日々、在りしことども



桜月二十八日
『少女ノイズ』読了。三雲岳斗氏の単発作品は――私の趣味嗜好的にだと思うが――当り外れがあり、今回は値段も結構し、表紙イラストは綺麗だが、まあ、と購入は見送った。
読み終えて当りだったと思うが、今から買うのも間が抜けている。とりあえず、己が節穴具合は、帯の煽り文がヘタ、と他人のせいにして誤魔化しておく。

以下、ネタばれを含む感想になる。
短編が五作だけだったが、面白かったし、むしろ好きな作品だと形容できる。推理物として展開の予想が付く話もあれば、『M.G.H.』(これもかなり好きな作品だが)のように、氏の得意とする科学知識・最新技術を織り込んだものもあった。

ただ、気になる点として、好感度メーターの上がり具合、というか零からトップを突き抜ける過程が感じられず、結構御都合的に感じられた。
まあもっとも、短編数話の内容を人間関係の構築と発展に費やされても困るし、例えそれで納得がいくように感じられても、私以外の他の、異性や別年代の読者にしてみれば噴飯物で有るやも知れず、結局のところ、個人の違和感の範囲に収められる問題か。

閑話休題。しかしこれはツンデレというものであろうか、いや、ツンではなく思い切りデレまくってるように思えるが、ではこれがデレですと単品で言われれば、絶対に違うような気がする。――好きな人の首筋にしがみついて顔を擦り付けている子供?
V章。下衆とかロクデナシとか唾棄されるような犯人だが、不思議なほど嫌悪感を覚えない。物語の切り口と紡ぎ方によるものだろうが、感心した。「この世で絶対に許せない裏切り」という問いがなされ、最後、彼女から主人公へと放たれる約束――命令――祈りのような懇願、或いは誓い。その真摯さが突き付けられるからこそ、犯人が、何も持たず、本当に欲しいものは致命的に失っていて、自分でもそのことが解っているのに、王様のような顔をして壊れた嘘に浸り続けなければいけない――ああ、憐れとしか感じようが無い。
最後の主人公達のやり取りが、とても素敵で素晴らしいからこそ。猶のこと。
で、X章。これはやっぱりツンデレに属するものだということなのだろうか?

結局、推理物というか恋愛、いや主人公へに対する彼女の甘え具合、依存具合を楽しんだ気がする。やはり、『M.G.H.』でもそこら辺は筆者氏の得意とするところであった。
続編があれば是非とも読みたいが、これは此処で既に綺麗に終わっている。
もう数話、伸ばしようは幾らでもあったろうにと、満足した本だからこそ、とても残念に感じ、閉じて置く。
桜月二十七日
藤を見に出る。七八分か。花の下に椅子を引き、濃厚な甘い香りを味わいつつ、読書。肌寒い風もまた心地良し。
コンビニで入手したペットボトルの紅茶で喉を潤す。味が、香りが、以前に、まず無糖のストレートティーが手に入らない時点でこの国は間違っている。
緑茶や烏龍茶の品揃えや流通を見るに、出来ないのではなく、ただ人が誰しも望んでいないということなのだろうか。
古い時代の英国のように、立ち飲みの紅茶屋台が自販機の代わりに在って欲しい。

そのまま、図書館で本日までの企画展示を鑑賞。浅岡利三郎氏が撮影した、この地域の昭和三十年代白黒写真展。馴染み深い地名があり、今も続く祭りの様子があり、映画セットにしか見えない彦根駅前商店街の写真や、八日市の提灯と裸電球輝く夜市の店姿がある。
写真の中にあるのは、全て今に通じる昔の光景や事物、人の装いだ。しかし、その中や背景に、現在では絶対目にすることの出来ないものが当然のように混じり込んでいる。そういう過去があったのだと理屈では理解はできるが、実際に形として目にすると、物凄い不可思議を感じた。
見知らぬ異国の遠い過去ではない。良く知っていて想像も理解も出来るはずのものだからこそ、いざ実在する見知らぬ日本の日常景色が、少し過去という名の異界、異世界じみていた。

数こそ少なかったが、良いものを見た。結構なものを、とはこういう場合の言葉だろう。

今回の感動ばかりは、実際見た人間、しかもこの地域で生まれ育った者にしか解らないだろう。私は幸運だったのだと、悦に入る。
なお、特に一枚だけ感想を残す。都会の客向けに、松茸尽くしを野か山でやっている宴席の写真があったのだが――おっさん。その水も入っていなさそうな小鍋に、薪が如く白く積み重ねられた松茸。生喰い齧り裂き以外で、どうやって火を通し食すのか、出来ればこの凡愚にも教えて欲しい。
撮影用とか、一時的にザル代わりとか、可能性だけは残っているが、酒が入って料理できないおっさんらのフリーダムな暴走にしか見えぬ。
そういえばこの頃は、二日働いてやっと日本酒一升買えたのだとか。
意外な貴重品であり、また実に現代は豊かで我々は恵まれておるのだと書き、最後と終わる。
桜月二十六日
タラコスパ。
桜月二十五日
ここ数日、下校中の小学生達を目にする。低学年だとは思うが、あんなに小さい生き物であったろうか? 自分の腕一本と大差ない気がする。栄養豊かな環境で育ち、平均身長も伸びているように考えていたが――それとも四月五月の小学校一年生とは例外的にちんまいものなのか?

同時に、下校中の子供達を見守る車を見かける。のんびり併走し、角から出てくるそれらの車上には、くるくる回る青いパトライト。
……それは、法的に問題無いのだろうか。こんなに何台も、狭い範囲を見回っていて、しかも本物のパトカーの姿も見える。ここ数日で連続殺人事件が起こっているわけでなし、どうにもこれは――
時代が違う、と感じる。変わったと思うのは、まだ古い時代と新しい時代が繋がっていて、その両方にかろうじてでも自分が属している証左なのだ。


調理用に赤白、ワインを求める。良いものを選ぶべきかもしれないが、まあ百円小瓶ワインや五百円で釣りが来るフルボトルを適当に購入。
途中、藤棚を見に行く。大分開き出しており、滝めく花房の連なりは美しく、例年通り連休中が見頃となろう。
桜月二十三日
木に肥料。源平枝垂れを適当に剪定する。ついでに、葉の摘み方が悪かったのか山椒の枝が幾本も枯れていたので、そちらも落とす。

本日も大分暑い。最近、少し動いて汗ばんだり、つい窓を開けたまま薄着で過ごしたりしている。そろそろ脱皮が必要か。
桜月二十二日
暑い。
深更、月が丸いのに気付き、近場の八重桜や、紅の見事なものを鑑賞せんと足を運ぶ。真っ暗でほとんど何も見えず。風流を気取っただけの、間抜け。
桜月二十一日

桜月二十日
地元神社にて春祭り。他の字でも似たようなもので、鉦打つ音が高く響く。
今年は例年より山椒の葉の開きが早い。鉢植えの藤も、ぽつぽつ花が開き始めている。
桜月十九日
パスタが食いたくなる。財布の中に金が無かったので、カードのポイントを使って通貨を一円も用いずソースを二袋手に入れる。ヤな客だ。
桜月十八日
夜、出る。雨。
桜月十六日
桜が大分散っている。近場の八重は紅を愛で、または菜の花の色も悪くないとのんびり思う。
桜月十五日
キーボードに純米酒をひっくり返したところ、2・W・S・Xのキーが昇天めされる。
分解して拭きぬぐってみたが、効果なし。配線を見るに、多分どっかが切れている。
珈琲ぐらいでキーボードは壊れないという体験に基づく信条が否定された日。
桜月十四日追記
早速、竹生嶋は「純米濁酒」を開けてみる。……購入して真っ直ぐ家に帰らなかったのがまずかったのか。瓶内発酵が進みすぎて、開封ガス抜きにえらく時間がかかる。
味も、濁り無く、甘みが消え、度数がどう判じても表記以上に高まっていた。

というか、飲んでいる最中に気付く。ラベルに曰く、特濃『ザル濾し』。
――豆腐じゃねぇ。
決して日本酒の分類でも形容詞でもない。ハズ。

良い酒ではあるが、次はもう少し軽いものをと、5/11大津でのきき酒会に思いを馳せ。
桜月十四日
紅枝垂桜と源平枝垂花桃の苗を植える。色々面倒くさかったので、家の敷地の端に、適当勝手にスコップを突き刺し、こう、ごそっと。
ついでに、拾っておいた藤の種も黒ポットに植えてみる。有線放送施設裏の藤棚と、当町遠方の図書館が誇る見事な藤天井のもの。
聞くところによると、発芽は案外するらしい。ただ、木ものの常で、年を越し、順調に生育するまでの数年が難しいのだとか。
まあ、苗はその気になれば結構簡単に手に入る。あえて花を結ぶ三年後への投資のつもりで、気長に行くか。
桜月十三日
海津大崎の桜を見に行く。

道中、このところの雨風で散っているかと思っていた近辺の桜が満開と咲き誇り、早くも水の貼られた水田にその彩影を落とすのを愛でつつ、昼過ぎに到着。長浜城を過ぎてからの湖岸沿いの桜並木が、実に美しく素晴らしいものであったと特に記す。
千円のぼったくり地元駐車場や解り辛い指示看板に悩むも、ネットで調べた事前情報通り、駅近くのシャトルバスも近い無料駐車場を発見し、停める。そこから琵琶湖沿いを先日の京都散策で鍛えられた健脚にて移動。
琵琶湖小魚の甘露煮といった土産物の露天を冷やかしつつ、行く舟を眺め、桜を見、歩く。大分行った所で、紅枝垂れ咲く所に到着。まだ向こうにも桜があるというので、幾つかトンネルを抜け、更に奥へ――

桜並木無間地獄。何故、ここまで馬鹿みたいに渋滞してまで、車で花見通り抜けをされる方が多いのか、ちょっとは考えて見るべきでした。

延々と桜が植えられている。まだ先にも桃色の影がある。二本松とかいう辺りまで歩いて、気が付いた。これは片道だ、自分にはまだ帰りがあるのだと。
小雨にぱらつかれつつ、引き返す。多分、距離として駅から八キロぐらい。そんなものだと思う。そんなものだといいな。――ぼけらとして往復二十キロ近くも歩いただなんて、絶対に考えたくも無い。

締めとして、行きに一度訪れていた小さな酒屋に入る。実は、私が一番好きな日本酒蔵元である「竹生嶋」こと吉田酒造さんの蔵であった。近辺では手に入らぬ種類の、しかも四号瓶が当然ながら安く並んでおり、濁りと新酒『斧研』を入手。幸せな心地で車へと戻る。
後、色々あり、帰宅そのものは大分遅くなったが、もう少し、近辺の桜は楽しめそうだと、確認して記す。


以下、雑文。帰りに一度車で通ってみるかと気紛れを起こしたのが運の尽き。
一時間以上、ブレーキを踏むよりエンジンを切っている時間の方が長い渋滞を耐え、桜並木にいざ入ろうとした私が目にしたものは、通行規制が解除され、国道の方から次々優先的に進んでいく車の列。自分は、人が犯罪を犯す瞬間の衝動というものを理解した。看板を撤去していた青年は、感謝すべきだ。今日、私は人の尊い命を救った。車に轢かれてミンチになるというかなり確実だった運命から。本当に立派なことをしたと、心から自分を褒め称える。
桜は北琵琶湖パークウエィだか何だかに繋がっていて、山の方の花などかなり見事であったが、一方通行落石注意のグネグネした日暮れ時の峠道は肝が冷えるものであった。
息白く、深まる雨の中、本屋などに寄りつつ、帰宅。あまり脱水症状になっていないのが、自分でも不思議。
そういえば行きしな、また交通事故を目にした。しかも二つ。軽そうだった二つ目とは違い、一つ目は気持ち良く農道を飛ばしていて自爆かぶつかったのだろう。それなりに酷いのが田んぼの中に落ちていた。
そういえば朝方に救急車とかパトカーが走り回っていて目が覚めたが、あれがここかと納得する。
本当に、他人事ととらえず自分も注意すべきと、兜の緒を締め直す。
以上雑文、愚痴と記録のみ。
桜月十二日
先日のペティアガーラだが、ほのかに甘い香りが楽しめる、それなりの当たり茶葉であった。
時々、こういう甘い芳香のする美味しい茶葉に出会う。それは某中国紅茶であり、某ニルギリであった。不思議なことに同じ葉を買っても、何度かのうちに甘みの失せた、普通の紅茶葉に変わってしまう。
収穫してからの時間や季節によるものだろうか?
とりあえずは、久々の幸せを、ゆっくり堪能したい。
桜月十一日
季節の便りと自戒とオンナ。

一昨日、京にて早くも巣を作らんと舞うつばくろを目にする。昨日、橋の上から宙を滑る影を見た気がする。花は盛りと夕闇に白く浮かび上がっているが――もう、初夏なのだ。

昨日今日と、立て続けに交通事故を目にした。前者は、彦根造幣局近くで、鼻っ面を凹ませた車と、どてっ腹を歪ませた車。敷地から出ようとしたところ、通りがかった車のわき腹をえぐったと一目で解る壊れ具合と位置関係。
後者は、川土手でやたら並ぶ車と人々。多分、こちらは擦ったか軽くぶつけたぐらいだろう。
かく言う当家の車も、つい先日タイヤを冬用から替えたため、加速や停車の微妙な具合が異なって、ちと戸惑う時がある。
決して他人事ではないのだ。慣れに浸ることなく注意をしていきたい。

で。ついに源平枝垂れの苗が値下がる。既に植えてある方の花は綻びだしているが、やはり初年では枝垂れの枝数も花数も足らず、あの傍若無人な美しさがない。まあ、それはこれから手を入れていけばいいとして、今此処で千円を切り、売られている苗木。――植える場所や鉢などないが、さて。
隣には同じく安値となった枝垂桜の苗。先日の京は神苑の美しすぎる枝垂桜に、まだのぼせているのだろう。あの深紅の、紅枝垂八重桜こそないものの、幾つも花散らす枝垂桜にふらりと手が伸びる。
が、散々迷って止める。今一時の衝動で、花が咲いている樹木の苗を買うようなこともなかろう。そう思い、紅枝垂桜の苗を源平枝垂花桃と一緒にレジへ。
――嗚呼、財に飽かせて綺麗どころを買い漁る金持ちの喜びが、解る。何故、この歳になるまで自分は樹を買い集めたりしなかったのか?

次は藤だと、拾った種をポケットに詰め込みながら。
桜月十日
彦根城へ。あそこの桜を見なければ、季節が変わらぬ。
薄曇、または雨。丁度満開。これで今夕から明日の雨が無ければ。
旧市立病院前付近の新しく整備した場所に、枝垂桜が植えられている。良い感じで。これからが実に楽しみ。
家人に桜シュークリームを土産として帰る。何も頼んでいないのに、箱詰めしてリボンまでかけられた。思い切り過剰包装だが、お使い物――というよりは何処かへの手土産だと思われた模様。多分、自分でシュークリームを買い帰り、食すような人間には間違っても見えなかったのだろう。

そろそろ髭は剃るべきか。ちと魔が差し迷う、春の一日。

追記:昨晩は唐突に花粉症が出て、苦しむ。今年は花粉が軽いのではなく、花粉に反応しないぐらい新陳代謝だか免疫能力だかが落ちているのではと、筋肉痛止めのプロテインを大量摂取しながら疑う。
桜月九日
京へ花見に行く。ついでに、名所を幾つか見て回ろうと――記憶に残っていないだけで、ほとんど行った筈の場所ばかりなのだが――思い、結果、まず渡月橋、ついで四条五条の鴨川沿い、清水寺へと移って円山公園→八坂神社→平安神宮と移動し、ついでに京都御苑の広さを体感してから帰宅、する途中で足を伸ばして ライトアップされた三井寺を訪れ、琵琶湖疎水沿いに駅へと戻る。
堪能したのは堪能したが、電車やバス移動に不慣れな私が無意味に歩き回って出来た足裏の豆が、まだ潰れていないのが心底不思議だ。

以下、端的に。
・渡月橋の方では天龍寺も訪うた。今回の主目的が花見なので庭だけ。嵐電は嵐山駅構内の温泉足湯も体験。諏訪の方の駅内温泉を思い出す。
・電車移動に不慣れなため、四条大宮に出現。鴨川まで歩く。途中、大丸横を通ったら、何時の間にか手荷物の中にアールグレイとスリランカのペティアガーラなる茶葉が入っていた。不思議。
・四条から五条辺りまで鴨川べりを歩く。今回、花見とはいえ染井吉野の盛りは僅かに逃したようであったが、代わりに枝垂桜や桃はまさに今が満開であった。それらが並び植えられた鴨川沿いの素晴らしさ。言葉にして語り難し。
・左折して清水寺へ。確かにここから飛び降りるのは度胸がいるなと下を覗く。
音羽の滝、真ん中の水を頂く。効能は知らず、ただ渇いた喉にうまかった。
縁結びの辺り、やけに商業的で派手派手しいが、若い女子で溢れていた。 彼女らにとって好いた腫れたがいかに重要か、見せ付けられた思い。そういえば、恋占の石に挑戦している御仁達がいた。多分、中国。友人達の協力を得て、無事、至った模様。
てくてくと細い路地を伝って円山公園・八坂神社に。ここを訪れた記憶はまだはっきりしている方であり、花の盛りも過ぎていたことから、大して感慨なく、次へ。
・平安神宮だが、神苑の方にやけに人が詰め寄せていた。鼻で笑いながら入ってみてその訳を知る。
今まさに満開の紅枝垂八重桜。頭上よりなだれ降る花枝の雨は、本日見たどの花どの桜より美しかった。自分としては、入場してすぐ右手奥の、古びた高木の紅枝垂八重桜が最も魅入られたと、記して残す。
・この辺りで日も沈みゆく。まあ折角だからと痛む足を動かし、御所の一般開放の時間こそ既に終わっているものの、京都御苑へと多分生まれて初めて足を踏み入れる。
その余りの広大さに、意表をつかれる。何車線、という言葉が思い浮かぶ通り(?)は砂利敷きであり、少し歩き辛いのだろう。皆が通って砂利が飛ばされ、出てきた堅い地面の上を、更に自転車や人が行きかう。そんな、獣道ならぬ自転車道(人道)が細く浮かび上がっており、笑えた。
・で、帰宅――前に三井寺へ。
その前に、ちと腹ごしらえ。近くにある県下一二を争うという有名ラーメン店 へ入ってみる。余り口に合わず。麺硬く、スープも旨いというより濃すぎる類。
そういえば一二のもう片方も、御飯ものは具材が濃かった。余り食べぬ間に、ラーメンの美味い不味いは、味ではなく濃縮具合を競うようになっていたのかと、毒を呟く。正直、隣の店構えはちゃちっぽいくせに出すものは本格的そうな中華料理屋の方が、何倍も美味しそうで気が引かれた。
三井寺の方は相応に美しかった。照らし出された門も、見事。
疎水は流石に上流までさかのぼる脚力が残っておらず、寺脇から歩き帰るのみ。この辺りで雨、ぱらつき出す。

以上、覚え書き。記憶の外部保存。
京の花は多少盛りが過ぎていたが、反面丁度枝垂桜や桃の満開時に行き当たり、堪能す。流石古都というだけはあり、そこかしこに様々な美しい花の樹が時を纏い佇んでいた。
また、未来のためにと植えられている多くの桜も目にする。百年後のため、見知らぬ子々孫々やその輩達のため。何かをしたいではなく、何かを為した。その結果に、心より敬意を抱く。

外国人の観光客が目に付いた。昔のように金や赤の髪だけではなく、ハングルも聞いたし、何より中国人が大分何処にでも居た。
たまに耳にするような悪い振る舞い外見全く無く、彼らが笑い混じりに家族と交わす言葉が無ければ日本人との区別も付きはしない。家族旅行か、楽しそうに花を愛で、友人たちと笑い合う。こういう観光客ならば、これから増えゆくとしても歓迎したい。
ただ――彼らは本当に日本人と区別が付かなかった。一生懸命カメラを構え、三脚を据える。海外旅行、しかも花満開の古都。その気持ちは解らぬでもないが……何もそんな所まで日本人と似通わずとも良かろうに……

携帯の功罪は、皆写真を撮るようになった代わりに、やたら撮影に時間を掛けることがなくなり、カメラサイズの分、場所をとらなくなったことだと、悟る。
見ただけで映像が保存される日はまだかと、日焼け顔で、花見に果てた日、みちあき記ス。
桜月八日

桜月七日
自分で始めたとはいえ、もう実山椒の小枝をむしる作業は嫌だ……
桜月六日
地元神社の参道は、日当たりが良いのか早くも満開となっていた。
ゆるり、歩く。
桜月五日
京では桜がそろそろ満開だとか。この辺りはまだ蕾、ようやく綻ぶものも出始めたぐらいか。
昔はゴルデンウィークに桜が咲くような地方に住んでいた時分もあり、自覚が薄かったが、この地域は開花が遅い一帯に属するようだ。
……いや、やけに東京の桜が早く咲くなと思ったり、開花予想図を見るたびに、何でこんなに歪な形状をしているんだろう、何でその変な部分にきっちりこの近辺は食い込んでいるのだろうと首を傾げたこともあったりはしたが。

久々に、遠くへ花見に行こうかと思う。
桜月四日

桜月三日
新しい冷蔵庫が来る。ついでに小型冷蔵庫の方も引き取ってもらうこととなり、片方の冷蔵室は数年前に掃除をしたきりで、かつ当家の連中は大量に買い込んで詰め込んで忘れるという悪癖を有していて――いや、私自身の傾向では余りないと思うのだよ。昔、一人暮らしのおりはカラッポの冷蔵庫に一升瓶や麦酒、冷凍庫に麦酒グラスにジンかウヲッカかラムを放り込んでいるような人間だったし――まあ、端的に言って――――ちょっとした阿鼻叫喚。

午後は少し買い物に出た後、それらの整理に耽る。
料理をする者として、新しいシステムや、それを自分好みに整えていくというのは、かなり心浮き立つものだ。

しばらくは食卓が豪勢になり。これまでのツケを纏めて掃除することになろうか。日頃からのこまめな清掃を心に誓う、そんなことが歳を取るにつれ色々増えるなと思い返しつつ。本日以上。
桜月二日
なんか力が入らない。
桜月一日
嘘の一つもつけぬとは。

どーしょーもないメールが届く。『ああ、エイプリルフール・ジョークだよね』と流してあげるのが優しさかどうか悩んでいるうちに数日過ぎる。
今(五日夜)となっては、健全な成人の精神活動として評価すべきだろうと、朝顔のつるの如き結論へと至りつつある。想像すること、積極的に己が嗜好を追及することは、とても立派で大切なことに違いない。

動くことを止めたとき、精神は死ぬのだ。
以前、在りしことども

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