Comes Santa Claus" with LeAnn Rimes
  • "Silent Night" with Sara Evans
  • "Merry Christmas Baby" with Gretchen Wilson
  • "Silver Bells" with Anne Murray
  • "White Christmas" with Amy Grant
  • "O Little Town" with Karen Fairchild and Kimberly Schlapman of Little Big Town
  • "Santa Claus Is Back In Town" with Wynonna Judd



(Aug. 2, 2008)

昔々、 フォギー・リバー・ボーイズは ジョーダネアーズだった!

 チャーリー・ホッジの経歴を調べると、 彼は いずれにせよ、 エルヴィスと出会う 運命だったんだなぁ、 と思える事例が いくつもあります。

 チャーリーは 高校時代に セミ・プロとして ラジオのDJや ゴスペル・カルテットで 歌い始めます。 そして、 53年の卒業と同時に、 当時 ダラスにあった スタンプス・ゴスペル音楽学校に 入学します。 (J・D・サムナーは スタンプス・ゴスペル音楽学校の 経営母体であった スタンプス音楽出版の株を買って、 スタンプス・カルテットを 復活させた。) そこで出会うのが、 エルヴィスが録音した "He Touched Me" の作者であり、 現在の サザン・ゴスペル・ミュージック界の リーダーである ビル・ガイザーなのです。

 卒業後、 故郷のインデアナに帰る ビル・ガイザーを説得して、 チャーリーは パスファインダーズ (The Pathfinders) という ゴスペル・グループを結成しますが、 仕事がないがために、 1年足らずで解散。 ビル・ガイザーは 大学に進み、 その後、 小学校の先生をやりながら、 兄弟で ビル・ガイザー・トリオを 結成します。 ビル・ガイザーは 1962年まで、 音楽だけでは 生活できませんでした。

 チャーリーは 一旦、 アラバマの故郷に帰ります。 音楽をあきらめ、 自動車工場で働く 決意をしたチャーリーは、 友達を頼って、 デトロイトに行きます。 デトロイトで 彼を待っていたのが スタンプス音楽学校の校長、 フランク・スタンプス からの電話でした。 フランク・スタンプスから紹介された ゴスペル・カルテットで、 彼は 再び歌い始めます。

 暫らくして、 チャーリーが ツアー先で出会うのが フォギー・リバー・ボーイズ。 フォギー・リバー・ボーイズは 1955年に始まった 全米TVネット 初めてのカントリー番組 「オザーク・ジュビリー」の レギュラーで、 ホスト役の レッド・フォーリーの バックを務めていました。 丁度、 その時、 フォギー・リバーの リード・シンガーが 辞める予定で、 マネージャーのビル・マシューズは 後釜を探していたのです。 勿論、チャーリーは 即座にOKし、 フォギー・リバー・ボーイズに入ります。


(「オザーク・ジュビリー」の フィナーレの全体写真。 チャーリーは コーラ箱の上に乗ってます。)


フォギー・リバー・ボーイズ (左端:ビル・マシューズ、 右端:モンティ・マシューズ)
 左: フォギー・リバー・ボーイズ時代の チャーリー・ホッジ。 この写真は チャーリー・ホッジの本 "Me 'n Elvis" から スキャンしたものですが、 この写真の原版を 見つけました。

 この写真のキャプションに 「オザーク・ジュビリー出演中の マシューズ・カルテット」 とあり、 あれ、 マシューズ・カルテットって? フォギー・リバー・ボーイズじゃないの? って 疑問に思い、 ちょっと調べてみました。 マシューズと聞いて エルヴィス・ファンなら 最初に思い出すのが ジョーダネアーズの ニール・マシューズでしょう。 そこで ジョーダネアーズのサイトに行ってみて 驚いたこと。 この写真の二人は 明らかに ジョーダネアーズの オリジナル・メンバーではないか。


 ここを見て、 またまたビックリ。 1952年10月から 1953年3月まで ジョーダネアーズは フォギー・リバー・ボーイズを 名乗っていた。 そして、 1953年に マシューズ兄弟から ジョーダネアーズの 名前を買ったと 書いてありますよね。 頭が混乱してきました。 でも、 これは 恐らくゴードン・ストーカーが捏造した ジョーダネアーズ・ヒストリー じゃないでしょうか。

 では、真実はというと、 マシューズ兄弟は 最初 "Melodizing Matthews" と名乗ってたのですが、 名前が大袈裟だ ということで、 1947年に、 ヨルダン川からとった ジョーダネアーズに 改名します。 そして、 「グランド・オール・オープリー」以外で 唯一だった 全国ネットの カントリー・ラジオ番組 「プリンス・アルバート・ショー」の レギュラーになり、 多くのレコードも出します。

 そして、 1952年に エームス・ブラザーズの 「ラグ・モップ」が大ヒットし、 カバー・レコードを録音することになりました。 ところが ゴスペル・カルテットである ジョーダネアーズの名前での レコード発売を嫌がり、 それで、 フォギー・リバー・ボーイズという 新しく作られた名前で レコードが発売されるのです。 フォギー・リバーは カンバーランド・リバーの ニックネームでした。 そして、 フォギー・リバー・ボーイズの 「ラグ・モップ」も 大ヒットし、 フォギー・リバー・ボーイズとしての 仕事も増え、 「オザーク・ジュビリー」の レギュラーの話も 舞い込みました。

 で、彼らは ゴスペル・コンサートでは ジョーダネアーズを、 他の時は フォギー・リバー・ボーイズを 名乗って 仕事をしていたのです。 ラジオの時代なら、 ひとつのグループが 2つの名前を使い分けていても、 簡単に誤魔化せたでしょうが、 TVになると そうはいきません。 「エディ・アーノルド・ショー」の レギュラーだったこともあり、 1955年の 「オザーク・ジュビリー」の TV放映開始に合わせて、 ビル・マシューズ中心の フォギー・リバー・ボーイズと ゴードン・スト−カー中心の ジョーダネアーズに 分かれるのです。 フォギー・リバー・ボーイズを 1955年に辞めた ボブ・ハバードの後釜として チャーリー・ホッジは メンバーに招かれたと 思われます。 この番組での経験、 出会いが、 その後の エルヴィスとの出会いで 大変活かされたのでした。



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