日々、在りしことども



雪待月三十日
寒い。体温が上がらん。 夜、出る。安酒、本気違い。
雪待月二十八日
『首無の如き祟るもの』読了。以下、それなりのネタバレを含む。



次作となる『山魔の如き嗤うもの』を先に読んでいたが、随所でこちらを『傑作』と手放しで褒めているのを目にしたため、『山魔〜』以上かと怯えつつ(――さぞ、おぞましかろうと)読み切った。正直、自分ではそこまでの高評価にはならなかった。

出来は確かに良いと思う。ただ、全ての下敷きとなる作者の一手を、匂わせている部分で予想してしまったため、謎解きの驚きやカタルシスが強くは得られなかったのだ。済まぬ、現代人である私にとっては、ライトノベルや漫画や二次創作に耽溺する腐った現代人である私にとってそれは良くある設定ですらなく、最早ごく普通の極めて常識的なお約束なのだ。――十数年ほど昔ならば、汚れの少ない心に衝撃を与えるトリックであったかもしれないが。
怪異部分においても、最も怖れ慄くべき部分で、前振りから何となく察してしまったため恐怖というよりは『ああ、やっぱり……』という心持の方が強かった。他の部分でも上記一手予想からの派生で想像がつき、結局本書他の部分――読者からの手紙の内容など――の方が強烈に背筋にきた。

まあ、最初に書いたように出来は良かろう。仕掛けの全てに予想がついていた訳では勿論ないし、最後の推理場面は特に見事であったと思う。ここを読み終え、改めて冒頭に戻った時は、しれっとした顔でふてぶてしくもこんなことを書いてみせる作者氏の振る舞いに、完璧にしてやられたと長々息を吐くしかなかった。

なお、強く思うところ一つ。
最後に付された『目次』の意味を今一つ取りかねたのでネットの感想サイトを幾つか巡ってみたのだが、どうにも誤読している人が多いように思った。小説最後の部分で混乱して――確かにまあ誰と誰がどこまでどう関わっているのか厳密に明示していないわけだから想像の翼が羽ばたいても完全な否定は出来なかろうが――犯人とか、おかしくなっているんじゃないだろうかと。
この場合、@こっちが誤読。A作者氏があえてどちらともとれる書き方をした。の二種が大概なので、語れば語るほど調子に乗った馬鹿っ振りを披露する破目になるが故に、自分は正真正銘の馬鹿らしく大いに以下、論じてみることとする。
この誤読はざっと二種あり、共にミステリ好きだから陥ってしまったのではなかろうかと推察する。
一つ目は、『最終的に、後に披露された推理が正しい』というミステリの傾向によるもの。矛盾無く全てに説明がつくと思われるような謎解きが、次の瞬間二転三転というのは良くあることであり、故に読者はただ最後の山場において考えることを止め流されるしかないのであるが、故にこういうどんでん返しをやられると上手く戻れなかったり、どこまで戻っていいのか解らなくなる。で、混乱したまま幾つかの条件が正しかったのか間違っていたのか、もう一度探偵が細かい部分まできちんと並べなおして説明してれくれなかったので、ごっちゃになっているようだった。
二つ目は、ミステリを読み込むからこそ許せない、『不条理』の存在。舞台背景のオカルトや、ルールとして推理に組み込める特殊能力、あるいはメタは許せるし慣れているが、それが推理という論理に割り込んでくるのは認められない、だから、そんなミステリ読みの気質があえて作者が言葉にしない演出だと思いを走らせ、程度の差はあれ『これは告発だ!』とかになってしまったのだろう。しかし、それは私は違うと思う。理由は、『編集の記』であって、ここで言葉の係り具合から強弁することも出来なくは無かろうが、やはり厳密に切り分けられているのだと思う。関わっている者と、関わっていない者と、そして関わっているモノが。
 ――――――――何より。この筆者氏は(先に次作を読んだせいもあるかも知れぬが)出すのだ。論理を守り、ルールを通しながら、それでも現実に染み込んでくる『蝕むモノ』を。
故に、以上をもって自分はこれを書かれているままのことが起こったのだと結論している。穿ち過ぎているものは、細かい幾つかの描写された条件を忘れてしまっているのではないだろうかと。


以上、中途半端にネタバレに気を使ったため、実際に小説を読んだ方だけどころか、自分以外理解が難しいような支離滅裂な文章になった。ま、いいかと思う。後悔もない。だって、これは日記じゃないか。

最後に二つ。
個人的にはやはり次作の『山魔の如き嗤うもの』の方が傑作だという主張と、作中にあった『減門七味』という小説家の名は、加門七海氏をもじったものだろーかと思い、本日以上。
雪待月二十六日
紅葉が見たくなり永源寺へ行く。
大きな橋上からの景色、寺入り口となる総門の小さな屋根の上に舞い重なる赤い紅葉、苔浮く白い岩壁に溶け込むよう色を重ねる、一見気付きにくい十六羅漢像。踏み固められた地面の上に落ちた紅葉がまた踏み締められ、地面に紅葉を透かし漉いたような光景となる。
ぶらりと歩いて、蒟蒻の田楽を食い、帰る。ただ、肝心の紅葉は時期が終わっていたのか、総門他の少ししか楽しめなかった。むしろ、行き帰りの道沿いにある小さな神社の方が素晴らしかった。
黄色く高く燃え上がる八日市の銀杏。帰路の真っ赤に空間を染めていた神社。或いは、家々の垣根に見える濃緑の葉と、そこに幾つもの深紅の丸い小さな実――

夜、ついにピザに成功する。ホットプレートを用い、生地を先に両面焼いて、具を載せてから蓋をして蒸し焼きに。常の生地生焼けから、ようやく脱す。
次は、生地の焼き具合を始めとした調整か。硬過ぎず、裏と表の時間を変え、量を求め厚くするか、数を取って薄くするか。
雪待月二十五日
『パブとビールのイギリス』読了。かなり良い本であった。

イギリスで愛飲鯨飲されてきた麦酒と、その主要な提供場所であるパブの移り変わりを、解りやすく当時の世情や事情、政治的背景や目論見などの説明を添え、説明してくれている。とても読みやすかった。
この本と、先日覗いた某ネットサイトのお陰で、喉の小骨のように気になっていたビールとエールの問題もようやく解決した。数年前、麦酒に拘っている酒屋で、店主と話したのだが、
『じゃ、ホップを使っていないエールはあるかな?』(私)
『いえ、エールもホップは使ってますが』(店主)
『エールってのは、イギリスにホップが入ってくる前から飲まれていた、ホップ抜きビールのことじゃ?』
『エールというのは、上面発酵させたビールのことですが?』
『?』
『?』

という問答をし、双方首を傾げ続けた。
結論としては、そういう歴史的経緯(一時的な呼称の使い分け)はあったが、すぐに『エールとは上面発酵ホップ入り』のこととなり、現在に至る、ということらしい。
酒屋として、つまり現代人または一般常識として、あちらの言が正しく、そして私は更に求めていた『ホップ』も飲むことは出来ないと。

変に纏めたせいで、良い気分から一転、二重の意味で落ち込むことになった。負け犬らしく、そのうち麦酒を飲んで憂さを晴らそうと決め、本日筆を置く。

念のため、追記:ホップ自体はイギリスにもあり、ホップ入り麦酒もハーブ入り麦酒の一種として作られたことはあったようだ。大陸の方でホップ入り麦酒が流行し始め、オランダから新教徒の亡命者達がわっと押し寄せた時に一緒に持ち込んだらしい。
以上、あやふやな個人的覚え書。
雪待月二十四日
……なんか指先の細かい傷が絶えん。毎日同じ場所を歩いているのに、足が物にぶつかる。
雪待月二十二日
カクテキ(角切り大根キムチ)のレシピを目にして、簡単そうなので挑戦せんとスル。足りぬ材料を買いに出、相変わらずのニンニクの高さとチャイナリスクに悩んでいたところ、棚に並ぶ『キムチ(風)の素』なるものが目に。
案外安く、先日頂いた白菜と大根の使い道に悩んでいたこともあり、購入。とりあえずエバラのを使ってみる。塩もみして水を絞った野菜を漬け込んで少々。

結果:具沢山、乳酸発酵済みと、〜風調味料をまぶしただけを比べるのが、間違いか。

値段を考えれば悪くない。塩分に注意すれば、生野菜とカプサイシンを大量摂取する手法の一つとして、まあ。 ただ、市販キムチと比較すると、美味しいとは言えないと思う。 だが、茹でもやしは良かった。
以上、本日の新しい味。
雪待月二十日
すっきりした気分で目覚めると、辺りは暗く、既に日の暮れ落ちた夕五時過ぎ。
『寝てた? こんな時間まで』『夕食の支度もせずに?』『え、何この人気の無さ』『どうしてこんなに静かなんだ!?』『何だ、何があった一体!』
軽いパニック。
屋外の明かりの数に、午前と気付くまで、あと十数秒。

包丁がやけに切れる。前回研いだ折、何時もと違うことをしたろうかと思い返すも心当たり無く、ただ快調に大根切って面取りして練り物断って葱を刻みついでに左人差し指の先をチョンと飛ばしかける。
幸い爪だけで住んだ。薄皮一枚減らさず、この角度このえぐりよう。本年残っていた運を全て使い切ったんだと多分思う。
雪待月十七〜九日
発酵と腐敗はまた違う。

相変わらず腐敗中。一度、原因不明のアレルギーっぽい反応があったりもしたが、多分気のせい。
一気に冷え込み、街路樹の枯葉が色を変え舞っていたり。そんな日々。
まだ何故かドーベンが咲き続けている。夏季のように次々とはいかぬが、それでも端の色を濃くした花が、ゆっくりと開いては閉じ、次の蕾をじりじりと伸ばす。
温帯睡蓮より元気な奴は、本当に越冬できぬ熱帯の花か?
雪待月十一〜六日
大分腐っていた。
あとはウィローモスの手入れをしたり、数年前に賞味期限が切れたチャイを低脂肪乳で淹れたり、飲んだり、呑んだり。
春の温度で夜雨が降ったこともあった。

そういえば『芳醇』が相も変わらずとっても旨い。金色の缶麦酒で、正式には『芳醇物語』。ドイツ製、麦芽・ホップのみ使用、近所の酒量販店『リカマン』で売っている、330mlで178円というもの。
普段飲まぬ人には、短い缶麦酒、量は少し少な目で、値段は発泡酒と普通の麦酒の中間ぐらい、味はエビスが如く正統な旨さ、と書けば伝わろうか。
――何で騒がれてないんだろ。
発泡酒並の値でエビス並の酒を啜る幸せ。
雪待月十日
冷えてきたのでストーブを出す。

セロリ。何が旨いのかわからない。香りはきつい、筋を取れば可食部分がごっそり減る。
栄養価は非常に高いらしいが、香味を売り物にする食品は、それとの相性、それまでの食経験が 評価を大きく左右すると思う。
しかし何故か冷蔵庫の野菜室に大きく鎮座、邪魔。よってネットでレシピを検索する。

薄く切って豚肉と共にオリーブオイルで炒め、味付けはハーブソルトとレモンのみ。
葉と細い部分を刻み、胡麻油でジャコと炒めて大量の鰹節を投下、醤油酒味醂でふりかけの様に。
――結構、美味しい。

嗜好が変わったか、体質が変化したか、栄養分が不足していたか。セロリを美味しいと思うようになった珍しい冬の頃。
雪待月九日
地酒試飲会に行く。滋賀全ての蔵元を集め、先におこなったきき酒会の結果発表を兼ねているという。
足の都合に手惑い、やや遅れ着く。会場は何時もの利き酒会と違いホテル本館の二階、なおこのイベントはこの度で二回目だとか。

かなりの人。結果発表は○○酒の部と細かく四種に別れ、それぞれ各蔵出品一升瓶と酒を満たした巨大ぐい飲み、そこにスポイトを差し、個々人がグラスに移して味を確かめるというもの。高価な酒を少量ずつ提供し、人件費を効率良く削った上手い遣り方だが――――不味い。
冷えてないのが悪いのか、温まって発酵が進んだか、酸素に触れる過程がうんぬん。可能性は幾つかあろうが、ともかく不味い。甘みが足らず、古い酒を出してきたのかと思うほどひねた風味を感じる。
ま、面白いイベントではあったと流す。



他は三十ほどの蔵が何時ものように各ブースで試飲と売り込み。今回、つまみは無く、何故か小型前掛けや携帯ストラップ、布コースターなどの酒蔵グッツを販売していた。
酒は、定番どころを外すと『不老泉』『萩乃露』あと『香の泉』が旨かった。
まあ前二蔵は以前から、随所で高い評判ばかり響く有名所であることだし、今回ようやくその真価に触れられたというところか。あと、『多賀』の大吟醸が非常に素晴らしかった(他の種類は、まあ)。
こんな良い酒を仕込むところであったかと驚く。値札が無く、一升幾らぐらいかと聞く。蔵人答えて七千少し。
……おっちゃん、一升三千ちょいで感動できるのが素晴らしい純米地酒だと思うんだ。


他、近年の流行として定まってきたのか、寝かせた数年物の日本酒が結構当たり前のように並んでいた。藁のような香りと蔵人は言うが、紹興酒とかひねたと表現するところで私の嗜好との相性は察して欲しい。十数年物も頂いたが――あんまり。
季節的にか濁り酒を楽しむ。あれはあれで良い酒だ。むしろ自分はこちらを好む。

この度は何故か体調が振るわず、大変珍しいことに吐き気を覚え出したので、無理はせず早々に帰る。
帰宅前、『竹生島』の昔一升瓶に貼っていたようなラベルが何故か売られていたので、購入。 これがコレクター心理というものか。
雪待月八日
電球と農薬。後者は選んでいる途中で気分が悪くなり、後日に回す。アブラムシ駆除と葉の病の予防、二種類要るが、魚の近くで使うなと――川横に住んでいて、近くにはメダカの睡蓮池がある――か、六百倍に希釈しろと言いつつ大き目な袋で売っていたり、あるいは安いがお手軽簡単硫化水素の元とか――――
一つ一つ順番にやっていこう。


室内容器の一つで、ミジンコが減っていると感じる。はてと眺めれば、先日も目に付いた発芽した何かの種。小さな膨らみから根っこらしきものをゆらゆら伸ばし、何故かガラス壁にぴったりと……

ヒドラ発生。

先日、熱帯睡蓮のムカゴ株を幾つか室内水槽に移したのだが、そのとき付いてきたようだ。
探せば他にも何匹か……ミジンコ好きな自分としては、この麻痺毒で捕食するやつは敵、殲滅し、絶滅し、殺し尽くすしかない大敵である。
『確実な駆除は水槽リセットしかない』とか『水槽内のバランスが崩れているんだよ。だかさ、全部入れ替えちゃえ』と偉大なる先人達は語る。他にも塩とかある種の魚も聞くが――

まずは目視とスポイトで。農薬のことといい、命を命とも感じない、人間らしい心が自分にもあったんだなと思いながら。
雪待月七日
夜は水槽のCO2添加を切っている(ペットボトルキャップを緩めるだけ)が、それでも油断しているとエビがひっくり返る。酸欠かと別容器に移し、痙攣しているのを一晩放置。そうすれば、翌日、元気に跳ね回っているか、もしくは仲間エビ達の御飯になっている。

ウィローモスの森の上で群れをつくり、ぴょこぴょこ上下に揺れているミジンコ達は、不思議とトトロを連想させる。そんな小世界。
雪待月五日
布団を替える。半ば万年床と化している敷布団の方が衛生上懸念はあったが、掛け布団の袋がパーティー開けに破れ、中の綿が飛び散り出したので両者処分。最期の天日干しをする。
新しい布団はまだ使っていないものの、マットレスような感触がして、自分が昔や古いものを嗜好する人間であることを再確認することとなった。
ただ、『枕は幾つあってもいい』と声が聞こえたので、使いまわすうえに新しいものも取り出すことにした。一人で、気分によって右や左の枕に頭を預ける。ああ、何と甘美な贅沢か。


『ダンタリアンの書架』読。三雲岳斗氏の新シリーズ。
最近、ライトノベル周りで『魔道書』『禁書』をテーマにした作品が多いように思うが、 流行り廃り、の一つだろうか? それともただの勘違いで、『昔からだクトゥルーを読め』となるのだろうか。
さておき。連作短編集。期待が一方的に膨らんでいたので、ちと肩透かしの出来であった。
この作者氏は膨大な構想、大量の登場人物や設定、最先端の科学知識、そういったものを縦横無尽に数枚重ねで駆使し、十数冊を完結まで読み切って、満足出来るようなものをよく書いてくれる御仁である。
だから一冊目でこういう評価になって当然なのかもしれないが、幾つか良い短編小説を味わってきた身としては物足りない。短編小説とは、決して文章が少ない小説では、ただそれだけの安易なものでは絶対にないのだ。
同作者氏の『少女ノイズ』が短編集でありながら、素晴らしい味わいであっただけに、感じる落差は大きい。決して駄目な出来では無いが、季節前から予約しておいた一流のレストランで、ただそれなりに美味しいものが出てきても喜び切れないようなものだ。

次巻が楽しみだとは決して思わない。前菜が終わる五巻目ぐらいが早く出ないかなと、そういうことを思う。
雪待月三日
『影執事マルクの手違い』読。面白かった。

著者前作は読んだが覚えていない。女性主人公で、やたら美形男が出てきては彼女のために体を張っていくので、『女性視点の御都合ファンタジーとはこういうものか?』と一人適当に納得し、作者氏は女だろうと間違った結論を出していたように思う。ま、どうでもいい。

今作はカラー絵と、その台詞も含めた緩んだ雰囲気につい惹かれ、買った。内容は、ベタ。それを、面白く読める出来に仕立ててある。
微妙なところも少々あるが、それは決して悪い意味だけではない。例えば、長編シリーズの一冊目にも、これだけで読み切れる一編にもなっているが、その半端さはこれ一冊で楽しめる本であり、更に続刊へと繋げられる一冊でもあるということだ。

面白かったが、手放しの評価ではない。次巻への期待度は、ヤジロベイのように微妙なところで揺れている。そのことが、また魅力だ。
雪待月二日
温し。小春日和と言うのか、インディアンサマーと呼ぶのか。

地元は文化祭でかまど市だとか。近所なのでのぞく。図書館のブックリサイクルは既に禽獣によって漁られており――開館二十分前には行列だとか――それでも十数冊の雑誌を頂き、新刊を借り、パンフレットを貰い、取り寄せを頼んで歩いて帰ったところ、腕がおかしくなった。本当になまっている。

後、彦根へ。こちらも祭りの最中らしいが、日が悪かったのか何なのか、賑わい市とやらに足を運んでも開かれているテントはたったの一つ。後は通りの店が何時ものように客の相手をしていた。


幸い、土日ということで駐車場横に移転されているスミス記念堂が開いていたので、中に入る。 話題に上らない建物だが、私はとても気に入っている。外観は小さなお堂、しかし近付いてみると扉に浮き彫りにされている図案の珍しさと、その違和感の全くの無さに気付く。木肌を削って松・竹・梅他、そしてその上位置、大きく掲げられた十字架(クルス)に絡むたわわに実った豊かな葡萄。
日本人の肌に馴染み深い寺の空気を纏った、和風教会堂。使い込まれ、滑らかに黒ずんだ長椅子の背をなぞって、しばし空間を味わう。

なお、ぶらりと戻る途中、ベロタクシーと擦れ違う。横目で、何気なく乗客の姿を見たところ、赤備えの鎧武者が、兜の緒を締め直していた。
観光地として、息切れしつつあるように感じていたが、どうして。変な空間が出来上がりつつあるようである。素敵。
雪待月一日
久し振りに洗濯物が良く乾く。

近くの町で町民文化祭だかが中止になった。『硫化水素を撒く』と脅迫があったのだとか。
十年ほど前、同じ町で『サリンを撒く』と言われて運動会が中止になったのを覚えている。
――多分、まだ引っ越していない人間だ。

水槽だが、余りの荒れ具合にCO2を切りごっそり水換えをする。現在、エビ・ミジンコ共に元気。
そういえば屋外ミジンコバケツのミナミヌマエビがやたらでかくなっていた。一瞬、ヤマトヌマエビを思い出すほどに。
室内組はまだまだ子供ばかりかと思うた日。
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