日々、在りしことども



燕去月二十八日
曇天により月食見えず。

『怪異いかさま博覧亭』
大当たり。これに、雑誌連載の時点で喰い付いていなかった自分が恥ずかしい。
以前、短編を読んだ時には反応するものが無かった、今回、雑誌でパラ見した直後、憑かれたように奥の本棚へ直行して入手。――ただあの時何を見たのか、今現在、何故か全く欠片も覚えていない。……本当に変なものに憑かれていたのか?

江戸と妖怪を絡めた話。当時の文化風俗も良く噛み砕いており、しっかり勉強していることが伺える。線のはっきりした細かな所まで書き込まれている絵といい、幾つもの小さなやり取りといい――大丈夫だろうか、やがて作者が過労死する姿ばかりが目に浮かぶ。
話の筋は言うに及ばず。絵については、確固たる完成具合、パロディが利いているところなどはともかく、本来の私の好みとは少しずれている。しかし、いざ読んでみれば魅力的としか言いようが無い。表情や動きが豊かなこともあろうが、毎話、可愛かったり色っぽかったり、そんな風に女性が上手く描かれている場面がある。SもMも特には趣味がなかった自分だが、鞭を振り回す尼僧少女の姿にぐいと惹かれる初体験もあった。

まあ。作者氏の健康以外、これといって心配の無い良いシリーズだと思う。是非今後、十巻二十巻と大作化してほしい。

以上本日、今日もネタ無し。
燕去月二十七日
某所で褒められていた本が気になり、つい衝動読書。
――下手だ。
後の方になればこなれてきてそれなりに読めるし魅力といえる点もあるが、最初の方、キャラクター達がただ『痛い』連中大行進となっている。
もしかしたら低年齢向けライトノベルとして狙って、単純化し誇張しているだけなのかもしれない。そういう意味では、まあ纏まっていると言えなくも無いが――あんまり読み手として子供を馬鹿にするな、と一言捻じ込みたくもある。

以降、表紙買い、ということで忘れることにする。もっとも、その表紙にしても――人間の顔は奇麗に描けても、モンスターが全く描けない作家っているよね、と呟いておく。……芸風に幅の無い人間が慣れていない部分に手を出すとこれだから、というよりはそれで満足したことが駄目なのではなかろうかと。

人間とは勝手に期待して裏切られたと逆恨みする生き物である。

追記:神坂一氏はやはり安定して面白い。これに五百円硬貨を出せるかと言われればちと微妙だが、面白い面白くないかという質問ならば、全く迷うことなく、笑って今回のお勧めポイントを人に語れる。良い作家氏だ。
燕去月二十六日
愚駄愚駄と。
燕去月二十五日
夜、書店。
燕去月二十四日
夜、虫の声が響く。既に夏は終わったのだと、寂しく感じる珍しき日。

髪を切る。風呂場で適当に、ばっさばっさと。
適当すぎて、くくれない毛が増える。
軽く楽にはなったのだが。
燕去月二十三日
家の地蔵の前に菓子や野菜を積み、提灯に火を入れる。
燕去月二十二日
確かこの頃、酒啜り。
燕去月二十日 追記
一言言わせてくれ。
アサヒのスタイルフリー、糖質ゼロとかいう発泡酒だが、近年稀に見る不味さだ。

……発泡酒は年々努力を重ね、味わいを改善してきたという持論に、一気にでかいヒビが入った。ドラフティの再来か?
燕去月二十日
エビチリに再び挑む。
全く出来に納得いかなかった前回の雪辱戦。衣が剥がれぬよう、卵の白身をつなぎに使い、揚げ炒めるというより裏表を焼く感じで海老を調理。調味料の方も、そこそこのものに仕上がる。
次は大蒜の量を少し減らし、甘みをもうちょっと――砂糖か、それともケチャップ?――増したい。コクというか旨みもあと少し欲しいのだが、さてこちらはどうしよう?
燕去月十九日
午後、久々に少しの降雨。
燕去月十八日
長浜は黒壁まで『ベッラストラーダ』を見に行く。北国街道を、色々なガラスオブジェでライトアップしているイベントらしい。子供の群れ、連ねられた提灯といった地蔵盆の光景を横目に、着。ぶらりとうろつく。

思ったより小規模ですいており、地元の地蔵盆や二十四時間テレビと連動しているのか、やけに元気に子供達が屋台周りではしゃいでいた。夏祭りの空気、というものを堪能する。
かと思えば、ぽつぽつ据えられた灯りのオブジェにも良いものがあった。日本の古き水車小屋を模したもの、ダンボールや紙細工で芸術性を追求したもの、そういった創作灯りでは特に竹筒が素晴らしかった。太い竹の筒、節三つ分ほど。立てたそれに、幾つか丸くくり貫いた窓が開いている。光は其処から漏れているのだが、その窓部分の内側に枯れた竹の葉が貼ってあって、その昔の握り飯弁当包みのような模様が、風情をかもし出している。

で、その商店街奥の一角。恐らく、こここそが当の会場たる『北国街道』なのであろう。ジャズらしきものが流れる暗がりに、開放感ある広場、テーブル。道沿いに設置された屋台、というには小さく綺麗な机の上で、外国麦酒が売られ、オムレツが作られる。絞りたて林檎ジュース、焼き魚を出す店、小料理屋のカウンターが如き長机の向こうでは、一升瓶を掲げる店主の姿がある。其処此処ではちゃちっぽく足付きに外観を改造された小さなテレビが、それぞれ地方テレビ局の深夜放送でしか見かけそうにない古い昔の番組を、音もなく流している。
ふと静かな横道の奥へ進めば、水を満たした硝子瓶の中にビー玉を沈め、或いは緑美しい植物の葉を入れて真下中央一点から光を当てているオブジェ。これがなんとも洒落た良さがある。他にも丸グラスで揺れる蝋燭キャンドルの連ねられたツリーなど、幾つか。

何と言おうか。観光集客イベントではなく、自分達が楽しむために自分達で作った祭り。古い時代への憧れという幻の中にしか存在しない、そんな夏の一時があった。
麦酒こそ楽しめなかったが、自分がその中を一時、通りすがれただけでも至極満足である。

次は昼間に、増えた様々なものを見にこようと思いつつ。駐車場がやけに安いなと感心し、最近の若い子はとても足が細くて長いものなのだなと感嘆したことを記して、最後に落とす。
燕去月十七日
余りに暑いので唐突に手巻き寿司を作る。いざ巻く段になって具が乏しいように感じたので、近所のスーパーまで自転車で走る。
一気に筋肉痛。更に頭痛。……何故だ?

夕、踏み倒すとやばそうな本の返却に図書館へ。無理矢理延長を頼み込んで、ついでに図鑑ぽいものと製作マニュアルらしきものを借り出す。その際、こちらは既に期限が切れてますねと、真っ赤に染まった貸し出し一覧画面を見せてもらう。
――――ワタクシ、ひょっとしなくても図書館の敵?


甘藷、という。まあ、つまりサツマ芋だ。
先日、保存していたその一部が痛んでいた。で、畑に捨てに行く寸前、ふとその当時、頭の片隅に湧いていた一つの知識と一つの想いが、唐突に腕を組んでまっわーれ、まっわーれと円をかいて踊りだす。

一つの知識:サツマ芋は救荒作物である。何処でも増える、というかむしろ肥料などやらず、荒地に放っぽっといた方が良く育つ。
一つの想い:川の土手にしろ、公園の隅にしろ、現代の日本には遊ばせている土地が多すぎる。トマトを植えろ、茄子よ育て、家庭の毎日の食卓に自家製無農薬野菜を健康のため、もう一品。戦後を思い出せ。小学校を忘れるな。食料の自給自足を舐めてんじゃねェぞ日本人、コラ!

――というような何かだ。まあ、いつもの思いつき。ちょっとした感情の起伏、衝動、発動で実力行使。石くればかりの庭の片隅や、植木の裏側の空きスペースに浅い穴を掘って、かび萎んだ芋を放り込み、それで満足したとばかりに忘れていた。今日まで。

昨日、この連日の猛暑の中、水もやっていなかったのに、突然芽吹いているどくだみにも似た葉っぱを複数箇所で見かける。まあ、ここまでの前振りで解るように、其処と此処には共通点が一月程前にある。――――本気で侮れぬ救荒作物。世界の一部ぐらい救うんじゃないだろうか。
燕去月十六日
庭のブルーベリーをウヲッカで仕込む。まだ収穫時期なので、これからも採れたのを毎日のように仕込み容器に追加で投下してゆこうかと考えている。
度数が強く、雑味のない酒を使っている分、より薬酒のような出来上がりになろうかと、今から楽しみであったりする。味良く、色良く、目にも良い。一年後までどれだけ無事に残っているか、すぐに飲める酒で漬けた分、とてもとても心の底から心配だ。この世界で自分以上に信用出来ぬ輩が他にあろうか?

しかし積極的に漬けだして気付くが、ブルーベリー、店で求めるとやけに高い。
うちは適当に庭――畑に植えており、本年の収穫量こそ減っていたり、また実の間引きが十分でないせいもあるのかも知れないが、それでも連日、小さなザルにそこそこの実が取れる。
スーパーで見る。両手一杯で百グラムほど、それで三百数十円とか――
冷凍庫の場所取りだと、毎年増える大袋一杯の青黒い実を邪険に扱っていた自分は、物の本当の価値がちゃんと解っていなかったのかもしれない。――金額に換算してそう考えるのは、自分でも色々アレでどうかと思うが。

山椒とか、庭や鉢に植えておくと便利なものは結構あるよなと、ふとそんなことを思いつつ。
燕去月十五日
『萌え〜辞典』というのを最近よく目にする。ついでにいうと、何冊か持っている。
可愛いイラストや漫画で興味を引き、とっつきやすくした入門書、或いはそれで購買層を広げ売りつけようという阿漕商売。適当なものもあるが、むしろこんなものをあえて作ろうというだけあって、拘りを感じる良作も複数ある。
まあ、あざといが、関心を集めるための手法としては間違ってない。そんな風に考えていた。
本日、ある江戸時代の版画の写真を見る。当時の風俗を描写したもので、街の店先、その客や売り手の様子を描いたものだ。――全員、若い美女に置き換えて。

人間は変わらないということか。
燕去月十四日
どうにも目の調子が……
燕去月十三日
明け方の流星雨、雲があって楽しめず。せいぜい一個か。

夜、コトナリエを見物しにゆく。日頃の行いか、到着すぐに霧雨がぱらつく。
本年も環境に優しいテンプラ油発電。せせこましい地上ではなく、頭上にゆったり布を敷くように掛けられた光帯が良かった。
ジャズに耳を傾けたり、本年もなぜかあった香りのコーナーを冷やかし、早々帰宅。本日以上。
燕去月十二日
朝より徘徊。ペットボトル、本、麺、水。
燕去月十一日
この夏は過ごしやすい様に感じる。確かに暑くはあるのだが、湿度がそうないせいか、はたまた朝晩は涼しく冷え込む御蔭か、とにかく例年に比べ遥かに意識がある。
ひょっとすれば、私自身の体質の方がちと変わったのかもしれない。
控酒や規則正しい睡眠によって、体温の調節が上手くいっているから、とか。
歳だか成人病だかで温度感覚が鈍り、精神的にも肉体的にも新陳代謝が低下して冬眠ならぬ夏ゾンビ状態に……

――季節を楽しむすべを覚えてきた、とか綺麗に纏まらぬものか。
燕去月九日
花の水遣りと皿洗いに精を出すような日々。他、これといってなく。
燕去月八日
本日も、コレといってことはなし。

県立図書館より取り寄せてもらった某本、未だ一パーセントも読み終えていない。
この分野の『バイブル』と称し『百科全書』を名乗っているが、それだけのことはある。
だが、だからこそいかに読みやすかろうとも千頁ちょいの道程が遠い。
歩く気はある。歩きやすく整備もされている。ただ、貸し出し期限という時間制限が……

購入してしまうのが一番良いし、それだけの価値はある。値段も、この出来なら必ずしも高いという気はしない。
しかし、すぐに取り出せる五万という資金が無い。

大学時代は恩師方の、年の資料代百万以上という話を思い出す。学者研究者の皆は、日頃からこういうことに悩んでいるのだろうか?
燕去月七日
目が痒い。昨年の今頃もそうであった。花粉症か何かか?
燕去月五日
朝方、靄の景色。久々に体を動かそうかと思い立ち、何となく琵琶湖が見たくなる。
自転車で、川沿いに河口へ。意外と多く座り込んでいる釣り人を横目に、昔の通学路を過ぎ、山の脇を過ぎ、最後は青色を見せつつある空の下、堤防の端っぽでぼんやりと見えぬ対岸に目をやる。
そろそろ盆も近いようで自治体の墓掃除を各所で見かけたとか、田舎の人間は誰も彼も朝が早過ぎるとか、河口付近の様子が綺麗汚いではなく川が死んでいるような感じを受けるとか――。
ぼんやりした夏の朝。

なお、朝顔だが良い感じに幾つも綻んでいる。白地に青の、やたら蔓が伸びた西洋系とかいうのが、存外によい。
燕去月一〜四日
どうにも集中して読書にいそしめない。
朝夜はまだ良いが、昼間など夏の暑さが精神を削る。
クーラー万歳。

『イヴは夜明けに微笑んで』『奏でる少女の道行きは』読了。「黄昏色の詠使い」シリーズのTとU。
書店で見かけた折には全く惹かれるものがなかったが、某所でべた褒めされていたため、一巻を手に取る。読み終えてすぐ、二巻三巻を求めて本屋を襲った。
『とても優しさに満ちた物語』と紹介されていたような記憶があるが、実に言い得て妙。
女の子が大切なものをそっとその両手で包み込んでいるような雰囲気がある。
日常会話といったやり取りの端々にも面白味があり、読んでいて中だるみすることもない。
あまり大当たりといって人に勧めて回る気にはならない。気に入りの宝物とはそういうものではなかろうか?

現在三巻途中。ヒロインはエイダ嬢だよなとか思っている夏頭。
以前、在りしことども

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