日々、在りしことども



雪見月三十一日
ネタは完成しているのに、まだ年賀状を書いていない。

本年は総括として何も成さない一年であった。三日も二日も一週間も大差ない。
反面、運動不足出不精は極まっていながらも、何故かしら過ごし易く季節を流し続けた。
鈍くなったということだろうか?
あと、髭。
現在で一年と二ヶ月ぐらいか? 食の邪魔になる鼻の下と、もみあげから続く顎筋には鋏を 入れているが、顎先には自由奔放な、髭。一年前はアルカイダとかフセインとか言われていたが、最近では三国志まで場所だか時代が移動した。
私自身は仙人髭に憧れているのだが、最近では時折、鬱陶しくて剃ってしまいたくなる。
ジャンパーのファスナーを首元まで上げて、髭が巻き込まれ悲鳴だなんて馬鹿を繰り返す のは、もう結構。
まあ、以上。二度目に出した紅茶のような一年だったろうか。書き残すほどのことにもあらず。


本年もあと数刻にて過ぎ去ろうとしています。皆々様に置かれましては、その最後の一時まで 存分に過ごし、胸を自然と張って新年を迎えられますよう。
良いお年を。



二千歳と七の年 大晦日に 酒ではなく紅茶を残り一時の友としながら みちあきりゅうじん拝
雪見月三十日
急激に冷え込み、手足の指先がかじかむ。正しき冬の気配。
あとは降りさえすれば雪がこよう。
雪見月二十八日
シンクロニティ、というものがある。
いい加減、風化し変色し切っているが、たまにそれを感じると驚きを楽しめる。正誤や理屈妄想ではなく、人生を楽しむための、まあ一種のお遊びだ。
本日、久々にそれを感じた。読んでいた全く関係の無い二冊の漫画に、似たような場面があったのだ。他の作品ではあまり見た覚えが無い。ジャンルも作品傾向も掲載誌も表現構成に至るまで全く関係ない。なのに――

男でもないのに股間を棒で強打し蹲る女性キャラがどっちの漫画にも――

あえていうが私の読書傾向が下品な訳ではない。それは、誰に信じて貰えなくても良い。ただ、これが新たな世の流行の先ぶれではありませんように。
雪見月二十三〜七日
相変わらず雪は降らず、ストーブもあまり要らず、げに不愉快な暖冬也。

メールでクリスマスカードを作る。拾ってきたmidiを仕込んでおいたが、さて一体幾人に気付いて頂けたことか。

特にネタも無いので、年終わる前に一つ記しておく。
秋口にラジオで聴いて久々に衝撃を感じた曲だが、まだ良く耳を傾ける。
Santana Featuring Chad Kroeger『Into The Night 』
音楽に疎い私の理解では、サンタナさんがチャド・クルーガー君を呼んで『Into The Night 』を歌ってもらっているということのようだ。
おっさんがギターをかき鳴らし、そろそろいい歳になりかけている男がダミ声を響かせている。 女性の伸びる高い声や幻想的な詠いを嗜好としている自分の趣味の正反対に位置する曲だが、 初めて聴いたときそこに感じた、痺れるようなオヤジの色気は、まだ忘れられない。
自分は男だから、男の色気なんてものはとんと理解できないと思うのだが、この歳になって中年の男の声に感じることがあった。

――こんなダミ声に魅力を染み込ませるような生き方というのは、一体どんなものなんだろうか?
雪見月二十二日
――最も暗く深く長きこの夜に、心よりの敬意を捧ぐ。

という訳で冬至だと夕食直前になって知る。
「かぼちゃ用意してないよ!」(ワタクシ、人生久々の絶叫かつ驚愕)
幸い、かぼちゃそのものは大分以前の頂き物がある。『薄くスライスしてフライパンか電子レンジで ……』『明日でもいいから……』と心温まる家人の言葉を「ワタシが嫌だ」と断言して、食事時間を勝手に遅らせてまで煮物を作る。拳よりやや大きい小ぶりなかぼちゃだったが、その分味が詰まっていたのか、結構美味な出来となった。

冬至というとどうしてもクリスマスを連想し、夜と雪をセットで想う。朝からの雨がまだ止まない、こんな南方温暖化な現実など不要。
雪見月十八日
一日千秋とはいうが、三日一日ぐらいの感覚で無意味に日が過ぎる。おお、翔ぶが如く。

春巻きの日。
雪見月十〜十七日
灯油も高いがそれに合わせたかのように温い冬。蜜柑も炬燵も今一つ。
雪見月十三日
深更、起きて何気なくネットを覗いてみたところ、『今宵はふたご座流星群だよ』と呼びかける声有り。 防寒具を身に纏い、出る。
丁度ふたご座が中天に昇っている頃であり、天頂より時折、星、滑る。
また、近くにはオリオン。その左肩先に赤く光る大層美しい星一つ、在り。流星よりもややこちらに気が削がれる。
帰りて後、確かめれば火星であった。

久々の夜空はとても美しく、星座盤は何処で扱っているのか、ふと知りたくなった日。
雪見月九日
追記。そういえば『ショショリカ』を読了した。最終巻。分厚いが全然値上がっていなかったのは嬉しい。
一見料理漫画に見せて、全然そちらへ行っていない。毎回、妙な歌と踊り、パフォーマンスが披露され、登場人物たちは奇人変人ばかり。まあ、それでも結構好きな漫画だったので、終わってしまったことを惜しむべきか、どこまでもだらだら続けられたところをすっぱり切って締めたと評価すべきか、今一迷う。

あえて本日感想を記したのは、最後まで読み終えて解る伏線の確かさに感心したからだ。
一巻から随所にあった言動。ちょっとした仕草、良く判らない言葉の切り方、余り映えない台詞。そういった諸々が、読み終えた今では初めから全てちゃんと意味があったのだと解る。ギャグの勢いが強く目を奪われていたが、作者は最初からしっかり世界を作り込み、それに則って話を動かしていたのだ。
素晴らしいと、その有り様を思う。同時に、その辺りの手法が今一つこなれていないから、話が解り辛くなっただけな所も多々あったなと、思う。

まあやはり、もう終わってしまったのは残念だ。今は次回作への期待と、作者氏の腰への追悼を記し、今晩ここに筆を置く。
雪見月九日
特に無し。

盲目的な愛国心――素晴らしいものだと、誇るべき歴史があると、子々孫々に伝えてゆくべきだと熱烈に主張し、これが共同体の幸せであり正義だといい、異論を述べる者は存在そのものが皆にとっての悪だと憎悪する。議論というには余りに論が成り立たず、客観性も無く理屈にもならない熱狂だけを、思い込みで主張する。子供達に笑顔で教師が刷り込み、反論するものは社会の劣悪な敵だから、時として如何なる手段も正義の遂行には許される。大義。
相対的に見たとき、隣どころか世界各国と掏り合わせが出来ない。『あちらはあちら、こちらはこちら』ではなく、冷静に比較し、考えてみればたちまち寄って立つ場所が砕け散るため、あえて目に入っても見ないことにする。今、我々、此処、この国。それだけ、のみ。
一概に悪い面だけだとは言わぬが、膨れ上がりすぎればやはり害悪と化そう。それなりに理や背景となる事実歴史の断片があり、主張している間は我ら正しきという悩む必要なき思考停止に浸ることが出来、言を同じとする同類達との一体感に酔いしれることが出来る。熱狂とは物狂いの字を含むと知れ。
まあつまり結論として――

一部『憲法第九条擁護運動』は盲目的愛国心の変種だと分類できる。

一方に偏りすぎた政治や主張や社会が、反動でもう一方に大きく振れるは良くあること。結局憲法九条は、安楽に浸りたい人々の新たな拠り所となっただけではなかろうかと、呟いてみる。

ネタも無く、つらつらと思い浮かんだ思考を、取り留めなく言葉にしてみて。本日終わる。
雪見月八日
朝より出歩く。まあ、大人しく籠っていても良かったかもしれぬ。

結局、源平枝垂れは鉢で育ててみることにした。大きなプラスチック製植木鉢を購入。もう一回り上のサイズもあったが、そこまでいくと景観やら場所移動能力といった、何故地面ではいけないのかという条件が根底から否定されそうだったので、一つ手前のこれで控える。
風除け棒に太目の表面を焦がした木杭も入手。曇天の下、園芸を楽しむ。

ふと、バイクの喜びを思い出した。理屈でなく好きなもの、自分以上の何かに久々に手を出す。
雪見月七日
待っていた『源平枝垂れ』花桃の苗が、ついに届く。
まずは姿だけでも一目と箱を開くが、いきなり喉元に枝が突き付けられる。
胸元までの高さは確実にある。地に植えればすくすくと巨木に成長しそうな頼もしげな若苗。『庭に良い場所が見当たらないなら、いっそ鉢で』などと考えていた馬鹿は何処の俺だ。

予想外の大きさに感嘆する。一、二年は鉢で楽しもうかと考えていた呑気な前提が崩れ、困惑する。
愚か愚か。とりあえず明日は土と、ひょっとすると鉢だ。

未だクリスマスカードも年賀状も用意できていない某月某夜。記ス。
雪見月五日
頭痛が痛いとほざいてみる。薄い紅茶のがぶ飲みで直る。

いいよな、へそ。そんな新たなフェチズムに目覚め掛けている今日この頃。
雪見月四日

雪見一〜三日
枯葉踏む 人の足音 さくさくと
                        みちあき

図書館を徘徊したり、書店で新刊本を読み切るのには時間が足りないかと、迷惑に悩んでみたり。
まあ、常の如き日々。
零下に冷えなどはせぬが、乾かぬ洗濯物に冬を感じるここ数日。
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